機動駐在コジロウ




災い転じてフェイクと為す



 あれから、誰も帰ってこなくなった。
 美月はざらついた畳に座り込み、ただひたすらにぼんやりしていた。音がないと寂しいので、テレビを付けっぱなし にしてはいるが、立体映像の画面を視界に入れていなかった。再放送であろう何かのドラマが放映されているが、 面白くもなんともないので内容はさっぱり頭に入ってこなかった。使い古された座卓に差し込んでくる障子越しの光 は明るく、それだけでも暑苦しい。クーラーを効かせていても暑く、何もしていなくても汗が滲んでくる。
 このまま自分はどうなってしまうのだろう。美月は寂しさのあまりに泣きそうになったが、必死に弱気を堪えていた。 この家の主である母方の親戚も、美月の母親も、気付いた頃には帰宅しなくなっていた。そればかりか、居候である 羽部までもが姿を消すようになった。一週間ほど前に、ガレージからはアストンマーチンDB7と共にいずこへと 去ってしまったのだ。羽部の私物も綺麗に消えていて、この家に住んでいた痕跡を消していったかのようだ。
 頼れる大人は誰一人としていなくなってしまった。一人だけでも頑張ろう、ちゃんとしよう、しっかり生きていこう、と は思うが、そのために必要な現金の在処が解らない。これまでは母親の限りある貯金を切り崩して生活用品など を買い揃えていたのだが、母親本人がいなければその貯金を引き出すためのカードも通帳も一切合切使えない。 美月の名義の預金口座には毎年のお年玉や毎月のお小遣いを貯めてあったが、レイガンドーの部品を買い込む ためにほとんど使い切ってしまった。手持ちの現金も皆無で、このままでは光熱費すらも払えない。

「……どうしよう」

 つばめに頼る、という選択肢も思い付いたが、それだけはダメだと美月は必死に自制した。どうしても辛くなったら 佐々木家に居候してもいい、とつばめからは言われているが、まだその言葉に甘える段階ではないと思っていた。 この程度のことで音を上げていては、もっともっと辛い目に遭っているつばめに悪いではないか。だが、現金がない のは紛れもない現実であり、冷蔵庫の中身も乏しくなってきていた。電気が止まるよりも先に、栄養失調が原因の 夏バテで倒れてしまう方が早いのではないか、という不安も過ぎる。だが、しかし。

「美月」

 居間の掃き出し窓越しに、レイガンドーが覗き込んできた。美月ははっとして、彼に向く。

「え、あ、何? どうしたの、レイ?」

「社長が来た」

「え?」

 その言葉を耳にした途端、美月はむらむらと腹立たしさが湧いてきた。レイガンドーが社長と呼ぶ人間は、彼を 開発製造した倉重機の社長であり美月の父親である、小倉貞利だけだからだ。ここは美月の母親の実家なので その住所を知っていてもおかしくはないが、なぜ今になって顔を出すのだ。地下闘技場で美月を賭け金にしてまでも ロボット賭博を張ろうとしたくせに、よくも美月に近付けたものだ。だが、頭に血が上るよりも先に、父親に甘えたい 気持ちが膨れ上がってきた。意地を張って、様々な辛いことを堪えてきた反動だった。
 どうする、とレイガンドーに問われ、美月は悩んだ。父親に会いたいが、会ったら何をされるのだろう。天王山工場 の地下闘技場にまた連れ込まれて、今度はレイガンドーと美月を一纏めにして賭け金にするのだろうか。それとも、 レイガンドーの名義を書き換えて美月の元から奪っていくのだろうか。或いは、レイガンドーを型落ちしたロボットだと 廃棄処分して美月だけを引き取るつもりなのだろうか。嫌な想像ばかりが巡り、美月は唇を噛み締めた。
 小一時間考えた末、美月は父親に会うことにした。レイガンドーからは無理はするなと言われたが、レイガンドー のためにも父親とは面と向かって話し合う必要があるからだ。寝起きの格好だったので、服を着替えて顔も洗って 髪も整えていつものサイドテールに結んでから、美月は腹を括って外に出た。レイガンドーに促されて道路に面した ガレージに近付くと、そこには巨大なコンテナを牽引しているトラックが駐まっていた。コンテナの側面には、派手な レタリングが施された文字が躍っている。REIGANDOO! と。

「……え?」

 美月が唖然としていると、そのトラックから降りてきた男が声を掛けた。

「おう、元気してたか!」

 油染みの付いた作業着姿は以前と全く変わらないが、表情が格段に明るくなった父親、小倉貞利だった。美月が 気を緩めてはいけないと身を強張らせたが、父親の大きな手で頭を撫でられると警戒心が吹き飛んでしまった。

