鬼蜘蛛姫




第四話 過ぎ去りし綻び



 ここしばらく、深く寝入った試しがない。
 神たる者は本来眠りなど必要ないのだが、永い時を緩やかに過ごしていると、終始起きているのが煩わしくなって くる。そこで、一日を半分以上やり過ごすために寝入る習慣を付けたのだが、今では半日ほどは眠っておかないと 落ち着かないようになってしまった。だが、氷室に遺体で氷漬けにしていた娘、チヨを目覚めさせてからというもの、 眠る時間が随分と削られるようになった。その理由は明白である、チヨの目覚めが異様に早いからだ。
 今日もまた、あの声が聞こえてくる。叢雲は、己と同じ名を持つ川に同化させていた巨体をのったりと引き摺って、 ヒゲの先をちろちろと動かした。叢雲の頭部は川の水源に向いていて、あの氷室もすぐ傍にある。心地良い冷気が 零れ出してくる洞窟から頭を離し、体を折り曲げると、薄氷が割れるかのような音を立てながらウロコが擦れ合い、 霧のような重みしか持たない体を川下へと向けて伸ばしていった。東側の山脈を見やると、朝日が昇って間もない 頃合いである。煌々とした日差しが薄雲の漂う空を切り裂き、底冷えする空気を暖めつつあった。
 鬱蒼と茂った森を通り過ぎ、山の中腹よりも少し上辺りにある洞窟に顔を近寄せると、粗末な着物を着た若い娘 が川から汲んできた水を瓶に流し込んでいた。あれから一年の月日が過ぎたが、肉体が既に死んでいるのでチヨ の髪はほとんど伸びていない。顔付きも子供のままで、体も薄べったく骨張っている。

「水神様、おはよう!」

 叢雲の頭部を見上げたチヨは、にっこりと笑った。叢雲はヒゲを波打たせ、応える。

「うむ」

「今日はな、糸丸に粟を炊いてやろうと思っとるんだいや。ほれ、ええのが神社に奉納されたっろ?」

 チヨは洞窟に入ると、大きな麻袋を抱えて戻ってきた。それを地面に置いてから開き、粟の粒を手で掬う。

「粒も揃っとって、ええ粟だいや。さすがに神様に捧げるモンは質が違ういや」

「我は穀物を喰わぬ故、良く解らぬが」

「なんでだ? 水神様のおかげで出来た穀物だすけん、皆、お供えするんでねっか。だったら、ありがたく喰えいや。 そら、水神様も米の方がええかもしれんけど、あれは御上にやらねっとならんモノだすけん。税っつったかな」

「我は神。神とは人智より離れたもの。故に、おぬしらとは生きるために得るものが異なるのだ」

 叢雲は浅く口を開き、地鳴りの如く重たい声色を発する。チヨは身を乗り出してくる。

「それが水神様の御飯っちゅうことか?」

「うむ」

「だども、おらは特別な料理は作れんすけん、どんなのか教えてくれねっか?」

「食物ではない」

「そんなら、何だいや」

 首を傾げたチヨに、叢雲は返した。

「おぬしら人間が、我を信ずる心。それが我の糧であり、血肉だ。煮炊きして作れるものではない」

「そっかぁ。そんなら、おらじゃ無理だぁなぁ」

 チヨは残念がりつつ、粟の麻袋を抱えて炊事場に向かった。洞窟の傍にチヨが拵えたもので、煮炊きをするために 石を組んで作ったかまどがあり、川の水を汲み置きしておく水瓶には木蓋が被せてある。チヨはどっこいせと声を 出しながら麻袋を置くと、木製の椀で粟を掬い出した。それを少々手に開けると、手を擦り合わせて粟の皮を剥き、 皮が剥けた粟を別の椀に入れていった。作業が進むに連れ、彼女の足元には粟の薄い皮が散らばった。

