機動駐在コジロウ




水泡にキス



 一昼夜が過ぎると、現実味が薄れてくる。
 あの出来事は悪い夢だったのではないのか。けれど、今もこうして海にいて、海上保安庁の巡視船に保護されて いるし、海面には大型客船の破片が未だに漂っている。大型タンカーや牽引船が引くフロートを使って、回収しては 陸に運んではいるが、それでもまだまだ作業が追い付かない。大型客船の燃料である重油もたっぷりと漏れて虹色 の光沢を持つ黒い帯が波間に伸びている。上空にはヘリコプターが飛び交い、哨戒機も通っていく。
 海上保安庁や海上自衛隊の人員は、皆、忙しそうにしているが、つばめは暇を持て余していた。それは他の面々も 同じことだ。一昼夜を経ただけで頭蓋骨と胸を貫通するほどの大ケガが完治してしまった寺坂、どさくさに紛れて 新免工業の所有する船内作業用の女性型アンドロイドを私物化した道子、カレーを食べるだけ食べると爆睡して 起きる気配すら見せない一乗寺、と、三人は上陸許可が出ないのを良いことに余暇を謳歌している。新免工業の 社員である戦闘部隊の人々は全員回収されて、傷を手当てされている。あれだけの大惨事であったにも関わらず、 一人の死者も出なかったのは、ひとえにナユタの能力のおかげだ。
 件の結晶体はと言えば、つばめ達が乗船している巡視船の後部にあるヘリポートに固定されていた。ワイヤーで 幾重にも縛り付けられていて、澄み切った青白い結晶体にはブルーシートが掛けられている。大型客船から回収 してもらった私服を着たつばめは、トートバッグを下げてデッキを歩いた。海上保安官と擦れ違ったので挨拶してから ナユタに近付くと、ナユタは淡く発光した。ナユタとヘリポートの間には十数センチの空間が空いていて、浮遊状態を 保っている。潮風が通り抜けてブルーシートがふわりと丸く膨らみ、ナユタを警護するコジロウの影も揺れた。

「コジロウ!」

 つばめが手を振ると、コジロウは振り向いた。

「つばめ、所用か」

「上陸許可が出るまでは、まだまだ時間があるよね?」

「そうだ。事後処理を終えない限りは、つばめと始めとした事件関係者は洋上から移動出来ない」

「だからさ、その間に写生だけでも片付けておこうと思って。でも、変なところを描いたら機密とかに関わっちゃいそう だから、コジロウに聞いておこうと思ってさ。どの辺なら大丈夫かな?」

 つばめがスケッチブックを広げながらコジロウに尋ねると、全く別のところから返事があった。

「水平線でも描いておけ。下手に陸地を描けば地形と距離感で座標がバレるし、船もヘリも以ての外だからな」

「武蔵野さん、こんなところにいたの?」

 つばめは体を傾けて、ナユタの後ろ側に突っ立っている大柄な男、武蔵野に声を掛けた。おう、と渋みのある声で 返事をした武蔵野は、体のそこかしこに包帯が巻き付けられていた。海上自衛隊からの借り物である水色の迷彩服 を肩から引っ掛けていてジャングルブーツも履いているので、事情を知らなければ自衛官の一人にしか見えない だろう。義眼の填った右目の上には包帯を巻いていなかったが、額には幅広のヘアバンドのように包帯が何重にも 巻かれていた。浅黒く引き締まった腕も同様で、肌色の濃さで包帯の白さが際立っていた。それを目にし、つばめは 胸が痛んだ。いずれの傷も、つばめを守るために付いてしまったのだから。つばめの表情に目聡く気付いたのか、 武蔵野は肩を竦めてみせた。

「気にするな。思春期の小娘じゃあるまいし、傷が付いたところで俺の人生に何の支障も来さない」

 むしろ箔が付く、と付け加えた武蔵野に、つばめは安堵した。

「そう、だったらよかった」

「お前の方こそ、ちゃんと眠れたか? 船酔いもしなかったか?」

「どっちも大丈夫。そりゃ、あの夜は目が冴えちゃって寝付くに寝付けなかったけど、もう平気だから。船酔いだって ほとんどしなくなったし、御飯だっておいしいし。心配してくれてありがとう」

