Metallic Guy




雨宿り



瓦屋根の上は、彼の新しい定位置になっていた。
今まで見知ってきた世界とは違う雰囲気の家屋を見ることは、楽しいことだった。
ここにいるときは、大抵は光学迷彩を使っている。遠距離でも、他人に姿を見られることは好きではないからだ。
近頃はこの機能を、戦闘や諜報ではなく、他人からの逃避行動にしか使っていなかった。
平地に連なる家並みを見下ろしていると、通常の半分以下に機能を落としたマルチソナーに反応があった。
イレイザーは瓦屋根の端まで歩き、光学迷彩を解除して下の窓を見下ろす。すると、その窓が開いた。
淡いオレンジのカーテンを押しやってから、さゆりが顔を出した。

「いっちゃん」

「何用にござるか、さゆりどの」

さゆりに手招きされ、イレイザーはすぐさま屋根から飛び降りた。
つま先を伸ばして窓枠へ着地すると、姿勢を安定させた。さゆりは身を引き、部屋の中へ戻る。
小さめのショルダーバッグを肩に掛けながら、さゆりは窓枠で膝を付いているイレイザーを見上げた。

「一緒に来て」

「どこへでござるか?」

前傾姿勢のまま、イレイザーはさゆりの部屋に入った。どん、と畳に膝を置く。
天井に頭を付けないように腰を曲げて立ち上がり、さゆりの下げているショルダーバッグを見る。
中には、財布と携帯電話がある。イレイザーはそれを感知して、彼女の目的を察した。

「買い物にござるか」

「当たり。言わなくてもすぐに解っちゃうんだもんなぁ、いっちゃんには」

ネコの写真が付いたカレンダーが貼られているふすまを開け、さゆりは板張りの廊下に出た。
それに続いたイレイザーは、ふすまを閉めてからさゆりを追った。狭いから、あまり早く動けないのだ。
薄暗い中で揺れるツインテールが、階段を下りて一階の廊下に出た。小さい足音が、廊下を遠ざかる。
さゆりに続いて一階へ下りたイレイザーは、店の厨房に繋がるのれんを上げた。その向こうに、さゆりがいる。
藤色の着物を着ている母、菊乃に、さゆりは外へ行って来ることを報告していた。
菊乃は結い上げた黒髪を整えてから、娘を見下ろした。

「うん、行ってらっしゃい。遅くならないでね。で、どこに行ってくるの?」

「メロンパン買いに」

「それじゃ、私の分もお願い出来るかしら」

小銭を数枚取り出した菊乃は、それを持った手をさゆりに伸ばす。さゆりは受け取り、頷いた。
たすきで器用に袖を括ってから、菊乃は廊下に突っ立っているイレイザーを見上げた。

「いっちゃん、雨降りそうだから傘持ってってね。後で濡れたら面倒でしょ?」

「御意にござる、母上どの」

イレイザーが頷くと、財布に小銭を入れたさゆりが、足早に店の裏手に向かっていった。
のれんを下ろしたイレイザーは、その後に続いた。玄関で、さゆりがスニーカーを履くのを待つ。
その間、イレイザーはマルチソナーを作動させていた。確かに菊乃の言う通り、湿度が高くなっている。
下駄箱の上に掛けられたピンクの傘を取ってから、イレイザーは先に外へ出た。
スニーカーを履き終えたさゆりはその後を追って出ると、ドアを閉める。

「行こ、いっちゃん」

「御意」

少し前を歩くさゆりに頷き、イレイザーは傘を背中に付けている刀の柄に引っかける。
歩くたびにそれが背に当たったが、あまり気にはならなかった。空の色は薄暗く、気温も低めだった。
先に道路へ出たさゆりは振り返り、立ち止まる。イレイザーが来ると、手を伸ばす。
イレイザーは人差し指と中指だけを伸ばし、その小さな手に握らせる。これ以上は、さゆりの手が持てないからだ。
ダークパープルの装甲に包まれた太い指をしっかり握りながら、さゆりは少し前を歩く。
こうしないと、イレイザーが付いてこないからだ。




商店街に来ていた販売ワゴン車で、メロンパンを二つ買った頃には、空の色は重たくなっていた。
紙袋を大事そうにショルダーバッグに入れてから、さゆりは商店街の出口へ顔を向けた。
やりづらそうに背を丸め、腕を組んで突っ立っているラベンダー色の姿がある。さゆりは、ため息を吐く。
これさえなければ、とてもいいひとなのに。彼が人に怯える姿を見るたび、そう思っていた。
さゆりが小走りにイレイザーへ近付くと、安堵したような顔で振り返った。

