鬼蜘蛛姫




第九話 結ばれた契り



 その暗い洞には、春の日差しは届いていなかった。
 川面を伝って苦もなく氷室まで這い上がった叢雲は、冷気が零れ出してくる入り口で一旦止まった。四本の短い足 を岩盤に付けると、懐かしい感覚が全身に馴染んでくる。この洞窟には、叢雲川と同じ水源の地下水がほんの少し ずつ奥に流れ込んできていて、それが年中立ち込める冷気によって凍り付いているのである。己の源に触れたこと で精神の均衡も取り戻した叢雲は、そろりそろりと奥へと向かった。次第に光量も減り、視界も狭まり、寒さが確固 たる力を帯びてくる。氷室の地面には、小さな裸足の足跡が連なっている。それを辿っていくと、彼女の体格と全く 同じ形の穴が空いている巨大な氷の前で、求めた娘が膝を抱えていた。

「すまんかったいや、水神様ぁ」

 チヨは一度泣いたのか、頬が濡れていた。叢雲はその傍に寄り添う。

「そなたが悔やむことなどない」

「おらな、お嫁になるってことがイマイチ解らんすけん」

 チヨは叢雲の滑らかな背に手を添え、そっと滑らせた。

「最初は、おっ母みてぇにすりゃええって思ったんだいや。だども、水神様を困らせちまっただけだった。そんでな、 次はお嫁に来た日にすることをすりゃええって思ったんだども、こって恥ずかしゅうて上手くいかんかった。挙げ句に 水神様んとこから逃げ出してしもうて……。どうしたらええか、まるで解らんかったんすけん」

「それは我も代わらぬ。故に、我とおぬしで見つけ出してゆけば良いだけのこと」

「だども」

 チヨは粗末な着物の襟元を開いて覗いたが、すぐに胸元を押さえた。

「おらなんかでええの?」

「我がそのようなことを気にするように見えるか」

「おらは気にするんだいや。そ、そら、おなごだすけん」

「なぜ、ここに来たのだ」

 叢雲はチヨの腕に絡み付いてから肩に昇り、氷を仰ぎ見た。チヨは手を伸ばし、透き通った固まりに触れる。

「ここは水神様の懐だすけん。ここに来たら、ちったぁ水神様のことが解るんでねぇかなって。そったら、おらももっと ちゃんとしたお嫁になれるんでねぇかなって。だども、そんなことはなかったんだいや」

「我もおぬしを知らぬ。故に、おぬしを知らねばならぬ」

 チヨの肩から氷に差し伸べられた腕に移動した叢雲は、細い舌先で氷と接した指先を舐めた。

「そったら、御開帳、するんけ?」

 チヨが赤面して腕を引っ込めると、叢雲は彼女の腕から離れて地面に降りた。山中の草木から掻き集めた神通力を 氷に籠もっている己の生命力で高ぶらせ、蛇と代わらぬ大きさの体を膨れ上がらせる。尻尾が伸び、胴体が一息 に太さを増し、ツノが突き出し、ヒゲが揺らぎ、牙が連なる。程なくしてチヨを凌ぐ体格に変化した叢雲は、恥じらって 身を縮めているチヨを見下ろした。しきりに目線を彷徨わせているが、両手で裾をきつく押さえている。太股も閉じて いて、震えてさえいる。叢雲は四本指の短い手をそっと伸ばし、チヨの髪を一束持ち上げる。

「それは、おぬしが決めること。我は無理強いはせぬ」

「なんで?」

 おずおずと見上げてきたチヨに、叢雲は長い体を折り曲げて目線を合わせる。

「好くということは、おぬしを信じて止まぬこと。故に、我はおぬしを信じておる。おぬしが我を信ずるように」

「やっぱり、水神様の仰ることはよく解んねぇよ」

 照れ臭そうに目を上げたチヨを、叢雲は硬い指の腹で愛でる。

「我とおぬしが契りを結ぶ日は、あまり急がなくともよいということだ。我はここに在り、おぬしもここに在る」

「だども、おらは好きだ。叢雲様が好きで好きで、たまんねぇ」

 チヨは自分の手の数倍はある叢雲の手を両手で包み、頬を寄せる。

「我もチヨを思うて止まぬ」

 叢雲は目を細めると、チヨの冷えた首筋に鼻面を擦り寄せた。チヨは硬くざらついた感触に抗うどころか、嬉しそう に笑みすら零した。好かれていると知ったからだろう、それまでの気負った態度は失せていた。だが、あ、と不意に 口元を覆って表情を曇らせた。何事かと叢雲が不安がると、チヨはもじもじした。

