鬼蜘蛛姫




第十一話 毒心を縛るべからず



 酒の味が抜けない。
 喉が焼け付き、胴巻きの下では腹が無様に膨れている。頭の芯がふらつき、無性に水が飲みたくなった。手足が どうしようもなくだるく、腐った汁が零れ出してくる。胃袋が跳ねたかと思うと、濁った液体が喉を遡って口から溢れ、 面頬の隙間から迸った。げえげえと空咳を繰り返し、出せるものを全て出してしまうと、少しだけ頭が冴えた。
 兜の緒を緩め、面頬を外して顎を拭った蜂狩貞元は、無縁寺の本堂を見渡した。そこかしこに半端に肉を喰って 放り出した骸が転がり、干涸らびた肉には黒々と蠅が集っている。己のものか骸のものか判別が付けかねる臭気 が鼻を突き、吐き戻したばかりの吐瀉物が穴だらけの障子戸から差し込む日差しを帯び、てらてらと光る。胃液かと 思ったが、中身はほとんどが酒だった。消化しきれないのに次から次へと喰うからだろう、ふやけた肉と砕けた骨 も大量に混じっている。何をしていたのかは考えずとも解る、虚ろな夢の狭間で見ていたからだ。

「儂は……人を喰っておったのか」

 貞元はいつになく明瞭な言葉を発し、噎び泣いた。

「おい、白玉、白玉や」

 愛おしい妖狐の名を呼ぶが、無縁寺のどこからも答えは返ってこなかった。武士にあるまじき泣き声が壁や天井 にぶつかってはまた自分の耳に戻ってきて、息苦しいほど情けなくなった。貞元は激しく喘ぎながら体を折り曲げる と、兜を毟り取って頭を抱えた。だが、頭を抱えた手は紫と黒が渦巻いて出来ているものであり、抱えた頭も生前の 姿とは程遠い形相になっていた。兜の錆び付いた額飾りに己の顔が映ったが、あまりのおぞましさに正視出来ずに 目を両手で覆った。その指の間からぼとぼとと落ちる涙を手のひらで受け止めるが、その涙すらも冷たく、妙な粘りを 含んでいた。死んだというのに現世にしがみつこうとするから、こうなってしまうのだ。

「白玉や」

 貞元は汚れきった袖で顔を拭ってから、よろけながらも立ち上がった。障子戸を引こうと手を掛け、思い出した。 夢か現か決めかねる最中に、貞元自身が命じたのだ。憎き荒井久勝が治める本条城に女中として入り込め、と。 その前は荒井久勝の家臣である赤城鷹之進をたらし込み、水神を痛め付けよ、とも。片時も離れたくないと願って 止まないはずなのだが、心身に渦巻く冷え切ったものがそれを許さない。己の思いとは相反した決断ばかりを下す 自分が腹立たしいが、最早、どうにも出来ない。あれは貞元であって貞元ではないが、やはり貞元なのだから。

「おらぬのか、儂の狐や」

 貞元を成している亡霊と怨念が途切れるのは束の間であり、正気に戻っていられるのは半日もないだろう。酒が 抜けた爽やかさと生前を思い出させる身軽さは、計り知れない清々しさをもたらしてくれる。反面、その心地良さを 一刻でも長く保とうと酒と亡霊を断ってしまうと、途端に地獄の苦しみが襲い掛かってくるのだ。煮え滾った鉛を腹に 詰められたかのような痛みと重苦しさから始まり、猛烈な飢えと渇きが訪れて、土でも草でも石でも何でもいいから 喰らってしまいたくなる。挙げ句の果てに目に映るもの全てが憎らしくてたまらなくなり、誰彼構わず嬲り殺しにして 切り刻んで食い散らかしたくなる。気を抜けば、白玉でさえも喰ってしまうかもしれない。敢えて白玉を遠ざけている のは、小指の先程度だけ残った理性が働いているからだろう。
 正気に戻っている間に行動を起こし、白玉に手を掛ける前にどこかに消えてしまわなければ、と常々思ってはいる がそれが実行に移せたことはない。鬼と化した貞元に責め抜かれるのを、白玉が悦んでいるからだ。貞元は加虐を 好む性癖こそ持ち合わせているが、白玉の肌に傷を付けたり、無理に人の血肉を食わせたり、他の男に抱かせて 負い目を感じている白玉を責めて悦ぶような感性はない。むしろ、そのどれもが嫌だった。白玉はこれまで出会った どの女よりも素晴らしい女で、彼女が妖怪であることに嫌気が差したことはなく、それどころか妖怪でなければ貞元 は惚れていなかっただろうとすら思っている。妖怪であるために人間よりも死にづらいことをいいことに、欲望のままに 責め立てたこともあったかもしれないが、今はそれを悔いている。だが、白玉は怨霊と化した貞元に殺されかける ほど責め抜かれるたびに泣いて悦び、縋り付いてくるほどである。人間であった頃の貞元では不満だったのか、と 懸念を覚えないでもないが、それ以上に白玉が悦んでくれるのが嬉しい。だから、逃げるに逃げられない。

