鬼蜘蛛姫




第十話 弛まぬ忠義



 しかし、逃避行がそう上手くいくはずもなかった。
 至るところで源氏と平氏の戦いが起きている上、地方の豪族達は源氏に手を貸していたからである。かつて平氏 と深く繋がり合っていた者達は手のひらを返したばかりか、平氏を討ち取って名を挙げようとしていた。大して名の ある武将でなくとも、武将ですらなくとも、追い立てられては討ち取られていった。伊勢実近と合流して助力していた 武将や兵士も何人かいたのだが、一人、また一人と欠けていってしまった。そして最後には、八雲姫と伊勢実近の 二人しか生き残らなかった。日に日に窶れる八雲姫を、九郎丸は彼女の懐から見つめるしかなかった。
 宛てもなく彷徨った末に、随分前に打ち捨てられた炭焼き小屋に八雲姫と実近は身を寄せた。人里離れた山奥で あったおかげで、農民にも木こりにも見つからずに済んではいたが、それ故に食うに困るようになってしまっていた。 九郎丸は獣の勘を生かして人間が喰えそうな木の実を掻き集めてやり、実近も滝壺を泳ぐ魚を素手で掴まえたりと 奮闘したが、それも長く続くものではなかった。そのうちに、実近と八雲姫の仲が刺々しくなっていった。
 実近が苛立つのも無理からぬことであった。夫には愛想を尽かされていたが、屋敷から焼け出されるまでは蝶よ 花よと育てられていた八雲姫は、女の仕事というものが一切出来なかったからである。また、骨身に叩き込まれた 貴族の習慣が仇となって、実近が苦労に苦労を重ねて手に入れた食糧にもほんの一口手を付けてそれきり、という こともしばしばであった。それまでの暮らしでは、何種類もの料理を出されても箸を付ける程度で済ますのが貴族の 礼儀であり、皿が空になるまで食べるのは品がないとされていた。八雲姫は、それを守り通していた。
 いかに義に厚い実近であろうと、堪えきれるものではなかった。八雲姫自身で勝ち得た食糧ならまだしも、実近が 手に入れるまでの苦労を語りながら差し出したものにほとんど手を付けられないのは、空しいやら腹立たしいやらで あった。八雲姫も実近が苛立ちを募らせているのは薄々感じ取っているようではあったが、貴族の女は男にみだり に声を掛けてはならないので労いの言葉すら掛けることはなかった。九郎丸はなんとか二人の間を取り持とうと、鴉 なりに努力してみたものの、いずれも空振りに終わった。
 八雲姫が水浴びに出かけた日のことである。九郎丸は冷たい清水が流れ落ちる滝壺に控えて、長い髪を丁寧に 洗い流している八雲姫を見守っていた。獣や賊が現れたら、一声鳴いて注意してやるためである。白粉もお歯黒も 剥がれ落ちた八雲姫の顔付きは精悍さすらあり、不自由な日々を嘆かずに堪え忍ぶ姿は夫を思って泣き暮らして いた時よりも美しく思えるほどだった。分厚い化粧が落ちてみると初めて解ったことだが、八雲姫は全体的に細面で 目がぱっちりとしている娘だった。貴族の世界では細い目とふくよかな面立ちが美人の条件であったが、八雲姫は それとは正反対の顔付きをしていた。夫に疎まれた理由も、おのずと解ってしまうのが物悲しい。戦国時代の訪れと 共に美人の条件も移り変わっていったので、現世に産まれるのが数百年ほど遅ければ絶世の美女であり、嫁の 貰い手も引く手数多だったに違いない。九郎丸は黒い目を瞬かせ、八雲姫を愛でていた。ここには実近はいない、 よって八雲姫を独占出来るのは自分だけなのだ。八雲姫も濡れそぼった髪を梳く手を止めて、九郎丸に微笑みを 見せてくれた。それがまた嬉しくて、九郎丸は羽根を膨らませた。
 八雲姫の行く手に危険がないか調べるために、九郎丸は先導しながら帰路を辿った。少し高度を上げてから周囲 を見下ろしたが、獣の気配も人の姿も見受けられなかった。これなら多少は距離を取っても大丈夫だろうと判断した 九郎丸は、一足先に炭焼き小屋に向かった。小屋の前に降りた九郎丸は、戸を開けてもらおうとクチバシで板戸を 突いたが、中にいるはずの実近の返事がなかった。不審に思って、開け放ってある窓から中を覗くと、実近は錆の 浮いた刀を握り締めていた。食うや食わずの生活で痩せ衰えた顔の中で、目だけは異様に活力が漲って不気味な 光を帯びていた。漆がひび割れた当世具足までもを着込んでいたが、擦り切れた着物の上に被っているだけなので 鎧は空しく浮いている。九郎丸は小屋に近付く八雲姫を一瞥すると、八雲姫はその場に立ち止まった。

