吐きすぎて、内臓まで出てしまいそうだった。 出すだけ出して少し気分が落ち着いた寺坂がよろけながらトイレから脱すると、事務所の中は様変わりしていた。 一乗寺がいなくなっていて、美野里の仕事机の上のものがそっくり床に散乱していて、道子と吉岡りんねに酷似した 少女と羽部鏡一が昏倒していた。武蔵野は少女と羽部を介抱していたが、寺坂に気付いて振り向いた。 「つばめがやったんだ」 「機能停止させた、っつーことかぁ?」 給湯室に入った寺坂は手近なコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。 「そうだ。備前美野里から電話が来たと思ったら、お嬢に良く似た御鈴様とやらを眠らせて、羽部も黙らせて、ついでに 道子もやられた。一乗寺も何を考えているのか解らんが、あいつも何を考えているのかさっぱりだ」 武蔵野が嘆くと、寺坂はひどく痛む頭を押さえながら事務室に戻ってきた。 「えぇー、みのりんがぁ?」 「裏切ったんだよ、あの女は。でもって、つばめちゃんを唆しやがったんだ」 事務所のドアを開けて大股に入ってきた一乗寺に、武蔵野は身構える。 「その気なら、相手をしてやる」 「生憎だけど、俺が殺したいのはむっさんじゃない。よっちゃんでもない。裏切り者の虫女だ」 一乗寺が吐き捨てると、寺坂は一乗寺に詰め寄る。 「たったそれだけのことでみのりんを殺そうってのか、おい、一乗寺!」 「事と次第によっては、よっちゃんだって例外じゃない」 かすかに熱を含んだ銃口を寺坂の下顎に突き立て、一乗寺が目を据わらせると、寺坂は言い返す。 「一度裏切ったぐらいで、なんだってんだよ。可愛いもんじゃないか。それで被害を被るとしても、どうってことねぇ。 つばめを唆した? 馬鹿言うな、美しい姉妹愛じゃねぇか。つばめがみのりんの言うことを疑いもしねぇっつーこと は、みのりんがつばめに注いだ愛情が真っ当だった、何よりの証拠だ。それぐらいで、ぎゃあぎゃあ騒ぐな」 「あの女のどこがいいのさ。俺、よっちゃんのことは好きだけど、女の趣味だけは理解したくないね」 引き金に指を掛けた一乗寺が銃口を寺坂の喉に押し付けると、寺坂は少し噎せたが唇の端を上げる。 「なんだよ、妬いてんのか? 女になったからって、俺に欲情されないのがそんなに悔しいか?」 「好意がイコールで恋愛感情になるわけないじゃんか、脳みそ下半身直結男。俺はよっちゃんから欲情されなくても別に なんとも思わないし、何も感じないし。欲情しているだけの相手の行為を全肯定するだなんて、短絡的を通り越して アメーバ以下の思考だよ、プラナリアだってもうちょっと物事を考えて繁殖するよ」 「だからって、最初から殺そうとするんじゃねぇ。とりあえず、話を聞いてやろうぜ。つばめも、みのりんも」 寺坂は触手を用いて銃口を下げさせようとするが、一乗寺は腕に力を込めて抵抗した。 「嫌だね。裏切られたのになんとも思っていないふりをする、よっちゃんが一番嫌だ!」 「そういうお前は、誰に裏切られたんだ。そうでもなきゃ、そこまでいきり立たんだろ」 少女と羽部の様子を気にしつつ、武蔵野が指摘すると、一乗寺は勢いを失った。そのまま銃口も下げ、身も引く。 「すーちゃんだよ。あいつ、馬鹿だ。本当に馬鹿だ。俺の正体を解っているなら、俺の傍から離れていく必要なんて どこにもなかったのに」 「周防国彦は男だぞ」 武蔵野が怪訝な顔をすると、一乗寺は子供っぽい表情で拗ねた。 「今の俺は女だし、元々女なんだよ、俺っていう生き物は。