いつか見た、あの夢のような未来を。 遅い。いくらなんでも、これは遅すぎる。 僕は焦燥感を覚えながら、リビングのテレビの上に掛けられた鳩時計を見上げた。 カーテンを閉めた窓の外は真っ暗で、他の家々の窓からも明かりが消えている。すっかり、深夜だ。 ハトの出る小窓の下で、短針は午前二時を過ぎてしまっていた。このまま数時間もしたら、夜が明けてしまう。 夕方に由佳さんがお母様へ掛けた電話では、十二時頃には帰ってくると言っていたのに。 僕はなんだか取り残されたような気分になりながら、また鳩時計を見上げた。かちり、と長針が動く。 今は春先を過ぎたばかりだから、夜でもそんなには冷え込まないだろう。けれど、やはり心配だ。 由佳さんは割と丈夫な方だけど、寒さには弱い。うっかり風邪でも引いてしまったら、と思うと気が気ではない。 蛍光灯を付けていても、リビングはどこか薄暗い。充電用のケーブルを引っ張って、コンセントから外した。 ふと、足音がした。先程から聞こえていたそれは、ここへと確実に接近している。 僕はしゅるっとケーブルを引き込み、脇腹の中へ納めると、立ち上がった。リビングを出て、玄関へ向かう。 壁のスイッチを入れて、玄関に明かりを付ける。ドアノブが回ったので、それを掴んで内側へ開けてやった。 一歩二歩よろけながら、由佳さんは玄関へ入ってきた。そのまま、ごん、と僕の胸部装甲に頭をぶつけてしまう。 これは、少しおかしい。結構いい音がしたから、痛かったはずなのに何も言わないし。 僕が彼女の肩へ手を掛けると、由佳さんは顔を上げた。全体的に、頬が赤く染まっている。 「たっだいまぁーん」 「おかえりなさい」 見下ろしながら言うと、由佳さんはぺたりと僕に頬を当てた。やはり、いつもより熱い。 「パルぅ」 「なんでしょう?」 そう尋ねたが由佳さんは答えず、両手を伸ばした。ぐいっと首を引き寄せられたので、背を曲げる。 僕が何か言う前に、由佳さんは力一杯マスクへ唇を押し当てる。どうせなら、開けてからにして欲しかった。 しばらくそうしていたが、すとん、と由佳さんはかかとを下ろした。僕のマスクに付いたグロスを、ついっと手で拭う。 「んふふ」 やっぱり様子がおかしい。通常時よりも、浮かれている感じだ。 体の力を抜いて体重を預けてきた由佳さんは、ちょっと不満げにしている。 「なぁによぅ、うれしくないのぉ?」 「いえ、嬉しいですけど。どうしたんです、由佳さん」 「サークルの飲み会に、付き合ってきただけだもーん。ちょーっとお酒飲んできただけだもん」 「そういうことですか」 やっと合点が行った。僕は、由佳さんがへらへらしている理由が解って少し安心した。 だけど、ここで疑問がある。この国の法律では、飲酒が許可されているのは二十歳からではなかっただろうか。 由佳さんが二十歳になる誕生日は五月二十日で、今日はまだ五月の始めだ。つまり由佳さんは、まだ十九歳だ。 それを言おうとしたが、この状態の由佳さんへ言ったとしても、聞き入れてはくれなさそうだ。 リビングのソファーに座った由佳さんは、僕の出した水を一気に飲んでしまった。 どん、とテーブルにグラスが置かれる。残された氷は、まだ少しも溶けていない。かなり、喉が渇いていたようだ。 淡い色のミニスカートから伸びた足を投げ出していたが、グラスを取りに来た僕を見上げ、身を乗り出した。 思い掛けず、見つめ合う格好になる。徐々に近付いてきた由佳さんは、いきなり飛び出した。 「好き好き大好きー!」 「わぁ!」 突然のことに、僕は一瞬バランスを失った。グラスはテーブルに残せたけど、体はそうもいかなかった。 なんとか右腕を下に置いて、フローリングに背部の翼が突っ込むのは回避出来た。床に傷は付けちゃいけない。 一度、背後確認してから、僕はべったりと張り付いている由佳さんを見下ろした。普段なら、こんなことはしない。 それもこれも、飲酒のせいなのだろう。ありがたいような、ちょっとだけ迷惑のような。 頼りない背に手を伸ばし、落とさないようにする。思い切り腹部へ押し当てられた胸の感触が、少し気になる。 なるべくそれを意識しないようにしながら、僕は顔を上げない由佳さんを眺めた。髪が乱れている。 右腕を伸ばして、上半身を起こす。由佳さんの態勢を邪魔しないようにしながら、なんとか座った。 左手を彼女の背から外して、跳ねている髪を撫でた。高校生の時よりも、後ろ髪は短めに切られている。 