「こんなもんか」

 チヨは椀一杯に溜まった粟を揺すると鉄鍋に入れ、水瓶から柄杓で水を汲んで研ぎ始めた。しゃきしゃきと細かな 粒が擦れ合い、手元から水の飛沫が散る。それを五回繰り返した後、今度は火を起こしに掛かった。かまどの中に 薪を並べておき、森の中から集めてきた枯れ枝や落ち葉を焚き付けにして、火打ち石で起こした火花で点火すると、 白い煙が立ち上り始めた。チヨは大きな葉で仰いで火を大きくしてから、かまどの上に鉄鍋を置いた。

「ほんで、しばらくすりゃ出来上がるども、その間は暇だなぁ」

 チヨは手持ち無沙汰なのか、辺りを見回したが、これといって仕事が見つからなかったのか胡座を掻いた。

「仕方ねぇ、火の番をしとるしかねぇや」

「川魚などは入り用ではないのか」

「お魚なんぞ喰うんは、豪儀なお祝いの時だけだてや。それに、まだ糸丸は喰えんだろうに。喰えるようになったら、 捌いて焼いてやろうとは思っとるけどな。何せ、相手は御殿様の御落胤だすけん」

 チヨは薪をいじって火の勢いを調節してから、叢雲に向いた。

「ついでに言えば、おらは別に腹は減っとらんけん。だから、別に喰わんでもええ」

「無欲な」

 人間は貪欲な生き物のはずなのに。叢雲がやや驚くと、チヨは背を丸めて頬杖を付いた。

「おらの生まれた村はそんなに食い物は多くなかったんね。毎日毎日朝から晩まで泥まみれになって働いとっても、 そのほとんどは御上に捧げなきゃならんすけん、自分達の食い扶持を作るのは二の次だったんよ。年貢をきちんと 納めとらんと、田んぼも畑も家もなんもかも奪われちまうすけん、そら必死になるんよ。働き詰めのおっ父とおっ母を 見とるとな、腹一杯喰いたいとか思えんくなるだいや。それに、おらが一杯喰っちまうと下の兄弟が喰えんくなるろ? だから、喰いたいけど喰っちゃならんって我慢するようになったら、そのうち腹一杯喰いたいなんて思わんくなった。 不思議なもんさね。だからな、水神様、今はおらはこって楽なんだすけん。だって、喰わんでも死なないんろ?」

 もう死んどるんだし、とちょっと笑ったチヨの面差しは、自虐的でありつつも切なげだった。叢雲は、ふと後悔の念 に駆られた。必要だったとはいえ、チヨを生きた死体として蘇らせたはよくなかったのではないのか。完全に死した 者を現世に引き摺り出すのは至難の業だが、チヨの場合は、叢雲が早々に人柱にされてしまった遺体を回収して 氷室で氷漬けにしておいたので容易に蘇らせることが出来た。業はなくとも無念を宿していた魂は、人柱にされた後 の弔いが不充分だったために辺りに漂っていたので、哀れに思い、それもやはり氷室に納めておいたのだ。もしも 八重姫が糸丸を攫ってこなければ、未来永劫、そのままにしておいただろう。
 しかし、なぜ、過去の自分はチヨを掘り起こしたのか。ほんの百年前の出来事とはいえ、緩やかな時に慣れすぎた 頭はすぐには回らない。叢雲は、チヨが粟粥を掻き混ぜる様を見つめていたが、ふと目を逸らした。
 記憶の蓋は錆び付いていて、上手く開かなかった。




