鬼蜘蛛姫




第四話 過ぎ去りし綻び



 唐突に体が冷えた。
 水を被ったわけでもないのに、水らしきものが頭の先からつま先まで滴り落ちてくる。おまけに、どことなく酒臭い。 チヨは辺りを見回してみたが、頭上の木々は連日の日照りで枝葉が乾いているし、通りすがりの人間に水を被せる ような不届きな真似をする妖怪がいたのだろうか、とも思ったが心当たりはない。もしも、そんな悪戯をする手癖を 持った妖怪がいるとすれば、事前に叢雲が忠告してくれるはずである。ということは、どういうことなのだろう。

「さっぱり解んね」

 チヨは濡れた髪を掻き上げつつ、首を捻り、山を歩き回って集めた柴の束を拾おうとしてぎょっとした。

「うおっ!?」

 出所不明の水を被ってしまったのか、柴は一本残らずたっぷりと水を含んでいた。これでは、持って帰ったところ で日に当てて干さなければ使いようがない。もう一度集めるのは骨が折れるし、せっかく集めた柴を無下にすること は出来ないので、チヨは妥協して濡れた枯れ枝の束を背負子に括り付けた。洞窟にはこれまで集めておいた柴が いくらか残っているので、明日の煮炊きには充分な量があるはずだ。太陽を見上げると中天に来ていたので、真昼に なっていた。帰るには丁度良い頃合いだ、とチヨが元来た道を辿ろうとすると、どこからか蹄の音がした。
 旅の者だろうか。だが、馬借にしては足取りが速いので、馬上に人が跨っているのだろう。誰かに姿を見られては まずいと思ったチヨは物陰に隠れると、そっと道を窺った。旅人に踏み固められた土を蹴り付ける蹄の音は力強く、 馬の重みがかすかに足元を揺らす。馬上には袴姿の身なりの良ければ体格も良い男が跨り、帯刀している。侍だ、 とチヨは一層頭を低くして手足を縮めた。侍は山奥に進みたいのか、馬を急かしているが、馬は首を上げてしまって 歩みを止めた。蹄で何度となく地面を蹴り付け、土を散らしている。暴れて振り落とされては困ると思ったのだろう、 侍は馬から下りて手近な木に繋ぎ止め、馬を宥め始めた。

「一体どうしたというのだ、桜花」

 侍は慣れた仕草で馬を落ち着かせると、刀の柄に手を掛けながら周囲を見回した。チヨは口と鼻を手で覆って息 も殺したが、手のひらに生温かい吐息は及ばなかった。死体が息をするはずがないからだ。改めて思い知った事実 に内心で衝撃を受けていると、桜花と呼ばれた馬が嘶いた。侍は腰を落とし、親指の先で鍔を上げる。

「何者ぞ」

 伏し目がちではあるが鋭い眼光が、木々と雑草を通り抜けてチヨの背に突き刺さった。並々ならぬ警戒心と敵意 を宿している侍は、今にも刀を抜いて斬り掛かってきそうである。ならば逃げた方が良いのだろうが、逃げ出したら 逃げ出したで追い掛けられて殺されるかもしれない。そもそも生きていないのだから、殺されるというのはおかしい かもしれないが、この体が切り刻まれては今後に差し支えが出る。叢雲に助けを求めようか、けれどどうやって、と チヨが必死に生き延びる術を考え込んでいると、侍が足を擦るような歩き方で近付いてきた。おかげで気付くのが 僅かに遅れてしまい、侍が木を挟んだ真後ろにいると知ったチヨは怯えるあまりに腰を抜かした。

「斬らねぇでおくんなせぇ、御侍様ぁ!」

 チヨはその場に這い蹲ると、額を地面に擦り付けるほど深く頭を下げた。すると、侍は歩みを止めた。

「お前はこの辺りの娘か」

「へ、へえ」

 がくがくと震えながらチヨが答えると、ぱちん、と侍は鍔を下ろして柄から手を外した。

「俺の早合点であった。驚かしてすまぬ、面を上げよ」

「そんなあ滅相もねぇ!」

 チヨが頭を下げたまま首を横に振ると、侍はチヨの前に膝を付いた。

「娘や。お前に一つ、尋ねたいことがあるのだが」

「へえ、なんでごぜぇやしょう」

 チヨが辿々しく返すと、侍は桜花という名の愛馬を窺った。

「実はだな、俺は荒井家に禍々しき呪いを掛けた鬼蜘蛛の姫を討ち取るべく、八重山を窺って鬼蜘蛛の姫の居所を 突き止めておこうと叢雲山に入った次第なのだが、道に迷うてしもうてな。何度も同じところに出てしまうのだ」

