目が覚めると、もう日は高かった。 すぐ隣の窓からさんさんと差し込む太陽は暑くて、首筋が汗ばんでいる。 自分の体温と気温でぬるい布団から体を上げ、ぐいっと背筋を伸ばすと、首と背骨がばきばきっと鳴った。 これは、昨日の夜にずっと校内誌の原稿を書いていたせいだろう。あれは、なんとか完成した。 ぼやけた視界に入ってきた時計の短針は、十と十一の間に止まっている。もう、午前十時半だ。 声も出したくない程喉が渇いているため、起き上がってリビングの目の前のキッチンへ向かった。 ダイニングカウンターの向こう側を覗いた途端、あたしは一瞬たじろいだ。 が、すぐに気を取り直す。 「何、してんの?」 青い翼を乗せた背を丸めているインパルサーへ、あたしは屈み込んだ。 薄暗い中でしゃがみ込んで、流し台の下の戸棚を睨んでいたのだ。 彼はあたしに気付いて、すぐに立ち上がった。 「おはようございます、由佳さん」 「おはよ。ね、あんた、そこで何してんの?」 「部品の収納場所を探していたんです」 その片手には、冷凍保存用バッグに入った部品がある。「パル 部品」と書いてある、あれだ。 がしゃりとそれを流し台の隣に置き、窓へ顔を向けた。 ぎらぎらした日光がレモンイエローに映り込んで、色が薄くなっている。 「直射光に長時間当てていたら、過熱しそうで心配なんです」 「それはいいんだけどさ」 「はい」 「麦茶飲みたいんだけど」 「あ、はい」 あたしが言うと、インパルサーは身を引いた。 母さんの意向で広めに作られたダイニングキッチンは、インパルサーとあたしを楽々すれ違わせてくれた。 冷蔵庫を開いて、既に半分程に減っている麦茶の入ったボトルを取り出す。 コップに注ぎ込むと、あたしはそれを一気に喉へ流し込んだ。 水分が体中に染み渡って生き返るような気分の中、息を吐く。 ふと、冷蔵庫に掛けられているホワイトボードに、ずらっと文字が並んでいることに気付いた。 母さんは、仕事が長引くらしい。うん、これはたまにある。 父さんは、一泊二日の長めの出張らしい。うん、これもあることだ。 涼平は、子供会のサマーキャンプで海へ行ったらしい。しかも、父さんと同じ日程で一泊二日ときている。 あたしはそれを見つつ、コップを流しに置いて水を流し込む。 蛇口を閉め、少し笑った。 「まるで示し合わせたみたい」 「待機任務は、僕達だけのようですよ」 インパルサーが、あたしの背後からホワイトボードを覗き込んだ。 あたしは上目に彼を見る。 「読めるの、日本語?」 「いえ、全然。数字記号らしき文字はなんとなく理解出来そうなんですけど、言語の文字はまるで」 「じゃ、なんで」 「朝方、お母様が由佳さんが起きたら言っておくように、と僕に命じまして」 インパルサーは、あたしを見下ろす。 レモンイエローのゴーグルの中に、寝起きで冴えない顔のあたしが映っている。 「今日一日、厳密に言えば明日の午後まで皆さん帰って来ません、とのことです」 「見れば解るよ、そう書いてあるんだから」 あたしは彼を押し退けるため、すぐ後ろにあったインパルサーの胸板に手を当てた。 ひんやりした金属の冷たさが、手のひらに感じられた。 だけど、想像していた程冷たさは長持ちせず、すぐにぬるくなった。それが、なぜかとてつもなく残念に思えた。 触った感触は、見た目通り車みたいな硬さだった。その内側に何があるのかは、まるで予想が付かない。 見せられたとしても、何がどうなってインパルサーを動かしているかなんて、解らないに違いないけど。 インパルサーはあたしを見下ろしてはいたが、目線がうろうろしていた。 首を動かすたびに喉元の細いピストンがせわしなく上下して、キュイン、とモーターがうるさい。 「あの、えと、由佳さん?」 「叩いたりしないから」 真上を見ると、インパルサーと視線が合う。 彼は、まるで金縛りにあったみたいに動かなくなってしまった。 あたしは、その反応につい笑ってしまった。 「パルって純情?」 「…解りません」 と、彼は顔を背けた。 後退りの途中みたいなポーズのまま、微妙に上擦っているような声を洩らす。 「それは聞いたことのない単語ですし、それが何を指すのか、僕には」 照れているのだろうか。 感情があるのだし、そうなのかもしれない。 彼はあたしが手を放すと、やっと姿勢を元に戻した。 リビングから廊下に出るドアの前に立ち、あたしはふと思い出した。 そして振り返り、背後のインパルサーに尋ねた。 「そういえばさ」 「はい?」 きょとんとしたのか、軽く首をかしげた。 あたしの目線に彼は入らないため、おのずと見上げることになる。 