だから、別にいいじゃんか」 「だったら解るだろ、俺がみのりんを裏切りたくねぇ気持ち」 寺坂は脱ぎ捨てていた服を着込むと、右腕の触手を腕の形に整えてから包帯を巻き付け始めた。 「そう言うわりに、商売女に手を付けるのか。矛盾しているな」 武蔵野が嘲笑すると、寺坂は舌を出す。 「だーから、それは別腹っつってんだろー。相手も商売なんだしさぁ」 「惚れた男に突っぱねられて寂しいからって、俺達に八つ当たりするもんじゃない」 拳銃の残弾を確かめながら武蔵野が言うと、一乗寺は予備のマガジンを差し込みつつ、むっとした。 「余所様の人妻に横恋慕しておいて、よく言うよ。よっちゃんもむっさんも、人のことなんか言える義理かっての」 「で」 寺坂に乞われ、武蔵野はジャケットからイグニッションキーを取り出した。 「つばめを止めに行く。コジロウと合流される前に正気に戻せればいいんだが、俺達よりも早くコジロウがつばめの 元に来ていたらお手上げだな。だが、その時はその時だ」 「あーあー、どいつもこいつも見苦しいったらありゃしない」 俺もだけどさ、と一乗寺がぼやくと、武蔵野は苦笑する。 「色恋沙汰ってのは、歳を食えば食うほど難しくなっちまうからな」 「その点、商売女の単純なこと! 金さえ出せばいいんだもんなー! だから止めらんない」 事務所の鍵を弄びながら、寺坂は真っ先に事務所を出た。武蔵野は少女と羽部の様子を確かめ、外に出ていったと いう旨のメモを書いて応接テーブルに置いて、事務所を後にした。一乗寺は全開になっていた窓とカーテンを 閉めてから外に出てくると、さっさと行くよ、と二人を急かしてきた。 だが、外に出たところで三人は気付いた。誰も車を持っていない。寺坂と武蔵野の車は、前日のロボットファイトの 会場である郊外の自然公園の駐車場に駐めたままだった。一乗寺は奥只見ダムへと通じるトンネル内での一戦で 軽トラックが破損して以来、自家用車を持っていないし、乗ってきていなかった。昨夜、一ヶ谷市内へ移動してきた際 は、小倉重機の社員が運転するトラックに便乗してきたそうだ。となれば、今、動かせる車といえば。 「おい、出るとこ出ようや」 フロントガラスが大破した愛車を見つけた寺坂が一乗寺に凄むが、一乗寺はしれっとした。 「だって、非常時だったんだもーん。大したことないって」 「お前はあれが俺の車だって知っていて攻撃したんだな、そうだな!? 八つ当たりするにしたってな、もうちょっと相手 を選んで八つ当たりしやがれ! むっさんとか!」 一乗寺を揺さぶりながら捲し立てた寺坂に、武蔵野は渋い顔をした。 「どさくさに紛れて俺に変な役割を振るな」 「えー、いいじゃん。むっさんは人畜無害なんだから」 「あなたっていい人ねポジションなんだもん、むっさんは」 今し方まで言い合っていた寺坂と一乗寺が妙なことで同調したので、武蔵野は嘆く気すら失せた。 「いいから黙って車に乗れ。運転は俺がする、寺坂は酒が抜けていないし、一乗寺に任せたら事故っちまう」 えー俺の車なのにー、えーつまんなーい、と二人から文句が上がったが、武蔵野はそれを無視して運転席に乗り 込んだ。幸いにもイグニッションキーは刺さったままで、エンジンも動きっぱなしだった。狭い2シーターではあるが、 頑張れば全員乗れなくもない。大柄な寺坂が助手席に収まると、一乗寺はその膝の上に収まった。シートベルトを 付けられる余裕はなくなったが、この非常時に細かいことを気にしていては始まらない。 寺坂の携帯電話は持ってくるのを忘れてしまっていたのと、武蔵野の携帯電話は充電し忘れてバッテリーの残量 が心許ないので、一乗寺の携帯電話のGPSを利用してつばめを捜すことにした。