「レイとも仲良くやっているみたいだな! どこもかしこも改造してあるとは、さすがは俺の娘だな!」

 機械油と金属粉と脂っこい汗の匂いもまた、いつもの父親だった。美月は文句をぶつけたいと思ったが、父親の 笑顔を目の当たりにすると何も言えなくなった。無条件で気が緩んでしまうからだ。

「母さんは?」

 小倉の問いに、美月は首を横に振る。仕事に行ったまま、戻ってこなくなってしまった。

「親戚の人達は?」

 その問いにも、美月は首を横に振る。知っていたら、とっくに捜しに行っている。

「だろうな」

 小倉は驚きもせずに、再度美月の頭を撫でてきた。腰を曲げて目線を合わせ、美月の肩に手を添えてくる。

「俺に言いたいことが山ほどあるだろう?」

 美月は嗚咽を押し殺しながら頷き、ハーフパンツを力一杯握り締める。美月の背後に膝を付いたレイガンドーは、 美月と小倉を見比べていたが、自分の名前が目立つコンテナを指した。

「俺も色々と聞きたいことはあるが、社長。そのトラックは一体何なんだ?」

「興行するために作ったんだよ。コンテナの中はお前の部品と整備道具が一式、その他諸々」

 小倉の言葉に、美月は困惑した。

「興行、ってどういうこと?」

「とりあえず、涼しいところで話そう。ここじゃ倒れちまいそうだ」

 上がってもいいよな、と小倉が家を示すと、美月は頷き返した。衰えることを知らない暑気が立ち込めるガレージ の前に突っ立っているよりも、クーラーの効いた居間に戻った方がいいのは確かである。レイガンドーにも居間の前 に来るように言ってから、美月は父親と共に家に戻った。
 冷蔵庫で良く冷えていた麦茶をポットごと運び、居間に戻ってくると、小倉は居間と続いている仏間に入っていた。 あの怪しげな宗教の御神体やら何やらを見るのが嫌なので、閉め切ってあったため、仏間から流れ出してくる空気 は濁っていた。美月が恐る恐る仏間を覗き込むと、父親はいつになく怖い顔をしていた。

「美月。お前はこいつを拝んだことはあったか?」

「ないよ。しろって言われたことはあったけど、どうしても嫌だったから」

 美月が小声で言うと、小倉は見るからに安堵した。

「そうか、だったら良かった」

 小倉は仏間から居間に戻ってくると、美月が用意しておいた麦茶を呷って飲み干した。すぐさまお代わりをコップ に注いで半分ほど飲むと、深くため息を吐いた。美月は少しだけ麦茶を飲み、目線を彷徨わせる。

「で、その、お父さん。どうして、私にああいうことをしたの?」

「言い訳に聞こえるかもしれないが、俺は美月をあの宗教から離そうと思って、ああいうことをしたんだ。荒事にした のも、そうすれば母さんは手を引いてくれると思っていたからだ。だが、逆効果だったようだな」

 小倉は薄く結露の浮いたコップ越しに、暗い表情の一人娘を見つめる。

「母さんが弐天逸流を信じるようになったのは、ずっと前のことだ。俺と出会う前だ。母さんだけじゃなく、この家族、 美作家の人間は全員が弐天逸流の信者なんだ。それに気付いていたら、俺は母さんとは一緒にならなかったかも しれないが、そうなっていたら美月とは出会えなかったんだよな」

 少々複雑そうに言い、小倉は美月の横顔を眺める。

「弐天逸流は死んだ人間を生き返らせる、ってのが大命題なんだ。新興宗教としてはありがちだし、そんな与太話を 真に受ける方がどうかしている。俺だって、そんなものは信じちゃいないさ。そりゃ、誰かが死んだら悲しいし、空しく なるが、だからって墓を掘り起こして生き返らせて何になるんだよ。俺は何度も母さんにそう言ったし、そんなことが あるわけがないと言ったんだが、どうしても聞き入れてくれなかったんだ。それが嫌で何度も別れようかと思ったが、 美月もいたし、会社も大きくなってきていたから、そうもいかなかった」

「でも、東京にいた頃のお母さんは普通だったよ?」

「家の中ではな。だが、外に出て信者同士で会っていたんだよ。俺も何度か誘われたが、仕事があるからと言って 全部突っぱねたんだ。それがいずれ美月を誘うのかと思うと、俺は怖くなったんだ」

「地下闘技場に行っていたのも、うちに帰ってきたくなかったから?」

「正直に言えば、そうだ。俺が組み上げたレイガンドーの性能を限界まで引き出せるのが気持ち良かったから、って のもあるけどな。俺に地下闘技場の話を持ち掛けてきたのが吉岡グループの人間だってことも知っていたが、家に 帰るのがどうしても耐えられなかったんだ。すまん、美月。元はと言えば、俺が母さんから逃げたのが悪いんだ」