「……鴉か」

 覇気のない声を発した実近は、錆び付いた刀を床に突き立て、よろけながら立ち上がった。

「あの女はどこにおる」

 乱暴な言葉を吐き捨てた実近は、無精髭が青黒く生えた顎に粘ついた汗を滴らせる。

「あの女さえ連れ出さなければ、儂はこんなことにはならんかった。貴族など、連れ出すのではなかった」

 ぎし、ぎし、と今にも砕けそうな当世具足を軋ませながら、実近は歩いてくる。

「鴉……。おお、そうだ、お前を取って喰ってしまえばええ。さすれば、腹の足しにもなるというもの」

 九郎丸は羽ばたき、飛び上がった途端、実近が振り抜いた刀が窓枠を砕いた。

「ええい逃げるか! お前の主のように!」

 実近は窓枠に埋まった刀を引き抜くと、木片を散らしながら再度振り回し、薄い壁を切り裂いた。

「あの女を救っておけば、儂に箔が付くと思うたが!」

 板戸を踏み抜いて外に飛び出してきた実近は、ぎゃあぎゃあと逃げ回る九郎丸を追い掛ける。

「儂はこんなところで終わるような男ではないぞ! いざ勝負、勝負!」

 実近は悲鳴を上げて逃げ惑う鴉を追いながら、威嚇とも笑みとも言い難い奇妙な表情を見せていた。九郎丸は なんとか実近を八雲姫から遠ざけようとするが、実近の足取りは恐ろしく不規則で、右へ行ったかと思えば左に傾き、 前に行ったかと思えば後ろに下がり、酒に酔っ払ったようにデタラメだった。八雲姫は手近な木の根本で身を潜め、 息を殺した。これまで従順に支えてくれた者の変貌に怯え、涙すら浮かべていた。実近は九郎丸を追いかけつつ、 しきりに喋っていた。都がどうの、戦がどうの、と関わりのないことを並べ立てていた。酒の旨さや女の味、源氏への 侮蔑やその源氏に鞍替えした八雲姫の父親に対する罵詈雑言と、汚い言葉ばかりだった。それまでの実近は誇り 高い武士であり、八雲姫にも優しすぎるほど優しい男であった。それ故、九郎丸も実近の変貌に衝撃を受けたが、 心がねじ曲がるほど自分を押し殺してまでも忠義を尽くす実近に少なからず敬意を抱いた。
 そのうちに、実近の足取りが弱くなってきた。崖に近付いたので九郎丸が高く飛び上がると、実近は九郎丸を目で 追ってきたが足元は見下ろさなかった。滑りの良い夏草が生え揃った崖に近付いてきた実近は、鴉を仰ぎ見たまま 踏み出し、そのまま足を取られてしまった。大切に握り締めていた刀を取り落とし、当世具足が草木に剥ぎ取られ、 頭陀袋のように転げ落ちたが、実近は悲鳴一つ上げなかった。後にして思えば、飢えと追っ手への恐怖のあまりに 正気を失っていたのだろう。九郎丸は実近が死んだことを確かめてから、八雲姫の元に戻った。
 木の根本で震えていた八雲姫は九郎丸が無事に戻ってくると声を上げて泣いた。九郎丸が高く鳴いてみせると、 実近が死んだと察したらしく、唇を噛んで俯いた。それから、八雲姫は夜になるまで動かなかった。九郎丸の温かな 体を抱き締めて父親や親しかった貴族の者達の名をしきりに口にし、寂しさと戦っていた。これでは八雲姫までもが 飢えてしまうので、九郎丸は八雲姫の袖をクチバシで銜えて引いてやった。八雲姫はよろけつつ腰を上げ、小屋に 入ると、僅かばかりの食糧を頬張った。その最中、八雲姫は涙を流し続けていた。実近が死んでしまった悲しさや 寂しさよりも、他人に気兼ねすることなく食糧を口に出来る嬉しさが勝っていたからである。そんな自分が嫌で嫌で たまらない、と八雲姫は繰り返しながらも、実近が取り分けておいてくれた食糧を貪った。
 それから、二人きりの日々が始まった。




