神経の結合を確認するため、目の前に差し出した自分の手を握り締めた。 黒い合皮製の手袋を付けている大きな手が、モーター音と共に軋み、硬い拳になる。 五感も全て戻っていた。明瞭になった視界に映っている世界は、彼にはいやに白く感じられた。 明るいライトの下で、体を覆う黒いマントを広げながら腕を伸ばした。同時に、がしゃん、と左腕の装甲を開かせる。 彼の記憶では、この中には連発式の銃が入っていたはずだった。だが、そこには空虚な闇があるだけだ。 右腕の装甲を開くと、やはりこちらも同じだった。レーザーソードユニットが、取り除かれている。 「武器の類は抜かせてもらった。戦闘サイボーグ釈放時の規則でな」 部屋の扉を塞ぐように立つ制服姿の男が、警官帽の下から目線を上げた。 人間とメタモロイドの混血なのか、目元には動物的な鋭さがある。肩に乗せたライフルを、彼へ向ける。 「釈放とはいえ、仮に過ぎん。また凍りたくなければ、下手な考えを起こすなよ」 「解っている。そこまで愚かではない」 久々に作動させた発声ユニットからは、七百年前となんら変わりのない声が出てきた。 彼は空の両腕を閉じ、ドアと反対方向の壁へ振り向く。そこには、長いマントを着たサイボーグが映っていた。 壁一面が、強化された窓になっている。窓の向こうの薄暗い保冷室には、いくつかのコールドポッドが並んでいた。 その一つが開かれており、中身のない内部を見せていた。これは、つい先日まで彼が入っていたものだ。 囚人番号の付いた人間大の円筒を見つめていたが、彼は部屋を見回す。日付を、探そうと思った。 制服姿の男はそれに気付いたのか、ドアの脇にあるモニターを指す。そこには、カレンダーが表示されている。 「レイヴン・シルバー。お前が凍らされた年から、きっちり七百年過ぎているから安心しろ」 「そのようだな」 レイヴンは、カレンダーの日付を睨んだ。点滅している日付が、今日のものだった。 カレンダーに表示された年数は、レイヴンが眠る前に見たときより七百年分多い。間違いなく、時間は過ぎていた。 制服姿の男は、対サイボーグ用のライフルをレイヴンへ向けながら、どこか面白そうにする。 「しかし信じられんな。あのばかでかい戦争を起こした男と、こんなところで話せるとは」 あの昔話は真実だったのかい、マスターコマンダー、と男は笑う。レイヴンは顔を逸らし、背を向ける。 「随分と、私は馬鹿なことをしたよ」 「オレは面白いことだと思うがね。まぁいい、出口まで案内する。付いてこい」 男はドアの脇に付いているパネルに手を当て、何かを認証させた。ドアが開き、狭い廊下が現れる。 廊下にはドアを挟むようにして、同じく制服姿の男が二人立っていた。部屋の中にいた男を先頭に、通路を進む。 前後を三人の看守に挟まれながら、レイヴンは廊下の先を見据える。白い光が、壁を伝ってやってきていた。 しばらく進むと、先頭の男が手を挙げて立ち止まる。後ろの二人の男も立ち止まり、足音が止まる。 三人は、順番に壁にあるパネルへ手のひらを当てた。何度か、認証を示す電子音声が繰り返された。 明かりが、ドアからぼんやりと入り込んでいる。そこが開き、レイヴンは先へ行くように手で示された。 その通りに前に出ると、ばしゅん、と背後でドアが閉まる。閉まり切る寸前に、最初の男が軽く手を振った。 「もう戻ってくるんじゃねぇぞー」 レイヴンは男の馴れ馴れしさに辟易したが、気にしないことにした。広めの通路が、真っ直ぐに伸びている。 重たい足音を響かせながら、誰もいない白い通路を進む。黒いマントが翻るたび、影が広がった。 不意に、白が途切れる。目の前に現れた分厚い金属製の巨大な扉が、ずっ、と唸りながら横へずれ始めた。 どん、と扉が開き切ると、外から風が入り込む。扉の隙間から外へ出ると、長い塀に挟まれた巨大な門が見えた。 巨大な扉の脇を固めていた男達から目を外し、そちらへ向かおうとした。が、レイヴンは足を止める。 灰色の塀と、鈍い色の金属柱で形作られた門の前に、不似合いな色彩が立っていた。 柔らかく波打つ長い金髪が、光を受けながら揺らいでいる。小柄な体を包む、白いワンピースがふわりと広がる。 あまり強さのない日差しの下で、エメラルドグリーンの瞳が細められた。 「ごきげんよう」 様々な感情を入り混ぜた笑みを浮かべ、彼女はレイヴンを見上げる。 