「うん……。だけど、吉岡グループと何かあったの? 確かに、あの会社の人達は私の友達にあんまり良くないことを しているけど、それとお父さんがどういう関係があるの?」

「俺の古い友人があの会社と因縁があるんだよ。大事な預かり物もあったから、極力関わらないでいたんだ。だが、 その預かり物も母さんが持ち出して、自分の弟に渡していたんだよ。金庫ごと。そいつはお前の伯父に当たる男で、 その預かり物を利用してハルノネットに就職してろくでもないことをしていたらしいが、会ったことはあるか?」

 ハルノネット、と聞いて美月が思い当たったのは、設楽道子だった。だが、その設楽道子を追い詰めた人間が伯父 であることも知らなかったし、そもそも面識がなかったので、美月は首を横に振った。小倉は余程心配だったのか、 弛緩するほど深く息を吐いた。ああ良かった、と小声で呟いてから、話を続けた。

「その預かり物がこの家にあると知ったのは、ごく最近だ。だから、すぐにでも取り戻そうと思ったんだが、俺の方も 身動きが取れなくなって機会を逃したんだ」

「それもやっぱり、吉岡グループのせい?」

「広い意味ではな。ほら、少し前にハルノネットが妙な騒動を起こしただろう? それの影響で、俺が新しく起こした 会社が大混乱しちまってな。で、その後片付けと再構築を終えたから、ようやくこっちに来られたんだ」

 だが、遅かったみたいだな、と付け加え、小倉は眉間を押さえた。

「俺の役割は吉岡グループとその他の連中が目もくれないような位置付けで、預かり物を守ることだったんだ。だが、 それすらもまともに出来なかった。どれだけ重要かってことが理解出来ていなかったからだ。最後の最後で自分の ことだけを考えていたから、いつもいつもこうなっちまうんだ。だから、今度こそやり通す」

「それで、その預かり物ってどんなものなの?」

 美月の問いに、小倉は指を動かして空間に小さな長方形を作った。

「これぐらいの大きさの薄いカードで、金属製で、全部で十六枚ある。そのうちの一枚は破損していて、警官ロボットの 一体とレイガンドーと岩龍で分割して使用しているんだ」

「え、それってコジロウ君のこと?」

「ああ、そういえばそういう名前だったな。あの一体は」

 知り合いなのか、と小倉に尋ねられ、美月は頷いた。

「うん。友達のボディーガードなの」

「佐々木の孫娘だな。……なんだよ、あいつ。ここまで来たなら、直接会っていけばいいじゃないか」

 小倉は苦々しげに零してから、胡座を掻いていた足を伸ばした。

「ねえ、お父さん」

「なんだ」

「これから、どうするの」

 帰られたら、心細さでどうにかなりそうだ。美月が弱々しく漏らすと、小倉は笑った。

「一晩泊めてくれ。どうせ誰も帰ってこないんだろうし、俺も長いこと運転してきて少し疲れたからな。なんだったら、 夕飯は適当なのを見繕ってきてやるよ。レイガンドーの細かいメンテナンスもしてやりたいし、美月ともちゃんと 話がしたい。俺も話したいことが山ほどあるんだ」

「……うん」

 美月は頷くだけで精一杯で、込み上がる感情を抑えきれなくなった。一時はあんなにも恨んだのに、憎んだのに、 こうして傍にいてくれるだけで刺々しい気持ちが消えてしまった。もっと父親と一緒にいたい、色んな話をしたい、と 願って止まなかった。父親も似たような心境なのだろう、泣き笑いのような顔で美月の頭を撫でてきてくれた。その 仕草は幼かった頃となんら変わらず、胸の奥がじんわりと熱してきた。
 それから美月は、思い当たる限りの話をした。庭先にいるレイガンドーも交えて、一ヶ谷市に来てからの出来事を 話した。学校のこと、日常のこと、つばめのこと、レイガンドーのこと、羽部のことも話した。小倉も美月と別れてから のことを話してくれた。経営していた工場の従業員を全員転職させ、新しい会社を立ち上げたのだそうだ。その会社 はロボット同士の格闘技を専門に扱う企業で、アンダーグラウンドな娯楽であるロボット格闘技を表舞台で通用する 娯楽に仕上げるために全国各地を飛び回っていたこと、なども。
 夜通し話し込み、いつしか夜中になった。布団に潜り込んで寝付こうとしても、寝苦しさと高揚の余韻でなかなか 眠気が訪れなかった。美月は何度も寝返りを打った末、居間で布団を敷いて寝ている父親の元に行った。それだけで 神経が落ち着き、すんなりと寝付くことが出来た。寝入りながら、少しだけ泣いた。
 悪い夢は見なかった。