「水神様んこと、叢雲様って呼んじまったいや。神様だがんに」

「構わぬ。我とおぬしは夫婦となる身」

 その可愛らしい気遣いに笑みを浮かべ、叢雲はチヨにゆったりと長い体を巻き付けた。だが、決して戒めるような ことはしない。チヨが容易に抜け出せるような隙間は残してあるし、嫌だと言われればすぐに解く。チヨは冷たいが 座り心地の良い龍に身を委ね、安心しきった様子だった。すると、チヨは身を乗り出した。

「叢雲様、あれ、取って下さらねっか」

 チヨが指差したのは、氷室の隅の平たい岩に横たえてある絹織物だった。叢雲は体を少し伸ばし、絹織物を爪先に 引っ掛けてから戻ってきた。チヨは滑らかな手触りの美しい細布を手に取ると、それを被って得意げに笑う。

「ほれ、角隠しみてぇろ? 色々するのは後回しだども、これでおらは叢雲様のお嫁だ!」

「うむ」

 叢雲は頷くと、ぬるりと体を捻ってチヨの正面に顔を向けられるようにした。チヨは子供のようににこにこしていて、 それがまた愛らしい。叢雲はなんともいえないざわめきが腹の底で燻ったが、やり過ごした。今はまだ、その時では ないのだから。だが、この時を無駄にするのは惜しい。満面の笑みを見せるチヨを片手で引き寄せ、角隠しである 絹織物が滑り落ちないように爪先を浅く引っ掛けて押さえてから、鼻面を寄せた。チヨは意味が解ったらしく、少々 躊躇ったが、叢雲に手を伸ばして太い顎を抱えて引き寄せた。水神とその妻となる娘は、互いを味わった。
 氷よりも冷たいが、清水よりも澄んでいた。




 結納を終えた後、慎ましやかな祝言を挙げた。
 結納と結納返しで使った昆布と鰹節とスルメを使った料理と春の山菜の料理が振る舞われ、三三九度では使い 切れずに残った酒も宴席に並べられた。雑穀も玄米も混じっていない艶やかな白米も柔らかく炊き上げられ、椀に 盛られた。打ち掛けの代わりに八重姫のとっておきの着物を着込み、角隠しの代わりに件の絹織物を結い上げた 髪に巻き付け、白粉と紅も差したチヨは分厚い座布団に正座していたが、終始顔を緩めっぱなしだった。その隣で ちびりちびりと杯に満たされた酒を舐めている叢雲は、またも蛇に等しい大きさに縮んでいた。地滑りで壊れた神社 が再建され、翡翠に代わる御神体が収められ、人々の信仰心が集わなければ、以前のような神通力は得られぬ。 そんな状態であるのに無理に体を大きくしてしまえば、神通力があっという間に底を突いてしまうからだ。チヨから 日々注がれる好意と親愛を糧にしてはいるが、そればかりに頼るわけにもいくまい。
 差し当たって場所が思い付かなかったので、八重姫と糸丸の小屋で祝言を挙げ、更に宴席を設けた。八重姫は 不本意そうではあったが、祝い事には欠かせない砂糖菓子をもらった糸丸が楽しそうにしているのであまり文句は 言われなかった。しかし、小屋を使わせる代償として八重姫はしきりに酒を求めてきたので、新婚夫婦の取り分が 随分と減ってしまった。程良く酔った八重姫はそれなりに上機嫌だったが、九郎丸はしこたま酒を飲んでいても饒舌 になるどころか、いつになく不愉快げだった。

「甘ぇなぁ、お酒ってぇのは」

 チヨはそれなりに酔いが回っているらしく、へらへらしながら正座を崩していた。

「このお砂糖みたいに? だったら、僕も飲んでみたい! 母上、頂戴!」

 砂糖菓子を飽きもせずに囓っていた糸丸が目を輝かせたので、八重姫が息子から杯を遠ざけた。

「甘いには甘いかもしれぬが、それ以上に辛きものえ。故に、そなたが口にするには十年早いのう」

「甘い、あんまい」

 チヨは余程感激しているのか、くすくす笑い続けている。叢雲は新妻を仰ぎ見、訝る。

「その歳では酒を飲む機会は少なかったであろうが、それほど珍しいものでもあるまいに」

「ん。だどもな、甘いっつうのが解るんが嬉しくって嬉しくって」

 座布団の上でとぐろを巻いている叢雲に擦り寄りながら、チヨは弛緩して杯を掲げる。

「おらな、あの坊様にちょっかい出されてから何もかもが灰色だったんだいや。何を喰っても石と砂で、何を飲んでも 泥水で、空も山も人も獣も、全部が全部、おかしかったんだいや」

