機動駐在コジロウ




老いてはコマンドに従え



 有り得ない光景だった。
 佐々木長光の手中にはムリョウとムジンが収まり、コジロウは完全に沈黙していた。あの、コジロウが。いかなる 状況であろうとも、我が身が危険に曝されようと、どれほどのダメージを受けていながらも、つばめを救うためならば 決して屈さなかった、鋼鉄の盾が。それが、生身の人間にしか見えない相手に呆気なく打ちのめされた。
 考えろ、考えろ、考えろ。今、この場で、長光の正体を明かせるほどの演算能力を持っているのは自分だけだ。 道子は目を見開いて、赤黒い根に胸を貫かれたつばめと、片翼のステッカーを蹂躙されて胸を抉られたコジロウを 凝視しながら、懸命に思考回路を働かせた。長光の姿は、普通の人間となんら変わりはない。ラクシャに保存して いた己の遺伝子情報をアソウギに入力して形作る際に多少の手を加え、怪人並みの体力と腕力と耐久力を得たと 考えるのは容易い。だとしても、先程、皆の攻撃が一切当たらなかった意味が通らない。あの一瞬、長光は道子や 他の面々の攻撃を避けようともしなかった。最初からそうだと決まっていたかのように。当たるはずがないと解って いたから、動じもしなかったのではないだろうか。だとすれば、この異次元の概念自体が操作されているのか。

「そろそろお気付きになる頃でしょうね、道子さん」

 長光のぬるりとした眼差しが、道子を捉える。道子は、懸命に動揺を押し殺す。

「さあて、何のことですかねぇ」

「この異次元は、本来は弐天逸流の本部が隠されていたものです。フカセツテンが内包していた空間であり、通常 空間からは隔絶された異世界であり、箱庭でもあります。ですが、弐天逸流本部からシュユを追い出し、この私が フカセツテンを掌握しております。外部からの圧力から察するに、シュユは外側から異次元を維持しようとしている ようではありますが、そんなものは無駄です。フカセツテンとは物体ではありませんからね。エネルギーです、次元 です、空間です、時間です、そして概念なのです」

 長光はポケットから、菱形の金属板を取り出した。佐々木家の家紋、隅立四つ目結紋が印されていた。

「その概念に形を与えているのは、他でもない私の主観です。あの日、あの夜、私が忌まわしきクソ田舎の実家が 滅びてくれと願ったから、本当に出会うべき伴侶を望んだから、フカセツテンは私の元へと至ったのです。クテイが 私の妻となったのです。ですから、クテイに選ばれた私がフカセツテンに内包されていた空間を操作し、特定の概念 を付与することなど他愛もないのです。この空間に置いて、私に勝るものはないのです。ありとあらゆる物理的法則 が私の味方であり、あなた方の敵なのです。愚息が造った木偶の坊の有様で、それがお解りになったでしょう」

 長光の左手の中で、菱形の金属板は青い光を帯びる。彼の影が伸び、波打った根の上に横たわる。

「肝心な場面でぐだぐだと長話をして手の内を明かすのも悪役の特権、と藤原君は度々申しておりましたが、確かに これはとても楽しいですね。なんともいえない優越感と征服感がありますよ」

 長光が左手を差し伸べると、一際太い根が持ち上がり、ぐばりと表面が裂けて粘液の糸が引いた。長光はその中 にムリョウを収めると、太い根は裂け目を閉じて再び地中に戻っていった。途端に、ムリョウから生じる膨大な熱量が 赤黒い根の隅々まで行き渡ったのか、根がざわめき始めた。荒く波打ち、暴れ狂い、沸騰し、空間が混ざる。
 その変動によって武蔵野らは根の拘束から脱したが、それだけだった。花開くように放射状に展開した根の束 が、哀れな少女を一息で飲み込んでしまったからだ。つばめに向けて伸ばしかけた手で虚空を殴り付けた武蔵野 は唸ったが、一本でも直径一メートルは超えているであろう根の束を突破する方法はない。頼みの綱の人型重機 も破損してしまい、コジロウは動かない。右腕を破損した寺坂は配線にも不具合が起きたのか、サイボーグボディ は出力不足で立っているのがやっとだった。胸部と腹部を繋ぐ膜を刺された伊織もまた、体液が流れ出したら今度 こそ命に関わるので、動くに動けない。シュユとの接続が切れたことで人並みの情緒を得たせいだろう、一乗寺は 絶望に打ちのめされそうになっている。この前までの彼女なら、笑い転げていたであろうに。
 道子もまた膝を折ってしまいそうだったが、意地で背筋を伸ばしていた。まだつばめが死んだと確定したわけでは ないのだから、ここで諦めるのは早計だ。けれど、どうやって勝機を見出せばいい。長光さえ黙らせられればクテイ に接触出来、クテイを桜の木から解放して正気に戻せば、異常成長した赤黒い根も止まるだろうし、異次元も長光 の支配下から逃れられるだろう。だが、そのクテイが恐ろしく遠い。長光さえ、突破出来れば。

