鬼蜘蛛姫




第二話 享楽の縫い始め



 関所を抜け、藩境塚を過ぎる。
 履き潰した草履は今にも擦り切れそうで、法衣の裾は雨水を吸い込んで重たくなっている。菅笠を深く被って蓑を 着込んだ巨躯の僧侶は、ゆらりゆらりと左右に揺れながら傾斜の付いた道を登っていった。夕刻から降り出した雨は 次第に強くなり、道に泥水の筋が出来るほどだった。水を含んだ草鞋は今にも緩んでしまいそうだが、生憎、換え の草鞋を持ち合わせていない。鬱蒼とした山道を過ぎ、田畑の広がる平地へと出ると、あばら屋と見間違えそうな ほど貧しい民家が寄せ集まった集落が現れた。霧とも雲とも判別の付かない靄に覆われた山から流れ出している 一筋の川の恩恵を受けているおかげで、田畑の実りは多いらしく、民家の大きさの割りに納屋は立派だった。
 集落には、雨音以外の物音は一切しない。民家に目をやるが、戸の隙間からこちらを見ている目があっても親の 叱責する声が上がり、ぴしゃりと閉ざされた。馬小屋も牛小屋も静かなもので、生臭い吐息の音すら潜まっている。 蓑に付着した雨粒が幾筋もの水となり、滴り落ちていく。水流がやや荒くなった川に掛かる木造の橋の前で、僧侶は 足を止めた。橋の真下の土手に、橋桁に隠れるようにして小さな石碑が作られていた。

「む……」

 菅笠を上げた僧侶は、人間離れした形相の中で最も目立つ単眼を細めた。石碑には何も刻まれておらず、傍目に 見ただけでは石が転がっているようにしか見えない。花の一本も供えられていないどころか、半尺もない大きさの 石碑を生い茂った雑草が取り囲んでいる。僧侶は濡れた草に草履を滑らせながら土手を下ると、橋桁の下に入り、 石碑の前に膝を付いて雑草を掻き分けた。節くれ立った大きな手で小さな石を撫でるが、手応えはなかった。

「ぬぅっ」

 単眼を見張った僧侶は半身を引き、獣じみた口を歪めた。

「ここにおらぬのか、あの娘は」

 だが、あの娘は人柱となったのだ。二度と掘り出されるわけがない。濁流に押し流されたのだとしたら、この石碑 もろとも消え失せているはずである。しかし、石碑は据え付けられたままの状態であり、動かした形跡もなければ土を 掘り起こされた様子もない。つまり、地中から娘だけ抜き出していったというわけだ。そんな器用な芸当が出来るのは、 娘の命を捧げられた者しかおるまい。ということは。
 菅笠を外した僧侶は、川を辿って山を仰ぎ見た。雨脚は一層強くなり、川の流れも激しくなる一方だった。どおどおと 迫ってくる濁流は嵩を増していくが、僧侶は石碑の傍から動かずに座禅を組んだ。蓑を外して菅笠を置くと、手を 合わせ、経を上げた。六尺もの巨躯に見合った低音の読経は、不思議と川の水音には紛れなかった。
 色即是空、空即是色。




 ふぎゃあ、ほぎゃあ、ふぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ。
 薄布一枚に包まれた赤子は、一昼夜泣き叫び続けていた。幼いながらに異変を感じ取っているのだろう、一時も 休まずに泣き喚いている。首は据わっているがまだまだ小さく、生後三ヶ月といったところか。八重姫は糸丸という 名を新たに付けた赤子を抱いたまま、ただ、ぼんやりと洞窟に身を収めていた。茶色の縞模様が付いた八本足を 縮めて丸い下半身を落ち着け、異様に体温の高い矮小な生き物を見つめているだけだった。攫ってきたはいいが、 赤子とはどうやって育てるものなのか知らなかったからだ。八重姫が二つに切り裂いて殺した産みの母親、お咲の 方が両腕で抱いていたのでその真似をしているが、そこから先については一切知らない。久勝の血が流れている 子なので、育ててやりたいとは思っているのだが、思うだけではどうにも出来ないのだと悟るまでには一晩もの時間を 経た。八重姫は指先を伸ばし、恐る恐る糸丸を小突いてみるが、糸丸は泣き止む気配すらない。

「ええいやっかましい!」

 唐突に洞窟の入り口に降ってきたのは、鴉天狗の九郎丸だった。高下駄をがたがたと荒っぽく鳴らしながら洞窟に 踏み入ってきた九郎丸は、雨に濡れた黒い翼を広げると、錫杖を突き出して赤子を指した。

