Metallic Guy




第十六話 オーバー・ヒート



朝起きると、頭が痛かった。

心なしか天井がぼんやりして見え、頬も火照っている。触ってみると、確かに熱い。
枕元の目覚まし時計を手に取って見ると、朝の七時半を過ぎていた。そんな時間だというのに。
全然お腹も空かないし、ぶっちゃけだるい。うん、間違いない。

「風邪かなぁ」

あたしはそう呟いて、起き上がった。ちょっと、くらっとする。
考えられる原因は、昨日の悪寒だろう。咳は出ないのでこれは熱だけの風邪のようだ。
すぐに治るけど油断してはいけない。下手に無理をしたら、どうなるか解ったもんじゃないから。
下半身を掛け布団から出さないままぼんやりしていると、ひょいっとインパルサーが覗き込んできた。

「おはようございます」

「パル。ちょっと貸して」

背を丸めてこちらを見ているインパルサーの手を、おもむろに掴んだ。装甲がひんやりしている。
あたしはそれを引っ張って、ぺたりと額に当ててみた。冷たさが、徐々に熱を奪っていく。
これは丁度良い。しばらくそのままにしていると、インパルサーが思い切り腕を伸ばして、足も広げている。
開けられるだけ距離を開け、ゆっくり肩を上下させている。ゴーグルの色は、オレンジだ。

「あ、あの」

上擦った声を出しながら、おろおろと首を動かす。
インパルサーはなんとか気を落ち着けたのか、ほんの少しだけど間合いを詰めた。

「由佳さん、その…なん、ですか?」

「風邪引いたっぽくて」

マリンブルーの大きな手は、次第にぬるくなってきた。もう終わりか。
あたしがそれを離すと、慌てて彼は飛び退いた。そんなに逃げなくたっていいじゃないか。
見れば見る程、冷たそうなボディだ。メインの色が、青だっていうせいもあるんだろうけど。
いや、実際冷たいだろう。冷たいから、熱で重たい体を冷やしてくれるに違いない。
あたしがそんなことを考えていると、パルは自分の手とあたしをまじまじを見比べていた。
階段を上る足音が近付いてきたかと思うと、部屋のドアが開き、母さんが起こしにやってきた。
インパルサーは軽く敬礼し、おはようございますお母様、と母さんに挨拶した。丁寧すぎる。
母さんはベッドでぼんやりしているあたしを見、あらあら、と近付いてきた。

「調子悪そうねぇ。どんな感じ?」

「熱っぽい」

あたしがそれだけ言うと、母さんは部屋を出ていった。体温計を取りに行くんだろう。
インパルサーは母さんを見送ってから、またあたしを見下ろした。まだ、片手を広げたままだ。

「熱、ということは…廃熱不良ですか?」

「違うよ。そんなんじゃなくって…んー」

あたしは説明しようとしたが、熱があるせいでまるでまとまらない。ええいもう。
説明が半端だからインパルサーはますます訳が解らなくなったのか、首をかしげている。
体温計を持って戻ってきた母さんは、あたしに渡した。あたしはそのスイッチを押し、腋の下に挟む。
数分して、電子音が繰り返される。体温計を取り出して、小さな長方形の液晶パネルを二人に見せた。

「三十八度二分」

「学校、休んだ方がいいわね」

あたしの報告の後、母さんも体温計を覗き込む。うん、あたしも行けそうにないと思う。
やっと手を元に戻したインパルサーは、それをマスクの下に添える。

「やっぱり廃熱不良ですか?」

「違うわよ、パル君。人間はね、調子が悪くなると体が抵抗して、熱が出たりするの」

体温計を持った母さんはインパルサーへ振り向き、笑った。

「それじゃ、学校に電話するから。今日はゆっくり休んでおきなさい」

「あ、お母様」

インパルサーは部屋から出ようとした母さんを止めると、母さんは振り返る。

「僕も行かない、と伝えて頂けませんか?」

「了解しました。それじゃ、パル君もお休みね」

と、母さんは敬礼の真似事をした。パルは少し恥ずかしげに、頬を掻く。
母さんを見送ってから、あたしはまた顔が火照ってきた。頭全体が重たくて、冷やしたくてならない。
そうだ、インパルサーのもう一方の手がまだ残っているじゃないか。そう思って、彼を見上げた。
インパルサーはちょっと戸惑っていたが、なんとか逃げずに立っていた。あたしは手を伸ばす。