 翌朝、目覚めると、父親は傍にいなかった。
 まさか夜中に出ていったのではないかと美月が慌てると、台所で人の気配と物音がした。急いで駆け込むと、父親 は不慣れな手付きで朝食の支度をしていた。冷蔵庫の中身は空っぽだったのでは、と訝るが、ダイニングテーブルに 散らかっている食材に混じっているレシートに印刷されている時刻は夜明け前だった。恐らく、美月が起きる前に 二十四時間営業をしているスーパーマーケットに買い出しに行ってきたのだろう。

「なんか、拙いことをしたか?」

 美月が余程不安げな顔をしていたからだろう、小倉は若干気まずげに呟いた。美月は首を横に振ってから、得も 言われぬ暖かな気持ちを持て余しながら、洗面台に向かった。顔を洗って髪を整えながら、次第に緩んでくる頬を 押さえた。誰かが家にいてくれるだけでこんなにも安心出来るなんて、久しく忘れていた感覚だ。東京にいた頃は、 父親が台所に立つことなんて考えられなかった。料理の出来映えは期待出来ないが、美月のために作ってくれる ということだけで嬉しくてたまらない。
 台所に戻ると、案の定不格好な朝食が出来上がっていた。火が強すぎたのか白身は焦げているのに黄身の表面 は生のままの目玉焼きに、焼き色が濃すぎて歯応えが抜群のベーコンに、いい加減に千切ったレタスと切り口が ぐちゃぐちゃのトマト、キツネ色を通り越してタヌキ色に近いトースト、という有様だった。それでも父親なりに努力した のは解っているので、美月は文句を言うよりも先に笑ってしまった。小倉はかなり照れ臭そうではあったが、美月と 共に食卓を囲んだ。見た目通りの味だったが、味覚とは別の感覚がとても満たされた。

「へえ、こりゃ凄いな。基礎からちゃんと勉強すれば、もっと過激なセッティングの機体も作れるな」

 食後に洗い物をした後、美月が書いたレイガンドーの設計図を見せると、小倉は素直に褒めてくれた。それだけ で報われたような気がして、美月は顔が緩んで仕方なかった。細々としたダメ出しはされたが、それは今後に改良 を加えていけば取り戻せるミスだと言われた。

「俺の仕事を見ていたんだな。こんなこと、教えてもいないのに」

 しみじみと漏らした小倉に、美月は照れた。

「だって、私、レイが好きだから」

 台所の窓越しに、そのレイガンドーと目が合った。彼なりに親子の再会を喜んでいるらしく、昨日からガレージ にも戻らずに美月の視界に入る位置にいるのだ。

「これからどうする、美月」

 小倉は美月の設計図を折り畳むと、美月の前に差し出してきた。

「この家にいたいんだったら、まとまった額の金を置いていってやるよ。レイガンドーの改造がしやすいように部品も 回してやるし、俺もたまに様子を見に来る。母さんが帰ってくるのを待つつもりでいるなら、そうしてもいい」

「お父さんは、ここにいてくれないの」

「俺はここにはいられない。俺の家じゃないし、この土地はあまり良くないからな」

「じゃあ、私はお父さんと一緒に行く。レイも一緒に連れていく」

「学校はどうする。今は夏休みだからいいかもしれないが、その後は」

「いいの。私はここには馴染めないみたいだし、友達はつっぴーしかいないから」

「……そうか」

 小倉は一呼吸置いた後、笑顔を見せた。

「だったら、すぐに支度をしてこい。長旅になるぞ、レイガンドーの全国興行を兼ねた営業だからな! ついでに地方の プロレス団体も手当たり次第に見に行くぞ、今後の参考にするためだ!」

「レイもそれでいいよね?」

 美月は台所の窓越しに問うと、レイガンドーは親指を立ててみせた。

「無粋な質問だな。この俺がマスターの命令に逆らうとでも?」

 今、外の世界に行かなければ一生後悔する。美月は母親がこの家に戻ってくるのでは、という淡い期待を心の隅 に抱いてはいたが、何日待っても戻ってこないのだから期待するだけ無駄だと開き直った。二階に上がって自室と して宛がわれた部屋に入り、数少ない服と下着と共に夏休みの宿題をスポーツバッグに詰め込んだ。階段を下りる 前に一度、羽部の部屋のふすまを開けてみた。なぜ、彼は急に姿を消したのだろう。どこに行ったのだろう。二度と 会えないのだろうか。そう思うと、美月は少しだけ切なくなった。
 羽部が帰ってきた時にも誰もいなかったら寂しすぎるので、美月は手近なメモ用紙に書き置きを残してから、一階 に降りた。小倉はガレージに詰め込んである部品や工具をコンテナに運び入れていて、レイガンドーもコンテナの中 を覗き込んでビンディングの具合を確かめていた。美月はトラックの助手席に荷物を投げ入れた後、一度、住人が 一人もいなくなった家を仰ぎ見た。けれど、今度は何も感じなかった。
 そして、トラックは発進した。





 


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