滑らかな髪の感触を楽しみながら、僕はゴーグルの下で少し笑う。ああ、やはりこの人が好きだ。 僕の上で俯いている、由佳さんの前髪を軽く分けてやる。マスクを開いて、その奧にある額へそっと唇を当てた。 確かに、彼女はここにいる。背中のブースターへ、細い指が添えられるのが解った。 かつん、と硬い音が響く。大方、あのリングがぶつかりでもしたのだろう。 由佳さんの指先が、強くブースターを握った。僕も、由佳さんをしっかりと抱き締めてやる。 「大丈夫ですよ。僕は、ここにいますから」 「うん」 今度は、気落ちしたような声になる。由佳さんの感情の波は、激しいようだ。 じわりと伝わってくる体温が、心地良い。装甲越しに、規則正しい鼓動も感じられた。 「ねぇ、パル」 多少呂律の回らない口調で、由佳さんは迫る。 「あたしのこと、抱けるぅ?」 「…は?」 思わず、面食らってしまった。抱く、ってそれはそのもしかして、あの行為のことですか由佳さん。 僕が呆然としていると、由佳さんは心なしか熱っぽい目付きで僕を見上げてきた。 「ねぇってばー」 「由佳さん…何を言っているか、解ってます?」 「解ってるよぉ。あたし、そんなに馬鹿じゃないもん」 「ですけど、僕はどうやって、その」 そこまで言って、僕は由佳さんから目を逸らした。そもそも、それは物理的に不可能じゃないのか。 やろうと思えば出来る、かもしれない。だが、いくらなんでも由佳さんに負担が大きすぎる。 マシンソルジャー同士の、武装強化を目的とした複数合体とは訳が違う。構造的には、近いかもしれないけど。 視線を戻して由佳さんを見ると、真面目な顔をしている。本気なのか、この人は。 その気持ちは、僕にも解らないでもない。だけどこればかりは、聞き入れるわけにはいかないお願いだ。 「あの、由佳さん」 「だあってさぁ」 むくれながら、由佳さんは体を起こす。僕に顔を寄せながら、声を上げる。 「あたしが好きなのはぁ、あんただけだもん」 「僕もあなたが好きですけど、それとこれとは…」 「マシンソルジャーなのにぃ?」 「マシンソルジャーだからですよ! 僕のボディがバイオロイドかサイボーグであれば、話は別ですが」 「…んー」 考えるように、由佳さんは唸った。 「ボディが違うと、パルがパルじゃないよなぁ…」 「ですから、諦めて頂けませんか?」 そうしないと、僕も諦めきれない。お願いですから、断念して下さい。 くたっとへたり込むと、由佳さんは唇を尖らせる。まだ、諦めてくれない。 「あたし、まーくんが欲しいの」 「は?」 「まーくんはまーくんなのぉ」 「いえですから、それは一体誰ですか?」 「あたしとパルの子供ー。マシンソルジャーでねぇ、ブルーマッハインパルサーっての」 「ですけど、マシンソルジャーであれば、何も僕と由佳さんが行為を行わなくとも生み出せますよ」 「気分よ気分。それにさぁ、ずうっと処女のまんまってのもなんか嫌ー」 そうぼやきながら、由佳さんはじっと僕を見据えた。ああ、どんどん言葉遣いが下品になっていく。 このまま行けば、僕はあれだと言われかねない。さすがにあれだけは、言って欲しくない。 僕の腰にしがみ付きながら、由佳さんは懇願する。かなり本気だったようだ。 「ホントにダメぇ?」 「ダメですよ。それに僕は完全な戦闘用なんですから、そういう方面の機能は一切搭載されていないんです」 「つまんないのぉ」 かなり残念そうに、由佳さんは目を伏せた。やっと諦めてくれたようだ。 諦めてくれて安心したけど、どこか物悲しいのはなぜだろう。凄く、複雑な心境だ。 落ち着いたのか、由佳さんは申し訳なさそうにしている。彼女は、苦笑混じりに謝ってきた。 「ごめん。無理言って」 「いえ」 「なんでかなぁ。パルが帰ってきてくれて、ここにいて、それで充分なはずなのにさぁ」 僕のブースターから手が外され、腰の後ろで組まれた。由佳さんは、少し笑う。 「なんで、そこから先に行きたくなっちゃうかなぁ…」 抱え込むように、彼女を腕の中に納めた。 その答えを、僕は知っている。好きになればなるほど、そこから先を追い求めてしまうのだ。 三年前を思い出す。由佳さんが戸惑うのを承知で、何度も好きだと言ってしまったことを。 結果として、それはいい方向へ進んだけれど。もし嫌われていたら、どうなっていたことだろう。 いや、これ以上考えないことにしよう。あの頃の僕も、決して考えることはしなかった未来なのだから。 