見上げたまま、あたしはドアノブに手を置いた。 「パル、力加減が出来ないのにドア開けられるのね」 それが、昨日からずっと不思議だった。 あの握力ならドアノブをぐしゃっとやってしまいそうだけど、なぜかドアノブは無事なのだ。 昨日も、玄関のドアを普通に開けたし、あたしの部屋のドアもなんとか開けていた。 インパルサーの目線があたしを通り越し、ドアで止まる。 「開けられる、というか…握らなければ平気なんです」 「握ってなかったの?」 「はい」 こっくりと頷く。 「力を入れずに開けるのは結構面倒ですが、慣れてしまえば楽なものでして」 「どうやって開けるの?」 あたしが聞くと、彼は片手を上げて指先を広げた。 ぴんと伸ばされたマリンブルーの角張った指の間には、確かにドアノブは引っかかりそうだ。 インパルサーは後ろのドアに近付いたため、あたしは身を引いた。 彼は広げた手を丸いドアノブに当ててほんの少し引き、指の関節をドアノブのフチに、かつんと当てた。 指先の力を抜いたらしく、軽くへたった指の関節が、ドアノブのフチを噛む。器用なものだ。 そして彼はほとんど肘を動かさないまま、手首だけをくるんと回してドアノブを動かした。便利なことだ。 するとドアは軽く開き、彼はそれを押して廊下へ出た。 ノブから手を外すと、インパルサーはそれをあたしへ向けて見せた。 「こうやれば、なんとか出来るんです。手間は掛かりますけど」 「あー、だからかー」 あたしは、ようやく納得が行った。 だからインパルサーは、最初にあたしの部屋を出るときにがしゃがしゃやっていたのだ。 そういえば、昨日部屋に戻ったとき、あたしの部屋のドアノブが多少歪んでいた気がする。 きっと、指の関節だけでもいまひとつ加減が効かなかったんだろう。 が、それと同時に、また疑問が出てきた。 開いたドアの向こうに立っているインパルサーに、それをぶつけてみた。 「それじゃ、力加減が出来ないこと解ってたんじゃないの。だったら、なんであんなに食器とか壊しちゃったのよ?」 「セルフリペアが働いているかどうか、確認してみたんです」 と、申し訳なさそうに彼は頬を掻いた。 かしん、かしん、と硬いものがぶつかり合っている。 「でもセルフリペアに必要な部品が足りていないようでして、結局行われなかったようなんです」 「だけど、あんなにいくつも壊すことないじゃない」 「それが、その」 言いづらそうに、彼は目線を逸らして食器棚の下の方へ向ける。 途端に、がりっ、と強く頬の部分を指先で削ったような嫌な音がした。 「確認したいと言ったら、お母様が次から次へと僕に渡して下さいまして…」 考えてみれば、砕かれた皿やステンレスのマグカップは、使わなくなって久しいものばかりだった。 色々といらないものを持たせて何をどれくらい壊すのか、試したのだ。 壁と玄関を壊しているんだし、これ以上何かを壊されたらたまったもんじゃない、と母さんは思ったんだろう。 それに一度実験してしまえばどうなるか解るし、その辺りのことをちゃんと彼に教え込める。 だからインパルサーはむやみやたらにモノに触っていたり、壊していなかったのだ。 彼のことだ、食器を色々と壊したことによって、相当に気が咎めていただろうから。 母さんは、なんとしたたかなんだろうか。計算尽くだったら、の話だけど。 あたしは、彼の肩というか肩アーマーの002の辺りを、ぽんぽんと軽く叩いた。 肩はその上なんだろうけど、手が届かないのだ。 「あんまり気にする程の事じゃないわよ」 「そう、なんですか?」 「母さんに試されたのよ、パルは」 あたしはリビングから廊下に出、ドアを閉めた。 ドアにはめ込まれた曇りガラスの向こうに、青くてでかいのが突っ立っているのが解る。 きっと、戻ってきた頃には、彼はまた正座しているだろう。 少し冷たい階段を上って部屋に戻り、ちょっと歪んだドアノブを掴んでドアを開けた。 ついこの間まで窓が填っていた壁には大穴が開いたままで、ブルーシートの隙間から風が入り込んでいる。 ばたばたと揺れるシートが、やかましい。 風といってもごく弱い。窓を閉め切ってあるし、暑い外気がそのまま入ってくるから蒸し暑いことこの上ない。 あたしはクローゼットを開けると、適当に服を引っ張り出して抱える。 クローゼットを閉め、机へ目を向けた。 教科書の周辺にプリントの類が散らばっていて、机の回りにも落ちている。風が吹き込んでいるせいだ。 右上をホッチキスに留められた解答用紙が、ライトグレーの回転椅子の上でぐにゃりと曲がっている。その周りにあるのは、様々な教科の問題用紙だ。 