Metallic Guy




第二十話 作戦、終了



片膝を付いて前傾姿勢になったナイトレイヴンの、胸の部分が開いた。
ほの明るいコクピットから出てきた神田は、すらりとした大きな足を伝ってコンクリートの上に下りた。
曲げられた膝の上から飛び降りると、軽く駆けてあたしの前にやってきた。
あたしは神田にコントローラーを投げると、神田はそれを受け取った。コントローラーを見、苦笑いする。

「やっぱ、下駄箱はいけなかったかな」

「下駄箱?」

そうあたしが尋ねると、神田は頷いた。
コントローラーを手首に乗せ、かちりとバンドを止める。

「ああ。コントローラーなしで操縦した方が反応速度がいいから外してたんだけどさ、グラウンドから教室に戻るまでちょっと面倒だったし、どうせ誰も開けないだろうって思ってさ」

「だから、下駄箱なんかに入れたのか」

通りで、杉山先輩はあっさりコントローラーを見つけてきたわけだ。下駄箱なら、すぐに開けられるし。
だけどそれにしたって、不用心もいいとこだ。うっかり盗られたら、それこそ取り返しが付かない。
あたしがそれを指摘しようとすると、神田は肩を落としてため息を吐いていた。

「馬鹿だって思ってるんだろ? 自分がそれを一番解ってるさ。だけど、そう思ったときにはもう」

神田は、オレンジと藍色のグラデーションになっている空を指した。

「戦場に突っ込んでたんだから」


「そのことで」

あたしは、ポケットからジンジャーエールを取り出した。時間が経ったせいで、汗をかいている。
それを神田に向けると、神田は驚いたような顔になりながらも、手を伸ばした。
あたしは缶が手から離れてから、軽く敬礼した。

「任務ご苦労!」

「労い感謝」

照れくさそうに返した神田は、水滴まみれのジンジャーエールを開けた。ぐっと傾け、一気に飲む。
ジンジャーエールの缶を下ろし、神田は嬉しそうに缶とあたしを見比べる。

「だけど、知ってたのか? オレがジンジャーエール好きだって」

「なんとなく。神田君甘いの嫌いだけど、炭酸好きそうだと思って」

「あー、そういうことか」

表情が緩むのを見せたくないのか、神田はあたしから目を離した。横顔で、笑っているのが解る。
あたしはジュース一本でここまで喜ばれた経験がなかったため、ちょっと複雑な気分だった。
たかがジンジャーエール。されどジンジャーエール。今度はドクターペッパーじゃないしね。
缶に残った分を飲み干した神田は、満足そうに笑った。

「ありがとな」

「神田君もちゃんと、戦ったんだから」

「イレイザーの援護がなきゃ、あの量を捌くのは無理だったけどな」

そう呟き、神田はナイトレイヴンを見上げる。薄暗い中に、赤い目が目立っていた。

「オレはまだまだだ。大したことない奴らだったとはいえ、ノーマルマシンソルジャーの大群にびびっちまった。初陣だから仕方ない、って言うのは簡単だ。だけどな、それじゃいけないんだ。もっと、強くならなきゃなあ」

神田の視線が、ナイトレイヴンの肩アーマーに書かれた白い文字で止まる。

「闇夜のカラスからカラスの騎士に、しっかりしてやりたいからな」

「カラスの騎士?」

つまり、NIGHTにKを足すつもりなのか。神田は頷く。

「願掛けみたいなもんだよ。マリーさんに認められるくらいのアドバンサー乗りに、戦士になったら」


「こいつにKを書いてやるんだ」


「って、ちょっとカッコ付け過ぎか」

そう笑って茶化し、神田はあたしの隣を抜けた。缶を掲げてもう一度、、ありがとな、と言った。
階段を下りる神田の足音が遠ざかった頃、ナイトレイヴンの鋭い目から光が消える。
屋上は後夜祭のキャンプファイヤーからの明かりだけで、かなり暗かった。日も、完全に落ちている。
あたしはナイトレイヴンを見上げていた神田の横顔が、やけに印象に残っていた。
急に男らしくなった、というか、強くなった、というか。戦いは、確実に神田を強くしている。
別に今までが軟弱だったというわけではないけど、そう思える。彼は、戦士になってきている。
あたしは、突然空しくなった。なんか、置いて行かれたみたいな気分だ。実際、置いて行かれたけど。
だけど、普通ならここで後夜祭にでも誘うんじゃないだろうか。葵ちゃん、ちょっと詰めが甘いぞ。