 行く当てもなく、頼る当てもなく。
 ただ生きることだけを目的とした旅はそれほど長くは続かなかった。九郎丸が覚えている限りでは、季節が巡った のは一度きりで、二度目の春が訪れる前にあの忌まわしき災難に遭ったからだ。それでも、九郎丸は八雲姫と共に 過ごせた日々が最も幸せであったと信じている。出来損ないの鴉として生まれ落ち、兄妹から追いやられ、巣からも 落とされた自分を救ってくれたばかりか大人になるまで育ててくれた彼女を愛さないわけがない。薄暗い寝殿造りの 中で分厚く化粧を塗りたくり、重たすぎる着物を引き摺っていた姿よりも、化粧はせずに擦り切れて色褪せた着物を 着て野山で過ごしていた姿の方が、八雲姫なのだと思える。化粧が剥がれることを気にしなくても良くなったからか、 気兼ねする相手がいなくなったからか、引き摺るほど長い髪を切り落とした八雲姫は年頃の娘らしい笑みを見せる ようになった。けれど、人里に降りようとは決してしなかった。眉も生え揃って日に焼けた娘が、貴族だと解る証しは 最早どこにもなく、金になりそうな物は一つ残らず売り渡してしまったし、山奥の寒村に源氏と平氏がいるとは到底 思えなかったが、八雲姫は頑なに山から下りようとはしなかった。実近に引け目を感じていたのかもしれない。
 そして、八雲姫は八重山に辿り着いた。その山を目にした時から、九郎丸は並々ならぬ威圧感を感じていたが、 八雲姫は八重山に惹かれて止まなかった。ここだけは止めようと言う意味で鳴いてみても、八雲姫は意に介さずに ふらふらと近付いていった。道中で出会った農民達からは、野党も物の怪も住み着いていない、歩きやすい山だと 言われたこともあって八雲姫の足取りは一段と軽かった。だが、九郎丸の獣の勘が不吉にざわめいていた。
 しかし、その山は異様極まりなかった。至るところに糸が張り巡らされており、隙間らしいものはほとんどなく、山に 踏み入ったものは容赦なく罠に掛けてやるという殺気が充ち満ちていた。良く見てみるとその糸は一種類ではなく、 目を凝らしてみると違いが解ってきた。太めの糸は木の根本や雑草の間で張ってあり、細めの糸は木々の間を縫う ように張り巡らされていた。すわ妖怪か、と九郎丸はびくついたが、八雲姫はそれらがまるで見えていないのか山道 をずんずんと昇っていってしまう。八雲姫の素足が太めの糸に引っ掛かりそうになれば足元に飛び掛かって方向を 変えてやり、八雲姫の首や肩が細めの糸を千切りそうになれば肩に止まって頭を下げさせてやり、などと、どうにか こうにか危険を凌いでいった。八雲姫がようやく足を止めた時、九郎丸はぎょっとした。
 八重山の裏手には、切り立った崖がそそり立っていたからである。崖に申し訳程度に付いている段差が旅人の 道として利用されているようだったが、その段差は恐ろしく細く、崖下の木々には転落死したであろう旅人達の荷物 が引っ掛かっていた。そして、崖下にはぞっとするほど大きな蜘蛛の巣が張っていた。恐らく、この山に巣くっている 蜘蛛妖怪のどちらかが張ったのだろう。九郎丸が思わず悲鳴を上げかけると、いつになく上機嫌な八雲姫は崖の上で 両手を広げた。肩に届くか届かないかといった長さの髪が、崖下から吹き上がってきた風に遊ばれる。

「のう、九郎丸や」

 清々しく、解き放たれたような顔で、八雲姫は幾人もの旅人を喰らってきたであろう崖を一望する。

「そなたには翼があろう?」

 継ぎ接ぎの着物の袖を広げ、靡かせる。

「そうだというに、そなたはわらわの傍から一向に離れようとせぬ」

 肩に止まった鴉に手を差し出した八雲姫は、その先細りのクチバシを指先で撫でる。

「何故」

 八雲姫の問いに、九郎丸は答えに窮した。

「実近のように、わらわを見限ってくれてもよかったのえ」

 澄み渡った空気を胸一杯に吸い、緩やかに吐き出す。

「わらわも、何度己を見限ろうと思ったことか解らぬえ」

 九郎丸の頭を撫でた手を頬に添え、手のひらに染み入った鴉の温もりを感じ取る。

「何も成せぬ、何も出来ぬ、何も知らぬ……。そのような女を生かしておいたところで、世のためになるはずがない。 そのようなこと、当の昔に解っておったわ。実近は誠に優しい男であった。それ故、苦しんでしもうたのであろうぞ。 だが、わらわは懐刀を忘れてしもうたし、懐刀を持っていたとしても鞘に手を掛けられたかどうかすら怪しい。実近 には、謝っても謝りきれぬ。それもこれも、御父上が悪うぞえ。御父上さえ、源氏に寝返らねば……」

