鬼蜘蛛姫




第十四話 修羅の巣



 これから先、どうするべきなのか。
 早川政充は馬上で揺さぶられている最中に考えたが、結論は出なかった。腕が痺れるほど長く抱えていた幼子を 降ろそうとするが、腕が緩められない。痺れによるものではない、これから先に訪れるであろう惨劇を思い描いて しまったからだ。直接触れ合えば嫌でも痛感する、糸丸は己の血を継いでいるのだと、狂おしい交わりの末に姉との 間に産まれた忌まわしき子なのだと。死んでしまえと激しく思う反面、生き延びてくれと願わずにはいられなかった。 荒井久勝の狂気に当てられることもなく、生来の利発さと純粋さを保ったまま、武家ではない生き方をしてくれと心の 底では渇望して止まない。それは政充自身がそうであったらと思い描く理想であるが、あの日、マンダラゲの畑を 見つけた時から政充の行く末は大いにねじ曲がってしまった。
 マンダラゲの畑を見つけたのは、全くの偶然であった。マンダラゲについての知識を得ていたのは、内容がなんで あろうと構わずに本を読み漁っていたからだ。もしもあの花がマンダラゲであると知らずに、直感的に蜘蛛の呪いが どういった仕組みかを悟ったりしなければ、時の流れと共に落ちぶれつつある早川家を盛り立てようと躍起になるが あまりに久勝に擦り寄らなければ、政充は久勝が抱いた狂気に絡め取られずに済んだのではあるまいか。
 妖怪がいるかいないかなど興味すらなかったのに、気付けば妖怪を目視出来るようになり、鴉天狗に攫われて鬼蜘蛛の姫 の元に何度となく運ばれ、糸丸に勉学と剣術を指南するようになっていた。夢現の出来事だと思おうとしても、手には 糸丸に読み書きを教えている際に付いた墨が残り、脇には書簡を抱えていた。異形の化け物達と共に過ごした、 異様極まりないが奇妙に穏やかな時間が頭にこびり付いていた。いつしかその一時を楽しむようになってすらいた が、久勝が汚れ仕事専門の使いっ走りにしている政充の異変を気付かぬはずもなく、八重姫の傍で暮らす糸丸を 攫ってこいと命じてきた。
 どうにかして逆らう術を思案していると、鴉天狗が八重姫を斬り捨てるから手を貸してくれ、 と話を持ち掛けてきた。それにも逆らいたかったが、やはり出来るはずもなく、政充は八重姫が斬られた混乱に乗じて 糸丸を攫ってきてしまった。どこまでもどこまでも弱い己が腹立たしいが、久勝に打ち勝てるはずもない。
 陰鬱な気持ちを抱えたまま厩舎から出ると、つんとした酒精が鼻を掠めた。昼間から酒を喰らうなど城仕えの者に あるまじき愚行、どこのどいつだ、と政充は睨みを利かせた。すると、思いも寄らぬ光景に政充はぎょっとした。目に 付くところに酒樽がいくつも転がっていて、横倒しになって底を見せているものすらある。その周囲にはへべれけに 酔った城の者達がいたが、一人として正気ではないが故に、誰もこの乱行を諌めようとしていなかった。

「これは……一体……」

 政充が呆然としていると、きええ、と奇声を上げながら侍が斬り掛かってきた。政充は条件反射で抜刀し、その刀 を受け流すが、相手は体中の骨が抜けたかのようにぐねぐねと揺れながら、またも斬り付けてきた。太刀筋もいい 加減極まりなく、足捌きも不安定なので却って手が読みづらい。だが、糸丸だけは守らねば。

「御免!」

 政充は苦々しい思いであったが、その侍を斬り捨てた。袈裟懸けに斬られた同僚はたたらを踏み、政充の手前に 倒れ込む。雨の湿り気で泥となった地面に頬を擦り付け、手足を不規則に痙攣させているが、痛みに苦しんでいる ような面構えではなかった。むしろ、夢見心地と言うべき形相で、血が流れ続けているにもかかわらず心の底から 幸せそうに見えた。これでは、まるで。