「ん……」

 障子戸の手前で胡座を掻いた貞元の目の端に、弱々しく脈打った肝が見えた。それは一つ目入道の丹厳の肝で あり、貞元の新たな刀の材料とすべく手に入れたものであった。近頃、貞元や白玉の周りを嗅ぎ回っていた鴉天狗 の九郎丸が手に入れてくれたものであるが、未だ手付かずだった。それもそのはず、貞元自身は刀を扱えるが刀を 鍛え上げたことはないからだ。刀鍛冶の工房を目にしたこともなく、それ故に見当も付かない。正気を失っている時は やたらと威勢が良いが、裏付けがないのでその実は思い付きだけなのだ。
 手に入れたところで、何をどうしろと。浅はかなもう一人の自分に呆れ果てたが、刀がなければ武士と名乗る気が しないのも事実である。本条藩の侍から毟り取ってもいいのだが、この体では並みの刀では振るった途端に折れて しまうであろう。故に、鍛え上げねばならぬ。だが、戦い続けていいものか。躊躇と憎悪の狭間に魂が揺れた。
 その揺らぎが、訳もなく嬉しかった。




 本条城で働くようになってから、半月が過ぎていた。
 赤城家の武家屋敷で働いていた時よりも起きる時間が早くなり、寝付く時間も遅くなった。使用人の数も桁違いに 多く、常にどこかしらで人間がざわついていて落ち着かない。本条城に住まう大名やそれに連なる者達に身の回り の世話に始まり、藩を潤滑に廻すために忙しく働いている侍達の手伝いなどもある。赤城家の武家屋敷での日々で 働いていた日々でも目新しいものばかりであったが、大名の収まる城となると珍しさもまた格別だ。白玉、もとい、玉 が思って止まない蜂狩貞元も藩主であった。彼もこのような場所で生まれ育ったのかと思うと、しみじみとしたものが 心中に広がってくる。だが、浸っている暇はなかった。慣れないうちは、矢継ぎ早に与えられる仕事をこなすだけで 精一杯である。荒井久勝の動向を調べる余裕などなく、丸一日働き、女中部屋に戻れば泥のように眠るだけだ。
 洗濯物を板に擦り付けて洗っていると、額に滲んだ汗が垂れてきた。頬から顎を伝って首筋に落ちた汗を手の甲で 拭ってから、汚れを丁寧に落としてから水で濯いだ。丸めた洗濯物を洗濯板に力一杯押し付けて水気を落として から、既に洗い終えた洗濯物を詰めた桶を抱えて物乾し場に運んでいく。洗い場から少し離れた場所にある物干し 場では、他の女中達が山ほどある洗濯物を広げては干していた。玉はそれを女中達に任せてから、残りの洗濯物を 洗うべく洗い場に戻った。先程は生地の厚い着物が多かったが、今度は手拭いや襦袢といった薄手の物が多い のでまだ楽だ。玉は同じく洗濯を任されている女中達の傍に腰を下ろすと、袖を上げているたすきを手直ししてから 何枚かの手拭いを水を入れた桶に投げ込んだ。

「お玉ちゃんは物覚えが良くって助かるいや」

 十七八といった年頃の女中、市が洗い終えた手拭いを絞りながら少し笑った。

「せっかく早川様から口を利いて頂いたんだ、頑張らねぇと申し訳が立たねぇんで」

 玉は笑い返してやってから、襦袢に取り掛かった。市は襦袢を灰汁の入った水に浸し、軽く絞る。

「赤城様の御屋敷にお勤めしとったって、本当のことなんけ?」

「ええ、まあ」

 玉が曖昧な表情を作ってみせると、市は労ってきた。

「お勤めしとった御侍様があんなことしちまったんだ、こって大変だったろうに」

「早川様が色々とお手を回して下すったから、その辺はなんともねぇいや。だけども、赤城様がああなっちまったって ことに気付けんかったのが悔しいって、御屋敷にお勤めしとった皆が言っとった」