「鬼蜘蛛の姫よ! なんだそれは!」

「見れば解るぞえ。わらわの子よ」

「お前さんが人の子を産める体なもんかい! さては里から攫ってきたな?」

 九郎丸は洞窟の中に転がる岩に跳ね上がり、八重姫の視点に近い高さの岩の上で胡座を掻いた。

「失敬なことを申すでないわ。わらわの子というたら、わらわの子ぞ」

 八重姫は不愉快げに眉根を顰めると、九郎丸はクチバシを広げて嘲笑した。

「カカカカカカカカッ! なんちゅうお笑い種か! お前さんのような人喰い妖怪が赤子なんぞ育てられるもんかい、 どうせすぐに飽きて喰っちまうか、その赤子が腹を減らして死ぬかのどちらかよ」

「無礼なことを。わらわはこの子の母なるぞ」

「カカカカカカカカ、母なら母らしゅうことをしたらどうだ」

「そなたは知っておるのかえ、赤子の育て方を」

「いんや。下界でちっこいのを抱えた女共が何やらやっているのを見ただけであって、細けぇことは知らぬな」

「当てにならぬのう」

「俺を当てにする方が馬鹿っちゅうもんよ」

「ならば、知恵を持つ者はおらぬのかえ」

 八重姫が問うと、九郎丸は翼にクチバシを突っ込んで手入れしつつ、答えた。

「そうさのう。おると言えばおるやもしれんが」

「誰ぞ」

「隣の山に巣くう龍、叢雲よ」

 九郎丸はクチバシを翼から抜くと、錫杖で方角を示した。

「まあ、この界隈じゃ水神の叢雲が最も旧いっちゅうだけであって物を知っておるかどうかは別だが、なーんもせんと おるよりは百も千もマシじゃなかろうか。どうするかは、お前さんが決めることだがな」

「叢雲か」

 八重姫は前髪に隠された六つの目も開いて泣き止まない糸丸を見つめた後、顔を上げた。水神の叢雲とは特に 面識もなければ、関わりも持ってこなかった。八重姫も叢雲も互いの領分を弁えているので、みだりに相手の領域 を侵さないからである。人間とは違って、闇雲にいがみ合わないのが妖怪だからだ。正直なところ、わざわざ叢雲の 住まう叢雲山に出向いてまで赤子の育て方を尋ねるのは癪に障るが、九郎丸の言い分にも一理ある。蜂狩貞元の 部下達を喰い漁って腹が充ち満ちているからだろう、いつになく心に余裕があったので、八重姫は泣き止まぬ糸丸を 抱えて洞窟を出た。九郎丸はいずこへと飛び去っていき、黒い羽根がいくらか舞った。
 雨脚は、一向に弱まらない。




 霧深い山中を、感覚を頼りに進んでいく。
 八重山とは違い、叢雲山は雨水の匂いからして澄んでいる。山の斜面はなだらかで木々の枝振りも良く、空気も 柔らかい。だが、それは人間に対する態度であり、八重姫に対しては辛辣極まりなかった。その名の通り、叢雲は 水神である。神とは人間に崇め奉られることによって力を得るのであり、妖怪と同じく常世の住人ではあるが、根本 から異なっている。清らかな水を守り、民を愛でる叢雲とは、穢れをはち切れんばかりに溜め込んでいる八重姫とは 合うわけがない。糸丸は受け入れてくれるかもしれないが、こちらはそうもいかないだろう。敵意を示すのであれば、 その時は殺し合うまでだ。一歩一歩、濡れ落ち葉を踏み締めながら、森の奥へと分け入っていった。
 雨で増水した川に近付いた時、ぱきり、と枝を踏み折った時とは異なる音が響いた。さながら、薄い石と石を叩き 合わせたかのような。八重姫は川縁で足を止めると、八つの目を全て開けて注視した。濁った飛沫の上がる川面が 一際大きく波打ったかと思うと、ず、ず、ず、と川面の下から、川幅と同じ幅を持つ物体が迫り上がってきた。それは 川縁と川底の小石をも巻き上げたので、水に混じって小石がいくらか飛んできた。八重姫は袖で糸丸を覆って礫を 避けてから、それを仰ぎ見た。川底の石と同じ色のウロコに苔と水草が幾重にも貼り付いている、龍の長く太い胴 であった。顔らしきものは近くにはなかったが、相手には八重姫の様子が解っているらしく、ひくりとウロコの下の肌 が引きつった。八重姫は龍の胴に近付くと、声を掛けた。

