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わたしのかぞく



 熱い湯に浸った波号は、短い手足を思い切り伸ばした。
 洗い終えた髪をタオルでまとめたチヨは、シャワーで体に残る泡を落としてから湯船に入ってきた。二人ともあまり 体格が大きくないことと湯船自体が大きいことが相まって、湯はほとんど零れなかった。チヨは心底ほっとした声を 漏らし、ずるりと腰を落として肩まで沈めた。ちなみに左目の眼帯は外してがらんどうの眼窩も洗い流しているので、 チヨの顔にはぽっかりと穴が空いているのだが、見慣れてしまえば不気味でもなんでもない。

「はー……やっぱりええねぇ、お風呂……」

「お姉ちゃん、叢雲様とはどうだった?」

 波号がにやけると、チヨは頬を赤らめる。

「そんなん別に、いつもと変わらんよぉ」

「でもさ、叢雲様はお姉ちゃんと結婚するーって約束してくれたんでしょ?」

「あらぁ、左目が潰れちまうぐれぇの豪儀なケガをして死にかけとったおらを生かすための約束っつうか、契りっつうか だすけん、そげなええもんやない……けんども」

 チヨは肩を縮めて俯き、両の頬を押さえる。

「叢雲様は立派な御方だすけん、おらなんかが嫁っこになってええんろか。そら、もちろん嬉しいんだども、叢雲様の 嫁っこになるんは豪儀に幸せなことだども、叢雲様はおらなんかで本当にええんろかって思うたら」

「いいに決まっているじゃありませんか」

 唐突に会話に割り込んできたのは、風呂場の引き戸を開けたゾゾだった。ゾゾは開封したばかりの新しい石鹸を 石鹸受けに置くと、引き戸を尻尾で締めてから腰を曲げ、チヨの耳元で囁いた。

「この前私が叢雲さんにお裾分けに行きましたら、それはもう惚気られましたよ」

「ふへっ!?」

 チヨが声を裏返すと、ゾゾはにんまりと単眼を細める。

「あれでいて、あの人はチヨさんがお好きなのですよ。ただ、古い神様なので言い回しが解りづらいのと、男の矜持が あるがために表立って好意を示せないのですよ。ですから、あまり慌てないことです」

「そったら、おらが毎朝行って神社の御掃除手伝うんも、学校帰りに寄ってお喋りするんも、御神体の翡翠を磨くんも、 年末に障子を張り替えたんのも、脱皮のお手伝いしたんも、全部迷惑じゃなかったん?」

「それはもう」

 ゾゾが今一度念を押すと、チヨは照れてゾゾを引っぱたいた。

「やんだよう、そったらおらはもっと頑張っちまういやぁ!」

「では、のぼせる前に上がって下さいね。御夕飯もございますので」

 ゾゾは一礼してから、風呂場から出ていった。

「じゃ、お姉ちゃん、そろそろ」

 波号はそう言いつつ湯船から出ようとしたが、チヨが波号の背中にしがみついてきた。

「やんだよう、しょーしいやぁ、そっけんことでぐちゃぐちゃ悩んどったおらがしょーしいぃーやぁー!」

「わぎゃっ!?」

 当然、バランスを崩した波号はひっくり返り、チヨと共に再び湯船に沈んだ。深さもあれば湯の量も多いので、二人は ケガ一つしなかったが、派手な水柱が上がった。チヨの腕から逃れた波号は洗い場まで脱したが、チヨはぷかりと 浮かび上がってきて弛緩した。好かれていないと思っていた相手から好かれていた喜びと、相手の行為を知らずに 気を揉んでいた自分への恥じらいと、風呂でのぼせかけた結果だった。
 恋する乙女は大変だ。