服を隣に置いて屈み込み、それらを回収しながら、あたしは思い出した。 昨日一昨日と、さっぱり宿題をしていなかったことを。 「しないとなぁ、これ」 机の上で、とん、とプリントの束を揃える。 教科書や参考書やらを、服と一緒に抱えてドアへ向き直る。 すると、思わぬ姿に一瞬身を引いてしまった。 マリンブルーの長身が、ぬっと廊下に立ち尽くしていたのだ。 「付いてきたの、パル?」 開け放たれたドアの向こうでは、高すぎる身長のせいでその顔は半分程しか見えていない。 その下半分の口元を覆い尽くすマスクが、頷いた。 インパルサーは体を折り曲げるようにして部屋に入ると、あたしを見下ろす。 「はい」 「なんで?」 「待機命令もないので、なんとなく」 悪気のない口調だった。 あたしは、額に手を当てて唸ってしまった。 「あんたはカルガモの子供かい」 「カルガモ?」 「なんでもなーい」 あたしは呆れたように、笑う。 彼の隣を抜けて廊下に出ると、軽く手招きした。 インパルサーはまた体を縮めてドアを抜けると、あたしの背後に立った。 両手をぴしりと体の両脇に伸ばしていて、気を付け、のポーズをしている。 それを横目に、あたしは階段の柱に手を掛けた。 「とりあえず、パルはずっとリビングにいて? あんまり後ろ付いてこられても、どうしようもないし」 「了解しました」 かっちりした動きで、敬礼した。 この辺りだけは、戦士っぽいかもしれない。 濡れた髪をバスタオルで拭いながら、リビングのドアを開ける。 ひやっとしたエアコンの乾いた空気が流れ出し、シャワー上がりの肌には冷たい。 すぐにドアを閉めると、テーブルを前にして正座しているインパルサーがいた。 彼はあたしに背を向けて、座っていた。 あたしが入ってきたことに気付いて、一度こっちに顔を向けた。けど、すぐにくるっと首を回す。 彼の目線を追うと、その先には付けっぱなしにしてしまったテレビがある。それが、やけに騒がしくなっている。 その内容は、夏休み子供スペシャルと思しきアニメの再放送だった。 あたしはダイニングキッチンに入り、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。パックの中身は半分以下なのか、軽かった。 それをコップに注ぎ、あたしはインパルサーの後ろ姿に声を掛けた。 「それ、面白い?」 ばきーん、がきーん、とやたらに激しい効果音と共に、原色のロボットが合体していく。 アーマーやらミサイルやらごってり付けた、巨大ロボが画面で動き回っている。 ばしーん、と拳を突き出したポーズをして、合体シーンは終わったらしい。 画面は切り替わり、その合体したロボットが、敵である化け物の前に降りた。 いつも思うのだが、長い合体シーンが終わるまで待っていてくれる敵はかなりいい奴らだと思う。お約束だけど。 主役側の合体ロボットが、画面というか、敵を指したところでCMになった。 CMの直前に主人公の少年とガールフレンドが出ている絵が画面に止まり、その下に派手なタイトルが入っていた。 思い出した。このアニメ、タイトルは「撃帝 ジャスカイザー」だ。 インパルサーはあたしに背を向けたまま、無言で頷いた。 あたしは、唇に付いた牛乳をタオルで拭った。 「そお?」 「カッコ良いじゃないですか!」 やたらに機嫌良く、インパルサーは振り返った。CMに入ったから、反応したんだろう。 そしてまたすぐに、テレビへ顔を向けた。CMが終わるのを待っているその後ろ姿は、子供そのものだ。 正座しながらじっとロボットアニメを見るロボットの姿は、はっきり言って変だった。 バスタオルを首の回りに降ろし、髪を乗せる。ドライヤーを持って来ようと思っていたけど、つい忘れてしまった。 しばらくすると、CMが終わった。 主役の合体ロボット、ジャスカイザーは敵とやり合っていたが、すぐに転ばされた。 しかも敵は分裂して、袋叩きにされている。やけに状況が悪い。 そうだ。この話は新しい仲間のロボットが参入して、ジャスカイザーと更に合体する話だった。 涼平があんまり何度も見るから、いい加減にあたしも覚えてしまった。 後でパターン通りの大逆転勝利を収めるために、ジャスカイザーはじっとやられている。 あたしはインパルサーの視界を邪魔しない位置に座ると、じっとテレビに見入る彼を眺めた。 本気で見ているようで、あたしがここに座ったことも気付いていない。 数分したところで、案の定援軍が来た。新しい仲間のロボット、サンダードリラーだ。 そういえば、鈴音はこのサンダードリラーが一番好きだ、と言っていた。 