「そなたが叢雲かえ」

「いかにも」

 地の底から響くような重厚な声が、軽い揺れを伴って山全体から返ってきた。

「そなたはわらわを知っておろうぞ」

 八重姫が八つの目を一度瞬きすると、またも山が震えた。

「知らぬわけがない。八重山の鬼蜘蛛の八重姫であるな」

「光栄に思うが良いぞ。わらわはそなたに尋ねに参ったのぞえ。赤子とは、どうやって育てるものなのかえ?」

「おぬしのせいか」

「何ぞ?」

「昨日から、おぬしの山と我の山に良からぬ空気が充ち満ちておるのだ。この雨がその証拠。おぬしが腕に抱いた 赤子が身に纏いし因果は、災いを招き寄せておる。気付いておらぬのか、鬼蜘蛛の姫よ」

「何にかえ」

「おぬしの山に、猛烈な怨念を抱いた亡者がおるではないか。その傍らにおる妖狐の妖力を喰ったからであろうな、 あやつは真っ当な人間であったにも関わらず、一夜にして強力な怨霊と化しておる。心当たりはあろう」

「ふむ……」

 そういえば、糸丸を攫う前に蜂狩貞元を殺し、妖狐を痛め付けたような。八重姫はようやく思い出した。

「そうやもしれぬのう」

「ならば、そやつらを縛り付けておけい。おぬしの住まう山の中におるのであれば、あやつらも無用な騒ぎは起こす まい。決して人里にだけは降ろしてはならぬぞ、落ち武者の怨霊が首を取り戻さんと人を殺してしまう」

「人など死んでも構わぬぞえ」

「ならぬ。人は死んではならぬものよ。我は民の信仰によって形作られたもの、人の心から我が消えてしまえば我も また消えるさだめにある。鬼蜘蛛の姫よ、おぬしに人の子を育てる術を教えてやっても良いが、その代わりに怨霊の 落ち武者と妖狐を人里に降ろさぬと誓ってはくれまいか。誓わねば、教えぬ」

「何故に」

「おぬしは人の子を育てるのであろう」

「見て解らぬのかえ」

「ならば、おぬしは親となるのだ。その子を人として恥じぬ人にしたいのならば、子に恥じぬ親になるのだ」

「ふむ」

 確かに、それは道理かもしれぬ。八重姫は糸丸を覗き込み、目を瞬かせた。子は親を見て育つ、という。糸丸の 父親である荒井久勝は心優しい男であり、糸丸にも久勝のようになってほしいと願っていたが、糸丸の傍には肝心な 久勝がいない。となれば、糸丸をそのような人間に育て上げられるのは八重姫に他ならない。

「そうやもしれぬの」

 八重姫は納得すると、泣き疲れて寝入った糸丸を差し伸べた。

「では、教えてくれぬかえ」

「我ではない」

「ならば、誰ぞ」

 八重姫が首を傾げると、龍の胴は重たく前進した。

「今回に限り、我の背を歩むことを許そう。我の鼻先にまで至れい。さすれば、教えてしんぜようぞ」

「わらわの元に出向かぬとは、無礼なり」

「無礼というならどちらが無礼か。だが、これもまた致し方ないことよ。おぬしに山道を歩かれては、木陰で雨宿り をしておる旅人が取って喰われかねぬからな。無駄な血を流させぬためよ」

 龍の胴は不本意そうに波打ったが、八重姫を受け入れる姿勢になった。八重姫は軽く飛び上がって龍の背に乗ると、 ウロコに挟まれた背ビレがずらりと連なる背を歩き始めた。八本足の下ではかたかたとウロコが鳴り、瓦屋根の 上を進んでいるかのようだった。だが、足場は瓦屋根以上に不安定で、ウロコの上にたっぷりと生い茂っている苔と 水草が足先に絡み付いてきて歩きづらかった。川を越え、谷を渡り、滝を昇り、次第に山頂へと近付いていく。
 切り立った崖から滴る細い滝に腹這いになっている龍の背を乗り越えると、ようやく龍の後頭部が見えた。一対の ツノと長くうねるヒゲを持ち、雲の切れ間から差し込む日差しを浴びたウロコが煌めいている。八重姫は龍の背から 下りると、山頂の水源に鼻先を突っ込んでいる龍に歩み寄った。

「参り申したえ」

「うむ」

 龍の横顔が動き、八重姫の背丈はあろうかという目がかっと見開いた。重々しい動作で水源から鼻先を抜いた龍は ヒゲを自在に動かしながら、八重姫とその腕に抱かれた赤子を捉えた。