どれくらい、僕らは黙っていただろう。 由佳さんは、いつのまにか眠ってしまったようだ。僕は、後方へ傾いでいた姿勢を戻した。 ぱたり、と背中で彼女の手が落ちる。力が抜けたそれを取り、前へ持ってきた。 改めて手の中に納めると、小さいと思う。左手の薬指には、少々輝きの鈍ったリングが填められている。 あのプレゼントは大事にされていたようで、嬉しくなる。軽く、親指で薬指を撫でてみても、反応はない。 丁度良い。いつかやろうとは思っていたけど、戦いのせいでやる機会を逃していたことが出来る。 持ち上げた由佳さんの手の甲へ、軽く口付けた。騎士が姫君へ行う、忠誠の誓いだ。 そっと彼女の手を降ろしたが、少し名残惜しかった。起きていたら、どんな反応をしただろう。 怒るのか、笑うのか、照れるのか、喜ぶのか。全部の反応を、していたかもしれない。 全く、由佳さんという女性は。相も変わらず、僕の予想を超えた言動をしてくれる。 ああいった目で、僕のことを見てくれていたとは。嬉しいけど、正直なところは凄く照れくさい。 胸部装甲の上に置いた彼女の左手に、僕は手を重ねる。愛しくて、たまらなかった。 「三年も、待たせてしまいましたからね」 ユニオンでの戦いは、激しかった。拳をぶつけてマシンを手に掛ける戦いとは違った、戦いだった。 誰が味方で、誰が敵なのか。それすらも解らなくなりそうなほど、事態が混乱にしたこともある。 ヒトとマシンの境界線は、あまりにも深かった。それを完全に埋めてしまうことは、三年じゃ出来なかった。 それでも、由佳さん達のように、僕らをヒトと同意義の存在として見てくれた方々はユニオンにもいた。 お父さんとお母さんの、昔の仲間だった方々だ。中でも、かなり昇進した隊長さんには、一番お世話になった。 ユニオンから出てきたときは、シルヴァーナ二世号の発進準備で忙しくて、皆さんにはあまりお礼が出来なかった。 今度、ちゃんとお礼をしないと。僕には何が出来るか、しっかり考えておこう。 胸の上で、由佳さんが身動きした。うっすらと目を開き、ちょっと不機嫌そうに呟いた。 「長かったんだからね。結構、辛かったんだからねぇ」 さっきのは、聞こえていたようだ。僕は苦笑する。 「これでも、急いだ方なんですよ」 「待ってるんだから」 僕の手の下から手を外し、両手を伸ばして首へと回してきた。由佳さんは、膝立ちになる。 覗き込むように、幼げな瞳が僕のスコープアイを見つめる。何を、と尋ね損ねた。 顔を近付け、耳元に当たる側頭部のアンテナへ唇が寄せられる。小さく、声がした。 「パルが、お嫁にしてくれるのをさぁ」 センサーが、停止したような気がした。由佳さんの重みしか、感じられない。 身を引いた由佳さんは、まじまじと僕を眺める。僕のスコープアイの明かりが、少し映り込んでいた。 期待しているような表情だけど、どこか心配そうだった。とてもじゃないけど、断れる雰囲気ではない。 いつか、言うべきだとは前々から思っていたのだ。だから、その時期が少し早まっただけなんだ。 由佳さんとの結婚を、誓うことが。そう思った途端、エンジンの回転数が跳ね上がった。 関節も、先日注油したばかりなのに硬くなったような気がする。改まって言おうとすると、かなり緊張する。 だが、言わなければならない。由佳さんの願いを聞き入れることが出来るのは、僕だけだ。 そう決意して、頷くしかなかった。元より、拒否する理由もない。 「…了解しました」 「それじゃダメぇ」 「では」 顔を上げると、由佳さんは僕を指す。 「ちゃんと言って。そうじゃなきゃあ、もう好きだって言ってやらないんだから!」 僕らは、体を重ねることも、遺伝子を存続させることも出来ない。 そんな相手だと解った上で、この言葉だ。これが嬉しくないわけがない。 本当に、この人は僕を好きでいてくれたのだ。唐突にやってきて、唐突に帰ってしまったマシンを。 僕を指している手を取って、彼女を目の前に引き寄せた。 「銀河で、いえ、宇宙で一番に、僕は由佳さんを愛しています」 細めの顎へ手を添えて、目線をこちらへ向けさせた。我ながら、格好を付けすぎだと思う。 「よろしければ、どうか僕の花嫁になって頂けませんか?」 「喜んで」 間を置いてから、はにかんだように由佳さんは笑ってくれた。 そのままいつものように、唇を重ねる。とても、優しく温かい感触だった。 由佳さん、僕も嬉しいです。こうして、あなたに愛してもらえていることが、何よりも。 