以前、道子がアマラが情報処理に 用いる異次元宇宙と遺産同士の互換性を利用して作ったつばめちゃんホットラインを使えばもっと早く見つかる のだが、当の道子とアマラが機能停止している影響か回線が繋がらなかった。恐らく、道子が安全のために機能 停止した場合には全回線を凍結させる設定を施しておいたのだろう。だが、それはつばめを探し出すための障害 にはならない。砕けたフロントガラスを突き破って視界を確保してから、武蔵野はコルベットを走らせた。 GPSには、つばめの現在位置を示すマーカーが表示されていた。 走り続けた末、市街地から脱して農耕地に至った。 つばめは疲れた足を曲げて倉庫の壁に寄り掛かり、額から流れ落ちてきた汗を拭い取った。念のために武蔵野 達の携帯電話の現在位置を確かめるためにGPSを見てみると、武蔵野と一乗寺の名前が明記されたマーカーが 立体地図を移動していた。それを見た途端、どっと疲れが出た。また走らなければならないのか。 自転車もなければ、乗せてくれるような車もない。これでは、すぐに捕まってしまう。武蔵野も信用出来ないとなると 頼る相手はいない。美月や小倉重機の面々を巻き込むわけにはいかない。コジロウさえ来てくれれば、そんな心配 をする必要すらないというのに。つばめは汗ばんだ頬を押さえてから、俯いた。 「コジロウ……」 少し離れただけなのに、寂しくてたまらない。またすぐに会えるのと知っているのに、一刻も早く会いたい。つい 先程まで一緒にいたのに、触れ合っていたのに、彼がいないだけで切なくてどうしようもない。コジロウの動力源である ムリョウも当然ながら遺産だ。それもまた、シュユの支配を受けているかもしれない。ならば、つばめの手でコジロウ を機能停止させなければならないのだろうか。 美野里の指示であろうと、それだけは聞き入れられない。コジロウは正気を保ってくれる。彼にとってはつばめが 最優先事項なのだから。たとえ操られていたとしても、つばめが触れ、語り掛ければ、きっとすぐに元通りになって くれると信じている。新免工業に嵌められた時と、同じ過ちを繰り返したくはない。 お揃いにするために買ったはいいものの、結局、自分の私物に貼り付けられていない片翼のステッカーの片割れ を撮影した写真を待ち受け画面に設定している。それを見つめ、つばめは唇を噛んだ。一乗寺の言っていたことは もっともらしかったが、だからといって美野里を無下に出来るものか。 どこからか、甲高いスキール音が聞こえてきた。もう追い付かれたのか、とつばめが腰を浮かせると、蒸気の白煙 を纏った影が滑り込んできた。倉庫の裏手にある雑草を蹴散らし、更に砂利と土を盛大に抉りながら減速したのは、 白と黒の外装に張り替えたばかりのコジロウだった。つばめは嬉しさと驚きが入り混じり、目を丸めた。 「コジロウ!」 廃熱のために開いた外装を閉じてから、コジロウはつばめに向き直った。真紅のゴーグルと白いマスクフェイス、 そしてパンダカラー。つばめは鼓動が早まり、コジロウに駆け寄っていった。 「どうしたの、改修は夕方まで掛かるんじゃなかったの?」 「本官の自己診断により、外装の張り替えのみで通常業務への移行が可能だと判断した」 「じゃ、メンテナンスとかは」 「部品の消耗は問題はない。機体の駆動に支障を来さない」 「本当に大丈夫なの?」 昨日、レイガンドーと壮絶な試合を繰り広げたのだから。つばめが心配すると、コジロウは食い下がった。 「大丈夫だ」 「でも、ちょっと呼んだだけですっ飛んでくるなんて、心配性だなぁ。