「ああ早川様、早川様ぁ」

 顔に見覚えのある女中が裾をはだけて襟元も緩めた格好で、ふらふらと政充に近付いてくる。

「止さぬか」

 政充は彼女から逃れようとするが、女中は酒を並々と満たした茶碗を片手に擦り寄ってくる。

「ああ早川様、ようやくあたしを娶って下さるんですねぇええええ……」

「そのようなこと、知らぬ」

 けたけたと笑う女中に寒気を覚えた政充が身を引くと、女中は着物の裾を割って素足を曝す。

「ほうら、ここに墨を入れてございますでしょお? あたしとぉ、早川様のぉ」

 女など、見たくもない。女中のたっぷりとした太股から政充は素早く目を逸らしたが、そこには彫り物など一文字も 刻まれていなかった。艶やかで女の匂いが溢れ返っているだけだった。このままでは押し倒されかねない、と政充 は女中を突き飛ばしてから城中へ急ぐが、その道中でも城仕えの者達がひっくり返っていたり、前後不覚になって 踊り狂っていたり、恥も外聞もなく獣の如く交わっていたりと、乱れに乱れていた。その様には、朧ではあるが覚えが ある。四年前の夜、荒井久勝に呼び付けられて寝床に赴くと、姉、咲が蜘蛛の如く縛られて天井から吊されていた。 それを見る久勝の眼差しにはいつになく生気が漲り、楽しげですらあった。驚いた政充が昏倒している姉の拘束を 解こうとすると、久勝は政充に刀を向けた。そして、そこの杯の酒を飲み干せ、と命じてきた。政充は絶対に良くない ことが起きると解り切っていたが、久勝に逆らえるわけもなく酒を飲み干した。それからしばらく経った頃、訳もなく 政充の気分は明るくなり、久勝に言われるがままに、姉を。彼らの姿は、その時の己と酷似している。
 体中にじっとりと汗が滲む。至るところから上がる嬌声が政充の心中をぐらつかせ、姉と交わらされた夜の出来事 が頭の底から浮かび上がってくる。何度も忘れようとした、忘れなければならないと思った、だが、厭えば厭うほどに 焼き固められた。本心から姉を女として愛していたのか、それともあの夜にマンダラゲの入った酒を飲み干したから そうなっていただけなのか、解らなくなってすらいた。その負い目がまた、政充の決心を鈍らせる。

「うぅ……」

 回りの騒がしさで目を覚ましかけた糸丸が身を捩ったので、政充は辺りを見回した。身を隠せるような場所はない かと目を配らせるが、どこもかしこも反吐や酒で汚れている。布団部屋や倉庫なども開けてみるが、そこにも何人も の人間が隠れていて快楽に興じていた。糸丸に見せるべき光景ではない、かといってどこに身を隠す。慌てた政充が 久勝の庭に踏み入ると、案の定マンダラゲが一本残らず引き抜かれていた。大方、草の汁を搾って混ぜた酒を城中に 配ったのだろう。その口実は何だか知らないが、つくづくあくどいことをする男である。
 城中からは死角になるであろう剪定された庭木の陰に隠れた政充は、糸丸を抱えていた腕を緩め、木の根本に そっと横たわらせた。目元は険しく、強く噛み締めているために唇は青ざめ、顔色も冴えなかった。無理もなかろう、 目の前で母と慕っている八重姫が斬られたのだから。天守閣を仰ぎ見ると、最上階の一部屋だけ窓が開いていた。 きっと、久勝はそこにいるに違いない。藩主の元に政充が糸丸を連れていったところで、用済みだと言って解放して くれるとは限らない。むしろ、その場で手打ちにされるだろう。ならば斬り合うべきか、と刀の柄に手を掛けるが剣術 の腕では足元にも及ばない。赤城鷹之進を討った際の太刀筋は、それは見事なものだったと同僚から聞いている。 政充もそれなりに自信はあるが、元より隙のない男が相手では隙を見つける間もなく返り討ちに遭う。