「さっきとは逆の手、出して」

「また、やるんですか?」

「そうそう簡単に熱が下がるわけないでしょ」

あたしは、一刻も早くあの冷たさを当てたかった。熱があるのは、楽じゃない。
迷うように目線を外していたが、パルはなんとか先程とは逆の手を伸ばした。でも、距離は開いている。
それをぐいっと引っ張って近付けようとすると、彼は大きく足を開いて姿勢を保ち、動こうとはしない。強情な。
仕方ないので、手だけを額に当てた。心地良い。
そうしてぼんやりしていると、視線を感じた。開け放したままのドアを見ると、クラッシャーがきょとんとしている。
妙な姿勢で引っ張られたままのインパルサーと、ぼんやりしているあたしを交互に見た後、にやりとした。

「朝っぱらからラブラブー?」

「え、あ、いえ、これは由佳さんが」

「知ってるよ。おかーさんが教えてくれたし、おねーさんのカゼがどんなのかも知ってるし」

でもそれとこれは別でしょ、と笑いながらクー子は軽く手を振った。

「おねーさん、お大事にねー。それじゃ兄さん、頑張ってねーん」

「違うんですってば!」

必死に声を上げたインパルサーは妹を追おうとしたが、あたしは更に引っ張った。離してなるものか。
段々生温くなってはきたけど、まだまだ冷やすことは出来る。パルは、深く息を吐いた。
あたしを見下ろしてきたレモンイエローのゴーグルは、ちょっと困っているように見えた。
空いている方の手で頬を掻きながら、インパルサーは呟く。

「あの、離してくれませんか?」

「なんで。しんどいんだもん」

「何故って、それは、その」

言葉に詰まりながら、パルは目を逸らす。あんたこそ何なんだ。

「僕は、冷却装置じゃありませんよ」

「解ってる。でも頭痛いの」

あたしは自分でも我が侭だなぁと思っていたが、今はそれどころではない。痛くて重くて熱いのだ。
弱ったなぁ、と肩を落としながらインパルサーは膝を曲げ、屈み込んだ。目線の高さが合う。
すると、インパルサーは少しあたしの額から手を浮かしたので、あたしは腕を掴んでいた自分の手を緩ませる。
くるんと反転させた手の甲が、ぺったりと当てられた。こっちはまだ、あたしの熱が移ってはいない。
インパルサーはあたしの体温を確かめているのか、少し首をかしげていた。

「確かに、由佳さんの平均体温よりも高めですね」

「だから言ったでしょ。風邪だって」

「ですが何も、僕で冷やさなくてもいいじゃないですか」

「手近にあったんだもん」

「手近って…」

なんか違うなぁ、とパルは首を捻る。うん、あたしもちょっと変だと思うよ。
でもその原因は熱なんだ。これさえなきゃ思考もすっきりして、ぼんやりしなくて済むんだけどね。
額に貼り付けられていた平らな手の甲も、次第に温くなってきた。もうちょっと、冷たさが持続しないかなぁ。
完全にあたしの体温が移ってしまったパルの手を剥がすと、途端に彼はずり下がった。堪えていたらしい。
深呼吸するように肩を上下させ、テーブルに手を付いてなんとか逃げないようにしている。
あたしは昨日の夜とはまるで違う、情けなさ全開のインパルサーがちょっと面白くなかった。

「なんで逃げるの。昨日の夜に、気障ったらしいことあたしに言ったりしたくせにぃ」

「あ、あれは!」

素っ頓狂な声を上げ、彼は立ち上がった。
あたしに背を向けて俯き、頭を抱えてしまった。

「あれは…僕であって僕じゃないような…」

「言ってたじゃん。してたじゃん」

「そりゃそうですけど…ああ、思い出したくないです…」

相当恥ずかしいのか、がっくりと肩を落とした。少し見えるゴーグルの色には、ほんのりとオレンジが混じっている。
あたしは熱い頬を押さえながら、翼の角度が下がりつつある彼の後ろ姿を見上げる。