「では、参りましょうか。全てがクテイを肯定し、クテイが私を肯定する、新たな物質宇宙へと!」

 長光が、誇らしげに両手を広げる。その言葉でムリョウから溢れ出す底なしのエネルギーが活性化し、赤黒い根 の隙間から青い光の柱が何本も昇り、外殻を失った空間の繭に突き刺さる。突き刺さった部分から、空間の隔たりが 溶かされていく。懐かしささえある真冬の冴え渡った青空が垣間見え、凍えた風が流れ込む。
 異次元の中に囚われていた根が持ち上がり、空間の繭に尖端が突き刺さった。シャボン玉を割るように呆気なく 突破した根は、雪に包まれた山の斜面に伸びていき、針葉樹と分厚い雪を難なく蹴散らして地面に突入した。それも 一本や二本ではなく、合計、百二十八本もの触手が物質宇宙に現れた。
 ずくん、と足元が疼いた。




 船島集落に向かうのは、何年振りだろうか。
 高校卒業と同時に実家を飛び出したから、もう二十七年も前の話になる。二度と帰ってこないと思っていた。また 帰るぐらいなら、あの父親に会うぐらいなら、死んだ方がマシだとすら思っていた。恨み辛みを抱えて生きていく自分を 直視したくないから、敢えて全てから目を逸らして黙していた。それが最良だと判断していたからだ。
 だが、そうではなかったらしい。触手をハンドルに絡ませて雪上車を運転し、娘とその一行が乗ったていた雪上車 が残したキャタピラ痕を辿って進みながら、長孝は胸中の鈍い重みに苦しんでいた。抗いがたい痛み、逃れがたい 辛み、忘れがたい感情が、人ならざる男を突き動かしていた。

「親父さーん、大丈夫?」

 本来なら人間が乗るスペースの幌と座席を外した後部から、ワイヤーで機体を固定している武公が尋ねた。

「ああ、問題ない」

「そうかなぁ?」

 武公は訝しげだったが、首を元に戻した。大丈夫じゃない、とんでもなく苦しい、と長孝は口に出しそうになったが、 寸でのところで堪えた。政府が長孝に貸してくれた78式雪上車はパワフルで、体重が三百キロもある武公を載せて いても馬力は衰えなかった。こんなことも最初で最後だろう。元より、長孝は人間ではない。だから、政府側が長孝の 味方をしてくれるはずもない。フカセツテンが消失したので船島集落の様子を見に行きたいが、集落内で中性子 が観測されていたために生身の人間を送り込みたくはない、だが何もしないのは拙い、と逡巡していた頃に長孝が やってきたので体よくその役割を押し付けただけだ。実際、雪上車には中性子を測る機器と通信設備が搭載され、 長孝にその操作方法も教えてくれた。人間ではないものは死んでも構わない、という腹積もりだろう。

「で、俺、何すればいいんだっけ」

 エンジン音に掻き消されないようにするためか、武公は無線機のスピーカーを通じて長孝に話し掛けてきた。

「それはこれから話す」

「変な仕事は勘弁してよね? せっかく、小夜子ちゃんが俺のことを完璧に整備してくれたのに」

 武公はワイヤーで拘束されていない右手を挙げ、不満げに振った。小倉重機から一ヶ谷市まで小夜子が移動 させたトレーラーには、コジロウの予備の部品や整備用具が満載されていたが、シュユというルーターを失ったために 沈黙してしまった武公も積んであったのだ。万が一、コジロウのボディがフルスペックのムジンとムリョウに耐えきれず に破損した場合の予備として用意しておいたのだが、コジロウはムジンに耐えきった。だから、武公の出番はない ものだと長孝も思っていたのだが、そうではなかったらしい。備えあれば憂いなし、である。