「レイヴン」 「…マリー」 無意識に、レイヴンは彼女の名を呟いていた。マリーは近寄ってくると、看守達へ深々と頭を下げた。 そして一歩身を引くと、真っ直ぐに目を向けてきた。レイヴンのゴーグルアイに、少女のような姿が映る。 七百年前と変わらない姿の彼女が、そこに、確かに立っていた。 冷凍刑務所を出た二人は、歩いていた。どこへ向かう、というわけでもなく。 巨大な塀の脇を流れている広い川に沿って、青々とした芝生の河川敷が続いていた。 刑務所の塀を隠すためなのか、背の高い樹木も目に付く。川を滑ってきた風が、二人に当たる。 マリーは引き離されるたびに駆け、彼の後に付いていく。歩調が違うので、どうしても遅れてしまうのだ。 時折レイヴンは振り返ることはあったが、立ち止まることはしなかった。 しばらく歩道を歩いていくと市街地が近付いたのか、家々と共に人間の姿が、河川敷の先にまばらに見えた。 マリーは小走りにレイヴンの前に出ると、河川敷の先を指して彼を見上げる。 「少し、ここで待っていて下さいませんこと?」 「何をだ」 「とにかく、ここにいて下さいまし」 命令するように言ってから、マリーは人の多い場所へ走っていった。軽い足音が、遠ざかる。 ふわふわと揺れる金髪の乗った小さな背を見送りながら、レイヴンは仕方なしに、その場に突っ立っていた。 彼女の進んだ方を視界へ拡大表示させると、何かの店があるのが確認出来た。どうやら、あれが目的らしい。 しばらくすると、マリーが駆け戻ってきた。両手に持ったものを落とさないようにしながら、彼の前に止まる。 色鮮やかなフルーツとクリームが薄い生地に包まれた菓子を、マリーはレイヴンへ差し出した。 「はい、どうぞ」 「これを食えと?」 「それ以外に何がありますの? それとも、七百年経って嫌いになりましたの?」 芝生の上に座り、マリーは先に自分の分を食べ始めた。地球で言うところの、クレープに似たものだ。 レイヴンは彼女の隣に座り、手渡されたクレープをしばらく睨んでいたが、すぐに食べ始める。 あっという間に半分ほど食べ、残りも押し込むように食べてしまう。そんな彼に、マリーは呆れたように呟く。 「せめて、もう少し味わってお食べになってはいかが?」 「寝起きで血糖値が足りないんだ。仕方ないだろう」 全て飲み下してから、レイヴンは口元を拭った。彼としてはまだ、その糖分が足りた気はしていなかった。 マリーはクリームを味わいながら、食べていく。半分ほどになった頃、口元からクレープを放す。 「まあ。仕方のない人ですわね」 「別に、味わうほどのものでもないだろう」 そう返してから、レイヴンはゆっくりと流れる川を見下ろした。 穏やかに流れる川の向こう岸には、窓を日光に反射させながらそびえ立つビル群が見えた。 一際巨大なタワーが中央に伸びていたが、その頂点は見えない。空の果てへ、先が消え失せているようだ。 ぎらついている窓を遮るように、機影が通り過ぎる。巨大な機影は機首を上げ、すぐさま上昇する。 タワーに沿うようにして空へ向かっていたが、不意に姿を消してしまった。ごお、とエンジン音が遠ざかった。 クレープを食べ終えたマリーは、脇に下げたポシェットからハンカチを取り出し、クリームの付いた口元を拭う。 ふう、と一息吐いてから、ハンカチを折り畳む。ポシェットの中へ戻し、ぱちんと蓋を閉じる。 「味わうべきですわよ。生体ユニットの具合を確かめる意味でも」 さあ、と足元の短い草が擦れ合った。 空気を孕んでなびいた黒の下に、マリーはそっと体を傾ける。 とん、とレイヴンへ肩をもたせかける。彼に体重を預けながら、長い睫毛を伏せた。 「驚きも、しませんのね」 少し寂しげに、マリーは呟いた。ばさり、とレイヴンはマントを後ろへ払う。 その下から腕を出すと、マリーの肩へ手を置いた。手袋と装甲越しに、彼女の体温が感じられる。 マリーは、レイヴンの手に自分の手を重ねた。それを見下ろし、レイヴンは少し笑う。 「充分驚いたさ。お前の行動が、あまりにも願望通りでな」 こん、とマリーの額が胸の装甲へ当てられる。レイヴンは、彼女を抱く手に少し力を入れる。 「だが、お前に殺されないのは、少し意外だな」 「誰があなたを殺すものですか」 顔を伏せ、マリーは呟いた。芝生の上で、ぎゅっと手が握られる。 「馬鹿なことを言わないで」 「ゼルはどうなった」 「私が眠る前に聞いた話だと、永久冷凍刑ですわ。