食卓の空席が、再び埋まることはなかった。 伊織と羽部の分の食事が並ぶこともなくなり、椅子も撤去された。マホガニーのテーブルを囲む人数は六人から 四人に減り、食器が擦れる音だけが繰り返された。武蔵野は上座に座って黙々と朝食を消化しているりんねを窺う が、りんねは無言で皿を見つめ、小麦粉の味しかしないムニエルをナイフで切り刻んでいた。道子は時折二人の席 を見やって何か言いたげな目をしたが、りんねの面差しを見て食事に戻った。高守は何事も起きていないかのよう に、矮躯を縮めて齧歯類のようにコーヒー色の苦いパンを囓っていた。 「お嬢」 居心地の悪さに辟易した武蔵野が呟くと、りんねはオレンジジュース味のスープを一口含み、返した。 「なんでしょうか、巌雄さん」 「探せと言われれば探してやるぜ、あの跳ねっ返りとイカれたヘビ野郎をな」 「いえ、お構いなく。伊織さんと鏡一さんを回収せずとも、業務は続行出来ます」 「しかしだな」 「巌雄さんは競争相手に対して、随分とお優しい御判断をなさるのですね?」 銀縁のメガネの位置を整えてから、りんねは武蔵野を見据えた。軽蔑さえ籠もった、鋭い視線だった。 「私はこれを好機とみています。伊織さんと鏡一さんがこの件から手を引いて下されば、当然ながらお二人の背後 組織であるフジワラ製薬も、つばめさんには直接手出しは出来なくなります。もしもフジワラ製薬が別動部隊を組織 してつばめさんを襲撃なさったら、重大な契約違反とみなして、それ相応の制裁を加えて叩き潰して差し上げます。 それはあなた方についても同じことを言えます。今でこそ、私と同列に位置しておりますが、私共が定めた契約から 一歩でも外れた行動をなされば、吉岡グループは全力で排除いたしますので覚悟をなさっていて下さい」 眉根を顰め、りんねは空席を一瞥する。 「それとも、何ですか? 巌雄さんは、私が伊織さんと鏡一さんに対して稚拙な仲間意識を抱いているとでもお思い だったのですか? そんなこと、有り得ません。お二人とも能力は突出しておりますが、部下としては有能さに欠けて おりましたし、元来私は他人に対しては個人的な執着を抱くことはありません。同じ部署で働いているからといって、 イコールで馴れ合いの関係になるわけがありません。巌雄さんも随分とロマンチストなのですね」 「……別にそういう意味じゃないんだが」 矢継ぎ早にきつい語気で言い返され、武蔵野はやや臆した。りんねは一度瞬きする。 「では、どういう意味で仰ったのか、御説明して下さい」 「殺してやるって言いたかったんだよ。あいつらは、俺達のこともある程度は知っている。それをフジワラ製薬に 流されて利用されたら、後が面倒だろうと思ってな」 「道理ですね。ですが、それについては既に手を打っておりますので、御心配なく」 武蔵野の返答に納得したらしく、りんねは食事に戻った。インスタントではなくレギュラーコーヒーの粉をそのまま 混ぜ込んであるパンを千切ってオレンジジュースのスープに浸し、頬張って咀嚼している。その食べ方だったらまだ まともなのか、と武蔵野は苦いパンと嫌な甘酸っぱさのスープを見比べたが、どう考えても味が馴染むとは思えない ので、結局試しはせずに別々に食べた。相変わらずの不味さだった。 だが、珍しいことに、スクランブルエッグは程良い塩味でまともな味付けになっていた。いつもであれば、クリームや ジャムといった甘いものが掛けてあったり、ドライフルーツが混ざっていているのだが、今日に限ってごくごく普通に バターと塩コショウだけで味が調えてあった。それが嬉しいと思う前に、武蔵野は不安に駆られた。 「おい、道子」 武蔵野はスクランブルエッグを半分ほど食べてから、練乳まみれのサラダを食べている道子を見やった。 「なんですかぁーん、武蔵野さぁーん?」 道子が聞き返してきたので、武蔵野は味付けのことを指摘しようかと思ったが、思い直した。 「いや、なんでもねぇ」 「お代わりでしたらぁーん、仰って下さいねぇーん」 道子は暖かみのない笑顔で返してから、サラダを食べ終えてスープに取り掛かった。武蔵野はまともな味付け のスクランブルエッグを残しておき、それを心の支えにしてから、甘ったるい料理を消化していった。もしかすると、 今回の味付けは道子の感覚では失敗作なのかもしれない。