 不自然にならない程度に地の言葉を混ぜながら玉が言うと、市は嘆息した。

「ここんとこ、どこもかしこも変なことばっかりで参るいや。御側室が一人もおらんくなったってぇのに、御館様はお嫁を お取りにならんし。荒井様は蜘蛛の化け物に呪われとるっちゅう噂だすけん、お控えになっとるだけかもしれんけども、 このまんまじゃ荒井様だけじゃねくって本条藩も危ういすけん。お玉ちゃんも気ぃ付けぇいや」

「そったらもう」

 玉は頷いてみせたが、その騒ぎの半分以上を自分が担っていると思うと内心で笑いが止まらなかった。

「気ぃ付けるっていやぁ、そんだそんだ。あれ、教えとかんとならんね」

 市はやや身を乗り出し、声を潜めた。

「あれって?」

 玉が聞き返すと、市はそっと背後を指し示した。本丸の足元にある庭園である。

「あそこの御庭はな、荒井様の御庭なんよ」

「ああ、それはお城に来た日に教えてもらったでな、うっかり入ったりはせんて」

 玉が手を振ると、市は更に声色を落として密談のような声量になった。

「それも大事なことかもしらんども、知っとかんとならんことがあるんすけん。あそこの御庭には、お抱えの御医者様 が植えられたマンダラゲがあるんよ。なんでも、唐渡りの種を取り寄せたんだと。マンダラゲはうっとりするほど綺麗 な白い花を咲かすんだども、頭をおかしくしちまう毒を持っとるんだそうだ。だすけん、気ぃ付けいや」

「花なんか喰わんて。それが御館様のものなら尚更」

 玉がつい笑ってしまうと、市は潜めていた声色を急に高くした。

「御医者様がおらんすけん、気ぃ付けいやって言っとるんだいや!」

「御医者様、なんでお城からおらんくなったんだ?」

「そったらこと、おらが知っとるわけねぇって。おらが奉公するようになったんは、御正室のお咲様が亡くなられた後 だすけん。御医者様がおらんくなったのも、そのすぐ後だと。なんでかは知らんけども」

「そっけんことで大丈夫なんけ? マンダラゲのこともそうだども」

「大丈夫なわけがねぇいや。この間だって、町医者を呼びに早馬が出てったぐらいだすけんに。それとな、たまーに だどもマンダラゲの花が減っとることがあるんよ」

 市は玉と額を突き合わせるほど顔を近寄せると、誰かに話したくてたまらなかった、という目で語った。

「ここだけの話だども、マンダラゲの花が減るとな、お城勤めの娘が一人減るんよ。この前はお君ちゃんで、その 次はお妙ちゃんで。女中頭のお磯さんは、二人とも体を悪くしたから実家に戻った、っつっとるけど、そんなんは嘘 に決まっとるって。お君ちゃんもお妙ちゃんも元気が取り柄で、いなくなる前の日までぴんぴんしとったし。もしか すっと御館様からお手つきを頂いたのかもしれんけど、だとしたらそれはそれで顔を合わせるはずだども、それすら もねぇんだ。お君ちゃんと同じ里の出のお邦ちゃんが里帰りした時におキミちゃんの実家を覗いてみたんだども、 お君ちゃんはおらんかったそうだし。お玉ちゃんもなんかあるって思うろ?」