 ずるりとへたり込んで座布団を枕にしたチヨは、顔が緩みすぎて化粧がいくらか崩れていた。

「だども、叢雲様と一緒におるとそんなことがなくなったんだいや。嬉しいってんじゃ足らんなぁ、だども、おらは学が ねぇから嬉しいの上の言葉が出てこんすけん。だすけん、これで勘弁してくんろ」

「チヨや、もう酒は止した方が良いぞ」

 叢雲が苦笑混じりに忠告したが、答えはなかった。不意に妻の手から杯が転げ落ち、半分程度入っていた酒が 床に染み込んだ。見ると、チヨはいつのまにか眠り込んでいた。きっと酔いが回りすぎたのだろう。叢雲はやれやれ と思い、チヨが落とした杯を銜えて御膳に戻してやった。すると、九郎丸がクチバシをぎちりと軋ませた。

「馴れ合うんじゃねぇや」

「我の妻よ。慈しむべきもの」

 叢雲がゆっくりと瞬きすると、九郎丸は手酌で杯に酒を注いだ。

「叢雲よ。お前さんはどうしてそこまで人間に扱き使われるのが好きなんだ、ええい全く」

「はて」

「考えてもみやがれ、お前さんは頭から尻尾まで人間に利用されとるだけなんだぜ?」

 余程苛立たしいのか、九郎丸は膝を揺すっている。その度に羽根が揺れている。

「大体だな、お前さんが崇め奉られているのは連中が都合良く農作をしたいだけであってだな、決してお前さん本人 を敬っておるわけではない。その娘にしたって、お前さんを大人しくさせたいがために嫁入りしたんだろうが」

「おぬしには関わりのないこと」

 叢雲は薄く口を開いてから、チヨのずれた角隠しを銜え、直してやった。

「九郎丸や。おぬしがどれほど人間を疎もうと、我は人間ありきの存在故。時として憎むこともあれども、それを凌ぐ 慈悲を与えずにはおられぬ。そもそも、おぬしと我では常世における役割が異なる故」

「けっ」

 これ見よがしに舌打ちしてから、九郎丸は片膝を立てた。

「人間ってぇのは、どうしようもねぇのさ。今度のことで叢雲の爺ィもいい加減に身に染みたんじゃねぇかと思ったが、 嫁なんざ取って輪を掛けて甘っちょろくなりやがって。馴れ合うだけ無駄だって思わねぇのか」

「無駄ではない。その証しがここにあろう」

 叢雲がにんまりと目を細めてみせると、九郎丸は心底嫌そうに顔をしかめてから杯を御膳に叩き付けた。

「ええい腹立たしい!」

「九郎丸、どこ行くの?」

 九郎丸が威勢良く障子戸を開けたので、糸丸はちょっと寂しげにした。九郎丸は振り返らずに言い捨てる。

「酔い覚ましに決まってらぁ! いちいち気にすんじゃねぇや!」

「鬼蜘蛛の姫や。あれはなぜ、そこまで人間を毛嫌いするのか存じてはおらぬか」

 飛び去った九郎丸を顎で示しながら叢雲が問うと、目元を僅かに赤らめた八重姫は言い捨てた。

「そのような下らぬこと、わらわが知っておると思ったのかえ」

 そうか、と叢雲は短く返してから、九郎丸の羽音が消えた小屋の真上にある穴を仰ぎ見るつもりで首を逸らした。 九郎丸がこの界隈で幅を利かせるようになったのは、女郎蜘蛛と土蜘蛛と落人の姫君が合わさって八重姫となり、 八重山を根城にするようになってから数年後のことである。だから、両者には浅からぬ因縁があるものと思っていたが、 そうでもないのかもしれない。それに、今の叢雲は新婚である。九郎丸になど構っている暇はない。
 不意に、尻尾を引っ張られた。何事かと振り返ると、覚束無い寝言を漏らしながらチヨが叢雲を掴んできた。その 手を振り解こうにも恐ろしく力が強く、挙げ句の果てに抱き付かれた。酒臭い寝息を浴びせかけられながら、叢雲は チヨの腕の中から這い出ようとするが、新妻はそれを頑なに許さなかった。仕方ないので叢雲は脱出を諦め、チヨ のやりたいようにさせた。糸丸は叢雲が羨ましくなったのか、母親に抱っこをせがんでいる。八重姫はそんな息子に 頬を緩め、はいはいと言いつつ、抱き上げて膝に載せてやった。叢雲はチヨが力一杯握り締めている尻尾の尖端を くるりと丸め、指に絡めてやった。この分では初夜はお預けだろうが、それもまた良し。
 蜜月は長引くに越したことはない。





 


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