「墓参りがしたいんだ。ひばりに会っておきたい」

 長孝がバックミラー越しに武公を窺うと、武公はむくれた。

「えぇー? 確かに俺の原型は人型重機だけどさぁ、俺はレイレイやガンちゃんとは違って土方の仕事なんて一度 もしたことないよ? 生まれも育ちもロボットファイトの生粋の格闘家だよ? 墓参りっていっても、この雪だと大分 掘り返さないと墓に行き着かないじゃーん。寒冷地仕様のチューンにしてないのに、そんなことをしたら関節のギア とかパッキンが傷んじゃうじゃーん。塗装だって艶々なのに、うっかり石とか木に擦ったりしたら困るぅー」

「変に色気付いた女子大生みたいなことを言うんじゃない」

「身だしなみに気を遣うのは、人前に出る仕事をしているロボットなら当たり前だと思うけど?」

 得意げに澄ました武公に、長孝は妙な気持ちになった。

「俺はお前をそんなロボットに育てた覚えはないんだが」

「親父さんが俺に教えてくれたのは必要最低限だけだったんだもん。だから、俺は俺の試合を見に来てくれたファン や小夜子ちゃんみたいな整備の人から、色んなことを教えてもらっただけだよ。マイクパフォーマンスも出来るように ならないと、盛り上げられないじゃん? そのためには話題も掻き集めないとダメだし、キャラ立てだって」

「ああ、なるほどな」

「えぇー、何その反応? 褒めてくれないの?」

「褒める要素が見当たらない、というか。まずはその口調をなんとかしてくれ。致命的に似合わない」

「頭硬いんだからぁ」

 なんだよもう、親父さんのイケズ、と拗ねた武公はそっぽを向いた。その反応がやたらと人間臭く、長孝は暗澹と していた胸中に生温いものが込み上がってきた。笑い出したい気持ち、とでも言うべきか。気付かないうちに武公が 成長していたことは喜ぶべきなのだろうが、その方向性が大いに間違っている。第一、格闘専用のロボットが己の 身だしなみに気を配ったところで何がどうなるというのだ。言語パターンを増やすために、不特定多数の人間と交流 して話題を増やすのは大いに結構だが、参考にした相手が女性ばかりだったらしく、なよなよしている。
 しかし、それも武公の個性だ。受け止めてやるべきであり、思う存分成長させてやるのが親の務めだ。実の娘に 出来なかったことをロボットでやり直すのは、我ながら屈折しているとは思うが。だから、これから、やり直せるもの は一つ一つやり直していくしかない。そのためには、まず、祖父に立ち向かっている娘を手助けしてやらなければ。 肝心要のつばめが生きて帰ってきてくれなければ、何一つ取り戻せない。
 先行した雪上車の轍を辿っていくと、船島集落の南西部に至った。つばめ達が乗ってきた雪上車はガードレール を乗り越えるほどうずたかく積もった雪の上に放置されていて、彼らの足跡は空中で途切れていた。恐らく、ナユタ の力を利用して空中を移動し、フカセツテンに侵入したのだろう。
 雪上車から降りた長孝は、武公を拘束していたワイヤーを外してやった。ワイヤーが擦れた部分の塗装が線状に 剥げてしまったのが気になるのか、武公はぐちぐちと文句を零していたが、長孝が命じると雪上車の後部から降りて 雪原に下半身を埋もれさせた。ムリョウを動力源にしているコジロウとは違い、高出力のスラスターを備えていない 武公は、地面に届くほど深く埋まった足を苦労して抜いては大股に進み、やたらと時間を掛けて歩いていった。長孝 は武公の肩に載っていたが、上下左右に激しく揺れるので、何度も振り落とされかけた。
 雪上車を止めた地点から数十メートル先にある場所に辿り着くまで、恐ろしく時間が掛かった。武公はバッテリー を大いに消耗したようだったが、残量には余裕があったので雪掘りに支障はなさそうだった。なので、長孝が武公 に作業を命じると、武公は再び文句を言いながらも雪を荒々しく掘り返していった。
 身の丈ほどもある雪に埋もれていた小さな石碑が現れると、長孝はその周囲を特に丁寧に掘り返させた。石碑の 全体像が見えるようになると、武公はさすがに値を上げた。電圧もひどく低下しているようだったので、長孝は武公 に休んでいてくれと命じてから、石碑の前で膝を付いた。銘も何も刻まれていない簡素な石が、妻の墓だった。

「ひばり」

 作業着の袖口から触手を垂らし、石碑を撫でる。

「今まで会いに来られなくて、すまなかった」

 根雪に押し潰されてはいるが、簡素な墓の傍には花束らしきものが横たえられていた。きっと、武蔵野がひばりの 元に尋ねてきてくれていたのだろう。武蔵野に対して一抹の嫉妬と、凄まじい自責の念が膨れ上がる。

