人体に限らず、生物を構成しているのは遺伝子を宿した細胞だ。 それをコピーし、絶え間なく分裂し、増殖し、結合し、部位によって機能を変え、生命体はその遺伝子に従って形を 整えていく。死に至れば新陳代謝は止まり、生物からただの物体へと変貌するが、遺伝子が崩壊しても新陳代謝が 止まらなければ、不完全な形状の細胞が増殖しようとする。本来の機能を損なった細胞は遺伝子の宿主に害を成し、 遠からず死に至らしめる。遺伝子こそが生命の本質であり、生命は遺伝子を運ぶ乗り物なのだ。 その遺伝子が、綻んだ。人間としての形を保てるか否かの瀬戸際で、伊織は確信した。ごっそりと頭皮ごと抜けた 髪が体液の海に沈み、千切れかけた神経と辛うじて繋がっている眼球が生卵のように床で潰れている。呼吸しようと すれば気道から血が噴き出し、それを吐き出そうとすれば舌が根本から外れ、唇の端から落ちた。 りんねの苦しみには気付いていた。伊織は誰よりもりんねの傍にいたからだ。束の間ではあるが、彼女と時間を 共に過ごしていたから、りんねの苦悩は伊織の意識に流れ込んでいた。普通の人間として生きたいと願う一方で、 遺産争いの原因を作り、祖父に死すらも蹂躙され、何度も過去の自分が自殺を図っていた過去の重みに耐えられ なくなっていたということも、薄々感じ取っていた。けれど、伊織はそれを自覚しないようにしていた。アイドル紛いの ことをしたのも、りんねが自分を肯定出来る切っ掛けを得られれば、と思ったからだ。伊織が一心にりんねを思って いれば、りんねも少しは自信を得られるのではないか、とも。だが、それは伊織の思い上がりだったようだ。 「おぇ……ぉ、ぅ……」 もう、声らしいものは出せない。体液の海に這い蹲っている伊織の周囲では、医療スタッフが固唾を呑んで伊織 を見下ろしている。医師も看護師も視線は怯えきっていて、皆、及び腰だ。無理もない、伊織を助けようとして体液 に触った人間達は全て溶けてしまったのだから。りんねがムジンのプログラムを使ってアソウギを強引に作動させ、 遺伝子を操作したせいで、アソウギが動作不良を起こし、無差別に生物の遺伝子を破壊するようになってしまった のだ。だから近付くな、と伊織は彼らを遠ざけようとするが、瞼が剥がれて眼球もまともに動かない。 つばめなら、アソウギを操作出来る。だが、アソウギがつばめをも攻撃してしまったら、オリジナルの管理者権限 が破壊されて取り返しの付かないことになる。佐々木長光も、シュユも、遺産を悪用しようとする人間も、止めること が出来なくなる。もしかすると、りんねの狙いはそれなのだろうか。伊織とりんねの身に異変が起きれば、つばめは 間違いなく呼び付けられ、伊織に触れと周囲から強要されるだろう。だが、その時、アソウギがつばめの遺伝子情報 を破壊しないとも限らない。もしも、そうなってしまったら全てが終わりだ。りんねを元通りにするどころではない、 あらゆる生物がアソウギによって滅ぼされてしまいかねない。増して、ここは海に面している。そこからアソウギを 流されてしまえば、一巻の終わりだ。 「りんね!?」 血相を変えてコンテナに飛び込んできたのは、吉岡文香だった。が、彼女は骨も内臓も溶けて生温い水溜まりと 化した愛娘を直視した途端、顔色を失ってよろめいた。 「あ、あぁ……? 何、何よこれ、どういうことなの……? そんなの、有り得ないわ……」 「いや、そうでもない。彼女の脳には、ムジンのプログラムがインストールされていたからな。それを使ったんだ」 シュユを人間大にしたかのような大きさの触手の化け物が、足音も立てずにするりと入ってきた。医療スタッフ達 はすぐさま道を空けたが、文香は触手の化け物の袖を掴んで阻んだ。 「近付かないでよ! どんな姿になったって、りんねはりんねなのよ! あんたなんかに手を出されたくない!」 「近付きたくもないさ。この状態のアソウギは、俺にとっても危険だ。アソウギの分子構造が変換されて、L型アミノ酸の 分解酵素を多大に含んでいるから、人間に触れたら即座に皮膚組織を溶解して侵食し、伊織君の意識とは無関係に 発生している微細な固有振動波が細胞そのものを破壊して液状化させている。