 家族全員で騒がしく夕食を摂った後、波号は砂浜に向かった。
 だが、一人ではない。飼育小屋から出してやったヘラクレスも一緒だ。ぶべべべべべ、と鈍い羽音を立てながら、 巨体の人型昆虫は波号の背後にぴったりと付いてきていた。一緒に歩いてもいいのだが、ヘラクレスは足もそれほど 速くない上に足腰も今一つ丈夫ではないので、飛んで移動してくれた方が色々と安全なのだ。
 月明かりで青白く照らされた道路を渡り、イグニスの足跡が残る砂地に下りると、潮風が吹き付けてきた。波号は 僅かばかり水気が残る髪を掻き上げ、十歳児の感覚では凄くお姉さんっぽいと思うポーズを取り、しばし爽快感を 楽しんだ。すると、ヘラクレスが降下してきて波号の背後に着陸し、身を屈めてきた。

「ま゛」

「へーちゃん、今日は何して遊ぶー?」

 波号が笑みを向けると、ヘラクレスはがちがちと顎を噛み合わせて鳴らした。他の人型昆虫の倍の体格になる ように造られた弊害で知性が発達していないヘラクレスは、語彙が極めて少ない。それ故に、ヘラクレスの感情 は顎の動きか触角の仕草でしか読み取れないのだが、見慣れてしまえばこれほど解りやすいものはない。知性が 未熟であるということは、無駄な理性がないという意味でもあるからだ。だから、彼は家族の誰よりも素直だ。

「お砂場遊び?」

 波号が珊瑚礁の砂浜にしゃがむと、ヘラクレスは波号に従ってぺたんと座った。

「う゛、ん」

「じゃ、お山を作ろうね」

 両手で砂を掻き集めた波号は、それを円錐形に盛り上げた。ヘラクレスも同じように砂を掻き集めようとするが、 なかなか上手くいかなかった。人型昆虫の足先は獲物を捕らえて引き裂くために備わった爪なので、人間の手とは 異なり、包み込むような仕草は不得手なので掴んだ傍から擦り抜けていってしまった。だが、ヘラクレスにとっては 砂の山の出来不出来はあまり重要ではなく、波号と同じことをして遊ぶことが最も重要なので、ただひたすら波号と 同じ動作を繰り返していた。脳が単純なので、おのずと娯楽も単純化するのだ。

「貝殻でお飾りしようか」

 ある程度砂山が出来上がったので、波号は立ち上がった。ヘラクレスも立ち上がる。

「ぬ゛」

「どんなのがあるかなー」

 波号が軽い足取りで波打ち際を歩き出すと、ヘラクレスは波号の一二メートル程度後方を付いてきた。だが、 波打ち際には決して近寄ろうとはしない。万が一海に落ちてしまったら、呆気なく窒息死してしまうからだ。波号は昼間 よりも冷たい海水に足首を洗われながら、時折立ち止まっては貝殻を拾い集めていった。ヘラクレスは元々夜行性 であるということもあって夜目が利くので、波号よりも多くの貝殻を見つけたが、拾った途端に怪力で潰してしまうので 波号に拾ってもらいながら進んでいった。一キロ弱歩いたところで、二人は立ち止まった。

「あ、あれって」

 月明かりを帯びた砂浜で佇む男に気付き、波号は目を凝らす。

「む゛」

 ヘラクレスは波号の傍らで左下足を付くと、前傾姿勢になった。波号を保護しつつも威嚇、という格好だ。しかし、 波号はヘラクレスを諌め、これまで集めた貝殻をハーフパンツのポケットに入れた。

「トキの小父さーん!」

 波号が手を振りながら駆け寄っていくと、タバコを蒸かしていた朱鷺田は気怠げに振り返った。

「なんだ、お前らか」

「こんなところで何してるの?」

「の゛」

 興味津々の波号とヘラクレスに詰め寄られ、朱鷺田は辟易する。

「お前らには関係ないだろうが、俺が何をしていようが」

「今日から一緒に暮らしているんだよ、関係なくないもーん」

「も゛」

 波号が平べったい胸を張ると、ヘラクレスもそれを真似をした。その光景に、朱鷺田は半笑いになる。

「変な奴らだな」

 会話してしまったからには波号らを振り切れないと判断して、朱鷺田はその場に腰を下ろした。波号は朱鷺田の 隣に座り、ヘラクレスは二人の背後に胡座を掻いた。さざ波が煌めくコバルトブルーの水平線と藍色の星空が遙か 彼方で混じり合い、満月が静かに世界を見下ろしている。朱鷺田が何本目かも解らないタバコに火を灯したので、 朱色の光源が生まれた。濁った煙が細く糸を引くが、絶え間ない潮風がすぐさま掻き消した。