だからもう、二度と会うことはありませんわ」 「そうか」 安心したように洩らし、レイヴンは空を仰ぐ。よく見ると、空はスクリーンパネルで覆われていた。 タワーの先端が見えないのは、スカイブルーのスクリーンを貫いているからだった。雲の映像が、その周囲を漂う。 俯いているマリーの表情は、見えない。レイヴンは彼女をしっかり抱き寄せながら、作り物の空を眺めていた。 七百年。気の遠くなるような年月は、眠りによって一瞬で過ぎ去った。 レイヴンは、子供達のことが気になっていた。五体のカラーリングリーダーは、一体どうなったのだろう。 全員が地球へ向かうように仕向けたあとのことは、逮捕されて冷凍刑に処されたせいで、知る暇もなかった。 だがマリーの様子からすれば、あまり悪いことにはならなかったようだ。レイヴンは、そう確信する。 やろうと思えば、その後の消息は掴めるかも知れない。だがレイヴンは、子供達を探す気にはならなかった。 会えることなら会いたいが、出会い頭に恨み言ばかりを言われるに違いないだろうから。 もっとも、兄弟達に嫌われるように徹底したのは彼自身だったのだが。身内に対して、執着を持たれないためだ。 だが内心では、少しは子供達に好かれたかった、という後悔もあった。 レイヴンはあまりにも一致していない自分の思考が、馬鹿馬鹿しく思えた。これが親心か、とも。 当てていた額を放し、マリーは顔を上げる。年齢に似つかわしくない幼げな眼差しが、レイヴンへ向けられる。 「あの子達のことでも考えていますの?」 「よく解るな」 「地球で、皆は幸せそうでしたわ。私も、あの星での日々はとても幸せに過ごせましたわ」 レイヴンを見つめ、マリーは笑む。昨日のことのように、地球での出来事が思い起こされた。 戦いを知らない少年少女、コマンダー達との生活。神田葵との、訓練の日々。そして、子供達との思い出も。 マリーはそれらを話そうとしたが、一度には無理そうだ、と思ってやめた。今度、順序立てて話すべきだと。 レイヴンはまた一言、そうか、とだけ返した。地球が悪くない星だったことに、レイヴンは安心していた。 後ろへ放られたマントの端を掴み、マリーはその中にくるっと体を納める。長い金髪が、黒に隠れてしまう。 「まだ、こんなものを着ていますの? 嫌いではありませんけど」 「すっかり習慣になってしまったからな。そのうち脱ぐさ、もう必要はない」 「あら、残念ですわ」 マントの端を握り締めながら、マリーは拗ねたように言う。 「これをめくって、あなたで遊べるかと思いましたのに」 「お前は子供か」 「冗談ですわよ。本気になさらないで」 くすくす笑いながら、マリーはレイヴンの腕を抱く。放されたマントが、また地面に落ちた。 レイヴンは少し呆れたような顔になったが、すぐに笑った。彼女を見ていると、自然に表情が緩んでいく。 長年押し固めていた感情が、和らいでいくような感覚を覚えた。レイヴンには、それが心地良く、嬉しかった。 マリーは太くずしりとしたレイヴンの腕に縋りながら、じわりとした胸の熱さが強くなるのを感じていた。 「レイヴン」 胸の奥の熱が、マリーの頬を少し赤らめさせた。細められた目は、僅かに潤んでいる。 その頬に、レイヴンの手が添えられる。黒い手袋に包まれた指先が、優しく撫でていった。 マリーは彼の手に顔を寄せ、目を閉じた。愛おしげに、呟く。 「もう、あなたとは戦いたくありませんわ」 「ああ。二度とお前を敵に回したくはない」 指の先で、レイヴンはマリーの目元を少し撫でる。滲んだ涙が、擦れた。 目元を覆う横長のゴーグルには、幸せそうなマリーが映っていた。 「敵にしたら、ここまで厄介な相手だとは思わなかったよ」 「ええ。あの子達は、本当に強かったですもの。次に会ったら、私にも倒せるかどうか解りませんわ」 「私にも解らん。どれだけ戦士として成長したのか、知りたくもない」 と、どこか可笑しげにレイヴンは笑った。マリーは縋っている腕を、ぎゅっと抱き締める。 「そうですわね。きっと、私達の想像なんて超えていますわ。あなたの子ですもの」 「お前とのな」 すかさず付け加え、レイヴンはマリーの頬から手を放す。すぐに、顎へ指を当てる。 くいっとマリーの顔を向けさせると、身を屈める。軽く小さな唇を開かせ、近付けていった。 目の前に迫ったレイヴンに、マリーは条件反射で目を閉じる。直後、深く口付けられる。 