「愛しているよ」

 腹の底から言葉を絞り出し、温い日差しで雪が溶け、少し濡れた石碑に額を当てる。怖気立つほど冷たい。その 冷たさが、長孝を奮い立たせる。物心付く前から押さえ込んでいた感情という感情を解き放つためには、一握りの 勇気が必要だったからだ。だから、妻に会いに来た。ひばりの前でなら、少しは自信が持てるからだ。
 長孝は立ち上がると、ひばりの墓を背にして全ての触手を地面に垂らした。深く息を吸って胸を膨らませてから、 思い切り吐き出す。神経が総毛立ち、雪が小刻みに震え、異変を起きていることを知らしめる。シュユが長らく世間 から遠ざけていた異界が、愛に飢えすぎて狂った男の妄想で膨れ上がった泡が、爆ぜようとしているのだ。それを 防げるのは、この国で、この星で、この宇宙では長孝しかいない。
 触手を凍えた地面に突き立て、伸ばし、這わせ、地中を貫きながら、長孝は懸命に己の感情を揺さぶった。最初 に思い出すのは、ひばりと初めて出会った時のことだ。父親が手回ししてきた女だというだけで、会う前から彼女を 毛嫌いしていた。どうせ金目当てだろうと思っていたから、会うだけ会って突っぱねてしまえばいいと考え、ひばりに 会った。長光にセッティングされた料亭の個室で対面すると、ひばりは会うや否や懇願してきた。どうかお嫁さんに して下さい、してくれなければ困ります、と。なんとか顔を上げさせてから、運ばれてきた料理に口を付けながら話を 聞くと、ひばりは妾の子で実家では身の置き場がなかった。だから、長孝にまで追い返されたら路頭に迷う、家事は 一通り出来る、御料理はちょっとだけ自信がある、だからお願いします、とひばりは何度も懇願してきた。
 そして、長孝は根負けした。見合いというには息苦しい顔見せを終えてから数日もしないうちに、長孝はひばり と籍を入れた。その足で結婚指輪を買いに行くと、ひばりは喜んでくれた。長孝も釣られて少し嬉しくなったが、それも 自分の正体を知るまでの間だと思うと空しくなった。それから長孝の狭いアパートで同居するようになると、ひばりは 懸命に働いてくれた。雑然とした部屋は日に日に綺麗になっていき、少ない給料をやりくりしながらメニューの豊富な 食事を作ってくれ、弁当も持たせてくれた。辛くないかと長孝は案じたが、ひばりは楽しいと笑顔で言った。
 長孝の正体が露見したのは、ぎこちない結婚生活が一ヶ月ほど過ぎた頃だった。その日、仕事を早く切り上げた 長孝が自室に戻ると、ひばりの姿はなかった。買い出しにでも出ているのだろう、と判断し、その間に仕事で汚れた 体と人工外皮を綺麗にしてしまおうと風呂場に入った。すると、明かりも付けていない薄暗い風呂場の浴槽の中で、 ひばりが小さくなっていた。何事かと驚いたのは両方で、長孝のおぞましい正体を見たひばりは言葉を失っていた。 それから長い長い間を置いてから、ひばりは小声で言った。私と暮らしていて楽しいですか、と。長孝は部品のない 顔と百二十八本の触手を備えた体を隠さずに、聞き返した。俺が人間でないと知ってもそう思えるのか、と。
 人間でなくてもいい、一緒にいてくれるのならそれでいい。ひばりは長孝の触手にそっと触れてきたので、長孝も 恐る恐るひばりに触手を回した。その時まで、妻と抱き合ったことすらなかった。手を繋いで歩いたこともなければ、 体を重ねたこともなかったので、ひばりの柔らかな手応えと体温を感じたのは初めてだった。とても優しい感覚で、 空しさが失せていった。ひばりは長孝の冷たい体に触り、すぐ慣れると思います、と言ってくれた。
 それから、長孝はひばりの前では正体を曝すようにした。二人で過ごす時間を増やし、言葉を交わし、少しずつ 触れ合っていった。そして、気怠い春の午後、薄暗い部屋でひばりを抱いた。拙い行為を終えた長孝は、暖かな妻 の体を抱き締めてやりながら、一緒に生きようと誓った。ひばりがいるなら、この人生を耐え抜けると思えた。
 ひばりは長孝を、タカ君と愛称で呼ぶようになった。それがなんとなくくすぐったかったが、長孝が長光と同じ字 を使った自分の名前を忌み嫌っていることを知った上での愛称だったので、素直に受け入れた。
 ひばりが妊娠したのは、それから一年ほど過ぎた頃合いだった。同時に、長孝の周囲に不穏な空気が漂い始め、 ひばりからなるべく離れないようにしていた。仕事も出来る限り持ち帰れるようなものにしていたが、それだけでは 勤められないので、気掛かりではあったが出勤した。妊娠三ヶ月を迎えた頃、遂にその日が訪れた。ひばりが新免 工業に奪取された。長孝は憤りのあまりに目眩すら覚えたが、考え直した。自分の手元にいるよりも、武装した集団 に守られている方がひばりにとっては安全ではないのか、と。長孝は人間ではないが、無力だからだ。
 ひばりと再会出来たのは、ただの一度だけだった。新免工業の監視から抜け出して宮本製作所にやってきた妻は 長孝に婚約指輪を突き返し、ごめんなさい、としきりに謝ってきた。下腹部はかなり目立つようになっていた。長孝は ひばりは何も悪くないと言って、結婚後に贈った婚約指輪を返そうとしたが、ひばりは頑として譲らなかった。 それが、妻と交わした最後の会話だった。夜が明けると、ひばりは新免工業の戦闘員と共に戻っていった。ひばりの 身を守る盾になればと、パンダのぬいぐるみにムリョウとムジンを宿したものを渡すだけで精一杯だった。