 涙も枯れ果てた目元を拭い、八雲姫は乾いた唇の端を引き締めた。

「だが、そのようなこと、いつまでも悔いておいてもどうにもならぬ。のう、九郎丸や」

 九郎丸に頬を擦り寄せてから、八雲姫はいつになく強い意志を瞳に湛えた。

「わらわは腹を決めた。家も何も亡んでしもうたのじゃ、わらわは既に姫などではない。ただの女ぞ。この山を下りた その時から、わらわはどこの生まれとも知らぬ流れ者の女となるぞえ。源氏も薄汚れた流れ者が平氏だとは心にも 思うまいて。これまではろくに働きもせずに生きておったが、それも終わりじゃ。泥にまみれた農民となろうぞ」

 八雲姫は九郎丸を手の甲に止まらせると、崖の上に差し出した。

「そなたも思うがままに生きるが良い」

 愛情深く微笑んだ八雲姫は、九郎丸を載せた手を下げようとした。このままでは振り落とされてしまう、そうなれば 八雲姫はこの崖下に巣くっている蜘蛛妖怪の餌食になるかもしれない。慌てた九郎丸は八雲姫に折檻されるのを 承知の上で手首に爪を立てようとしたが、前触れもなく八雲姫の体が後退した。着物の裾が翻り、痩せ細った足が 浮き上がって上体が折れ曲がった。何事かと九郎丸は彼女に追い縋ったが、瞬く間に八雲姫は森の奥深くに引き 摺り込まれていった。悲鳴を上げる間すらなかったのだろう、声は聞こえなかった。空中に投げ出された九郎丸は 羽ばたき、暗がりへと突っ込んだ。腰と足に糸を巻き付けられている八雲姫は、上下逆さまにされた格好で獣道を 引き摺られており、入り組んだ森の中をするすると滑るように運ばれていった。良く見ると、八雲姫の背中の下には 何匹もの子蜘蛛が糸で縛り付けられていて、それらが歩調を合わせて歩いているおかげで何事もなく運ばれている ようだった。子蜘蛛を追っていけば、恐らく親玉の蜘蛛が待っているだろう。九郎丸は怖気立ったが、そんなことを 気にしている場合ではないと振り払った。今、八雲姫を守れるのは自分しかいないのだから。
 子蜘蛛の動きは素早く、少しでも気を抜けば八雲姫を見失ってしまいそうだ。森の中なので、いかに鴉といえども あまり速く飛んでは木にぶつかって首の骨を折ってしまう。だが、のんびりしていては引き離されてしまう。枝葉の間 を縫うように飛んでいるうちに、子蜘蛛の足取りと同じ方向に伸びている細い糸を辿っていけばいいのでは、という 考えが九郎丸の頭を過ぎった。すぐさま森の上空に脱した九郎丸は、必死に目を凝らして細い糸の先を辿り、その 糸の元を見つけ出した。白糸のようにか細い滝が滴り落ちている滝壺から、一筋、きらりと光るものが伸びている。 ならば、先にその糸を切ってしまえばいい。九郎丸は決死の覚悟で、頭を下げてその糸に突っ込んだ。
 硬く閉ざしたクチバシに触れた糸は、思いの外容易く千切れた。少々拍子抜けしつつも、九郎丸は弧を描きながら 滝壺に落ちた糸を見下ろした。振り返ると、八雲姫を運んでいた子蜘蛛の動きも止まっており、恐ろしさのあまりに 気絶していた八雲姫の背中の下から這い出していった。安堵した九郎丸は、八雲姫の傍に舞い降りた。