毒よりも凄まじい致死性だ」 作業着を着ている触手の化け物は文香の頭越しに触手を伸ばし、体液がたっぷりと染み込んでいる簡易ベッドの 枕元から伊織の携帯電話を取ると、ホログラフィーモニターに表示されている文書ファイルを見た。 「地球言語に変換されてはいるが、ムジンのプログラムに間違いなさそうだ。これを目視して認識したから、アソウギが 作動したんだな? そうだろう、伊織君」 触手の化け物に問われ、伊織は頷くような気持ちで辛うじて神経が繋がっている指を曲げたが、その僅かな力に 負けて指の骨も神経も崩壊した。触手の化け物は他の文書ファイルも開いて目を通す。 「固有振動数の数値も割り出されている。そしてこれを日本語に変換した語彙が、君の歌に大量に使われている。 あの歌の原型は弐天逸流の信者が作ったものだったが、その後で君のマスターが大分手を加えたらしい。効果の 程は、言うまでもないようだが」 りんねは、そこまでして自分の死を望んでいたのか。激痛の最中、伊織が心中で呟くと、触手の化け物は部品と 呼ぶべき部位が存在していない顔を伏せた。伊織の心中を読み取れるらしい。 「生憎だが、そのようだ。伊織君とりんねさんの融合が進みすぎている、これでは分離出来ん」 俺は死ぬのか、りんねと一緒に死ねるのか。伊織が歓喜を交えて思うと、彼は顔を少し背けた。 「それが君にとっての幸福であるならば、俺はそれを妨げはしない。主と共に果てるといい」 触手の化け物の心遣いに、伊織は溶けきった心臓が疼いた。確かに幸福だ、りんねと死を共有出来るのだから。 伊織を成していたアソウギが、操り人形として生まれては死んでいったりんねの忌まわしき業を断ち切る刃となる のであれば、諸手を挙げて享受しよう。忠心とは、そういうものだ。 遺産の産物に対して理解のある触手の化け物がコンテナから去ると、茫然自失に陥っていた文香が我に返り、 ふらつきながら伊織に近付いてきた。上等な革に細かな傷跡が付いたハイヒールで、伊織の体液を踏む。 「嘘でしょ、ねえ、嘘だと言ってよ、ねえ、りんね?」 見開いた目から涙を幾筋も落とし、頬紅とファンデーションが溶けている。 「なんで死のうとするの、だってりんねは死ななくていいのよ? りんねは何も悪いことをしていないじゃない、全部 あのクソ爺ィのせいじゃない、あの触手男とその娘のせいじゃない、りんねが死ぬことなんてないのよ?」 文香は小刻みに震えながら、ネイルで彩られた指を伊織の体液に伸ばそうとするが、医師と看護師に阻まれた。 死ぬことで償えることは数少ない。それは伊織も承知しているし、りんねも解っているだろう。だが、生き続けては 更なる不幸を振りまくだけだ。オリジナルの半分以下であれど、管理者権限を持っていることに違いないのだから、 それを利用せんとする人間の欲望に巻き込まれ、りんねの自由も人格も軽んじられるのは目に見えている。 「ねえ、どうして私の思い通りになってくれないの?」 その場に座り込んだ文香は、少し乱れていた髪を掻き毟り、頭を抱えた。 「りんねと一緒にやりたいことが一杯あるのに、今度こそ一緒に暮らせるって思っていたのに、どうしてそんなに ひどいことが出来るの? りんねは、私達のことが嫌いなの?」 腹の底から憎んでいるわけではないが、無条件に愛しているわけではない。伊織はそう思ったが、文香はそれ を感じ取れないらしく、情けなく泣きじゃくっている。りんねは知っているからだ、文香がりんねを妊娠した理由もその 前後の出来事も、何もかもを。複製体が肉体的な死を迎えても、精神体は長らえていたため、異次元宇宙の外部 記憶容量に接触して全ての情報を認識し、理解していた。 だから、りんねは、底なしの財産を持つ佐々木八五郎を強請るために避妊具に小細工をして妊娠させた文香を 最初から信用していない。産まれる前から自分のことを道具扱いしている女だ、りんねが人並み外れた容姿と才覚 を備えていれば、それを擦り切れるまで利用するだろう。御鈴様のような活動をさせて金を荒稼ぎさせては文香に 貢がせる一方で、りんねを突き放して親の愛情から飢えさせ、ここぞという時だけ母親らしい顔をしてりんねの持つ 金やら何やらを掠め取っていくはずだ。今の文香は上っ面だけだ。愛情に溢れた母親のような態度を取れば取る ほど、対照的にりんねは実の親の浅ましさを疎むようになる。それでも親は親なのだという寂しさが、りんねの胸中を 悩ませている。