 チヨの一日は長い。
 鬼蜘蛛の八重姫の元に、糸丸の食事となる粥と湯冷ましを届けてからも彼女は実によく働く。まず最初に、昨日の 分の鉄鍋を綺麗に洗い流す。続いて、かまどに溜まった灰を掻き出して灰溜めに入れる。その次には薪となる柴を 集めるために山に入っていき、昼時になれば充分な量の柴を担いで帰ってくる。昼に少しだけ寝た後は、自分の分 と糸丸の洗濯物を洗って干す。その後、枝を束ねて作った箒で住み処にしている洞窟の中を掃いて掃除し、西日が 差し込んできた頃にようやく動きが大人しくなる。だが、水を少々口にする以外は何も食べないので、日中に干して いたムシロに横たわって間もなく寝入ってしまう。糸丸に飲ませる飴を買ったり、生活用品を買い求めたり、といった 街に出る用事があると、これらの仕事を片付ける早さはぐんと上がるので目まぐるしいことこの上ない。だが、当の 本人はこれでもまだ暇な方だという。煮炊きをする量が少ないし、田畑に出なくてもいいし、子守をしなくてもいいし、 薪を割らなくてもいいし、水汲みの回数が少ないし、繕い物をしなくてもいいし、と。

「いやはや……」

 夜の帳に包まれた川面から頭を持ち上げた叢雲は、洞窟の中程で寝入っているチヨを見やった。本来なら、糸丸 の母親だと名乗っている八重姫がするべき仕事をほとんどしているには感服する。文句を言ったのは最初だけで、 慣れてきたら八重姫にも糸丸にも愛着が湧いてきたのだろう。八重姫もチヨの扱いだけは邪険にしないし、糸丸も チヨを姉だと思って慕っている。奇妙奇天烈ではあるが、彼女らは一つの家族のようである。

「んぁ」

 チヨは寝返りを打ってくぐもった声を漏らし、背を丸めて手足を縮めた。もそもそと身動きしてから、うっすらと目を 開いた。左目の瞼は潰れた際に筋が切れたらしく、右目が動いても開くことはない。寝乱れた髪を額と頬に貼り付け ているチヨは、ムシロを掴もうとするが、寝惚けていて握力がないのか手が滑っただけだった。

「眠れぬのか」

 叢雲が穏やかな言葉を掛けると、チヨは何度か瞬きした後、目が覚めたのか上体を起こした。

「水神様……」

 弱い月明かりが僅かに差しているだけの洞窟は暗く、チヨの表情は窺えなかったが、いつになく不安げで声色も かすかに震えていた。怖い夢でも見たのだろうか。チヨは、すん、と洟を啜り上げてから目元を擦った。

「埋められた時のこと、思い出しちまったいや」

「忘れよ。全ては過去のこと」

 叢雲はチヨに鼻先を寄せ、先が二つに割れた舌先で寝汗に濡れた頬を舐め上げた。チヨは叢雲の舌の冷たさに ぎょっとしたようだったが、涙までは引っ込まなかった。それどころか、叢雲の鼻先に縋ってくる。

「水神様、水神様」

「ああ、我はここに在る」

「おらは、なんてことをしてしまったんだいや。片目が潰れただけで、なんでこんなことしてしまったんだいや」

 叢雲の硬い鼻面に額を擦り寄せながら、チヨは右目をきつく閉じる。そのまなじりから、熱い水の粒が滲む。

「あんな、水神様。これから話すこと、八重姫様にお会いしても、絶対、ぜぇったい言わんでくれねっか」

「おぬしがそれを望むのなら。して、何ぞ」

 分厚い瞼を下げた叢雲は、暗がりに応じて幅が広がった縦長の瞳孔をチヨに据える。

「おらな、糸丸をおらの子にしてぇなって思ってしまったんね」

 昼間の気丈な振る舞いからは打って変わって、チヨは怯え切っている。

「だ、だってな、八重姫様はどうしたって妖怪なんだでな。そらあ、体の上半分は別嬪な女んしょかもしれんけども、 馬鹿でっこくておっかねぇ、人食い蜘蛛だで。お優しゅう顔にはなってきたけど、やっぱり、おっかねぇんだ。だども、 糸丸はまだまだ小せぇから、八重姫様が何なのかも解っとらんし、なんで自分がお城でなくて山ん中の暗い洞窟で 暮らしとるんかも解っとらんだろうし、物心付いたらおかしいなぁって思うようになるはずだ。そうなる前にな、お城に 帰してやりてぇなって思いもするんだけどな、おら、もう死んでしまったから、子が産めんろ?」