「葵ちゃん、甘いよねー」

「あ、やっぱりそう思う?」

あたしは、起き上がってこちらを見上げるクラッシャーを見下ろした。
するりと体を起こして長く伸びをすると、くわぁ、と変な声を出す。体を戻し、腕を組む。

「普通さあ、もーちょっと押さない? もしかして、葵ちゃんはインパルサー兄さんに気を遣ったのかなぁ」

「かもしれぬな。葵どのはああ見えて、青の兄者よりも謙虚でござるから」

いつのまにか、イレイザーも起きていた。ちょっとびっくりした。
その隣で、ディフェンサーも体を起こして目元を擦っている。首を鳴らし、立ち上がった。

「だーけど、わっざわざインパルサーの兄貴に状況を傾けなくたってなぁ。馬鹿じゃねぇの?」

「…ひっどお」

他人事ながら、あたしは馬鹿とまで言われた神田にちょっと同情した。相変わらず、こいつは口が悪い。
ディフェンサーは軽く飛び上がって、フェンスの上に足を乗せてグラウンドを見下ろした。
あちらの生徒がこちらに気付いたのか、声が聞こえてくる。ディフェンサーは手を振り、声を上げる。

「おー、今、そっち行くわー」

そう言ったかと思うと、ディフェンサーはフェンスを蹴って飛び出した。
たん、と着地音がし、キャンプファイヤーの方に駆けていった。その先に、大きく動く赤い巨体がある。
リボルバーの元気が良いのはいつものことだけど、今日はやたらにテンションが高い。高すぎる。
まだ火の点いていないキャンプファイヤーに銃口を向け、どん、とあの火炎放射を放っている。
途端に周囲の生徒のテンションも上がり、声が上がる。そうか、このせいか。
ちょっと辺りを見回すと、離れた位置で鈴音が嫌そうにしていた。鈴ちゃんにも、同情してしまった。
あたしの隣で、クラッシャーはフェンスに指を掛けて後夜祭を見ていた。
ふと思い出したように、クー子は校舎の掛け時計を見上げる。

「五時二十三分かぁ。おかーさんのお手伝いもしなきゃだから、帰らないと」

「そっか。ばいばい、クー子」

あたしは、するりと浮かんだクラッシャーに手を振る。いい子だなぁ。
クー子は手を振り返してから胸を張り、嬉しそうに笑う。

「おかーさんとコロッケ作るの! おねーさん、好き?」

「大抵の物は好きだよ」

「んじゃー、頑張ってくるー!」

大きく手を振り回しながら、クラッシャーはうちの方向へ飛んでいった。
イレイザーは、かしゃん、とフェンスの上に乗った。グラウンドを見下ろしながら、少し笑う。

「拙者はまだ帰るわけには行かぬな。さゆりどのを待たせてはいるが、文化祭はまだ終わってはおらぬ」

「いっちゃんも随分と進歩したね。前のままだったら、絶対文化祭にも来てなかったよねー」

「それもこれも、全てさゆりどのと皆のおかげにござるよ。では、拙者も宴に参るかな」

にやりと笑み、イレイザーは空中へ飛び出した。くるんと体を回して、校庭に着地した。
すると、待ちかまえていたらしい女子や男子が彼を囲む。メンバーからして、A組のようだ。
最初はイレイザーはかなり戸惑っていたが、逃げるタイミングを失ったのか、ただ人に揉まれていた。
ディフェンサーも同じような目に遭っていたが、こっちは必死に逃げ回っていた。ヒーロー扱いが照れくさいらしい。
あたしは、そんなディフェンサーとクラスメイト達を、遠巻きに眺める律子に気付いた。
だけどディフェンサーに何をするでもなく、ただにこにこして見ているだけだった。りっちゃんらしいや。
一際人数の多い輪の中には、上機嫌なマリーがいた。戦いが終わって吹っ切れたのか、凄く楽しそうにしている。
物音がしたので後ろを見ると、インパルサーが起き上がっていた。薄暗い中で、レモンイエローが目立っている。
あたしは彼に近付くと、パルは空を見上げる。