もっとも、その胸も今は溶けて消えたのだが。 「ねえ、りんね。もう、こんな辛い思いをするのは嫌なの」 化粧を崩しながら滂沱する文香は、この上なく醜悪だった。それを感じたのは伊織ではない、他でもないりんね だ。こんな状態になっても、心配するのはりんね本人ではなく自分のことなのだから文香はつくづく救いようがない。 自分が満足したいから、自分を満たしたいから、自分の利益になるから、娘を愛していると言い張っている。それは 人間としては間違いではないのだろうが、親としては根本的に誤っている。だから、愛せない。 体液の海が泡立った。 一晩留守にしただけで、事態は急変していた。 事の次第を説明してくれている吉岡グループの社員にも状況が掴み切れていないらしく、途中で何度もつっかえて しまったが、つばめはその度に根気よく聞き返し、混乱している状況を理解した。社員によると、吉岡りんねと肉体 を共にしている藤原伊織の容態が悪化し、突如液体と化したのだという。そればかりか、伊織の液体に触れた人間 もまた溶けてしまっている、と。何が何だか解らないが、大変だということだけは十分理解出来た。 量産型警官ロボットのボディを使用しているコジロウの肩に担がれ、横座りされた状態で移動しながら、つばめは 避難指示に従ってライブ会場から逃げ出していく作業員達を見送った。情報の伝え方が今一つはっきりしていない からか、皆は半信半疑で足取りも鈍かった。だが、パニックを起こさないためにはそれでいいのかもしれない。下手 に危機感を煽りすぎたら、無用な事故が起きてしまうからだ。今のところ、伊織がいる控え室代わりのコンテナの外 には被害は及んでいないとのことだったので、伊織のアソウギを止めればどうにかなるだろう。もしも、伊織が暴走 して危険が及ぶことがあろうと、コジロウがいてくれるから大丈夫だ。そう思えば、少しは不安が紛れてくれた。 瓦礫の山の合間を通り抜けて進んでいくと、あのコンテナが見えてきた。コンテナのハッチが開いて、白衣を着て マスクを付けた医療スタッフ達が逃げ出してきていた。彼らはつばめとコジロウと擦れ違うと、揃って不安げな眼差し を注いできたので、つばめはにこやかに手を振ってみせてから、コンテナに近付いた。 「で、コジロウ、どうすりゃいいと思う?」 つばめはコジロウの肩から下りて地面に足を着けると、コジロウはつばめを見下ろす。 「アソウギを機能停止させることが最良だと判断する」 「だよねー。まずはそれからだけど、触ったら溶けるってどういうこと? アソウギが強酸性か強アルカリ性のどっちか になったってこと? 違うよね?」 「アソウギは中性だ」 「あ、そうなんだ。何にしても、やっぱり触るしかないかなぁ。遺産を操るには、それ以外の方法がないし」 つばめが思案していると、コンテナのハッチから新たな人影が転げ落ちてきた。化粧も落ちて服装も若干乱れて いるが、文香だった。つばめは驚き、文香に駆け寄った。 「文香さん、大丈夫ですか?」 と、文香に声を掛けた瞬間、つばめは力一杯突き飛ばされた。視界がぐるりと上向き、上体が仰け反り、転倒する かと思いきや、素早く駆け寄ってきたコジロウの両手に受け止められた。何事かとつばめが困惑していると、文香は 喘ぐように息を荒げていたが、手元に落ちていた石を掴んでつばめに投げ付ける。 「このっ!」 「うわっ!?」 つばめが慌てると、コジロウはまたもつばめを庇ってくれたので、文香の投げた石はコジロウの外装に激突して 跳ね返った。文香は二度三度と石を投げ付けながら、涙を滲ませた目でつばめを射抜かんばかりに睨んだ。 「あんたなんかがいるから、りんねの価値が下がるのよ! あんたがいなきゃ、私が全部手に入れていたのに! どうしていつもいつもいつもいつも、私ばっかり損をしなきゃならないの!」 「え?」 意味が解らず、つばめが聞き返すと、文香は金切り声を上げて逆上して砂利を投げ付けてきた。それがコジロウの 外装で跳ね返るたびに硬い金属音が響くが、文香が吐き出す汚い言葉に掻き消された。コジロウは文香に背中を 向け、つばめを抱えてくれているので砂の一粒も当たらなかったが、次第に悲しくなってきた。文香がつばめを 助けてくれたり、優しくしてくれたのは建前だったのだ。りんねを元の人間に戻したいがための行動であり、つばめを 本心から労ってくれていたわけではない。