「へえ?」

 そんなことを聞くのは初めてだ。チヨはきょとんとしたが頑なに顔は上げなかった。八重姫が統べている八重山は 険しい上に道も入り組んでいて、旅路を焦った末に道に迷う旅人が多いのだが、叢雲山はそんなことはない。山を 統べる叢雲自身が穏やかだからだろうか、叢雲山は道も斜面もなだらかで見通しが良い。チヨも生きていた頃から 何度となく叢雲山に登って柴刈りをしたり、柿やアケビを取っていたものだが、道に迷ったことなど一度もなかった。 それ以前に、叢雲山はほぼ一本道だ。侍が通ってきたであろう麓から山頂に向かう道は分かれ道すらなく、迷う はずがない道である。それなのに、どうして同じところに何度も出てしまうのだろう。それは、もしや。

「御侍様。失礼なことを申しやすが、 もしかすっと、狐どんに化かされたんでねぇですか?」

 チヨが恐る恐る額を地面から外すと、侍は顎をさすった。

「そうか……。ならば、腑に落ちるというものだ」

 侍は、近う寄れ、とチヨを促した。チヨはまだ震えが抜けきらなかったが、強張った両腕を突っ張って顔を上げて、 額に付いた土汚れを払った。愛馬の元に戻った侍は、木の根本に腰掛けると、懐を探って煙管と刻み煙草の箱を 取り出したが、火種の入った箱が見当たらないのか懐や腰回りに何度も手を回した。狐や狸に化かされたら火の気 を起こすのが一番なのだが、火の元がなければどうしようもない。やっぱり叢雲に頼って助けてもらおうか、とチヨは 考えたが、この侍は八重姫を屠ろうとしている輩だ。下手を打てば、叢雲は八重姫の仲間の妖怪だと勘違いされて 刀を向けられてしまうかもしれない。そうなれば、人心の信仰を糧として生きている叢雲は怒り狂うだろう。ならば、 自分だけでなんとかするしかない。チヨは限りある知恵を振り絞り、進言した。

「御侍様! ほんのちっと待っとって下され!」

 チヨは背負子と柴をその場に置き、着物の裾を捲り上げて駆け出した。道を横に外れ、身の丈程も雑草が茂った 藪を通り抜けて近道しながら、チヨは川を目指した。山中での目印にしている倒木と岩を通り過ぎてからしばらくする と、見慣れた叢雲川が現れ、上流には寝起きしている洞窟があった。チヨは足早に洞窟に駆け込むと、火打ち石を 握り締めてまた駆け出した。もしかすると自分まで山道に迷うかもしれない、とは思っていたが、目印の倒木と岩も 行き帰りと同じ場所にあり、木の配置も全く同じだった。ということは、件の狐か狸はチヨを迷わせる気は毛頭なく、 侍だけを迷わせたいということなのだろう。少々の間の後、チヨが戻ってくると、侍は見るからに安堵した。

「これで火の気を起こせば、狐どんも退散するんでねぇですかい」

 チヨは息を荒げつつ、火打ち石を打った。硬い打撃音と共に火花が飛び散ると、不意に空気が軽くなった。侍の 愛馬も立てていた耳を横にし、面持ちも落ち着き、鼻息も和らいだ。侍もまた安堵したのか、馬を撫でた。

「礼を述べようぞ、娘や」

「滅相もごぜぇやせん」

 チヨは火打ち石を両手で握り締め、地面に膝を付いた。侍はその手の火打ち石を見、訝る。

「しかし、お前はどこからそんなものを持ってきたのだ? 村までは遠かろうに」

「あ、ああ、こいつは、近くにあるおっ父の山小屋から拝借してきたんで」

 チヨが慌てて誤魔化すと、侍は納得したのか言及しなかった。

「ならば、お前だけでなくお前の父上に礼を述べねばな。名を申せ」

「いえいえそんな、御侍様から御礼を頂くような身分では」

 あまり深入りされると誤魔化しきれないのでチヨは後退るが、侍は食い下がった。

「しかし、それでは俺の気が済まぬ。恩も返せぬような男が、腰に刀をぶら下げて良いものか。さあ、名を申せ」

「おらはチヨと申しますだ。だ、だども、おらは村には帰れねぇんで、村の衆には何も言わんどいておくんなせぇ!  お願ぇしますだ! この通りですけぇ!」

 ボロが出たら始末に困るのでチヨが這い蹲って懇願すると、その甲斐あってか侍は了承してくれた。

「その左目のせいなのだな。安心せい、俺はお前の姿形がどうであろうと気にはせぬ。だが、お前がそこまで言うの であれば、村の衆には何も言わずにおいてやろう。しかし、礼はしたい。チヨや、これを持て」