 つばめが笑みを返すと、武蔵野は照れ臭そうに顔を逸らし、わざとらしくサングラスを直した。

「まあ、なんだ。だったら、いいんだ」

「で、この際だからちゃんと聞いておくけど、武蔵野さんって本当に私のお父さんじゃないんだよね?」

「……そうだ」

 武蔵野はつばめの背後に佇むコジロウの威圧的な視線を気にしつつ、答えた。

「俺とひばりの間には何もなかったんだ。誓って言う、不用意に触ったこともない。状況が状況だったから、手を出す なんて以ての外だった。だから、俺とつばめには何の関係もないんだ。強いて言うなら、お前の母親の知り合いって 程度だ。信じてくれ、と言ったところで信じてもらえるとは思わないがな」

「武蔵野さんの態度を見ていれば、信じられるってことぐらい解るって。だって、あんまりにも純情だから」

 つばめが茶化すと、武蔵野は短髪を掻きむしった。

「ああ、くそ、やりづらいな」

 壁のような体格と凶相と生傷だらけで筋肉に覆われた体とは裏腹に、武蔵野の内面は呆れるほど清らかだ。その 落差を感じるたびに、つばめはなんともいえない感情が込み上がってきた。笑いたいような、そんな性格だったから つばめの母親とは何も起きなかったんだよ、となじってやりたいような。その調子で傭兵なんてよく務まっていたもの だなぁ、と関心してしまうような。けれど、武蔵野が悪い人間ではないと知った嬉しさが一番大きかった。

「ねえ武蔵野さん」

「なんだよ」

 つばめに背を向けて海に身を乗り出した武蔵野がぞんざいに答えると、つばめはその隣に並んだ。

「どうせなら、うちに来てよ。で、雇われてよ」

「道子にもそう言ったのか?」

「うん、まあね。あの時はちょっと脅し気味だったけど、武蔵野さんはストレートな方がいいかなって思ってさ。それに、 お母さんの話だってもっと聞きたいから。武蔵野さんだって、私の近くにいた方が色々と便利でしょ? まだまだ 手を引くつもりがないのなら、前線に近いところにいないとね」

「給料は?」

「その辺の細かいところは、うちに帰ってからお姉ちゃんと話し合って決めようよ。その方が確実だし。んで、契約は するの、しないの、どっちなの?」

 つばめが手を差し伸べると、武蔵野は口角を吊り上げた。

「望むところだ。お前の兵隊になってやるよ」

 武蔵野の手が振り下ろされ、つばめの手を弾いた。ぱぁんっ、と乾いた打撃音が響いて肩まで痛みが走ったが、 すぐに痛みは治まった。これで一安心だなぁ、とつばめが振り返るとコジロウが武蔵野を凝視していた。武蔵野との やり取りに嫉妬したのだろうか。いや、違うだろう。武蔵野がつばめの手を叩いたから、警戒していると考えるのが 自然であり、彼の機能としては正しい。情緒的な判断をしないのがコジロウなのだから。
 おーい、と呼び掛けられ、つばめが音源に向くと寺坂と道子が甲板に出てきていた。寺坂は紺色のツナギを着て いたが両袖は捲り上げられていて、右腕の触手は白い布で縛ってある。つるりとした禿頭には傷一つなく、頭蓋骨 に大穴が開いていたとは思いがたかった。道子はサイバーパンク風味のメイド服のままで、すっかり気に入っている らしく、意味もなく回転してはミニスカートを翻してみせた。