「終わったのでござるか?」

「まだ」

さゆりの言葉に、イレイザーはぎょっとしたように肩を竦めた。赤い横長のゴーグルが、少し陰る。
身を引いたせいで、その背に掛けている傘が揺れ、がつんとイレイザーの装甲にぶつかった。
彼のそんな情けない姿に、さゆりは唸ってしまう。手を伸ばし、また彼の人差し指と中指を取って握り締める。

「こっちに行くの」

引っ張られるように、イレイザーはさゆりに付いていった。商店街を外れ、細い車道へ向かっていく。
イレイザーはどこに連れて行かれるのか不安だったが、雑踏が遠ざかることに安心していた。
さゆりが横目にイレイザーを見上げると、赤いゴーグルの下で、口元が困ったような表情をしている。
細い車道から更に横道に逸らすと、それは戸惑いに変わった。さゆりは、また前を向く。
この道では、さゆりの家から遠ざかるばかりだ。イレイザーには、訳が解らなかった。
上空を見ると、雨は今すぐにでも降り出しそうだった。このままでは、雨に降られてしまう。
イレイザーは様々な前例を元に状況を判断しようとしたが、さゆりの行動に対する結論は出せなかった。
二人が歩いていく道は、どんどん人通りがなくなっていった。




「到着」

小さな足音が止まったのは、長い石段の前だった。さゆりは、彼の手を放す。
イレイザーは目の前に連なる石段を見上げ、その段数と、向こうにあるものを感知した。
背の高い杉の木に挟まれているため、ただでさえ弱い日差しが弱まり、まるで夜のように暗い。
一歩身を引いてから、イレイザーはさゆりを見下ろした。

「七十四段でござるな」

「飛んじゃダメ。昇らないと、ダメ」

不揃いな石を組み合わされた段を昇りながら、さゆりはイレイザーを見下ろす。
足早に、とんとんと昇っていってしまう。ゆらゆらと動くツインテールが、上に向かって遠ざかっていく。
イレイザーは、言おうとしたことを見透かされたことに驚きつつ、さゆりを追った。上の段を昇る背は、頼りない。
たまにひらひらする短いスカートが気になったが、なるべく見ないことにした。
それが女性に対する接し方だと、次兄から教えられたことを、イレイザーは思い出していた。
石段を昇る二人の足音は揃わず、がちん、と硬いイレイザーの足音が後に続いた。
時折さゆりは、イレイザーが付いてくるかどうか確認するため、下へ振り返る。確認してから、また歩いた。
しばらく歩いていくと、石段の切れ目が上に見えてくる。杉の木も途切れ、丸く空間が開けている。
最後の段へ足を降ろして、その空間へ出ると、さゆりは視界を滑る線に気付いた。
塗装の剥げ掛けている古びた鳥居を抜けて、くすんだ色合いの社の向こうを見上げる。その線は、増えてきた。
ぱたぱたと肩を叩き始めたそれを受け止めようと思い、さゆりは目の前に手を広げる。
すると、雨粒が遮られた。ピンク色の影が、雨空と彼女の間に入る。
見上げると、イレイザーがさゆりの上に傘を掲げていた。さゆりは、すいっと社を指す。

「あっちに行こ」

「だが、さゆりどの。この場合は帰還した方が」

身を屈め、さゆりに傘を差し出す。イレイザーは、その思考が今ひとつ理解出来なかった。
天候が悪くなったら、人間にとってはあまり好ましい状況ではないはずだ。
なのに、なぜまだ外へいたがるのだろう。イレイザーは考えてみたが、やはり結論は出ない。

「いいの」

あまり面白くなさそうにしながら、さゆりは傘を受け取った。雨脚は、徐々に大きくなる。
枯れ葉に覆われた石畳は、すっかり濡れて黒くなる。鳥居から社までは、少し距離があった。
並んで向かいながら、さゆりは傘をくるくると回していた。


石畳の先にこぢんまりと建てられている社には、錆び付いた鈴が下がっていた。
その下に置かれた賽銭箱に、さゆりは十円玉を落とした。かこん、と板に当たって中に落ちる。
手を合わせてから、さゆりは傘を柱に立て掛けた。雨水が伝い、小さな水溜まりを作る。
さゆりが薄く砂の乗った階段に腰を下ろすと、イレイザーもその隣に座る。雨が地面を叩く音が、うるさい。
ショルダーバッグを下ろしたさゆりは、その中からタオルハンカチを取り出した。