いつか必ず、僕がマッハインパルサーを生み出してみせる。そう言おうとしたけど、由佳さんは目を閉じていた。 かくん、と頭が落ちてしまう。今度こそ本当に眠ってしまったようで、穏やかな寝息が聞こえ始めている。 この話の続きは、明日の朝だ。僕は由佳さんを抱えながら、夜が明けるのが楽しみになっていた。 翌朝。 日が昇って、カーテンを開けても、由佳さんはなかなか目を覚ましてくれなかった。 確かに今日は日曜で、由佳さんの通っている大学も休講しているけど、午前十時を過ぎても起きないとは。 僕はベッドで丸まって眠りこけている由佳さんを見ていたが、手元の本へ目線を落とした。 もうしばらく、待つしかなさそうだ。一階からは、涼平君とヘビークラッシャーの騒ぐ声がする。 大方犯人の予想が付いてしまった推理小説をめくっていると、ベッドの上で動く音がし、高い声が洩れた。 栞を挟んでから、本をテーブルへ置いた。立ち上がって、由佳さんを覗き込む。 まだ眠たそうに目を閉じていたが、仕方なさそうに瞼を開く。視線が、僕へ向けられる。 「…おはよ」 「おはようございます、由佳さん」 僕の影の中、由佳さんはゆっくり上半身を起こした。眉間がしかめられている。 額を押さえながら、僕を見上げる。一度、目覚まし時計を見てから、呟いた。 「ねぇ、パル」 「なんでしょうか」 「あたし、昨日何時に帰ってきたの?」 きょとんとしたように、由佳さんは首をかしげた。覚えていないだろうか。 僕は呆気に取られていたが、すぐに答える。もしかして、とは思うけど。 「午前二時頃でしたが」 由佳さんは肩を落とし、はあ、と深いため息を洩らす。 「そんなに遅かったのかぁ…」 「あの、由佳さん」 「ん?」 なんとか聞こえるような小さな声で、由佳さんは少々辛そうに返した。 いつもに比べて元気のない由佳さんへ、僕は恐る恐る尋ねた。 「…覚えていないんですか?」 「何を」 「昨日の夜、というか、今日の早朝、というか。帰ってきたときのことを」 「一切合切」 「うぇ!」 なんということだ。予想していたとはいえ、事実を知った驚きで僕は妙な声が出してしまった。 由佳さんは頭を抱えて、苦しげにしている。様子からして、二日酔いらしい。 「…大きい声出さないでよ」 「本当に、本当に覚えていないんですか?」 「あたしさぁ」 気恥ずかしげに、由佳さんは俯いた。横に倒れ、ぼすん、と枕に顔を突っ込んでしまう。 「お酒飲むと、すぐに記憶が飛んじゃうんだよ…」 「そうですか…」 それでは、あんなに僕に迫ってきたことも忘れてしまっているのか。ああ、なんということだ。 僕の渾身のプロポーズも、由佳さんが子供が欲しいと我が侭を言ったことも、何もかも。 しかしよく考えてみれば、あれだけ酔っていれば忘れて当然かも知れない。そう、思うしかない。 プロポーズはもう一度、いや、三度目をしなければならないようだ。あれって、物凄く緊張するのになぁ。 枕から顔を上げた由佳さんは、僕を見上げた。なんだか、情けなさそうだ。 「パル。あたし、パルに変なことしちゃったの?」 「いえ」 「したんでしょ、なんか」 「いえ、別に」 無力感に襲われながら、僕は首を横に振った。真実を言ったら、どうなることか。 きっと由佳さんは、自分の声で頭痛を激しくさせてしまうだけだ。二日酔いを悪化させてはいけない。 僕の説明とも言い訳とも付かない返答に、とりあえず納得したのか、由佳さんはまた眠る姿勢になった。 薄手の毛布をすっかり被ってしまった由佳さんは、すぐに眠りに落ちてしまった。相変わらず、寝付きが早い。 少し出ている肩へ毛布を掛け直してから、僕は胸部装甲へ手を当てた。この位置には、コアブロックがある。 その中には、婚約指輪にしようと思って入れてきたリングがある。これを、先に渡しておけば良かった。 だが、後悔しても、もう遅い。どうしてこう、僕は肝心なところが抜けているんだ。 自虐的に笑い声を上げていたが、かなり空しくなってため息が出た。全く、何をやっているんだろう。 リングが納めてある辺りを手で押さえながら、また寝入ってしまった由佳さんへ呟いた。 「今度言うときは、あなたが酔っていないときにさせて頂きますね」 一歩でも、あの夢の光景に近付くために。 いつか必ず、ウェディングドレス姿の由佳さんの隣に立つために。 だけど、それは。 まだまだ、遠い未来の話のようだ。 04 11/6 |