「今日の昼飯は玉子丼とマカロニサラダだとよ。まあ、それぐらいしか楽しみがねぇからな」

 寺坂の報告に、つばめは喜んだ。

「だよねー。でも、ここの御飯、おいしいから好き!」

「やっぱり御食事というのは、日頃の経験と手間が物を言うんですねぇ。私も頑張らなければいけませんね!」

 道子が意気込んだ途端、武蔵野が後退った。

「おい、それだけは止めろ。絶対に止めろ。何が何でも止めろ」

「むっさんが三回言うほど不味く進化しちまったのか、みっちゃんの料理は。暗黒面に真っ逆さまだなぁ」

 寺坂が大いに嘆くと、つばめも渋い顔をした。

「まあ……うん……。米の磨ぎ汁の紅茶の衝撃は未だに……」

「お前んちで道子に作らせちゃいないよな?」

 武蔵野が心底不安げに尋ねてきたので、つばめは全力で首を横に振った。

「ないないないない、絶対にない!」

 そう言った途端、武蔵野の表情が見るからに綻んだ。道子のとんでもない料理で、余程耐え難い苦痛を受けたの だろう。当の道子は、皆から貶されたので拗ねてはいたが本気で怒ってはいなかった。料理が恐ろしく下手なことは 自覚しているので、まだマシなのだ。だが、道子はメイドとしてのやる気を持て余しているので、いついかなる場合に とんでもない料理を作るのかが予測出来ないという、タイマーが壊れた時限爆弾のような危うさがある。つばめ達に 出来るがあるとするならば、その時限爆弾が湿気っていますように、と祈ることだけである。

「で、ですね」

 道子は妙にグラマラスなボディを見せつけるように胸を張り、腕を組んだ。

「ちょいちょいっと暗号回線の通信を傍受して上陸許可に必要な条件を探ったんですけど、ナユタの完全な沈静化 が第一条件みたいですね。新免工業の社長さんが遺産関連の捜査に全面協力してくれることと、ナユタを放棄して つばめちゃんに譲渡することも重要視されていますけど、それはまあどうにかなるでしょうね。新免工業の社長さんは なかなかの曲者ですけど、フジワラ製薬の社長さんよりは話が解りますし、通じますからね。でも、問題なナユタです。 この子はつばめちゃんの言うことを聞いてくれるようにはなりましたけど、上手く制御出来ないんですよー」

「あの時は凄く上手くいったよ? それなのに、また制御出来なくなったの?」

 つばめが道子に聞き返すと、道子は肩を竦める。その拍子に、シリコン製の豊満な乳房も上下する。

「ちょーっと違いますねー。パスワードが変わってログイン出来なくなった、って感じですねー」

「てぇことは、また暴走しちまうのか?」

 寺坂が眉根を顰めると、道子は首を横に振る。

「いえいえ、それはもう起きません。つばめちゃんの生体情報のおかげで分子構造が安定して、分子活動もかなり 落ち着いたので。でも、ナユタの量子アルゴリズムとアマラの量子アルゴリズムが噛み合わないんです。遺産 同士なので互換性はあるし、プログラム言語も酷似しているんですけど、どうやってもシステムが動かないんです。 使用しているプログラム言語が違うみたいで。たぶん、制御装置の一環じゃないかと思うんですよね。全ての遺産 が同じプログラム言語だと使い勝手は良いですけど、アマラを奪われて押さえられちゃったら、アマラの能力だけで 他の遺産まで掌握出来ちゃいますからね。だから、そういう面倒臭い仕掛けにしたんじゃないかなーって。アマラから 完全に独立した情報記録媒体に保存してある、って情報は見つけたんですけど、それは遺産とはちょっと違う代物 なので見つけ出すのが難しいんですよー。参っちゃう」

「だったら、アマラの演算能力でナユタのプログラム言語を算出すればいいんじゃないのか?」

 武蔵野の提案に、道子は頬に手を添えた。

「それはやりましたよ、何度も何度も。でも、どうもアマラとナユタは別次元の宇宙から引っ張ってきた代物らしくて、 何をどうやったって噛み合わないんですよー。いや、ちょっと違うかな? 厳密に言えば、同じ宇宙だけど別の時系列 を辿った宇宙から、って言った方が正しいですかね。噛み合わないけど、基本理念は同じなので」

「ふーん」

 そう言われても、当のナユタが大人しくしているので危機感がない。つばめの気のない返事に、道子は意味もなく 二の腕を寄せ、コルセット状のメイド服の胸元に谷間を作った。遊んでいるのだ。

「ですが、ナユタを制御出来なければ、現状は打破出来ません。このままでは一生上陸許可が下りませんし、海上 ではネット通販が使えません。妨害電波やその他諸々をかいくぐってネットに接続することは出来ますけど、環境が 悪いので動画はガクガクでブロックノイズだらけです。SNSだってレスポンスが悪いので、話題のあのアニメの実況 に参加出来ません。特撮だって見逃してしまいます。一応、つばめちゃんちのデジタルレコーダーは遠隔操作出来る のでやるだけやっておきましたけど、そのデータをこっちに引っ張ってくるのは手間ですから。とにかく、私は上陸 したいのです。だって、そうじゃないと、この前発注したバニーガールの衣装が受け取れないんですよ?」