それを指摘してしまったがために、道子が躍起になって トンチンカンな味付けに拍車が掛かってしまったら目も当てられない。だから、何も言わないでおこう。 そう判断した武蔵野は、レモン水を飲んで口の中を洗い流してから、朝食を平らげていった。伊織と羽部の行方と フジワラ製薬の今後の動向について考えるのは、久々に有り付けたまともな料理を味わい尽くしてからにしよう、と 思った。そして、こうも思った。見た目と味が合致するだけで、こうも幸せな気分になれるのかと。 食事とはこうでなくては。 つばめの目の前には、フジワラ製薬の各種権利書が差し出されていた。 どれもこれも会社の経営には不可欠なものばかりだとは薄々感じ取れるが、内容はさっぱりだった。細かい文字 が紙面を埋め尽くしている書類と、それを運んできた二人の女性を何度となく見比べた。紺色のスーツを着込んで 頑丈なジュラルミンケースを携えているメガネの女性は、フジワラ製薬の社長であった藤原忠の秘書、三木志摩子 だと名刺を差し出しながら名乗ってくれた。三十代後半から四十代に差し掛かっているようだが、言動の力強さと 芯の通った立ち姿は年齢を感じさせなかった。それどころか、若々しささえあった。 もう一人の女性は五十代手前の品の良い婦人だったが、薄手のカーディガンに包まれた上半身は、左腕が欠損 していた。顔色もあまり良くなく、疲れ切った様子ではあったが、言動の端々に育ちの良さが見受けられた。藤原忠の 妻であり藤原伊織の母親、藤原真子だと名乗ってくれた。 美野里の法律事務所には、いつになく緊張感が漂っていた。開業してから一ヶ月近く経過したにも関わらず、未だ に整理出来ておらず、未開封の段ボール箱がそこかしこに山積みになっていて、部屋の隅には埃が溜まっている。 客を通せる状態とは言い難かった。だが、非常にありがたいことに、二人の来客はそんなことは気にしないと言って くれた。無理矢理片付けた応接セットの周囲にも段ボール箱が散らかっているので、美野里はタイトスカートを若干 捲り上げて大股に歩きながら、人数分のお茶を運んできた。足元が悪いせいで盆を変な角度に傾けるので、熱い 緑茶が入った湯飲みが転げ落ちそうになることが何度もあり、つばめはその度に肝を冷やした。 「お姉ちゃん、せめてこの辺だけは片付けようよ。手伝うからさ」 つばめが呆れると、美野里はつばめの隣に座り、苦笑した。 「えへへ、お願いね。お手伝いしてくれた分は、ちゃーんと御礼するから」 「それで、その、私に何の御用ですか?」 つばめは畏まりながら、二人の来客に向き直った。志摩子は緑茶を一口飲んでから、言った。 「佐々木さんは御存知かと思いますが、弊社は先日の戦闘で社長を失いました」 「えっと、御愁傷様です」 で、良かったんだっけ、とつばめが美野里に小声で尋ねると、美野里はそれでいいのよと頷いた。 「御丁寧にありがとうございます。ですが、私共は社長の死亡を確認したわけではありません。地元警察からも医療 機関からも死亡診断書が発行されておりませんし、死亡届を出しておりませんので、戸籍上では生存しております。 御子息である伊織さんについても同様のことが言えます。ですが、存在していないものが会社を経営出来るわけが ありませんので、社長が役員会議で選抜なさっていた役員を新社長に据え、経営しております」 「はあ、そうなんですか」 「そして、新社長の元で役員会議を行い、アソウギの処分について充分話し合いました。佐々木さんの祖父である 佐々木長光さんと浅からぬ縁を持つアソウギは、弊社にも莫大な利益を授けてくれましたが、一方で甚大な被害を 発生させました。怪人増産計画もその一つです。新社長によって解体された怪人関連の部署から、怪人化された 人々の名簿を回収してまいりましたので、どうぞお納め下さい」 志摩子はジュラルミンケースを開き、一枚のディスクを差し出してきた。つばめはそれを受け取る。 「怪人にされた人って、全部で何人いるんですか?」 「今回の戦闘でアソウギに合体した人々は二百五十二人、研究施設にて液状化した状態で保存容器に収納されて いた人々は六十八人です。伊織さん、羽部研究員もその中に含まれております」 「で、その人達の名簿をもらっちゃっていいんですか?」 「一乗寺諜報員からフジワラ製薬にリークされた情報によりますと、佐々木さんの持つ管理者権限ともう一つの遺産 の能力を用いることで怪人化された人間は元の姿に戻れると聞きました。