「……う」

 苦しげに呻いた八雲姫は、クチバシで肩を小突かれると、震えながら目を開いた。

「九郎丸や、そなたが助けてくれたのかえ」

 カァアアアッ、と九郎丸が一声上げると、八雲姫は九郎丸を抱き寄せてきた。その手は哀れなほどに震えており、 糸で締め付けられた体には痛々しい痣が付いていた。九郎丸は八雲姫を慰めてから、とんとんと飛び跳ねるように 歩いて千切れた糸を銜えると、それを手近な切り株に結び付けた。途端に滝壺の中から糸が引っ張られ、切り株は 轟音を立てながら根本から引き抜かれた。土と折れた根を散らしながら滝壺に没した切り株を見、八雲姫は目玉が 零れ落ちんばかりに見開いていたが、九郎丸を手招きしてから大事に抱えて立ち上がった。

「早う退かねばならぬえ」

 八雲姫が滝壺に背を向けた途端、滝の水が割れた。水に混じって滝壺に流れ込んでいた糸が張って水滴が飛び 散り、まばらに木の葉を叩く。それは意志を持っているかのように八雲姫に絡み付き、手足に食い込んだ。九郎丸 は寸でのところで八雲姫の手で懐から放り出されたが、九郎丸にも糸が絡み付いた。喉をきつく絞られた八雲姫は 息が詰まってしまい、その苦しみから逃れようと喉を掻き毟ろうとするが、糸はそれすらも許さなかった。それどころ か手首の骨が折れんばかりに戒め、骨張った手首からは輪のように血が滲み出していた。
 滝壺が割れ、波が立つ。冷え切った水が広がり、引くと、滝壺の上には着物を纏った女が立っていた。だが、それ が人間であるはずがなかった。凍ってもいないのに水の上に立っているばかりか、水中から現れたにも関わらず、 着物からは水は一滴も落ちなかったからだ。女はかつての八雲姫のように豊かな長い髪を持ち、俯いているために その素顔は髪に覆い隠されていた。着物の袖口からは、子蜘蛛に繋がっている糸が何本も伸びている。

「物の怪……!?」

 苦痛の中で八雲姫が青ざめると、女は滑るように移動して八雲姫の目の前に現れた。

「ほほほほほほほほほ」

 怪鳥の如く、女は笑う。女郎蜘蛛だ、と九郎丸は察したが何も出来なかった。糸だけならまだしも、親玉が現れては 太刀打ち出来るものか。女郎蜘蛛は、ちろちろと火を噴き出している子蜘蛛を動かし、八雲姫を取り巻いていく。 子蜘蛛が一匹、八雲姫の足元を一巡するたびに八雲姫の体には大量の糸がまとわりついた。それが一度、二度、 三度、四度、と繰り返されると八雲姫は人型の糸玉と化してしまった。

「久方振りに、人間に有り付けるのう。ほう、生娘か。良い、良い」

 女郎蜘蛛は水面に接して揺らぐほど長い髪の間から、ぎょろついた八つの目を覗かせる。

「これでわらわは、あの愚かしい土蜘蛛と水を開けられるというものぞ」

 子蜘蛛が一匹、八雲姫の背後に向かう。すると、人型の糸玉の中から鈍い悲鳴が上がった。

「ぎひっ!?」

 人型の糸玉の肋骨の辺りから、赤黒いものが滲み出す。続いてまた別の子蜘蛛が八雲姫の前に向かうと、今度 は腕の根本辺りから勢い良く血潮が噴き出した。断ち切られたのだろうか、糸玉の中で細長い物体が滑り落ちた。 腕の次は、足、足の次は腹、腹の次は首、と、八雲姫は目の前で寸断されていく。首が根本から外れ、糸玉の中 でぶらつくようになると悲鳴も上がらなくなった。草むらに転げた九郎丸は、ただそれを見つめるしかなかった。小さな 胸は張り裂けんばかりに痛み、肝が握り潰されたかのように縮こまり、見開いた目は干涸らびた。

「賞味」

 女郎蜘蛛は耳元まで裂けている口を開くと、糸玉ごと八雲姫に喰らい付いた。子蜘蛛もまた、主である女郎蜘蛛が 食べ零した肉片を拾おうとその足元で待ち構えている。細い骨が噛み砕かれ、痩せた肉が千切られ、生温かい はらわたが貪られる。雨の如く降り注いでくる血の雫を浴びながら、九郎丸は猛烈な憎悪に駆られていた。自分が ただの鴉でさえなかったら、いや、鴉であっても鴉天狗であったなら、こんな妖怪共は蹴散らしてくれたものを。
 その時、頭上の大木がしなった。





 


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