「だが、しかし」

 柄を握る手がかたかたと震え、鍔が鞘と競り合う。政充は葛藤し、うずくまる。勝ち目がないからと、毎度のように 諦めるのが武士の生き様であるはずもない。むしろ、勝ち目がないと解っていながらも向き合うのが武士たるもの ではなかろうか。しかし、死にたくない。いずれ久勝の傀儡とするために、政充が持ち込んだ酒で微量ずつではある が毒を盛られた末に狂死した赤城鷹之進のような最後は迎えたくない。
 糸丸の面差しは、明るいところで見ると驚くほど政充と姉に似ている。それがまた、無数の棘が突き刺さっている 心中をいびつにする。甥でありながらも息子である糸丸に、いずれこの業は降り掛かる。政充自身の業だけでなく、 形の上では父親である久勝の業も、育ての母である八重姫の業も。政充は刀から手を外して脇差しに添え、脂汗で 汚らしく濡れた手で柄を握る。糸丸を殺してしまえばまだ楽になるのでは、との考えが過ぎるが、そんなことをしても 八重姫を更なる怒りに駆り立てるだけだ。ならば、どうする。

「ぎゃひぃっ!?」

 突如、突風と共に悲鳴が降ってきた。すわ新手の妖怪か、と政充が身構えると、見事な枝振りの庭木に何者かが 頭から突っ込んでいた。それは枝葉にまみれた体を庭木から引き抜くと、渋面を作りながら体中に付いた泥を払い、 立ち上がった。左目のない貧相な着物の娘、チヨに違いなかった。

「チヨどの?」

 だが、どこから降ってきたのだろう。政充が面食らっていると、チヨは泥の付いた髪を乱した。

「叢雲様ったらもう、お優しいんだか乱暴なんだか解らねぇいや。もっとちゃんとしたところに下りるようにしといて くれんと。おかげで肝が冷えっちまったいや」

「ど……どこから城に入ったのでござるか」

 政充が怖々と尋ねると、チヨは着物に染みた雨水を絞ってから答える。

「ああ、そりゃ叢雲様の仕業だいや。んで、糸丸は無事なんけ?」

「無論だ。だが、今は眠っておられる」

 木の根本に寝かせている幼子を示した政充に、チヨはあっけらかんと言う。

「そったら、起こしてくんねっか」

「それはならぬ。この城の者共は、皆、酒と毒に中てられて酩酊しておる。その様を見せてはならぬ」

「見せねって、そんなもん」

 チヨは制止しようとした政充を振り払い、糸丸を揺さぶる。

「糸丸、糸丸やあい、お姉ちゃんだど」

 チヨの声で気が緩んだのか、糸丸の眉間に深く刻まれていた皺が綻んだ。唇も力が抜けて隙間が空き、小さな歯 が垣間見えて胸元が静かに上下した。チヨが優しく抱き起こしてやると、糸丸は無意識に死んだ娘の着物を掴んで 胸に顔を埋めてくる。目が覚めたと同時に泣き出した糸丸に、チヨは背中をとんとんと軽く叩いてやる。

「大丈夫、大丈夫。おらも早川様も付いとるすけん、な」

「母上が、母上がぁっ」

 顔を歪めて泣きじゃくる糸丸に、チヨは頬を擦り寄せる。

「八重姫様は大丈夫だすけん、そっけんに泣くんでねぇいや。あっけんことで死ぬ御方でねぇし、糸丸がそうやって 一杯一杯心配してやれば、八重姫様はまたすぐに御元気になるすけん。な?」

「……本当に?」

 洟を垂らしながら目を上げてきた糸丸に、チヨは笑顔で頷く。

「本当だ。叢雲様がそう仰っとったんだ、だすけんに嘘なわけがねぇいや」

「爺様が言うんなら、そうなんだ。じゃ、母上が御元気でありますように、って僕がお願いすればいいんだね?」

「そんだ。だから、もう泣くんでねぇぞ。怖いことなんかねぇ」

 チヨは自分の着物の袖で糸丸の涙やら洟を拭ってやろうとしたので、政充は手拭いを差し出した。チヨは政充に 礼を述べてから、糸丸の顔を丁寧に拭いてやった。泣き止んだ頃合いを見計らい、チヨは糸丸に尋ねる。

「そんでな、糸丸。これからどげんしたい?」

「どうって、何を?」

 糸丸はきょとんとして、チヨと政充を見上げる。

「そなたは元々、この本条城のお世継ぎとしてお生まれになった御方でござる。だが、産まれて間もなき頃に鬼蜘蛛の 姫がそなたを山へと攫い、我が子が如く育てていたのでござる」