「妙な気分だ」

 朱鷺田がしみじみと漏らすと、波号は首を傾げる。

「どんな感じに?」

「俺に帰る家があるって時点で、まず異常なんだ。そんなもん、今まであった試しがないからな」

「なんで?」

「お前らみたいなのに、説明するだけ野暮だろうが」

「そんなこと言われたって、私もへーちゃんも解らないよ。私、頭悪いもん。色んなこと覚えても、見ても、感じても、 一週間過ぎたら全部なくなっちゃうんだもん。だから、一週間過ぎたら、また一から覚え直さなきゃならないの」

「ら゛」

 波号の言葉に、ヘラクレスが相槌を打つ。朱鷺田は、フィルターに浅く歯を立てる。

「そうかい。だったら、ちったぁ話してやる」

「本当? でも、なんで?」

「俺みてぇな擦り切れた男の惨めったらしい過去なんざ、誰かに覚えていてもらうだけの価値もなければ、誰かと 共有するべきものでもなく、増してそれを分かち合うことは無益だからだ。だが、自分の内で処理しちまうのは厳しい。 かといって、その誰かを見つけ出す努力もしなければ、誰かになってくれるであろう女に情を注ぐこともしなかった。 だから、俺は自己完結して生きてきたんだ」

 夕食の席で振る舞われた泡盛で酔ったからか、南国特有の解放感からか、傍らの無垢な生体兵器達によるもの かは定かではなかったが、朱鷺田の心中はいつになく綻んでいた。そうでもなければ、饒舌になどならない。

「よくある話だ、俺はどこの生まれとも付かない孤児だった。それが何をまかり間違ったか、外資系企業の経営者に 拾われて、それらしい名前を付けられた。それが今の名前だ、似合っちゃいないが変えるのが面倒臭くてな。元々 の名前は知らんし、興味もない。だが、その経営者が俺を養子にした理由はろくでもねぇことで、俺を鉄砲玉にする ことだったのさ。外資系といったってピンキリだ、まともな会社も多いがマフィアと癒着しているのも珍しくねぇし、会社 そのものがマフィアだってことも少なくねぇ。俺を拾った男の会社はその中間辺りで、マフィア同士の抗争の頻度は 低かったんだが、馬鹿みてぇな小競り合いがよく起きていたんだ。だから、俺は十一で銃を持たされた」

 そこから先を話すのは少し迷ったが、誤魔化すのも何なので、朱鷺田は話を続けた。

「その頃、敵対していたマフィアの親玉はとんだペド野郎でな。特にアジア系が大好物だった。だから、俺はマフィア 同士が和睦するための取引材料という名目でそいつの別宅に送り込まれたが、顔も見ずに撃った。綺麗にドタマに 命中したよ、顔は見なかったが照準は正確だったからな。で、その仕事が上手くいっちまったせいで、俺はまた別の 仕事を命じられて何度かドンパチもしたんだが、不況の余波でどこもかしこも経営が立ち行かなくなっちまってきて、 マフィア稼業ですらも怪しくなってきた。で、ある日気付いたら、俺は外人部隊に売られていた」

 弾丸を抜いたコルト・キングコブラの重みを確かめながら、朱鷺田は目線を遠くに投げる。

「俺を養子にした男とその会社がどうなったかは知らんし、興味はない。だが、外人部隊に入ってから、俺はやっと 自由ってものを知るようになった。外人部隊そのものは自由じゃない、薄給で汚れ仕事を押し付けられているわけ だからな。世の中を回しているのは至極真っ当な連中だってことも、娼婦じゃねぇ女がいるってことも、俺の国籍が 日本にあるってことも、解るようになった。それからずっと戦い続けてきた。食い扶持のためでもあり、身の置き場を 作るためでもあり、他にやることがないからでもあった。で、気付いたら十何年も生き延びていた。最初に出会った 戦友はほとんど残っちゃいない、戦死か自殺のどっちかだ。生きているのが煩わしいと思うほど、どいつもこいつも 死んでいくんだ。銃声と死体が俺の日常であって、かったるい日常なんてのは有り得なかった」