「それが本音か」

 武蔵野の辛辣な言葉に、道子はにっこりした。

「見せる相手もいませんけどね! 自己満足万歳です!」

「俺もそろそろ酒が欲しいしなぁ。俺のかわいこちゃん達も、乗っかっていじくって良い声で鳴かせてやらねぇと調子 が悪くなっちまう。で、みっちゃん、どうすればナユタを落ち着かせられるのか、解ってんだろ?」

 寺坂はタバコを吸えないのが手持ち無沙汰なのか、布の下で触手をうねらせた。

「当たり前です。私は電脳体であってコンピューターのプログラムの一種ですから、結論のないことは言いません。 結論ありきで行動しますから。それで、色々な角度から検証して仮想実験を行った結果、遺産の制御に最も確実 で強力な手段が一つだけ判明したんです。それはですね、つばめちゃんのキスです」

「……うぇ?」

 素っ頓狂すぎて、つばめは声を裏返した。皆の視線が集まり、つばめは赤面して俯いた。まさか、まさか、まさか、 道子はあのことを知っているのではないだろうか。コジロウの記憶を覗いたのではあるまいか。コジロウが身動いだ のか、変な駆動音が聞こえた。手付かずのスケッチブックを抱えて背を丸めたつばめに、道子は意味深に笑う。

「更に言いますと、ナユタはつばめちゃんが作らせたエネルギーの泡に包まれている状態なんです。あれのおかげ でナユタは安定していますが、逆に言いますと、通常空間と閉鎖空間の隔たりが広がってしまっているのでナユタ の制御が難しくなっている一因なんですよ。そこで、通常空間に露出したナユタを通じてナユタ本体を遠隔操作すれば いいと判断しましたので、そのナユタの分子構造を変換して手足にコジロウ君をつばめちゃんが制御すれば私の方も アマラを通じてナユタに働きかけられるなー、って。で、その、コジロウ君のエンジンであるムリョウの出力をナユタを 制御出来るほど上げられる方法は、つばめちゃんのキスだけだと」

「それってどういう理屈なんだよ。おとぎ話でもあるまいし」

 寺坂が半笑いになったので、道子は説明した。

「細かく説明するとですね、遺産はつばめちゃんのゲノム配列を読み取って管理者を認識しているんですが、脳波 も合わせて読み取ると効果が増すんです。ゲノム配列だけだとパスワードを入力しただけですけど、脳波がセットだと 網膜認証や指紋認証を行ったのと等しくなる、という具合ですね。ですので、色んな意味で不安定なナユタを完全 にコントロールするためには、脳を近付ける必要があるんです。おでこをこつん、とするだけでもイケるとは思うん ですけど、キスの方が素敵じゃないですか。色んな意味で!」

「で、でっ、でも、だからってぇ」

 つばめが羞恥のあまりに声を詰まらせるが、道子の笑顔は変わらなかった。

「大丈夫ですって。周りには見えないようにしますし、私達だって見ませんから」

「で、だ、だからって、そういう問題じゃ……」

 行為が問題なのだ。つばめがコジロウを横目に窺うと、コジロウはマスクフェイスを傾けた。

「本官には理解出来ない」

「んだよ、つばめはキスの一つもしたことねぇの? んじゃ、手本でも見せてやるかぁ」

 妙にやる気になった寺坂は、にゅるりと触手を伸ばして武蔵野を掴まえた。

「お、おおうっ!?」

 逃げる間もなく引き摺られた武蔵野は、寺坂の目の前に立たされた。猛烈に嫌な予感がする。寺坂の無茶苦茶 さにつばめが戸惑っていると、道子はむくれていた。自分が練習台ではないのが悔しいのだろうか。

「まずはこう、な」

 触手を引き締めて右腕を形作った寺坂は、その右腕を武蔵野を腰に回し、自身の腰に寄せた。

「おい、止めろ。俺にその気は全くない、断じてない、あるわけがないっ!」

 武蔵野は必死に抵抗して寺坂を押し退けようとするが、顔を押さえ付けられて仰け反った寺坂はおもむろに触手を 一本伸ばし、武蔵野のズボンに滑り込ませた。直後、武蔵野が呻いて背を丸めた。急所を攻撃したらしい。