「もう、夜になっちゃいましたね」

「他の皆は後夜祭で、小学生達は帰ったよ」

「そうですか」

インパルサーは自分の手を握り、そして開いた。

「ちゃんと電気が抜けていますね。二時間も眠れば、当然といえば当然ですが」

「あ、ホントだ」

あたしはインパルサーの胸の辺りに手を当てたが、もう静電気すら感じなかった。
彼はちょっと戸惑ったように後退ったので、あたしは仕方なしに手を離す。なんだよ、今更。
インパルサーはマスクに走った傷を指でなぞったが、それはもうほとんど見えないくらい薄くなっていた。
あたしが騒がしい後夜祭の音と光を見ていると、彼も同じように見下ろす。

「コウヤサイって、皆で大騒ぎをすることだったんですね」

「んー、間違っちゃいないかな」

実際、皆のテンションが最高潮だし、的外れというわけじゃない。
インパルサーは片手をあたしへ伸ばそうとしたが、引っ込めて、ついでに顔を逸らしてしまう。
あたしは彼が何をしたいのか、さすがに予想が付いた。だけどその勇気の無さに、ちょっと呆れていた。

「したいんならしてもいいけど、するんなら、もう寸止めはやめてくんない?」

「なっ」

上擦った声を出しながら、インパルサーはのけぞった。予想通りだったらしい。

「なんでその、あの、解るんですかぁー!」

「解るよ」

あれだけ焦らされれば。そう思ったけど、続けなかった。
インパルサーはがしがしと指先で頬を擦っていたが、緊張した様子で呟く。

「そう、ですか。ですが、その」

「半端に勇気がないよね、パルって」

「はい…」

さすがに自覚していたのか、パルは力なく頷いた。男としてダメじゃないのか、そういうの。
インパルサーはマスクを押さえて俯き、肩を落とす。翼もへたれる。

「ですが、ということはあれですよね。由佳さんは…その、僕と…」

主語の抜けた、妙な言い回しだ。だけど、あたしも主語を言う気はない。
ああ、でもなぁ、とかまだインパルサーは呟いている。本当にダメだ、男として。
あたしはさすがにちょっと苛々してきて、どん、と彼の胸を突く。

「あたしが、あんたを嫌いなわけがないでしょ!」

「ですけど」

「それとも何、したくないの?」

我ながらなんてことを。そう思ったけど、口に出てしまった。
まるで、してくれと要求してるみたいじゃないか。いや、別にしたいわけじゃないけど。
あのまま煮え切らないと、いつまでたってもスッキリしないだけだ。うん、本当にそれだけだ。
インパルサーはしばらく黙っていたが、意を決したのか、顔を上げた。

「いえ、出来ることなら僕は、その…したいです」

「よく言った!」

あたしは、思わずパルを褒めてしまった。今までの彼に比べたら、かなりの進歩だ。
やけに嬉しそうに、インパルサーはがりがり頬を掻いている。絶対いつか、そこの塗装が剥げるぞ。
こんなことで褒めるのもどうかと思うけど、喜ぶ方はもっとどうかと思った。
あたしは色気の欠片もないやりとりに、ちょっとげんなりしたが、色気がないことに感謝もしていた。
さっきからやたらと、胸の奥が熱くて痛くて、苦しくてならないのだ。
少しでも意識するとその痛みは増して、緊張してくる。何を今更意識してるんだろう、あたしは。
頬を掻く手を止めたインパルサーはマスクを開き、ゴーグルもヘルメットの中に納めた。
パルは、屋上の出入り口を指した。その後ろへ、指先が向けられる。

「さすがにここで、ってわけにも行きませんので。あそこなら、グラウンドからは死角になりますし」

「うん」

あたしは頷くと、途端に胸の痛みが増した。もう、痛いなんてもんじゃない。
痺れている。何かの感覚が壊れたみたいな痺れが、内側からじんわりと体中に広がってくる。
何だろう、この感じ。ステージに昇るパルの横顔を見たときと、似ている。
いや、そんなもんじゃない。あの時とは比べものにならないくらい、強くて痛くて苦しくて、嬉しい。
あたしは少し前を歩くインパルサーの手が離れてしまうのが、この上なく寂しいことに思えた。
小走りに彼に追い付いて、マリンブルーの手を取る。パルは驚いたように止まり、あたしを見下ろした。
あたしはその顔を正視しようと思ったが、痺れが邪魔して出来なかった。
握ったままの彼の手は、あたしの手を軽く掴んでくれた。ひんやりしたあの感触が、心地良い。
しばらくこのままでいたいと思った。だけど、出入り口の影はすぐ近くだったため、その手は離された。
少し歩いて止まると、後夜祭の光が一切届かない、暗闇に入っていた。彼の目だけが、明るい。