 冷たい手で下腹部を押さえたチヨは、着物を握り締める。

「あんな、おら、人柱にされる前に月の障りが始まったんだいや。だから、産める体になっとったんね。だども、今の おらはどこもかしこもしゃっこくて、氷みたいなんだいや。糸丸を抱っこしとるとな、よぉく解るんよ。糸丸は柔っこくて あっちゃくってめごくって、生きとるんだ。でも、おらは違う。腹も空かんし喉も乾かんし、体もしゃっこい」

 堪えきれなくなったのだろう、チヨは声を上げて泣いた。

「どうして自分から死んでしもうたんだろ! 目ん玉がねくっても、生きとったらどうにでもなったがんに!」

「だから、糸丸を欲するのか」

「……うん。だって、生きとるから」

 ぼろぼろと涙を落としながら、チヨは叢雲の鼻面に爪を立ててくる。

「水神様も、八重姫様も、鴉どんも、皆、しゃっこい。でも、おらとは違うしゃっこさなんだ。生きとるんだ」

「責めるならば、我を責めよ。安易な理由で、おぬしを死の淵から引き戻してしもうたのだから」

 叢雲はヒゲをうねらせ、チヨの背を優しく撫で下ろす。チヨはしゃくり上げ、叢雲の長く太いヒゲを握り締める。

「水神様はなんも悪くねって。悪いのは、よこしまなことを考えたおらだ」

「気が静まるまで、我はおぬしの傍に在ろう」

「お優しゅうこって」

 チヨは涙で濡れた頬をぎこちなく動かしたが、笑顔とは程遠かった。叢雲は川面に腹這いになっている巨体を少し ずつ動かし、胴体を曲げ、ぱきぱきとウロコを鳴らしながら、首を押し出してチヨの洞窟に入り込ませた。頭部自体 もかなり大きく、ツノが入り口に引っ掛かってしまったので、八分目程度しか中に入れられなかった。それでも出来る ことはしてやろうと、再び寝床のムシロに横たわったチヨの傍に顎を置いた。

「あんな、水神様」

 泣いていたせいで声がいくらか上擦っているチヨは、叢雲の硬い肌に手を添えた。

「おらな、お嫁に行くなら水神様みてぇな人がええな」

「何を申すか」

「だって、こげに優しいでねっか。それに、しゃっこいけどあったけぇ」

「その言い方は、何か矛盾してはおらぬか」

「本当のことだて。体はしゃっこいし、水神様がお守りしている川の水もこってしゃっけぇけど、御心はあったけぇ」

 お優しい、と小さく呟いてからチヨは腫れぼったい瞼を下げた。叢雲はヒゲを垂らして洞窟の地面に落ち着かせて やると、チヨの規則正しい吐息を聞きながら、自身も瞼を下げた。だが、チヨは泣いて気が立ったせいで寝付きが 悪くなってしまったのか、居心地悪そうに寝返りを打ってばかりいた。時折、チヨが話し掛けてくるので、叢雲は彼女 の眠気を妨げない程度に応えてやった。洞窟に響くのは上擦って詰まり気味な少女の声ばかりで、旧き水神の声は 発した傍から空気に溶けていった。死した身であろうとも、やはりチヨは人なのだと痛感する。肉体を持っている 者と肉体を持たない者では、声の出し方からしてまず違うのだから。
 明け方の気配が近付き始めた頃、ようやくチヨが寝付いてくれた。叢雲は夜気が遠のいていくのを感じると共に、 川面に伏せてある腹の下から朝靄が立ち上るのを感じていたが、チヨの傍からは離れがたかった。泣いたせいで 気が緩んだからか口元も緩んで涎が一筋垂れている、だらしない寝顔ではあったが、無防備な姿を見ていると不意 に笑みが込み上がった。持ち上げかけた顎を元の位置に戻した叢雲は、チヨに付き合うことにした。
 浅く短い眠りは、安らかだった。





 


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