「そんなに嫌なの? 気障なのって」

「嫌、というか…僕が由佳さんに対してあんな言動を取ってしまうことが…その」

振り向いたインパルサーは、がりがりマスクの頬を掻いていた。塗装が剥げるぞ。

「信じられないんです」

「信じるも信じないも、自分で言ったことでしょうが。あたし、きっちり覚えてるんだけど」

と、あたしが言うと、パルは俯いた。

「…忘れて下さい。恥ずかしくってどうしようもないんですから」

「無理」

あたしはそれだけ返し、ぱたりとベッドに倒れた。喉が渇いてきた。
インパルサーはぐったりしたように、ため息を吐いていた。しばらくすると、頭を抱えてしゃがみ込み、唸る。
せめて自分は忘れようとしているらしいが、逆に思い出して悶えているようだった。本末転倒だ。
喉の乾きと共にほんの少しだけお腹が空いたような感覚があったので、あたしは悶え続けるパルに手を伸ばした。

「パルー」

「なんでしょうか?」

頭から手を放して顔を上げたパルは、あたしへ振り向いた。
乾いてしまったせいで、喋ると喉が少し痛かった。

「喉乾いた。あと、ちょっとは食べないと薬飲めないし…。悪いんだけど、なんか持ってきてくんない?」

「了解しました。ちょっと待ってて下さい」

インパルサーは立ち上がり、とんとんと階段を下りていった。待ってて、ということは何か作る気だろうか。
涼平とクラッシャーが出てからしばらくして、母さんも出るようで、玄関先でパルが挨拶していた。
母さんが出たのを確認してから、彼はキッチンへ向かったようだった。壁伝いに、音が聞こえる。
五分程で、インパルサーは戻ってきた。その手には、スプーンの入った白い小鉢があった。
あたしは起き上がると、彼はそれをテーブルに置いた。中身は、すり下ろされたリンゴだ。
ベッドから出たあたしはひんやりした小鉢を手に取り、少しだけ食べてみた。おいしい。
リンゴらしい酸味がまずあるのだけど、それ以外にもちょっと混じっている。変色防止のレモン汁かな。
だけど酸味だけじゃなく、柔らかい甘みもある。これは確か、ああ、いまいち思い出せない。
丁度良い配分の酸味と甘みが、じわりと胃の中に広がった。
あたしが半分程食べ終わった頃、テーブルの反対側に座ったインパルサーが、中身を解説してくれた。

「リンゴがあったので、それを。色が悪くなるといけないので少しばかりレモン汁を入れたんですが、それだけでは、味が酸味になってしまいます。なので、ちょっとだけハチミツを落としてみました」

あの甘みの正体は、ハチミツだったようだ。通りで。
話を聞いている間も、あたしは食べ続けていた。するっと入ってしまう。
気付いたら、すっかり全部食べてしまった。半分いければいいかなーとか思っていたから、ちょっと意外だ。

「次はクスリでしたか?」

あ、でも、とパルは首をかしげた。

「僕にはどのクスリが効くのか解りませんから、由佳さんが教えて頂けませんか?」

「うん」

あたしはお腹が落ち着いてから、頷いた。立ち上がったが、やっぱり頭が熱い。
じっとインパルサーを見下ろすと、彼はまた逃げ腰になる。まるでイレイザーだ。
床にしゃがんで近付くと、パルはずりずり動いて、ゆっくりとだが距離を開いていった。こら、逃げるな。
その手はどちらも床に当てられているので、あたしは目の前にあったスカイブルーの胸板に額を当てた。
すると、頭上から多少上擦った声が聞こえてきた。

「まだ…するんですか?」

「こうしないと、楽じゃないんだもん」

「それは解っていますけど」

少しだけ、インパルサーの重心が変わった。胸板の角度が、僅かながら変わる。
伸ばされたマリンブルーの指が、あたしの紅潮しているであろう頬にぺたりと当てられた。解ってきたじゃないか。
でもそれは恐る恐るで、動きが弱い。そんなんじゃ、取れる熱も取れないぞ。
あたしは大きな指を手に取り、ぐいっと押し付けた。うん、これでいい。
すると、インパルサーは何も言わなくなった。ちらりとマスクフェイスを見てみると、ゴーグルの色がおかしい。
オレンジを通り越して、赤い。なんともこれは解りやすい。
照れを通り越して、緊張とか色々が入り混じっているようだ。実際、動きもぎこちない。
このままじゃどうにもならない、と思って、あたしは彼の手を解放した。が、元に戻らない。
離れてみても同じことで、ぎっちりと固まって少しだって動かなかった。緊張しすぎだ。
結局、ゴーグルの色がオレンジからレモンイエローに戻るまでの間、あたしは待っているしかなかった。