「いっちゃん」

立ち上がり、さゆりは隣へ座るイレイザーのゴーグルを拭いた。丁寧に、何度も拭く。
水の筋も取れて、イレイザーの視界は明瞭になる。その向こうで、さゆりは笑む。
側頭部のアンテナも、額当ての部分もきっちり拭かれていき、ネコ柄のハンカチは湿気っていく。
さゆりはそれに気付いたが、最後にイレイザーの頬から顎に掛けてまで拭いていった。
僅かに濡れている、銀色の薄めの唇まできっちり拭かれる。さゆりは、ハンカチを外した。
背を伸ばしたさゆりは、慎重に唇を重ねた。その冷たさが、心地良い。
今し方拭いたばかりの硬い頬に手を添えると、少し首をかしげながら、更に深く口付けた。
さゆりはイレイザーから離れると、目を逸らした。慣れてきたが、それでもまだ、恥ずかしいのだ。
僅かに残る少女の体温が逃げるのが惜しく思いながら、イレイザーは唇を押さえる。
エンジンの過熱に似た感覚は、動揺に似ていたが、嫌ではなかった。
俯き加減になっているさゆりの目線は、気恥ずかしげにイレイザーを見上げていた。
それに気付き、イレイザーはゴーグルを向けた。すると、彼女はやりづらそうに口元を締める。

「嫌なら、言ってね」

消え入りそうなさゆりの呟きが、雨音に流された。色白の頬に、朱が帯びる。
背を丸め、ぎゅっと手を握る。ただでさえ小さな体が、余計に小さくなる。
石畳にぶつかって割れた雨粒の飛沫が、僅かにイレイザーの足を濡らしていた。
視線をそこへ向けていたイレイザーは、口元から手を外す。さゆりの体温が、消えたからだ。

「拙者は…別に」

「私が、勝手に」

さゆりの目線が上がり、イレイザーを見上げる。

「いっちゃんを好きなだけだから」


幼い瞳が、どこか悲しげに細められる。
少女らしからぬさゆりの表情が、イレイザーの赤いゴーグルに映っている。
雨の間を吹き抜けてきた弱い風が、雨を受けて艶を増した、彼女の黒髪を揺らがせた。
赤らんでいる柔らかな頬に、その髪が滑る。小さな口元が、ほんの少し上向いた。


イレイザーには、時々、コマンダーが解らなくなるときがある。
彼女が、こういう表情をするときだ。つい先程まで見せていた、年相応の顔ではないときだ。
それが何を意味するのか、考えてみたことはいくらでもある。好きだ、と言われる意味も。
さゆりの言う好きが、今まで兄弟達に感じていた親愛の感情とは違うものだとは感覚的に解った。
だが、なぜそこまで好きになられるのか。その理由が、思い当たらなかった。
兄達や妹から得た情報で割り出された理由としては、さゆりが自分に恋をしている、というものだ。
イレイザーはまたそこで、解らなくなる。なぜ自分に対して、恋心を抱かれてしまうのか。
恋心を抱かれて、嬉しいといえば嬉しいし、好かれることには悪い気はしない。
だが、さゆりが自分のどこに恋に値する魅力を感じたのか、何度考えても明確な答えは出てこなかった。
イレイザーも、さゆりのことは嫌いではないし、むしろ好きな部類に入る相手だ。
人見知りを直すための荒療治だけは辛いものがあったが、それも乗り越えれば、彼女は優しく褒めてくれる。
戦闘や接近戦での性能を示したことがあれば、それが気に入られる要因だった、とも思える。
しかし、地球にやってきてからというもの、兄弟同士の訓練以外はほとんど戦闘を行ってはいない。
だからその線は最初からなく、さゆりの前で見せる姿は情けないものばかりだ。
なのでイレイザーは、余計に混乱するばかりだった。彼女の恋が、さっぱり解らない。


イレイザーは、つい思考に耽ってしまった。なので、機能を落としたソナーの反応も鈍る。
重量と言うには軽すぎる重みが、二の腕に当たっていた。まだ濡れている装甲に、細い髪が張り付いている。
見ると、さゆりがイレイザーに寄り掛かっている。悲しげな、目のまま。
しっとりとした黒い瞳が見据える先には、雨に打たれ続ける鳥居が立っていた。

「いいの。いっちゃんが、私のことを好きじゃなくても」

鳥居の掠れた赤が、薄暗い光景の中でいやに目立っていた。
さゆりは、少し泣きたい気分になっていた。恋をした相手がここにいて、幸せなはずなのに。
ただ、自分が好きなだけでいればいい。何度も考えて、そう割り切ったはずだ。
例えイレイザーが、自分を見ていなくとも。見てくれさえしなくても、自分が好きなら。
でもそう思うたびに、心のどこかが痛くなる。芯の部分に、氷が当たるみたいに。
ラベンダー色の装甲を掴む細い指に、力が入る。
俯いたさゆりの目が伏せられ、きゅっと唇が噛み締められる。
冷え切った装甲の上に、じんわりと手の温かみが広がっていった。
イレイザーはさゆりの手の上に、自分の手を置いた。重さを掛けないように、軽く浮かばせる。