「それがおぬしの子か」

「名は糸丸と申す」

「そうか。おぬしの子に相応しき名よ。そこの氷室に参られい」

 巨大な龍、水神の叢雲は瑪瑙を填め込んだかのような目を動かし、鼻先を突っ込んでいた水源に程近い洞窟を 指し示した。そこからは確かに冷気が漂っており、八重姫の足元にも冬場のような凍えた空気が這い寄ってきた。 八重姫が住み着いている洞窟よりも狭いが、奥行きは深い。一歩中に入ると冷気はぐんと強まって、寒さに驚いた 糸丸がまたも泣き出した。奥へ奥へと進んでいくと、冷気の発生源が現れた。洞窟の奥を分厚い氷が塞いでおり、 その中に人が入っていた。両手を合わせる形で縛り付けられている年若い娘だが左目が潰れているらしく、瞼自体も 剥がれて眼窩が覗いていた。八重姫は叢雲に振り返る。

「これに教えられねばならぬのかえ。人ではないか」

「おぬしは先程の我の話を理解したのではなかったのか。人を育てるのであれば、人に歩み寄るのが筋。その娘は 百年程前に橋を掛けるための人柱として埋められたのだが、何分不憫でならぬ故、埋められて間もなくに地中から 掘り出して氷室に収めておったのだ」

「だが、どう見ても生娘ではないかえ。子を育てたことなどあるまいて」

「生娘であろうと、子を育てたことをある者はおるわい。物を知らぬな、おぬしは。この娘はチヨと申す娘で、川下の 集落の生まれでな。農家の長女でな、幼い頃から弟や妹達の世話に明け暮れておったのだ。城下町に奉公に出る はずだったのだが、柴刈りの最中に枯れ枝で左目を潰してしもうたのだ。そんな時、人柱となる娘がおらぬかという 話があってな、こんな顔では嫁にも行けぬ、奉公にも行けぬ、と泣き暮らしていたチヨが選ばれたのだ。我の力では チヨの目を元に戻すことは出来ぬが、このまま死なせてしまうのは気が咎めてしもうてな。我は橋を掛けられる如き では荒ぶらぬ故、人柱など無用の長物なのだ。故に、チヨが死ぬのは全くの無駄というもの」

「だから、掘り出して氷漬けにしたのかえ」

「いかにも。もっとも、肉体は既に死しているのであるからして、死んでいることは代わりはないのだが、魂だけは 若々しく瑞々しいままなのだ。故に、この娘を起こすことは適おうぞ」

「ならば、なぜ今の今までそのままにしておいたのかえ」

「我は龍。龍とは古来、人にとって畏怖の象徴であると聞く。怯えられでもしたら、と思うてしまってな」

「そなたは誠に神か」

 八重姫が若干呆れると、叢雲は重たい瞼を上下させた。

「神であるが故、人の心に敏感にならざるを得ぬ。人が我を慕えば我は和御魂にぎみたまで在り続けるが、人が我を恐れれば 荒御魂あらみたまとなる。我らは人ありきのものよ。それを忘れてはならぬ」

「まどろっこしいのう。御託はいらぬ、早うこの娘を目覚めさせい」

 氷を小突いて八重姫が急かすと、話の腰を折られた叢雲は唸った。真っ直ぐにヒゲを伸ばした叢雲は氷にヒゲの 先を付け、娘の体の回りをすうっとなぞると、ヒゲに縁取られた部分だけが瞬時に溶け、ただの水に戻った。氷の内 から解放された娘は水溜まりによろめきながら歩み出てきたが、目覚めきってはおらず、膝を折って崩れ落ちた。
 人柱になる際に着せられた白衣は水を吸って肌に貼り付き、娘の骨張った体を縁取り、ささやかな膨らみが見て 取れた。叢雲は己への供物だというのに気が引けるのか、目を逸らした。八重姫は濡れた地面に突っ伏している 娘に近付くと襟首を掴んでぞんざいに持ち上げ、日焼けした首筋に牙を突き立てた。毒はほとんど入れずに牙の 刺激だけを与えると、思い掛けない痛みを受けた娘の体は釣った魚のように跳ね、顔が歪んできた。牙を抜いて 地面に放り投げると、娘は二つの穴が空いた首筋を押さえながら、気丈にも八重姫を睨んできた。
 が、八重姫と叢雲を見た途端、娘は再び寝入った。気を失ったからだ。





 


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