電話も掛けていなかったのに」 彼の忠実さが微笑ましく、つばめは少しだけ気持ちが緩んだ。コジロウだけは、つばめを裏切らないのだから。 「つばめに関する通信は、音声、文書、映像、画像、その全てを傍受している。よって、容易だ」 「うえ?」 コジロウが真顔で述べた事実に、つばめは声を潰した。確かにつばめを守るためならば、それが安全であり確実 ではあるのだが、さすがに引っ掛かった。やりすぎだ。となると、嬉しすぎてちょっと泣きそうになりながら美野里と 交わした電話の内容も、昨日の試合後に高揚した気持ちのまましたためて美月に送ったメールの文面も、ここぞと ばかりにシリアスの格好をしたコジロウを撮影しまくった写真も、動画も、コジロウ本人に筒抜けだったのだ。 途端に状況の深刻さが吹っ飛びかねないほどの羞恥心に襲われ、赤面したつばめはコジロウに背を向けて頭を 抱えた。恥ずかしすぎて喉の奥から変な声が漏れてしまった。コジロウはつばめに近寄り、訝ってくる。 「何事だ、つばめ」 「ストーカーって罵られても文句言えないよ、それ! 匙加減ってのがないよ、コジロウのやることって常にゼロか百か のどっちかだよ! いやああ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいー!」 つばめが壁に頭をぶつける勢いでうずくまると、コジロウは少し首を傾げた。 「本官はつばめの状況を把握し、認識し、分析した上で判断を行うべく、常に情報収集を」 「こ、今度からは、情報を保存するだけしておいて必要な時だけ見て! 必要じゃなかったら見ないで! でないと、 もう電話もメールも出来ないし携帯で色々と遊べない!」 つばめが半泣きになりながら意見すると、コジロウは更に首を傾げる。 「しかし、本官はつばめを守るという職務が」 「だーからっ!」 暖簾に腕押しとはこのことだ。つばめは倉庫の壁に背を当てて、とりあえず気分を落ち着けようと深く息を吸った。 コジロウの排気に混じっていた真新しい機械油の匂いも吸い、一層胸が詰まってしまった。一度でも意識してしまう と、そう簡単に振り払えるものではないからだ。コジロウはつばめの言いたいことが理解出来ないのか、首を傾げた 角度を保っている。その仕草に彼らしからぬ人間臭さを感じ、あ、可愛い、と場違いな感情を覚えた。 二人のいる倉庫に向かって、車のエンジン音が近付いてきた。すかさずコジロウは音源へと振り返り、つばめは 彼の背中越しに車の姿を捉えた。一乗寺の狙撃によって、フロントガラスが砕けたスポーツカーだった。運転席から 下りてきたのは武蔵野で、助手席からは一乗寺を抱えた寺坂が下りてきた。 「ここにいやがったか。手間を掛けさせてくれるぜ」 寺坂は酔いが抜けきっていないのか、足取りが不安定だった。一乗寺は寺坂の腕を振り払い、拳銃を抜く。 「あーりゃりゃ、コジロウが来ちゃったよ。仕事が増えちゃったけど、ま、なんとかなるでしょ」 「つばめ、悪いことは言わん」 武蔵野はつばめに近付きながら、皮の分厚い手を差し伸べてきた。 「俺達を」 信じてくれ、と言われた気がしたが、その言葉が脳に至る前につばめは行動に移っていた。コジロウの首に腕を 回してしがみつき、船島集落に向かってくれと命じた。コジロウは左腕でつばめを抱えると、脚部から雑草で汚れた タイヤを出し、先程刻み付けたタイヤ痕をなぞるように発進した。あっという間に三人の姿が遠のいていき、つばめは ちょっとした優越感すら感じながら、進行方向を指し示した。コジロウは頷き、船島集落に至る道路に入った。 もうすぐ、美野里に会える。 12 11/23 |