「後で殺す、絶対に殺してやる……」

 顔を歪ませながら恨み言を絞り出した武蔵野を横目に、寺坂はキスの講習を続行する。

「相手の腰と自分の腰を寄せる。でも、この時にあんまりやりすぎないことだな。触れるか触れないかが丁度良い。 その方が相手も意識してくれるし、こっちも盛り上がるからな。んで、その次はこうやって、だな」

 寺坂は左手で武蔵野の顎を引かせると、武蔵野のサングラスを外し、自分のサングラスも外した。

「しばらく相手と目を合わせる。タイミングを計るっつー意味もあるが、あんまりがっつくのはガキ臭ぇし、どうせヤるん だったらじっくり味わいたいからな。ただの棒と穴で終わるんじゃ、どっちも楽しめねぇし」

「いい加減にしろ、生臭坊主!」

 余裕を取り戻した武蔵野が寺坂を殴ろうと拳を固めるも、寺坂は数本の触手を出して武蔵野の拳を封じた。

「本当はもうちょっとじゃれ合ってから始めるのが好きなんだが、まあ、仕方ねぇ。んで、こうする」

 そう言って、寺坂は武蔵野の首に左腕を巻き付けて引き寄せ、躊躇いもなくその唇を塞いだ。しかも、相手の唇を 甘く噛んでは吸う、本格的なディープキスだった。あまりの展開につばめが硬直していると、道子に至ってはその場 にへたり込んだ。コジロウだけがノーリアクションだったが、その思考回路が平穏であったかは定かではない。
 ひとしきり武蔵野を弄んでから、寺坂は触手と腕を緩めて武蔵野を解放した。武蔵野はすぐさま後退って寺坂との 距離を開けると、これ以上ないほどの凶相を作って口元を乱暴に拭った。寺坂は口元を舐め、海面に唾を吐く。

「むっさん、見た目の割にヤニ臭くねぇなぁ。おかげでやりやすかったけど」

「……この野郎」

 武蔵野が憤怒を漲らせながら吐き捨てると、寺坂はにやりとした。

「後の処理は勝手にしろよ。俺は男じゃ抜けねぇし、抜いてやる義理もねぇし?」

「あ、あのぉ……」

 生身であれば涙目になっているであろう声色で細く呟いた道子に、寺坂はその前で片膝を付いた。

「悪いな。やっぱり俺、どうしてもみっちゃんには手ぇ出せない。ごめんな」

「いいんです。それで、いいんです」

 道子は首を横に振ったが、その語気には強がりしか含まれていなかった。寺坂と道子を結び付けている関係は、 暖かみがあるからこそ隔たりが深いのだろう。それを肌で感じ取ったつばめは、ちょっと切なくなった。美野里もまた その関係の一端なのだろうか。だとすると、美野里は二人の関係をどう思っているのだろう。美野里は寺坂の好意 をはねつけてはいるが、完全に拒絶している様子はない。きっと、寺坂と美野里の間にも、一言では言い表せない 事情があるのだろう。大人って大変だなぁ、とつばめは他人事のように思った。

「んで、どうする?」

 コジロウとやっちゃうの、と寺坂に問われ、つばめは我に返った。コジロウと目を合わせると、コジロウはつばめを 真っ直ぐ見下ろしてきた。赤いゴーグルには、その赤さを上回るほど赤面したつばめが映り込んでいる。滑らかな白 のマスクを見つめていると、無意識に自分の唇を押さえてしまった。
 出来ることならもう一度、キスしたいと思っていた。だが、それはちゃんとコジロウに好きだと言ってからにしたいと 思っていた。そうしないと筋が通らないし、好意と言えども闇雲にぶつけてはコジロウに悪いからだ。もう少し色気の ある場所と経緯であれば良かったのに、と躊躇する一方、上陸許可を出してもらわなければ夏休みの続きを満喫 出来ない、とも考えていた。軽く頭痛を覚えるほど悩み抜いた末、つばめは腹を括った。
 もう一度、してやる。





 


12 10/8