 侍が懐から取り出したのは、藍染めに白抜きで違い矢羽の紋所が入っている手拭いだった。チヨは土やら何やらで 真っ黒く汚れている手を着物で拭ってから、おずおずと両手を伸ばして手拭いを受けた。

「それを持ち、俺の屋敷に参るが良い。俺の名は赤城鷹之進、荒井久勝様の家臣が一人」

 さらばだ、と鷹之進は木に結わえ付けていた手綱を解き、愛馬に跨り、山道を駆け下りていった。チヨは鷹之進の 姿が見えなくなるまで頭を垂れていたが、蹄の音が聞こえなくなると、心身の緊張が解けてへたり込んだ。悪い人間 ではなさそうだが、一人の兵も連れずにいきなり山に乗り込んでくる辺り、血の気が逸る男なのだろう。となれば、 益々八重姫には会わせられない。八重姫もまた十二分に過激な女だ、もしも両者がかち合ったら、轟々と燃え盛る 火の海に無数の栗を放り込んだかのような事態になるに違いない。

「くわばらくわばら」

 チヨはぶるりと身震いして、背負子を担いで足早に立ち去った。だが、荒井家の家臣である鷹之進が荒井久勝の 身の安全を願うと共に世継ぎを奪い返そうとするのは至極当然であり、止められるわけがない。しかし、荒井久勝 の元から攫ってきた嫡男を大事に育てている八重姫から糸丸を奪うのは、良心が咎めてくる。人間としては前者が 正しいのだが、妖怪の世界の住人としては後者が正しい。八重姫に恨まれたら鴉天狗の九郎丸の二の舞となる。 今でこそ、チヨは糸丸から姉として慕われているから身の安全が保証されているが、それがなくなってしまえば一巻 の終わりである。チヨは赤城鷹之進なる侍に非常に申し訳なく思いながら、家紋が入った藍染めの手拭いを手近な 木の枝に引っ掛けた。手拭いに手を合わせて何度も謝ってから、洞窟へと急いだ。
 こうすれば、誰も血を流さずに済むはずだ。




 道理で、山中の空気が獣臭かったわけである。
 チヨから事のあらましを聞かされた叢雲は、腑に落ちると共に疑問も抱いた。この近隣の山に住まう狐狸妖怪は、 八重姫を恐れて逃げ出したか、刃向かって喰われたかのどちらかではなかったか。ならば、与り知らぬうちに新手 の狐狸妖怪が住み着いていたのかもしれないが、叢雲山は叢雲の縄張りであるため、神性を持たぬ妖怪にとって はかなり住みづらい場所であるはずだ。そんな場所で、わざわざ侍だけを化かすというのは不可解だ。しかし、当の 狐狸妖怪の臭いを追いきれなかったので、叢雲は正体を突き止めるのを断念した。
 それで良いのかもしれぬな、と叢雲は思いつつ、饒舌に喋るチヨに寄り添った。ある意味では落ち着いた日々の 中で起きた事件ではあるが、八重姫を相手に喋ることが出来ないし、八重姫に喋るかもしれない九郎丸にも話せる ことではないので、ここぞとばかりに叢雲に語って聞かせていた。血の気の薄い顔も、心なしか上気している。

「んでな、水神様。御侍様って百姓とは何もかも違うんだて。男らしいお顔なんだども、小綺麗でなぁ」

「ほう」

「んでな、こう、刀をお持ちになってな、こうやって抜こうとなさったんだども、それがまた機敏で」

「ほう」

「んでな、御侍様のお連れになっとるお馬も綺麗な毛並みでな、駄馬とは違うんだで」

「ほう」

「んでな、紋所が入った手拭いを下さったんだども、その藍がまた深い色で、値打ちものなんだいや」

「ほう」

「……ちゃんと聞いとるんけ?」

 お喋りを中断したチヨは、同じ相槌しか打たない叢雲を不審そうに見上げてきた。叢雲は、一度瞬きする。

「これほど近くにおるのだ、聞こえぬわけがなかろう」

「そういうんでねくって」

 叢雲の反応の薄さが物足りないらしく、チヨは頬を膨らませた。幼子のような態度に叢雲は口の端を僅かに緩め、 ず、と少しばかり巨大な頭部をチヨに近寄せた。狭い洞窟の中なので、それでなくてもお互いの距離は近かったが、 これで一層距離が狭まった。叢雲はヒゲをくねらせながら、チヨの頭上に細い布を落とした。