なんとか元に戻ったインパルサーは、それでもどこかぎこちなかった。
キッチンで、また何かを作る準備をしていたが、珍しく器を取り落としたりしている。割りはしないけど。
あたしは先程飲んだ解熱剤が効いてきたのか、前よりは少し楽だ。でも熱はある。
リビングのソファーに身を沈め、背中を冷やさないために羽織ってきた厚手のオーバーシャツの前を合わせた。
テーブルの上で蓋を開いている薬箱には、あたしの目当ての物はなかった。

「なんでこう、よりによってこんなときに」

八時間は持続する冷却効果の謳い文句が付いた箱の中身は、無情にも空だったのだ。

「冷却シートがないのよ」

ずるりとソファーから落ちながら、テレビの上にこんもりと乗せられた白い山に気付いた。あれは、まさか。
よくよく見ると、その一つ一つには顔があり、びろびろと繋がっている。うん、間違いない。
クラッシャーが量産した挙げ句にカーテンレールに吊したてるてる坊主が、回収された姿だった。
可愛げはあるが、無表情に近い笑顔のてるてる坊主の一つと、目が合った。

「捨てるに捨てられないよね、あれは…」

そうあたしが呟くと、ダイニングカウンターの向こうでインパルサーは深く頷いた。

「捨てるわけないじゃないですか! ヘビークラッシャーの会心作なんですから!」

「冷却シート…」

それがないだけで、あたしは絶望しそうになった。具合が悪いと、考えもつい悪い方に傾いてしまう。
何度見ても中身は空で、印刷のされていない白いボール紙の空間には何の影もない。
一枚くらいは残っていないかと思い、薬箱を少し探ってみても同じことだった。

「マジで困る」

あたしは空き箱をゴミ箱へ放ってから、洗い物を終えたインパルサーを見上げた。彼は、ぴたりと動きを止める。
しばらくすると、拭き終わったばかりの小鉢を落とした。ぐわん、と水盤のステンレスが鳴る。
ゆっくり首を横に振ってからパルは身を引き、背後の食器棚にがしゃんと翼を当て、顔を逸らした。

「ダメです、あれ以上は…本当に」

「ちょっと冷やさせてくれたら、それでいいのにぃ」

「本当にダメなんですってば!」

声を上げてから、インパルサーは何度も首を振る。ゴーグルの色は、またリボルバーみたいな真っ赤だ。
何がどう、ダメなんだろう。あたしはあれ以上する気もないし、勝手にパルが意識してるだけじゃないか。
その辺りを不満に思いながら、自分の手を額に当てた。まだまだ熱は下がらない。
あたしがちらりと彼を見ると、インパルサーは言いづらそうに呟いた。

「ダメなんです」

「何がどうダメなの」

「えと、その…」

「だから、その、お願いですから」

赤からオレンジに戻ったゴーグルが、あたしに向けられた。無理を言うな。
あたしは、上目にインパルサーを見上げる。

「今日一日だけでいいから。ね?」

あたしにとっては、死活問題に思えたのだ。実際は、そんなに大袈裟じゃないにしても、今はそうなんだ。
インパルサーは相当渋っていたようだったが、一日だけならと思ったのか、こくんと頷いた。
もう一方の手を伸ばし、こん、と軽く頭部に当てた。

「了解しました」




傍目に見ると、きっと妙な光景だったに違いない。
中途半端に逃げ腰なパルの胸の上に、あたしは乗っていた。冷却シートの代わりにしては、ちょっとでかいけど。
あたしは熱の籠もった体が重たくてどうしようもないので、冷やしたくてならなかった。
だけど、インパルサーは照れくさくて仕方ないから逃げたいようだ。けど、了解したからにはもう逃げられないぞ。
ソファーに座るわけにはいかないから、フローリングに座ったインパルサーの上に、ぺったりと。
そのまま足が付いたら寒いだろうからと、わざわざ床には毛布が引いてある。パルの気遣いは、なんとも細かい。
あたしは体重を掛けながら、ここまで自分から近付いたことはなかったなぁ、と思っていた。
少し上を見ると、オレンジ色から赤になりそうなゴーグルをしたパルが、ふいっと目を逸らす。
そんな彼から目を外し、あたしは目を閉じた。体力が落ちているし、解熱剤が回ったからか、少し眠い。