 政充が糸丸の前にかしずいてみせると、糸丸は困惑する。

「え? え? そうなの、姉上? 僕、そんなの知らない」

「そうなんだて。八重姫様はお城からちっこい糸丸を連れてきたんだども、おしめの替え方も飴湯の作り方もまるで 知らんかったすけん、叢雲様がおらを起こして手伝いをさせたんだいや」

 あの頃の大変さを思い起こしたチヨが苦笑すると、糸丸は眉を下げる。

「でも、僕、なんにも知らない。母上も教えて下さらなかった」

「お世継ぎの御父上であらせられる荒井久勝様は、この城の御殿様にござる。お世継ぎがお世継ぎとしてのお勤めを 果たそうとお思いになるのであらば、拙者が久勝様の元に御案内いたそう」

 政充が天守閣を示すと、チヨが山を指す。

「んだども、おらと一緒に帰ってまた八重姫様と暮らしてぇってんなら、そうしてもええんよ」

「ねえ、先生」

 糸丸は洟を啜り上げてから、政充に問うてきた。

「母上が僕を攫ったのは、どうしてなの?」

「それは……」

 鬼蜘蛛の姫にしか解らぬことである。答えに窮した政充を一瞥し、糸丸はチヨに問う。

「ねえ、姉上。なんで?」

「んー……おらもその辺のことはよう知らんども、色々あったんでねっか?」

 本当に詳しくは知らないのでチヨが曖昧に答えると、糸丸は手拭いで洟をかんでから立ち上がった。

「だったら僕、父上に聞きに行く! あの一番大きいお城にいるんでしょ?」

「それはなりませぬ!」

 政充は糸丸を引き留めようとするが、幼子は素早かった。政充の足元を擦り抜けて庭を駆け抜けて、天守閣へと 向かっていった。チヨも慌てて追い掛けるが、暇さえあれば山を駆け回っていた糸丸の足は意外に速く、気付いた 頃には庭を抜けて天守閣へと迫っていった。糸丸を追い掛けながら、政充は心臓がひどく痛んでいた。糸丸だけは 久勝に会わせてはならない、近付けることもならない。チヨもそう思っているらしく、気丈な彼女にしては珍しく表情が 厳しかった。城内に攻め込まれた際に直進を防ぐために複雑に入り組んでいる城壁の間を、幼子の軽快な足音が 突き進んでいく。二人が糸丸に追いつけたのは、糸丸が天守閣の門によって進軍を阻まれたからであった。

「ここの者達もか」

 天守閣の門番達もまた酩酊していて、酒臭かった。政充は腹立たしさを通り越して物悲しくなってきたが、門扉を 押してみた。中に招き入れたいのだろう、既に門扉は開けられていた。糸丸は細い隙間が空いた途端に滑り込んで 中に入っていったが、政充とチヨはそうもいかないのである程度隙間を開けてから体をねじ込み、糸丸を追い続けた。 天守閣の構造は解らないはずなのだが、なぜか糸丸は一時も迷わずに進んでいく。

「ちと待ていや、なんで糸丸は道が解るん?」

 階段を昇りかけた糸丸の裾を掴んで引き留め、チヨが尋ねると、糸丸はきょとんとする。

「姉上と先生には見えないの? 母上の糸があるんだよ」

 それだけ言うと、糸丸はチヨの手を振り払って更に上へ上へと進んでいった。六度階段を昇った先に至ったのは、 最上階の物見の間であった。色鮮やかな赤い敷物に金屏風が設えられた見晴らしの良い部屋には、一人の男が 三人を待ち受けていた。温もりというものが一切感じられない切れ長の目が瞬き、捉えてくる。

「遅かったな、政充。余興として城の者に酒を行き渡らせ、宴を催しておいたが、気に入らなかったか?」

 それこそが、荒井久勝その人であった。政充は大股に階段を昇り終え、久勝の冷ややかな威圧感に臆した糸丸 を背にして刀の柄に手を掛ける。チヨは糸丸を背後から抱きかかえながら、政充の肩越しに久勝を窺う。