だから、カタカナがずらずら並ぶロボットの名前をいまいち覚えられないあたしでも、覚えていたのだ。 サンダードリラーはその名前通り、黄色くてドリルのごってり付いたロボットだ。 「サンダーッ! ジャス、カイ、ザァーッ!」 威勢良く、肩からでっかい二本のドリルを生やしたジャスカイザー、いや、サンダードリラーと合体したからサンダージャスカイザーが叫んだ。 インパルサーは、無言でサンダージャスカイザーを睨んでいる。 考えてみれば、彼がこんなに黙ったのはこれが初めてかも知れない。今までは、あたし達が話させていたのだが。 大人しくて良いかもしれない、と思い、あたしはそのヘルメットみたいな横顔を見ていた。 サンダージャスカイザーは派手に勝利し、またCMが入った。 不意に、インパルサーがあたしへ振り向いた。 そして期待するように、にじり寄る。 あたしはずりずりソファーの端に動いたが、完全にインパルサーに詰め寄られた。 影の中で目立つレモンイエローのゴーグルの中に、困った表情をしているあたしが見える。 「由佳さん」 「何よ」 まさかジャスカイザーがいないか、とか言うんじゃないだろうな。 インパルサーは、テレビを指して声を上げた。 「あれ、あの映像保存出来ませんか!」 ちょっと、気が抜けた。 実際にいないか、と言われるよりは随分マシだけど。 あたしはインパルサーの下で起き上がると、テレビ台へ目を向けた。 がしゃん、と、その下に置いてあるビデオデッキの中でテープがが止まった。 あたしは録画終了の文字が出ている、黒いビデオデッキを指した。 「涼平がビデオに撮ってるから、帰ってきたら見せてもらえるわよ、きっと」 「それじゃ、帰ってきたらお願いしないとですね!」 「いや、言わなくても見せられると思う」 と、あたしは苦笑した。 涼平はインパルサーがジャスカイザーを好きだと言ったら、嫌になる程ビデオを見せてくれるだろう。間違いなく。 実際それを鈴音に実行し、すっかり鈴音をジャスカイザーにのめり込ませてしまっている。 でも、あたしにはどうしてもあれが面白いとは思えない。 鈴音に言わせると、多少癖があるストーリーだから万人受けはしないのよ、だそうだ。 「てか、ちょっと」 あたしは、じりじりと迫ってくるインパルサーの顔を押した。 このままだと、潰されてしまう。 彼はやっと気付いたようで、体を起こした。ひんやりした金属が、ぱっと手から離れた。 インパルサーは素早く身を引いて、フローリングの上に座った。 正座してから、あたしへ謝ってきた。 「あ、すいません」 あたしはソファーに座り直し、足を組む。 時計を見てみると、シャワーを浴びたりしているうちに、もう十二時が近い。 今日もまた、朝と昼が一緒になってしまった。まぁ、大した問題はないのだが。 問題は、何を食べるかだ。 一人でいると、面倒なのもあって茹でるだけの麺類とかになることが多い。だけど、正直なところ飽きてくる。 もうちょっと料理出来るようにならないとなぁ、と思うけど、やっぱりぱっぱと出来た方が楽だ。 結構どうでもいいかもしれないけど、食べる前には考えてしまう。 そんなことを思いながら、あたしはテレビに見入るインパルサーから、何か伸びていることに気付いた。 彼の腰辺りから、太めのケーブルがずるりと伸びていた。 目で追うと、その先はテレビ台の裏のコンセントに差し込んである。 要するに、あのコンセントから充電している、ということらしい。 電気代が心配だけど、ブレーカーが落ちてはいないから、大量に電気を吸収しているわけではなさそうだ。 あたしは立ち上がると、その黒いケーブルになんとなく手を伸ばした。 すると、そのケーブルはぐにゃっと曲がった。 気のせいかと思って、もう一度ゆっくり近付けてみた。 するとさっきよりも大きく曲がって、あたしの手を避けた。 「ね、それ…」 あたしは、恐る恐るそのケーブルを指す。 インパルサーは自分の脇腹から伸びているそれを手に取ると、あたしを見上げた。 「チャージケーブルですけど」 「なんで、動くの?」 インパルサーは恥ずかしげに、目を逸らした。 「条件反射しちゃったんです」 なんで、そこで恥ずかしがるのか。 あたしにはよく解らず、はぁ、と変な声を洩らしてしまった。 彼はずるずる伸びているケーブルを持ったまま、顔を逸らす。 あんまり見ないで下さい、と、小さく呟いた彼のゴーグルの色は、オレンジ色になっていた。 恥ずかしいと、オレンジになるらしい。 あたしは、その色がちょっと納得出来なかった。 そういうときは、ピンクでしょ。 04 3/9 |