「なんぞ、これ」

 チヨは不思議がりながら、頭に載った細長い布を手にした途端、驚きすぎて文字通り飛び跳ねた。

「うひゃあ!」

「しばらく前、我の神社に奉納されたものだ。おぬしの左目を隠すのに良いかと思うたが、気に入らぬか」

 チヨが放り投げた布を一瞥して叢雲が残念がると、チヨは大慌てで後退って手を振り回した。

「とんでもねぇとんでもねぇ! 御蚕様なんて頂けねぇ!」

「ただの織物ではないか。だが、反物ではない故、着物にも帯にもならぬ。目の傷を塞ぐが良い」

「おらの目が潰れてしまういや! もう潰れとるけど!」

「解らぬ娘だ」

「どっちが! こんげ豪儀なもん、もっとこう、やんごとない御方でねぇと似合わんって」

「チヨや。おぬしは布を恐れるのか」

 叢雲はヒゲの尖端で絹の細布を拾い、そっとチヨに差し出した。チヨは手を伸ばしかけたが、引っ込める。

「だ、だども」

「絹織物といえど、本を正せば虫の糸。八重姫の糸と代わらぬではないか」

「それを言っちゃあ身も蓋もねぇろ」

「そうか」

 叢雲がヒゲを曲げて絹の細布を遠ざけると、チヨは恥じらった。

「それにな、そんげにええ御飾りを付けるんだったら、それ相応の身なりにならんとならんすけん。こんげに汚ぇ格好 じゃ、御蚕様に申し訳ねぇ。水神様だって、そんな頓珍漢なのは嫌ろ?」

 女心というやつだ。無理強いしては可哀想なので、叢雲は仕方なくヒゲを伸ばして、絹の細布を山頂近くの氷室に 片付けた。喜んでもらえると思ったのだが、逆に困らせてしまった。人間で言うところの良心のようなものがいくらか 痛んだが、それを悟られぬように叢雲はチヨを慰めた。瞼すらも抉れて眼窩が覗いている左目に触れないように、 ヘビの如く先が割れた舌先で頬を舐め、慈しむ。チヨはくすぐったがったが、抗わなかった。

「おぬしが山に取り残してきた手拭いは、人にも獣にも奪われてはおらぬ」

 鼻面を寄せてチヨの細い体に擦り付けながら、叢雲は低く語る。

「我の神通力を持ってすれば、おぬしの体に温かな血を通わせることが出来るやもしれぬぞ。血も水であるからな。 さすれば、生きた者達と同じ暮らしが出来るようになるであろう」

「……あの手拭い持って、山さ下りて、御侍様の御屋敷に行けっちゅうの?」

 叢雲の言わんとするところを察したチヨが戸惑うと、叢雲は頷く代わりに瞬きした。

「左様」

 死体に魂を入れた状態ではなく、本物の生身の人間として生き返らせられるためには、叢雲が宿している神通力 を膨大に使わねばならないだろうが、それでチヨが救われるのならば本望だ。思い返してみれば、叢雲はこの善良 で働き者の村娘に一目置いていた。理由は至って簡単だ、チヨは叢雲の存在を疑いもしないどころか、純朴に純粋 に信じ抜いていたからだ。その肉体と魂を氷室に導いたのも、チヨが死ぬ間際ですらも叢雲を恨んだりしなかった からだ。どこの馬の骨とも解らぬ僧侶に騙されるような形で人柱にされても、清らかな心を保っていた。辺鄙な農村 で生まれ育ったために擦れていないから、でもあるのだろうが、チヨという人間の根幹がそうなのだ。だから、気を 惹かれるのだろう。信じられている分だけ報いてやりたくなるのは、神としての性か。

「そんげなこと言われても、困るいや」

 チヨは叢雲の硬い鼻面に寝そべると、むくれた。

「おらがおらんくなったら、誰が糸丸の御飯をこさえて八重姫様んところに届けるんだいや。そったらことになってしもう たら、糸丸、今度こそ飢えてしまうろ。だから、おらは山さ下りん」

「確かに」

 彼女らしい答えに、叢雲は目を細めた。それでこそだと思う一方、何かを期待していた己に気付いた。その何かが 一体何なのかを突き止めてしまえば、神という立場を揺らがしかねないと本能的に察して押し止めた。チヨは叢雲の 鼻面によじ登って跨ると、飽きもせずにお喋りを始めた。今度は八重姫と糸丸に関するもので、前に一度聞いた ことがある話も多かったが、叢雲はチヨのお喋りに付き合った。気付いた頃には夕暮れ、星々が夜空を彩る頃合い になっていたが、彼女は訥々と語り続けていた。それを、叢雲は飽きもせずに聞いていた。
 いつしか、眠るのが惜しくなった。





 


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