「あ……あんしょが、御殿様……?」

 丹厳の坊様よりも怖ぇ、と漏らしたチヨは元々血の気のない顔から更に血の気を引いていた。丹厳が何者である かは政充の知ったところではないが、恐らくは妖怪の類であろう。それよりも恐ろしいと言わしめる久勝の業の深さ たるや、計り知れない。先程まで息巻いていた糸丸は目を見開いたまま、硬直している。しかし、久勝自身はこれと いって凶相を作っているわけでもなく、刀を抜いているわけでもなく、金屏風の前で酒を傾けているだけだ。
 育てた本人の手で引き抜かれたマンダラゲの花が、細長い花瓶にぞんざいに生けられている。その花の白さは 久勝の肌色に近いものがあり、薄暗さも相まって色白さは一層病的だった。初夏であるにも関わらず、足元から這い 寄ってくる空気は背筋を逆立ててくる。右膝を立てて右手で漆塗りの杯を唇に添え、左足は胡座を掻くように曲げて 左手は肘掛けに預けている。久勝は氷の如き眼差しで、政充とチヨと糸丸を睨め付ける。

「小童。そなたが追ってきた母の糸とは、これだな」

 久勝は懐から小さな鈴を取り出すと、ちり、と鳴らしてみせる。糸丸は唇を噛み締め、ぎこちなく頷く。

「して、そなたの本分は解っておろうな?」

「……はい。僕は」

 糸丸が意を決して口を開き、己の意見を述べようとした時、久勝が手首を曲げて糸を突っ張らせた。

「ぃぎっ!?」

 突如、チヨが悲鳴を上げる。と、同時に痩せた首筋に赤い線が横切った。姉上、と振り向いた糸丸が駆け寄ろうと すると、チヨは糸丸を突き飛ばして狭い階段から転げ落ちる。背中を段に打ち付けながら滑り落ちていく最中、チヨ の皮の薄い首筋が派手に裂けて血肉が飛び散った。死人らしい冷え切った血飛沫が政充の袴と袖に吸い取られ、 細かな肉片が頬を叩いた末に顎に伝う。転げた拍子に捻れたチヨの首は僅かばかり残っていた皮を千切りながら 外れ、転げる。階段の真下では首を失った小柄な体が時折痙攣し、骨の白さが奇妙に目を惹いた。

「あぁ……あっ……」

 短い足の間に小水を垂らしながら、糸丸は政充の袖を掴んでくる。

「儂はそなたに世継ぎになってもらおうとは思ってなどおらぬわ」

 久勝はチヨの血を帯びたことで視認しやすくなった糸を引き、きり、と糸丸の首筋に添える。

「そなたが産まれ落ちた意味はただ一つ。八重の前で死せんがため」

 湯葉の如く柔らかく薄い肌が触れただけで裂け、チヨの血に絡みながら糸丸の血が薄く垂れていく。

「お止し下さりませ、殿! どうか、どうか!」

 政充は糸丸を糸から引き剥がして抱えるが、久勝は手首を返して政充の袖ごと腕の肉を削いだ。炎で炙った刃を 二の腕に押し当てられたかのような痛みの後、噴き出した血が足元をぬめつかせる。政充は脂汗を垂らしながらも 糸丸を守り抜こうとするが、久勝は実に退屈そうな顔で軽く手首を返し、政充の耳も削ぎ落とす。

「そなたを殺しても良いが、婚礼には媒酌人が欠かせぬのう」

 久勝は床に落ちて切断面を曝した政充の片耳を一瞥し、唇の端を吊り上げる。

「そうだな、褒美をやろう。儂と八重の婚礼に立ち会え。出来ぬとは申すまいな?」

 思い切り罵倒してやりたかった、或いは斬り捨ててしまいたかった。だが、政充の腕の中には糸丸がいる。この 腕を緩めてしまえば、糸丸がどうなるか解らない。チヨのように首を刎ねられるだけでは済まないだろう。ともすれば、 手足を切り落とされた上で姉のように天井から吊されてしまうかもしれないのだ。糸丸は声も出せないほどの恐怖に 襲われ、政充の胸倉をきつく掴んで離そうとしない。政充はその背に手を添えてやり、呻きを殺した。
 我が子を守らねば、と父親の本能が奮い立った。





 


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