スカイブルーの胸板に額を当てていると、この奥にあるコアブロックの存在を思い出した。
きちりきちりと何かの歯車が噛み合うような小さな音が、内側から繰り返される。でもそれは、かなり小さい。
あたしはたぶんこの辺りだろうと思いながら、パルの胸に手を当てた。
ここだけ、あたしの体温ではない温度があった。ということは、ここはコアブロックじゃなくてエンジンか。
軽い震動と唸りが、押し当てた手のひらに感じられた。うん、間違いない。きっとエンジンだ。
頭の位置をずらして、耳をその辺りに付けてみる。音が、近付いた。

「回転数は毎秒ごとに百二十二。非戦闘時における稼動率の、平均数値です」

うるさくない程度のインパルサーの声が、内側から聞こえた。
あたしが顔を上げずにいると、彼は続ける。

「現在稼働しているのは第一エンジンのみで、第二第三は休止させています。あれは、戦闘用ですから」

あたしの手はパルの手に取られたかと思うと、少し上辺りに移動させられた。
ここは震動もない。ただ、冷たいだけだ。

「ここです。近頃はメンテナンスもチューンナップも怠っていますから、どちらも動かせて五十パーセントですね」

「怠らないと?」

と、あたしは尋ねてみた。
インパルサーはあたしの手を少し押さえ、続ける。

「フル稼働が可能です。ですが、エンジンのパワーにボディが負けてしまいますので、最大で八十パーセントです」

「無理は出来ない、ってことかぁ」

「はい。というより、元々こういう設計をされているんです」

インパルサーのオレンジ色のゴーグルが、あたしを見下ろす。

「いかなる状況に陥ったとしても、勝機を残すために。フル稼働でない分、エネルギーが余剰しますから」

「その余剰分まで使ったら?」

「どうなるんでしょうね」

と、インパルサーは少し笑った。

「コアブロックのバックアップエネルギーも全て使うでしょうから、きっと、何もかも忘れるんじゃないでしょうか」

「でも、パルは忘れないし、そこまで無理はしないよね」

「はい。そう、由佳さんと約束しましたから」

そう返し、インパルサーはあたしの手を掴んでいた手を放した。
オレンジが薄らいで、ゴーグルの色は、徐々に普段のレモンイエローに近付いている。
落ち着いてきたというかこの状況に慣れてきたのか、口調も穏やかだ。よしよし、偉いぞ。
あたしは放されてしまった手が、ちょっと残念だった。彼の手は、嫌いじゃない。むしろ好きだ。
薬が回ってきたのと、大分熱が取れてきたこともあって、あたしは眠たくなっていた。
目を閉じたら、案の定記憶は途切れた。




あまり明瞭ではない視界の先は、リビングの天井だった。
額にぺったりとした、あの冷たさがある。上目に見ると、インパルサーが立て膝になっている。
それも片足だけ立てて、もう一方の手は降ろしている。いわゆる敵幹部とかがやる、忠誠のポーズだ。
彼はあたしが起きたことに気付いたのか、額から手を放した。

「どうですか?」

「薬効いてきたから、大分楽。ていうか、そのポーズ何?」

不思議に思って尋ねると、インパルサーは下げていた方の手で後頭部を押さえる。

「なんとなくです。この体勢が高さも丁度良いですし、いいかなぁと思いまして」

「ありがと」

「命令に従っただけですから」

と、インパルサーは立ち上がった。そして、掛け時計を見上げる。
あたしも同じ方向を見、ちょっとびっくりした。起きて薬を飲んだのは八時過ぎだったのに、もう十二時だ。
起き上がってから、まじまじと掛け時計を眺めてしまった。朝起きたばっかりだったのに、よく寝るなぁ。
朝よりも火照りが和らいだ頬に手を当てていると、多少お腹が空いていることに気付いた。
そりゃあ、すり下ろしリンゴハチミツ風味だけじゃ足りないだろうし、すぐに消化されてしまって当然だ。
熱があるくせに冷たい手足の末端を毛布に突っ込んだまま、ふと、あたしは思った。なんとなく。
インパルサーはエプロンを着ていて、両手にゴム手袋を引っ張って付けた。ぎゅっ、とゴムが鳴る。