優しげな、サフランイエローの瞳。
その弱い明かりが、すっと通った鼻筋と、その下の薄く形の良い唇を照らしていた。
つやりとした白銀色の表面が、冷たそうに思えた。きっと、冷たいだろう。
パルが、パルじゃないみたいだ。だけどこれが、本当の彼。

ブルーソニックインパルサーだ。


彼はあたしの肩に手を添えると、軽く抱き寄せた。装甲が、冷たい。
以前に教えてもらったエンジンの位置に、頬が近かった。そこだけ、じんわりとした温かさを感じる。
パルの装甲に反響しそうなくらい、自分の心臓の音がうるさい。おまけに痛い。
頬の傍が温かいのは、あたしと同じだからだろうか。彼の心臓、エンジンも、暴れているんだろうか。
そう思うと、ちょっとだけ安心した。なぜだかそれが、妙に嬉しかった。
パルの大きな手が、あたしの髪をゆっくり撫でている。

「あの色も嫌いではありませんけど、由佳さんは普段のままが一番素敵です」

あたしは返事をしようと思ったけど、出来なかった。
パルはもう一方の手をあたしに背に回し、少しだけ力を込める。

「初めて、僕は戦うことが怖いと思いました。僕の攻撃の威力もそうですが、戦い自体を」

あたしは装甲から伝わる彼の声を、じっと聞いていた。
とても、優しい声。少しも、それを聞き逃してはいけないような気がした。

「敵を撃破しても、攻撃の余波で由佳さんや皆さんに被害が出たら、と思ったら…。恐ろしくてなりませんでした」

髪を撫でる手が止まり、軽く頬に添えられた。
あたしがそちらに顔を傾けると、パルは受け止めてくれた。

「けれど僕は、また戦わなければいけないでしょう。襲撃が完全に終わったとは、思えませんから」

頭上に感じる、彼の目の明かりが少し強くなった。

「ですがもう、僕は躊躇いません。部下さん達が相手だとしても、どんな相手だとしても、僕は」



「あなたを守るために、戦います」



あたしはパルの腰に両手を回し、ぎゅっと抱き寄せた。返事の代わりだ。
彼はそれを察してくれたようで、少し笑ったのが解った。
冷たくて温かい装甲に額を当てながら、目を閉じる。なんだか凄く、嬉しくて仕方ない。
嬉しいよりももっと強くて、幸せよりも明確な、今まで感じたことのない感覚。
きっと、あたしは。


パルが、好きなんだ。


背に回されていた手が外され、肩に当てられる。軽く押され、間を開けられた。
あたしはパルの腰から腕を外して、やっと彼の顔をまともに見た。
サフランイエローの目の奥に見える、瞳孔のような小さなレンズが、僅かに広がった。

「由佳さん」

真剣な面持ちで、彼はあたしを見据えた。

「僕は、あなたが好きです。由佳さんが僕に新しい名を下さったときから、ずっと」


何度目だろう。
パルが、あたしに好きだというのは。


「嫌でしたら、やめますが?」

パルが、あたしに頬と顎に手を添えた。
あたしは彼の顔に手を伸ばし、両手で挟んで引き寄せながら笑ってしまった。

「ここまで来て、まだ言うの?」

「言いますよ」

ナイトのヘルムのような部分を邪魔にしないように、彼は少し顔を傾けた。
サフランイエローの瞳を細め、端正な顔立ちを綻ばせる。

「由佳さんが僕を好きだと言って下されば、僕はこんな思いをしなくて済むのですが?」

「…馬鹿」

あたしは、こう返すことしか出来なかった。ちょっとだけ、鈴ちゃんの気持ちが解ったかも。
パルは少し可笑しげにしたが、すぐに表情を硬くした。こういう顔をすると、見惚れるくらい男らしい。
顎に添えられた親指が口元の下に当てられ、軽く唇を開かせられる。前と、同じだ。
このままでは背が届かないので、あたしはつま先立ちになる。パルが、でかすぎるんだ。
彼は翼の付いた背を曲げてあたしに合わせてから、ゆっくりと重ねてきた。