そんなことは解り切っていたのに、暴力で思い知らされると胸苦しくなる。 だが、そんなことでいちいち落ち込んでいる暇はない。 「いいよ、コジロウ。先に進もう」 つばめがコジロウに命じると、コジロウはつばめを庇ったまま、文香に向き直った。 「了解した」 「何よ、何する気なの、どうせ人間に手は出せないんでしょ、やるならやってみなさいよ、木偶の坊!」 文香は手のひらから血を滲ませながらも砂を握り締め、激情をぶちまけてくる。 「私の掠り傷一つでも付けてみなさいよ、何十億と賠償金を吹っ掛けてやるから! あんたの父親からも徹底的に 毟り取ってやる! りんねに管理者権限を渡さなかったことを一生後悔するぐらい、追い詰めてやる!」 コジロウの左手を握り、つばめは唇を引き締めた。文香に危害を加えるつもりなんてない。ただ、伊織とりんねを 助けるためにアソウギを止めに行きたいだけなのに。それなのに、なぜ罵られなければならない。これ以上文香に 関わっていては、収まるものも収まらない。そう判断したつばめは、コジロウを小突いて振り向かせると、コンテナの 反対側からハッチに向かおうと手で示した。コジロウはつばめの意図を理解したのか、小さく頷き、つばめを左腕で 抱きかかえた。文香はひくっと息を飲み、後退る。何よ、何よ、と吐き捨てながら新たな石を握る。 文香の背後で、コンテナが揺れた。その場だけ地震が起きているかのように振動していたが、壁が内側から激しく 叩かれてスチール製の壁が呆気なく曲がり、破れた。文香は裏返った悲鳴を上げ、腰を抜かして座り込む。今度は また何が起きたのだとつばめが訝っていると、一際強烈な打撃でコンテナの屋根が突き破られた。黒々とした巨体 の異形が頭を振り、二本の触角を立て、あぎとを開き、吼えた。軍隊アリだった。 「もしかして、伊織?」 つばめが気圧されそうになると、文香は震え出した。 「ほ、本当に死んじゃったの、りんねは死んじゃったのぉ? だったら私はどうなるの? あの子の母親じゃなきゃ、 私はあの人からお金をもらえないじゃない、ねえ、りんね」 「死んだ? え、それって伊織っていうか、吉岡りんねが?」 つばめが思わず聞き返すと、文香は喚いた。 「そうよ! それもこれもあんたがしゃしゃり出てくるから、あの子が自分の居場所がないって思い込んでそんな ことをしちゃったんじゃないの! 助けるんじゃなかった、御飯なんて食べさせるんじゃなかった!」 「そうですか。でも、あの時はありがとうございました」 つばめは文香の言葉を遮るように一礼してから、コンテナから生まれた巨体の軍隊アリと対峙した。これは藤原 伊織の怪人体だ、記憶を手繰るまでもない。この場にいて怪人の要素を持ち合わせているのは、美野里の他には 伊織しかいないからだ。伊織はりんねの心身を守るために同化してからは怪人体には変身しなかったが、能力を 完全に失っていたわけではないらしい。吉岡グループの社員の話を聞いた限りでは、アソウギが異常を来したの だとばかり思っていたが、伊織が巨大化したのであれば事情は変わってくる。 「私のこと、解る?」 つばめは圧倒されないように気を張ってから話し掛けると、巨体の軍隊アリはぎちりと顎を鳴らした。黒い複眼 につばめが映り、潮風に揺さぶられている触角が曲がる。ぎちりと顎を噛み合わせるが、左右に首を傾げているの で、つばめの言葉を完全に理解しているわけではなさそうだ。酩酊しているかのような動作で重心を傾かせながら、 コンテナに埋まっていた六本足を引き抜いて瓦礫の破片を踏み砕き、再び吼える。 大丈夫、伊織が近付いてきても以前のように触れてしまえば制御出来る。つばめは一度深呼吸してから、伊織と 対峙する。以前も自我が希薄だったが、今もそのようだ。コジロウに安全を確保してもらった上で近付けば、確実 に伊織を止められる。そうすれば、きっとりんねもどうにか出来る。成功するかどうかは怪しいが、迷っている場合 ではない。つばめは拳を固め、コンテナの中身である衣装やタオルや軽食の残骸を外骨格に貼り付けている伊織 を仰ぎ見た。顎を最大限に開いて威嚇しながら迫ってくる、哀れな少女の従者に触れるべく、身構える。 軍隊アリの顎から滴った一粒の水が、つばめの頭上に向かってきた。 13 1/2 |