「パル」

「なんですか?」

顔を上げたインパルサーを、あたしは見据えた。

「寝てる間に、何もしてないよね? まぁ、ボルの助じゃあるまいし」

インパルサーはきょとんとしたように、突っ立っていた。ゴーグルは、またオレンジだ。
パルはあたしから目を逸らし、冷蔵庫へ向かったがドアを開けるタイミングを間違え、側面をぶつけていた。
彼が離れてから、ゆっくりとそのドアは閉まった。手前で、パルは顔を押さえて伏せている。

「しませんけど…」

「しないけど?」

「いえ、なんでも」

と、またインパルサーは冷蔵庫のドアを開けたが、今度は閉めるタイミングを間違えた。
半分程自分の頭を挟んでしまい、抜いた。ちゃんと開けてから卵を二個取り、ガラス製のボウルに入れる。
ぱたんと閉めたあと、ダイニングカウンターの向こうから、彼はおずおずとあたしを見、呟いた。

「えと、怒り…ませんか?」

「とにかく何なの」

「その」

パルは卵を割らないまま、あたしを見下ろした。

「由佳さんが眠ってる間、ずっと」



「見てました」



なんだそりゃ。あたしはそれくらいで、怒ると思われていたのか。
というより、そんなことが何かに引っかかると思っていたのか。なんてことだ。
しばらくぽかんとしていたが、つい笑ってしまった。純情すぎる。
あたしが笑っていると、インパルサーは心外だったらしく、突っ立っている。そして、頬を掻いている。
何度か、かしんと装甲と装甲を擦らせていたが、状況を理解したらしく、少し首をかしげた。

「なんで、笑うんですか?」

「だぁーって」

ひとしきり笑ったせいで、頭痛が少し増していた。頭の奥がきりっと来る。
あたしは呼吸を落ち着けてから、彼を見上げた。

「そんなん、別になんでもないし。何かした範囲にすら入ってないし」

「そうですか?」

「そうなの」

考えてみると、多少恥ずかしいかもしれない。だけど、何もされてはいないんだから。
パルはあたしの答えに納得が行ったようで行っていないようで、顎に手を添える。

「ですけど、由佳さんをソファーに乗せて、それからずっとあの体勢で見てたんですけど」

「何それ」

あたしは更に笑ってしまった。冗談みたいだが、パルが言うなら嘘じゃない。
その光景をちょっと想像してしまい、おかしくなる。このでかいロボットが、ずっと忠誠ポーズで枕元に。
なんとか笑いを堪えてから彼を見ると、今度はむくれていた。

「いけませんか?」

「いや、別にいけなくはないけど、あんた真面目すぎー」

「僕は真剣にですね!」

「解った解った。もう笑わないから」

あたしは一呼吸してから、ダイニングカウンターの向こうのインパルサーを見上げる。
ぷいっと顔を逸らしてしまったパルは、腕を組んでいる。ちょっといじけてしまったようだ。

「それ以上笑うと、オヒルゴハン作ってあげませんからね!」

「解ってるって。ごめーん」

それはさすがに困る。あたしもお腹は空いてきたし、お昼を食べないと薬は飲めない。
卵を持った片手を伸ばしたパルは、それをずいっと突き出した。お昼はたぶん、卵雑炊だろう。
くいっと尖った方をあたしに向けながら、彼は語気を強めた。

「真剣だったんですからね!」

「はいはい」

「全くもう…」

むくれた様子のまま、インパルサーはボウルの端に。こんこんと卵をぶつけた。
ヒビの走った白い表面に指先を填めて、かぱりと開いた。つるん、と黄身と白身がボウルに落ちる。
軽く卵を溶いていた彼は、ちらりとあたしを見たが、すぐに目を逸らしてしまった。
笑われたことが結構気に障ったらしい。ごめんよ、でもあたしも謝ったじゃないか。
手際良く準備を進めるパルの姿を見ていると、なんかしっくり来る。夏休み頃を思い出してしまう。
あたしは毛布から手を出し、ソファーの肘掛けにもたれた。


なんか。

落ち着くなぁ、こういうの。







04 5/19