その作業が完了し、アソウギから解放された 人々の身元を調べるためには不可欠な資料ですので、佐々木さんが手にして頂かなければ、三百人強の人々が 路頭に迷ってしまいます。そのディスク一枚に、顔写真、住民票、指紋、DNAのデータが入力されておりますので、 御活用下さい。それ以外の用途に使う場合は、私共に御連絡下さい。協議の末、御返答いたします」 「解りました」 つばめはディスクを丁寧にテーブルに置いてから、緑茶を一口飲んだ。やけに濃く、渋かった。 「アソウギの所有権に関する書類はこちらです。佐々木さんの名義にお書き換え下さい」 志摩子は書類の束をつばめに差し出してきたので、つばめは再び受け取った。 「どうもありがとうございます」 つばめはその書類に目を通してみたが、やはり意味が良く解らなかったのでテーブルに置いた。恐ろしく渋い緑茶を もう一度飲むか飲むまいかを考えたが、結局手を付けなかった。そして、恐る恐る、藤原真子を窺った。藤原忠 の話によれば、藤原真子は息子である伊織に捕食されて死んでいるはずではなかったのか。だとしたら、この女性 は一体何なのだろう。つばめが幽霊でも見たような顔をしていると、真子は少し笑んだ。 「そう怯えなくてもよろしいですよ、つばめさん」 「え、でも……」 つばめが言い淀むと、真子は空っぽの左袖を押さえた。 「大方、夫が私のことを死んだと言ったのでしょうが、私は死んではおりませんよ。幽霊でもありません。夫が伊織に そう言い聞かせているだけなのですから」 「え?」 つばめがきょとんとすると、真子は伊織によく似た面差しでつばめを見つめた。 「御存知の通り、私はアソウギの力を借りてあの子を授かり、産みました。けれど、あの子は夫と私の子ではなく、 実質的には人間と遺産の間から産まれた子です。会社の設備で伊織の遺伝子を調べてみたことがあるのですが、 あの子の遺伝子情報は私を模倣したものであり、夫の部分はほとんど含まれておりませんでした。それ以外のもの は、アソウギだけでした。ですから、あの子は元から人間とは言い難い生き物なのです」 淀んだ沼のような色味の緑茶に目線を落とし、真子は表情を陰らせる。 「産まれて間もないあの子に母乳を与えようとしましたが、胸を囓られて肉を持って行かれましたわ。その時の傷は まだ残っております。粉ミルクを与えても、飲んだ傍から排泄されてしまいましたし、離乳食も同様でした。唯一排泄 されずに済むものは、医療機関から入手した輸血用の血液ぐらいでした。おぞましくはありましたが、それでもその頃は 穏やかな日々でした。地獄が始まったのは、あの子に歯が生えてきた頃です」 左腕があるべき空間を撫で、真子は薄化粧した顔を強張らせる。 「無関係な人間に危害が加えられてはならないと、家政婦やベビーシッターも断って、私一人だけであの子を育てて いました。夫は伊織が化け物であればあるほど喜んで、どこかの誰かから切除された腫瘍や切断された手足を 持ってきては切り刻み、離乳食代わりに伊織に与えていました。私はそれを止めさせようとはしましたが、伊織はそれを 食べてしまうのです。普通の離乳食を作り、食べさせても、口に入れた途端に吐き出してしまうのに、人間の血肉に 限っては喜んで食べるんです。そして、与えられた分だけ、伊織は日に日に大きくなっていきました」 奥様、と志摩子に気遣われたが、大丈夫よ、と言って真子は話を続けた。 「何度、あの子を殺そうと思ったのか解りません。ですが、どうしても出来ませんでした。長年の辛い不妊治療の末に ようやく授かった一粒種でしたし、抱き上げると良く笑う子でしたから。人間の血肉を食べることにさえ目を閉じて いれば、可愛い我が子には違いありませんでした。お腹を痛めて産んだ子ですから、愛情もあります。だから、 最後の最後に躊躇ってしまったんです。あの時も、そうでした」 真子は左腕の付け根を青白い指先で押さえ、背を丸める。 「あの日、私は伊織が寝付いた頃合いを見計らって、台所から包丁を持ち出しました。あの子を始末するためだけ に買ってきた新品の包丁で、刃はぞっとするほど良く切れました。あの子はリビングのベビーベッドで大人しく眠って いて、片手にガラガラを握っていましたが、歯形だらけで壊れる寸前でした。