「さゆりどの」

顔を上げたさゆりは、嬉しそうでもあり、やはり悲しそうだった。
その視線を、イレイザーは見据えていた。彼女からは、目を逸らしたくなかった。
初めて、兄弟以外で嫌だと思わなかった視線。奧の見えない目をした、頼りないコマンダー。
あまり他人に表情を見せない彼女が、自分に似ていると思ったからかもしれない。
理解出来ない部分を、もっと理解したいとも思った。
さゆりの手から外した手を伸ばし、なるべく力を入れないようにして、白い頬に指を当てる。
赤らんでいる頬の温度は、一番高かった。


愛しい。


その言葉しか、この感情には当て嵌まらなかった。
イレイザーの経験にはない感覚が、エモーショナルの奧から溢れてくる。
いつか、長兄が言っていたことを思い出す。理由なんざなくても、恋はしちまうもんなのさ。
頬に添えた手を外さぬまま、イレイザーはさゆりを眺めていた。自然と、笑みになる。
顔を寄せると、さゆりは目を閉じた。いつも彼女がするのとは逆に、イレイザーは身を屈める。


小さく上がったさゆりの声が、雨音に消される。


腕の中に納めたコマンダーは、何も言わなかった。
何かを堪えるように口元を押さえたまま俯いて、額をイレイザーの胸に押し当てている。
近くの杉の木で、カラスが一羽、喚いている。その鳴き声が途切れ、ばさばさと羽ばたく音が遠ざかった。
目の前のラベンダー色をじっと見つめながら、さゆりは今し方のイレイザーの行動を、理解し切れていなかった。
自分から口付けてばかりで、これからもずっと、一方的にしていくのだろうと思っていた。
だから。イレイザーからされたことは、さゆりにとって、かなり嬉しく、そして戸惑うことだった。

「…いっちゃん」

こん、と額を当てた装甲の奧から、僅かな震動と熱が感じられた。さゆりは、目を閉じる。
イレイザーは腕の中のさゆりから目を外し、鳥居の向こうに開けている空間を見下ろした。
雨はまだまだ続く。これが止むのは明日だろうと、イレイザーは素早く計算した。
手の中にあるさゆりの肩を掴みながら、イレイザーは自分の行動と、そうさせた感情を整理していた。
焦燥感と戸惑いはあったが、それよりも遥かに強く、エモーショナルの領域を広く支配する心地良い感情。
それに感覚を委ねながら、イレイザーはさゆりへ目線を落とした。

「さゆりどの」

顔を上げ、さゆりはイレイザーを見上げた。鮮やかな赤いゴーグルが、目立っている。
横長のゴーグルの奧にある目に、優しげな表情が浮かんでいた。


「拙者がいつ、そなたを嫌いだと申した?」


彼の胸に当てた手を、さゆりは握り締めていた。だが、それが緩んでいく。
体を斜めにし、イレイザーに背を預ける。雨垂れが、二人の足元に落ち続けていた。
ぱたり、と爆ぜた水滴から目を外し、さゆりはイレイザーを見上げる。

「言ってない」

心の奥の、氷が熱で溶けていくような。そんな感覚に、さゆりの表情が綻ぶ。
同じように、イレイザーも微笑む。これが恋か、と思いながら。
彼が一度感じた心地良さは、次第に熱を持ち始めている。これからもっと、それは強くなるだろう。
明確な理由はなくとも、イレイザーは強く確信した。




「さゆりどの。そろそろ帰還した方がいいのではないでござるか?」

頭の上で、イレイザーが言った。さゆりは彼の腕から抜け、ショルダーバッグを引き寄せた。
中に入れていた携帯電話を出し、開いて時刻表示を見る。それなりに、遅い時間になっている。
気付いてみれば、空は雨雲のせいだけではない暗さになりつつあった。
さゆりは携帯電話をショルダーバッグに入れてから、イレイザーと顔を見合わせた。

「かも」

「それでは、帰還するでござるか。あまり遅くなっては、母上どのに心配を掛けてしまうでござる」

立ち上がったイレイザーは、さゆりを見下ろした。さゆりは立ち上がると、傘を取る。
どん、とジャンプさせて開いた傘を肩に乗せた。小走りに雨の下へ出、さゆりは彼の隣に立った。
濡れるのも構わず、さゆりは手を伸ばす。イレイザーは二本の指だけ残して握り、さゆりに向ける。
さゆりの手には、行きよりも力が入っていた。彼女が歩き出すと、彼は遅れずにやってきた。
歩幅が狭いために歩調が遅いさゆりに合わせて歩きながら、イレイザーは、隣でくるくる回る傘を見下ろした。
雨にそのまま打たれているため、彼はまた濡れてきていたが、気にはならない。
真下に見えている石段の終わりが、徐々に近付いてきた。


雨は止まなくとも。

二人の足取りは軽く、揃っていた。







04 8/23