「なんですかい、異能の旦那?」 目の前に立ちはだかった大柄な黒人の男を見上げ、ヴィンセントはやや後退った。 「お前が間諜でさえなかったら、と思うとな」 心底悔しげに漏らしたダニエルは、二本の尾を下げて警戒した眼差しを向ける白ネコを見下ろした。 「魔物であっても、ネコはネコだからな。毛並みは艶やかで素晴らしく、口調はおかしいが鳴き声も可愛らしいし、耳もぴんと尖っているし、ヒゲも綺麗に整っている。肉付きも適度で程良く、瞳の輝きも良く、人懐っこいがネコとしての分別は弁えている。だが、お前は敵だ。敵なんだ」 ダニエルは苦々しげに顔を歪め、拳を固める。 「敵でさえなかったら、尖った耳を潰すほどの勢いで頭を撫で、顎の下をさすって喉を鳴らせ、丸まった背中を愛で、ひっくり返して柔らかな腹を堪能し、二本もある長い尾を持って遊び、時に抱き上げ、追い回し、挙げ句に膝の上に乗せてしまいたい!」 「あ、はあ…」 あまりの力説に、ヴィンセントは呆気に取られた。ダニエルは欲望を押し止めすぎた末に、凶相と化していた。 「だが、お前は敵なのだ。兵士たるもの、僅かでも隙を見せたら付け入られて陥落してしまう!」 「いや、あの、ちょっとぐらいだったらええですよ?」 ヴィンセントはなぜか同情の念に駆られ、頭を下げた。ダニエルは血管が浮き出るほど拳を握り、堪える。 「ダメだ。その柔らかな肉球の上に隠されている小さな爪で、皮を切り裂かれてしまう」 「いやいや、あっしの専門は暗殺ではごせぇやせんし」 「その小さな口に生えている野性味溢れた牙に喰らい付かれ、動脈を破られかねん」 「いやいやいや! あっしは魔物とはいえいい歳でやんすから、人の首の皮を破るなんて荒技は」 「戦闘中に足元に擦り寄られ、媚を含んだ可愛らしい声でにゃあと一声鳴かれては、一瞬で戦意喪失する」 「いやいやいやいや、そこまで不慮の事態を考えなくてもよろしゅうごぜぇやすよ」 「寝床に潜り込まれたら、などと考えると、もう…」 ダニエルは自分の言葉に打ちのめされたのか、苦笑いに似た諦めの表情を浮かべた。 「あっしでよろしければ、夜這いなんぞ仕掛けてやりやしょうか?」 ヴィンセントは同情を通り越して哀れみすら感じてしまい、前足を挙げた。ダニエルは、目元を押さえる。 「いや…それは、だが、しかし」 「にゃあ」 大きく口を開け、ヴィンセントは甘えた声を発した。ダニエルは顔を背け、ヴィンセントを制する。 「その手には乗らん、死んでも乗らんぞ!」 「にゃうーん」 「だから、もう止めてくれ!」 「ふにゃあん」 「ああ、もう、私はどうすればいいんだ!」 「うにゅあー」 「これは拷問だぞ、ヴィンセント! なんと非情でなんと残虐な、新手の拷問だ!」 ダニエルは己に言い聞かせるように喚いてから、唐突に念動力を強く放ち、凄い勢いで飛び去ってしまった。 ヴィンセントは最後にもう一声鳴いてから、首を下げた。あれほど好きなら、少しぐらい構ってくれてもよいものを。 実のところ、ヴィンセントも多少構ってほしかった。久しくまともに構ってもらっていないので、欲求は溜まっていた。 打算や計略を無視して甘えてしまいたい、とも思った。ダニエルほどネコが好きなら、悪いようにはしないだろう。 ヴィンセントも仔ネコのように思い切り甘えている最中ならば、口車も働かなくなり、ただのネコと化すことだろう。 だが、この状況では無理だ。ネコとしての本能と己の立場を天秤に掛けつつ、ヴィンセントはしたしたと歩いた。 彼の言う通り、敵でさえなかったら。撫でて欲しくて疼く体を持て余したヴィンセントは、ひっそりとため息を零した。 魔物と言えど、気弱になる時もある。 08 1/26 ドラゴンは滅びない |