一度寝付いたら二時間は起きないの で、次に起きるのは夕方だと思っていました。だから、私はあの子の柔らかい首に包丁を押し付けて横に動かそうと しましたが、あの子は無意識に私の指を掴んできたんです。その手の熱さは、今も忘れられません」 つばめは思い描く。やっとのことで産んだ我が子が、世にも恐ろしい化け物であったことを。赤子特有の乳臭さの 代わりに血生臭さにまみれ、濁った血液が入った哺乳瓶を銜え、人間の病んだ肉を囓り、大きくなっていく乳児を。 けれど、夫はその化け物の成長を何よりも喜ぶ。化け物を愛で、慈しみ、愛情を注いでいる。その姿を目にしている と、段々と不安に駆られてくる。化け物だからと言って我が子を恐れるのは間違いではないか、と。だから、懸命に 化け物の我が子を愛そうとする。我が子もまた、愛情を返してくる。ほら、やっぱり間違いだった。指を掴んでくる手は こんなにも小さく、腕はぷっくりしている、笑顔だって天使のようだ。そのあどけない仕草に、頬を緩めた瞬間。 「……伊織は、私の指を噛み千切りました」 テーブルに目線を落としている真子は、幻肢痛を紛らわすかのように、左手のあるべき部分を握る。 「あっという間に中指を食べられて、次は人差し指、親指と順番に喰われていき、とうとう手首の骨が噛み砕かれて しまいました。包丁を投げ捨てて逃げた私に、伊織は背後から飛び掛かってきました。まだハイハイが出来るように なったばかりだったのに、不思議なものです。辛うじて首に噛み付かれることは免れましたが、肩に喰らい付かれ、 一息で骨を砕かれました。筋も千切れ、神経も途切れていたので、それ以上の痛みを感じなくて済んだのは不幸中の 幸いかもしれませんね。私の左腕をもぎ取ると、伊織は床に叩き付けられたのに、泣き出しもせずに私の左腕を 囓り続けていました。失血で意識が朦朧としていましたが、私はなんとか這いずって廊下まで逃げました。そこに 夫が帰ってきました。助けてもらおうと右腕を伸ばしますが、夫は私を素通りして、私の左腕を食べている伊織の 元に駆け寄っていったんです。そこで、あの男はなんて言ったと思います?」 惜しみない憎悪を宿している真子の顔には、一線を越えたが故に醸し出される奇妙な美しさがあった。 「これぞ世界征服の第一歩だ、って、心底浮かれた声で言いました。伊織に関すること以外は真面目で常識的な人 だったので、いつかはまともになってくれるんじゃないかって期待していたんですけど、それを聞いた途端に全てに 諦めが付きました。それから、私は志摩子さんと他の社員の方々に助けられて、なんとか命を繋ぎました。けれど、 二度と自宅には帰りませんでした。夫は私が死んだのだと伊織に言い聞かせていると志摩子さんから聞きました けど、もう怒る気にもなれませんでした。体中が傷だらけで痛かったし、恐ろしかったけれど、夫と伊織を野放しにして おくのはもっと恐ろしかったので、離婚はしませんでした。けれど、私には何も出来ませんでした。アソウギの力で 怪人にされた人々が増えていっても、力を得たことで夫の愚行に拍車が掛かっていっても、ただ見ているだけで手出し 出来ませんでした。口を出したところで、止まるわけがないと知っていましたから。だから、誰かが夫と伊織を止めて 下さるのを待っていたんです」 そう言って顔を上げた真子は、満面の笑みを浮かべていた。けれど、そこに柔らかさはない。 「ありがとうございます、佐々木さん。夫と息子に引導を渡して下さって」 「あ、う……」 藤原忠を狙撃したのは、つばめでもコジロウでもないのに。つばめが言い淀むが、真子は笑みを保つ。 「伊織と羽部さんの行方は解らないらしいですけど、二人が餓死するのは時間の問題ですから。生体安定剤の供給 も途切れてフジワラ製薬の援助もなくなったのですから、人間を捕食すればすぐに表沙汰になり、政府が殺処分して 下さるでしょう。そうすれば、あの子は死んで、私はやっと自由になれます。あの子の母親でも、藤原忠の妻でも なくなれます。言い値で謝礼をお支払いいたしますわ」 本人は至極真っ当なことを言っているつもりなのだろう、真子の口調は晴れやかだった。これまで彼女が語った 過去を顧みれば、真子はフジワラ製薬の最大の被害者だ。どんな形かは想像すら付かないが、遺産と交わって人間 ではない我が子を産み落とした末、その我が子に左腕を喰い千切られ、挙げ句の果てに瀕死の重傷を負っていた にも関わらず夫に目もくれられなかったのだから、悲惨としか言いようがない。