 穏やかな人生の他人を羨む余裕さえ、どこにもなかった。

「特殊機動部隊に引っこ抜かれてからも何も変わらん。隊長職だから最前線に出ることは減ったかもしれねぇが、 毎度のようにヤバい現場に突っ込んでいくことには変わりねぇ。だから、今も昔も、俺が帰る家は必要ないし、ある わけがないんだ。俺を出迎える家族がいてほしいだなんて、思うだけ無駄なんだ。なのに、お前らと来たら」

 朱鷺田が失笑すると、波号は目を瞬かせる。

「でも、平和になったんだから、これからは帰る家があってもいいじゃない」

「う゛」

 ヘラクレスも頷いてみせたので、朱鷺田は肩を竦める。

「帰るっつっても、どいつもこいつも化け物じゃねぇか。俺の部下よりもえげつない連中ばっかりだ」

「でも、嫌じゃないんでしょ? 御飯も一緒に食べたもん、私とへーちゃんにお話ししてくれたもん」

 波号が笑むと、朱鷺田は顔を背けて語気を弱めた。

「まあ……人として悪い気はしねぇよ」

「だったら、今度は一緒にお風呂に入ろう!」

「の゛!」 

 波号が両手を上げると、ヘラクレスも同じ格好をした。朱鷺田はぎょっとし、身を引く。

「なんでそうなるっ!?」

「家族の皆と一緒に入ると、すっごく楽しいから!」

「あいつらと俺を同列に扱うな、大体どいつもこいつも人間とは言い難いだろ! 特に両親が!」

 朱鷺田が戸惑いながら反論すると、波号はむっとする。

「人間とか人間じゃないとか、そういうのはどうでもいいの! だって気にしていたら始まらない!」

「気にしろよ! それ以前に、大体!」

「大体、何?」

 不意に、波号の口調が冷え込んだ。朱鷺田は二の句を継ごうとしたが、飲み込んだ。小さい拳を固めてTシャツ の裾を握り締めた波号は、唇を歪めて目を潤ませる。

「楽しくないっていうの? だって、こんなにも平和なんだよ? 誰とだって仲良くなれるんだよ? どうでもいいことで 戦わなくて済むんだよ? 学校にも通えるし、家に帰ればお母さんがいるし、お兄ちゃんもお姉ちゃんもいるし、皆、 毎日をとっても楽しく過ごしているじゃない? それなのに、小父さんは楽しくないっていうの?」

「おれ、は、すき」

 ヘラクレスは上両足を曲げ、波号を背後から抱え込む。

「ほらね、へーちゃんだってそう言っている。なのに、なんで小父さんはそんなひどいこと言うの?」

 ヘラクレスの上右足に縋り付きながら、波号は肩を怒らせる。

「それとも、私のことが嫌いなの?」

 世界がぶれる。折り重なっていた色彩がずれ、影が歪み、光が曲がり、空が塗り潰される。

「こいつぁ、一体」

 珍しく恐れを感じた朱鷺田が後退ると、波号はしゃくり上げる。

「だったら、私は」

 小父さんのことなんて、嫌い。波号の上擦った言葉が吐き出されると同時に、南国の離島の景色が大きく歪んだ。 赤い単眼がぎょろりと夜空に見開き、海の彼方からクジラに似た鳴き声が轟いてくる。夜空の切れ目からは瓦礫の 都市が垣間見え、瓦礫の都市で暴れ狂う怪獣もまた垣間見えた。その目線が捉えたものは消え失せ、並列空間へ 飛ばされていた。ヘラクレスに支えられながら顔を上げた波号の目は、コンクリートと鉄骨を掻き集めて成した異形の 怪獣と同じ光を宿していた。一陣の風が吹き渡り、硫黄混じりの臭気が珊瑚礁の砂を巻き上げる。
 そして、その目が朱鷺田を捉えた。





 



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Photo by (c)Tomo.Yun




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