思っていたより、ずっと。

ロボットの唇は、柔らかかった。


マスクよりもかなり柔らかい。それでも、やっぱり金属は金属だ。
内側からの熱で少しは温かかったけど、最初に触れたときはひんやりしていた。
次第にあたしの体温が移って、人間のものと、あまり大差のない温度になる。
少しだけ開かれた唇の間を、何かがなぞる。彼にも、舌があったのか。
あたしの唇を味わうように止まっていたそれは、すぐに引っ込んだ。代わりに、また背に手が回された。
それと同時に顎も引き寄せられ、先程より深く口付けられる。痛くはないけど、息が出来ない。
やろうと思えばいくらだって出来るはずなのに、胸が詰まって吸えなかった。
しばらく押し付けられていたパルのそれは、重ねるときと同じ速度で慎重に離される。
多少色の強くなった彼の目が明るく、暗闇の中ではちょっと眩しい。
あたしの顎から手を離したパルは身を引いて、顔を背けた。眉を顰めた状態なのか、整った目元が歪む。

「すいません。ちょっと…自制、効きませんでした」

口元を押さえたその横顔を見上げ、あたしは首を横に振る。嫌じゃなかったから。
通りで、やたらに積極的だと思った。パルの理性が危うかったとは。
彼は口元を押さえていた手を外し、情けなさそうに頬を掻く。ああ、このクセさえなければ。

「痛くはありませんでしたか?」

あたしは、もう一度首を横に振る。パルは、安心したように肩を落とす。

「なら、いいんですけど」

やることやったから、彼の方は落ち着いたらしい。でも、あたしはそうじゃない。
したらしたで、あの痺れがどんどん強くなってきた。
好きだ。大好きだ。あたしもパルが大好きだ。
けど、どうやってもそれが口に出せない。言ってしまうべきなんだろうけど、どうしても出すことが出来ない。
仕方がないので、目の前のスカイブルーの胸板へ額を当てた。あたしの体温が、まだ少し残っていた。

「あの、由佳さん」

「ん?」

顔を上げると、パルは背筋を伸ばした。
あたしの目の前には、胸板と腹の間が丁度やってきた。なんて半端な場所が。
インパルサーはあたしの頭上の壁に手を付くと、身を屈めてもう一度軽くキスをしてきた。
離れてから、満足げに笑む。

「以前はこの顔はいらないと思ってたんですけど、使う当てが出来たのなら必要ですね」

「…くぁー」

あまりの気障度に、おもわずそんな声が出た。ちょっと言い過ぎだぞ、パル。
きっとパルには、乙女思考用の乙女回路と気障ったらしさ発動用の気障回路がある。絶対にある。間違いない。
あたしは目の前でにこにこしている美形の青いロボットを見上げながら、そう確信した。




フェンスの向こうで繰り広げられていた後夜祭は、そろそろ終盤のようだった。
延々と鳴り響いていたフォークダンスの音楽も曲が変わって、スローテンポになっている。
あたしはフェンスに寄り掛かってその光景を見ながら、ちょっと物悲しくなっていた。もう、文化祭も終わりだ。
今から考えれば、あの戦いは夢みたいに思えるけれど、あれは間違いなく現実だ。パルが、ここにいるのだから。
隣でフェンスの向こうを見下ろすインパルサーは、珍しくマスクを開いたままだった。
キャンプファイヤーのオレンジ色の明かりが白銀色を照らして、綺麗だ。
あたしはじっとその横顔を見ていると、不意に彼はこちらへ向いた。

「なんですか?」

「こっち来て」

手招きすると、はぁ、とインパルサーは近寄ってきた。屈み込ませ、手を伸ばす。
あたしは彼の両頬を掴むと、ぐいっと横に引っ張った。あ、ここも柔らかい。
もう少し下の方も掴んで引っ張ってみると、やっぱりここも柔らかい。感触は、間違いなく金属なのに。
ひとしきりあたしに遊ばれたインパルサーは、口を横に伸ばされながら怪訝そうに呟く。

「何するんですか」

「あ、ごめん」

あたしが手を離すと、インパルサーは困ったように息を吐く。

「そんなに僕って、面白いんですか?」

「その辺りだけ柔らかかったじゃん、金属なのに。だからちょっといじってみたいなーって思って」

「思ったからといって、すぐに実行に移さないで下さいよ」

むくれたような声を出し、インパルサーはそっぽを向いた。ちょっといじっただけなのに。
あたしは手に残っているやけにふにゃふにゃした人間みたいな彼の頬の感触が、不思議で仕方なかった。
近くにあったインパルサーの腕をちょっと撫でてみると、こっちはちゃんとした固い金属だ。