しかし、真子は夫と息子の元からは 逃げ出したが、フジワラ製薬とは関わり続けていた。その理由は恐らく金だろう。左腕を欠損してしまったのだから、 生活に支障が出るのは確実だろうし、治療や支援を受けるためにはまとまった金が必要なのも知っているが、それを フジワラ製薬から毟り取る必要はどこにもない。だから、真子も普通とは言い難い価値観の持ち主だ。 「いりませんっ!」 そんな価値観を受け入れたくないつばめは、腰を浮かせ、テーブルに両手を叩き付けた。 「アソウギの権利と怪人にされた人達の情報だけ頂ければ、それで結構です!」 「あら。それでは私の気が済みませんわ」 「どうしてもって言うなら、怪人にされた人達が元に戻った時のための施設を作るために使って下さいよ! てか、 それが道理じゃないですか! 誤解されているようですけど、社長さんを撃ったのは私でもコジロウでも先生でも ないんですからね! それだけは、ちゃーんと覚えていて下さい!」 言うだけ言って気が済んだのでつばめが座り直すと、真子は少し考えた後、志摩子に言った。 「では、志摩子さん。そのようにいたしましょう。佐々木さんがそう仰るんでしたら」 「はい、奥様」 と、志摩子もすんなりと承諾したので、つばめは拍子抜けした。 「え? いいんですか?」 「だって、佐々木さんは弊社の大株主ですもの」 真子の言葉につばめは心底驚き、美野里を問い質した。 「そうだったのぉ!?」 「あれ、知らなかったっけ? 長光さんはねー、吉岡グループの会社のいくつかとフジワラ製薬とハルノネットと新免 工業の大株主なのよ。三割はカタいわね。まあ、弐天逸流だけはそうじゃないけどね。あれ、宗教法人だから」 しれっと答えた美野里に、つばめはこめかみを押さえた。 「てぇことは何、私が吉岡一味に負けて、あっちに利益が出たら、その分の配当金がざざっと入ってくるわけ?」 「そういう理屈になるわね」 「でも、私が最悪のタイミングで持ち株を売り払ったら、吉岡一味とその背後の会社に損失を出せるよね?」 「そういう理屈にもなるわね」 「で、私が色々とやりすぎて、吉岡グループもフジワラ製薬もハルノネットも新免工業も弐天逸流も倒しちゃったら、 私の懐に入る利益も大幅に減って、共倒れしちゃうかもしれないってこと?」 「そういう理屈でもあるわね」 「ややこしいなぁ、もう」 敵対関係ではありつつも、つばめとりんねは微妙な均衡を保ち合っているとは知らなかった。持ちつ持たれつ、と いうことだが、利害関係が釣り合っているわけではない。吉岡一味とその背後組織が持っている遺産をつばめが 手に入れたところで、イコールで利益になるわけではなく、むしろマイナスかもしれない。アソウギに溶けている人々 を元に戻して社会復帰させるための手伝いをするとなれば、それ相応の支出が嵩むし、元怪人の人々がちゃんと 社会復帰したからといってつばめに利益を還元してくれるという保証もないのだから。 だが、奥只見ダムの橋に散乱したアソウギを一滴残らず回収し、無限防衛装置である金属の棺、アソウギの中に 収めたのはつばめとコジロウだ。アソウギを手放したり、フジワラ製薬に突き返してしまえば、前回の二の舞になる だろう。それどころか、吉岡グループがアソウギを買い上げて他の遺産と併用した攻撃を行ってくるかもしれない。 事態の悪化を免れるためには、多少の損失は仕方ないことなのだ。しかし、つばめはしばらく前に三千五百億円 もの相続税を納めたばかりであり、懐具合は暖かいとは言い切れない。それに、三百人強の人間を社会復帰させる ためにはどれくらいの資金が必要なのか見当も付かないので、徐々に不安になってきた。 けれど、威勢良く啖呵を切ったからには引き受けなければなるまい。つばめは必要書類に署名捺印し、美野里と 志摩子に何度も内容を確認してもらい、書類の内容と意味も確認して納得してから、アソウギと三百人強の人間の 身柄を引き受けるという取り決めを交わした。人々が社会復帰するための下準備に必要な一時収容施設を作って おけ、という約束もきちんと行った。その後、細々とした話し合いを終えてから、志摩子と真子は東京に帰った。 その間、コジロウは事務所の出入り口を守っていた。 12 7/8 |