サイボーグとはいえ、以前とあまり変わりのない彼の感触だった。マリーは背を伸ばし、更に深くする。 レイヴンが完全に離れてから、マリーは目を開く。頬の色は、強くなっていた。 優しげな表情を口元に浮かべていたが、レイヴンはそれをすぐに消してしまった。 「マリー」 彼女に抱かれていた腕を抜き、彼は拳を握り締めた。 「すまない」 川の向こう側へ目をやり、レイヴンは呟いた。 マリーは首を横へ振る。目元に掛かる髪を押さえてから、彼を見上げる。 「謝ることはありませんわ。今も昔も、私が勝手にあなたに付き合っているだけですもの」 「…そうか」 レイヴンの声は、苦しげでもあったが、どこか嬉しそうだった。 その隣で頷いたマリーは、頭を傾げて彼に預けた。強めの風が、二人の背後で闇色のマントを広げた。 次第に強くなってくる日光を受け、僅かに光沢のあるマントの表面はつやりと光っていた。 遠くに見える都市の前を、また、巨大なスペースシップが通り過ぎていく。巻き起こされた気流が、風を乱す。 周囲の樹木がざあざあと鳴り、足元の芝生も騒いだ。青い植物と土の匂いが、風に混じっていた。 しばらくの間、ビルの窓が陰っていた。機影と共に上昇し、巨大な影は空の隙間へ消えていく。 戦いの影は、どこにも見えなかった。七百年の間に、銀河は落ち着きを取り戻しているようだった。 レイヴンの目線の先を辿っていたマリーは、呟いた。 「ええ。そうですわ」 芝生に置かれた大きなレイヴンの手に、マリーの指が絡む。 黒い手袋の上に、白い指が這う。 「あなたに会うためなら、私はなんだって付き合いますわよ。私を誰だと思っていますの、レイヴン?」 「お嬢様らしからぬ、見上げた根性だな」 「まぁひどい」 ぷいっと顔を逸らし、マリーはむくれた。レイヴンは平謝りしてから、笑う。 「そう怒るな。褒めたんだ」 レイヴンは手のひらを返し、あまり力を込めすぎないようにしながら、マリーの手に指を絡めた。 倍近く違う互いの指先が、しっかりと組まれている。それはまるで、二人の心情のようだった。 マリーの手から伝わる温度が、冷たかったレイヴンの手に温度を与えていく。 レイヴンの感情が、その温度で氷解していく。最初に溶け出した感情は、七百と十年、彼を苦しめたものだった。 押さえ込んでいないと溢れ出しそうな愛しさを、理性と意地で押し込め、レイヴンはマリーを見下ろす。 この女に、勝てる日は来ない、とレイヴンは思った。戦いであれなんであれ、絶対に勝てない、と。 敗北の確信は、悔しいどころか嬉しかった。これも、彼が久しく忘れていた感覚だった。 マリーはレイヴンの手に絡めた指をそのままに、彼を上目に見た。 「そうかしら?」 「そうだとも。自分の嫁になる女を、貶める男がどこにいる」 「あらまぁ意外ですこと。まだ覚えていらしたのね、あの話」 「忘れるわけがないさ」 マリーの髪へ顔を寄せながら、レイヴンは笑う。 「今度こそ、花嫁衣装を着て見せてくれないか」 「いいですわよ」 レイヴンの胸へもう一方の手を添え、マリーは微笑む。 「もう二度と、私から放れたくならないようにして差し上げますわ」 「下らんことを」 彼女の背に当てた手に力を込め、抱き寄せる。マリーも、身を寄せる。 天使のような恋人をマントに納めながら、レイヴンはゴーグルの下で目を細めていた。 「オレがお前を、放すと思うか?」 首を横に振ると、マリーは目を閉じた。 腕の中にいる彼女の存在を確かめるように、レイヴンは固く抱き締めていた。 全ては、このときのためにあったのだ。この体になったのも、永い眠りも、あの戦いも。 何よりも大切な、愛しい人がここにいる。そのことが、何よりも幸せだった。 どちらからともなく近付き、二人はまた唇を重ねていた。 「愛していますわ」 絡め合った指が、硬く握られる。 「ああ、愛しているさ」 「銀河で一番に」 重なった声が、上空を過ぎるエンジン音に掻き消された。 巨大なスペースシップの影が二人を覆っていたが、空の隙間へ飛び去っていった。 ばさばさとはためいていた黒が、芝生の上に落ち着き、川の波紋も失せていく。 長い間凍り付いていた思いを溶かし合わせるように、二人は離れなかった。 ずっと、ずっと二人が望んでいた未来が、穏やかな時間が。 十年の戦いと、七百年の時間を超えて。 ようやく、二人の間に流れ出し始めていた。 04 10/5 |