「ふっしぎー」

「フリーメタル、要するに自在金属なんです。加工時に配合する他の金属との配分で、いくらでも硬度を上げることも下げることも可能なんです」

インパルサーは片手を挙げて、それを広げたり握ったりしてみせた。

「一見しては解らないかもしれませんが、僕の顔も装甲も、ほとんど同じ素材なんですよ。回路は違いますけど」

「オーバーテクノロジーだなぁ…」

あたしにはさっぱり見当が付かないけど、とにかく凄そうなのは確かだ。宇宙の神秘だ。
ポケットから腕時計を出して文字盤を見ると、そろそろ六時半だ。後夜祭も、もうすぐ終わる。
結局、参加しないまま終わってしまうことになりそうだ。それもまた、悪くないかもしれない。
インパルサーは、さすがにマスクを閉じていた。ゴーグルフェイスの彼を見るのは、やけに久々な気がする。
かちり、とマスクを押してしっかりはめ込むと、インパルサーは安心したように深く息を吐いた。

「こっちの方が、やっぱり落ち着きます。あんなに長く開いていたのは、久々です」

「ねぇ、パル」

あたしは、戦闘時の彼を思い出した。

「なんで戦ってるとき、マスク開いてなかったの?」

「ああ、それですか」

パルも、言われて思い出したらしい。

「僕のマスクは、エモーショナルリミッターに繋がっているんです。開けていると、リミッターレベルが下がるんです」

「つまり、切れるのを抑止出来るわけ?」

「ええ、少しだけですが。閉めていると同時に全体的なパワーも低下するんですが、ないよりはいいと思いまして」

彼のマスクにも、ちゃんと役割があったのか。
あたしは丸みのあるインパルサーのマスクフェイスを眺めていると、彼はあたしを見下ろした。
なんとなくじっと見上げていると、パルは少し首をかしげる。

「あの、由佳さん」

「何?」

「二回もキスしてしまいましたけど、その、子供…出来ません、よね?」

恐る恐る言い出したインパルサーの言葉に、あたしは一瞬どころか、しばらく思考が止まってしまった。
彼が何を言ったか理解したと同時に、笑えてきた。可笑しくて可笑しくて、一度笑い出すと止められない。
一昔前の、少女漫画みたいなことを信じてるなんて。ロボットなのに。いや、ロボットだからかも。
あたしが散々笑い転げていると、インパルサーはあたしを覗き込む。

「僕、そんなに変なこと言いました?」

「言った言ったー」

あたしはそれだけ言い、涙の滲んだ目元を擦る。真面目にあんなことを言うからだよ。
インパルサーはあたしが笑うことが腑に落ちない様子で、首を捻る。

「ですけど…なんで笑うんですか?」

「ていうか物理的に出来るわけないでしょー、普通に考えて解らない? そんなもん、真面目に信じないでよ」

「嘘なんですかぁ!?」

インパルサーは、思い切り素っ頓狂な声を上げた。
あたしは頷き、笑いを堪えながら彼を指す。

「嘘に決まってんじゃん。今時、そんなの小学生だって信じないよ」

「そうですか、嘘なんですか…」

本気で信じていたのか、かなり落胆した様子でインパルサーは呟いた。
レモンイエローのゴーグルを押さえ、はぁ、とため息を吐く。ショック受けすぎだ。
あたしは笑いが納まってきたので、呼吸を整える。こんな迷信を信じてる奴を、久々に見た気がする。
間違った知識を信じ込んでいた自分が情けないのか、インパルサーは頭を抱えてしまった。
あたしは彼の二の腕を軽く叩き、とりあえず励ました。見ちゃいられない格好だし。

「ま、これで修正されたんだからよしとしなさい」

「…了解しました」

顔を上げたインパルサーは、敬礼した。深くため息を吐いた彼は、グラウンドを見下ろす。
あらぬ方向を見ている彼を眺めていると、また、あの痺れに似た感覚が戻ってきた。
心地良くもあり痛くもある不思議な感覚は、和らぐどころか強くなって、あたしの中心に納まっている。
グラウンドに並べられた二つのキャンプファイヤーは下火になり、それを囲んでいた人の輪もばらけ始めていた。
もうすぐ、完全に文化祭が終わる。彼らの戦いも、これで本当に終わった。
不意に、ひやりとしたあの感触が手にあった。見ると、インパルサーの手があたしの手を取っている。
優しく曲げられた指先が、あたしの手を包んでいた。


このままずっと、彼らに平穏が続きますように。


そう、願わずにはいられなかった。







04 6/12