「……気ぃ付けるよ、あたしも」

 市の強い語り口に若干気圧された玉が腰を引くと、市は満足げに頷いたが、また顔を寄せてきた。

「なんか変なことがあったら、すぐに相談するんだど。でねぇと、お玉ちゃんまで消えるかもしれんすけん」

「大丈夫だすけん、そっけ心配せんでもええって」

 玉は戸惑いつつも市をやり過ごし、洗濯に戻った。妖怪なのだから、多少の荒事は自力で凌げる。マンダラゲと いう名の毒草の効力が気にならないわけでもなかったが、そんなものを使われる前に狐火の一つでも放ってやる。 毒を使って娘達を拐かしているのは城内の不届き者だろうが、所詮は人間だ。敵ではない。
 市とのお喋りを合間合間に挟みながら洗濯を終えた玉は、次の仕事場に向かった。今度は城内の人間の昼食 のために煮炊きをしなければならない。が、真っ直ぐ向かうことはしなかった。市の言っていた毒の花の存在が、 妙に気になって仕方ないからだった。そんなに強い毒を持っているのであれば、掠め取ってしまおう。ともすれば、 貞元のために上手く使えるかもしれないからだ。そんなことを考えながら、人目に付かないように物陰に身を隠した 後に瓦屋根に飛び上がり、身軽に跳ねて本丸まで移動した。
 塀の上をつま先立ちで歩いて庭園に近付き、草鞋を履いてから庭園に入った。物音一つさせずに忍び込んだ玉は、自分の力量の高さに惚れ惚れしつつも庭園の中を 見回した。見知らぬ植物ばかりが生えていて、複雑な匂いが鼻先をくすぐっていく。どうやら件のマンダラゲの他にも 唐渡りの薬草をいくつも植えていたらしい。荒井久勝の庭園というより薬草園といった方が正しいようだ。玉は鼻を 利かせながら腰を落とし、姿を茂みに隠した。足音も出来るだけ立てないように気を付けながら歩いていると、妙に 背の高い植物があった。細竹を茎を結び付けられているそれは、卵形の丸い葉と棘の付いた小さな果実を実らせ、 透き通るように白い花を咲かせていた。末広がりの花弁は見入るほど美しく、毒気などおくびにも出していない。

「何者か」

 花に見入っていたからだろう、声を掛けられるまで気付かなかった。玉がはっとして振り返ると、剪定鋏を手にして いる荒井久勝が訝しげに玉を見ていた。玉はぎくりとしたが、すぐさま後退って這い蹲った。

「申し訳ござりませぬ。あまりにも見事なお花でござりまして、思わず……」

「見慣れぬ顔だが、新しく入った者か」

 久勝は剪定鋏を下げ、玉に近付いてきた。玉は額を地面に擦り付ける。

「へえ。お城に勤めるようになってから日が浅うござりまする故、ここが御館様の御庭とは知らず……」

「良い。面を上げよ」

 久勝は玉の傍で屈むと、促してきた。玉はいかにも怯えたような顔を作り、面を上げる。

「へえ」

「そなたがこの庭に入り込んだことは、儂しか知らぬ。他の者達には申さぬでおこう。儂とて、そなたを罰するつもりは 毛ほどもない。早々に仕事に戻るが良い」

 久勝は玉にそれほど興味がないのか、表情をほとんど変えなかった。玉は今一度頭を下げる。

「御寛大な御言葉、勿体のうござりまする」

「そなた、顔を見せてはくれぬか」

 久勝は膝を付き、玉に手を差し伸べてきた。玉は躊躇いつつも、久勝と目を合わせた。

「へい」

「ほう、これは」

 久勝の切れ長の目が、玉を見回してきた。その面差しをまじまじと見たのは、これが初めてであった。蜂狩貞元の 仇である男の顔は、貞元とは正反対だった。顎は細く、目元は刃を薄く差し込んだかのように切れ上がり、どことなく 肌も色白なので腺病質な雰囲気を帯びていた。玉の顎に触れてきた手も冷ややかで、肌に吸い付いてくる指の細さ も相まって蛇に巻き付かれたかのような嫌悪感を掻き立ててくる。面差しだけならばかなりの美丈夫ではあったが、 久勝はどことなく人間離れした様相であった。こんな男に惚れる鬼蜘蛛の姫の気が知れない、と玉は内心で嘲る。

「そなた、名は何と申す」

 久勝の白く冷えた指が玉の顎をなぞり、細い目がにんまりとする。

「玉と申しやす」

 玉が答えると、久勝は玉の顎から手を離し、立ち上がった。

「覚えておこう」

 久勝は一笑すると、玉に背を向けていずこへと去った。玉はいつのまにか詰めていた息を緩めると、久勝の手が 触れた顎をしきりに擦った。だが、あの冷たさはどうにも拭いきれず、首筋の産毛が逆立っていた。これで二股の尾 が生えていたら、総毛立っていたに違いない。怖い目に遭いやしたよぅ、と貞元に泣き付きたい衝動に駆られながら もなんとか抑え込んだ玉は、先程と同じ道順を辿って仕事場に戻った。炊事場に入るや否や手練の女中が手伝い に来るのが遅れた玉を叱り飛ばしたが、逆にそれがありがたかった。久勝から味わわせられたおぞましさが、少し ばかりではあるが晴れたからだ。たすき掛けをして忙しく働きながら、玉は何度となく顎を擦った。
 どうせ触られるのならば、貞元の方がいい。





 


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