「ひばり……」

 あの時、引き留めるべきだった。あの時、救い出すべきだった。あの時、守ってやるべきだった。

「ぐぅ、あ、おおっ」

 慟哭を堪えて呻きながら、長孝は背を曲げて半端な生体アンテナを青く光らせる。その後、ひばりが命懸けで守り 抜いて産んだ娘は、昆虫怪人に攫われた。娘と連動しているナユタが海上で暴走し、ひばりはそれを止めるために 我が身を犠牲にした。骨すらも残らなかった。ほんの少しの遺髪だけが残ったが、長孝の手に入るまでには恐ろしく 時間と手間が掛かった。産まれた娘にも会えなかった。会いたかったが、会えなかった。
 備前家の娘の正体を知っていたからだ。愛娘、つばめを攫った悪しき昆虫怪人であり、佐々木長光の従順な部下 であり、了見の狭い愚かしい娘だと。だから、長孝が不用意に近付けば、つばめは無事では済まない。なんとかして 娘を守らなければと考え込んでいると、長孝の前にパンダのぬいぐるみが現れた。ひどく汚れていて擦り切れていた が、あの時、ひばりに渡したものと同じものだった。長孝がパンダのぬいぐるみを拾うと、彼は言った。お母さんの 力にはなれなかった、だからお父さんの力にはなりたい、と。そして名乗った、僕はコジロウです、と。
 その名を聞いて、長孝は悟った。これは息子だ。つばめを妊娠して間もない頃、長孝はひばりと我が子の名前を どうするかと話したことがある。男の子なら小次郎、女の子ならつばめ、とひばりが提案してきた。一昔前、突飛な 名前が流行りすぎた反動で、最近では古風な名前が主流になっていたので、長孝もそれがいいと同意した。由来 は言うまでもなく、かの高名な剣豪である。名字が佐々木だからだ。安直すぎるが解りやすい方がいいと。だから、 パンダのコジロウは息子だ。薄汚れたぬいぐるみが千切れんばかりに抱き締めて、長孝は意を決した。どんなに 汚い手を使おうと、娘だけは、妻の忘れ形見だけは守ってみせると。

「あぁ、おぁああああああああっ!」

 それなのに、守りきれなかった。そして、この様だ。

「つばめぇっ」

 十五年間、ずっと会いたかった。名を呼びたかった。傍にいたかった。妻と同等か、それ以上の愛情を注いでやり たかった。だが、会えなかった。会ってしまえば、長孝の愛情の重さで押し潰してしまいかねないと危惧したからだ。 毎年のように備前夫妻から送られてくる写真の中で成長していくつばめは、妻に良く似ていた。
 三歳の誕生日に贈ったパンダのコジロウを、ずっと大事にしてくれていた。ムリョウとムジンの作用によって製造 された当時の外見を取り戻したコジロウを抱き締め、満面の笑みを浮かべている写真を何度見返したことだろう。 幼稚園に入ったつばめが、小さな両手で一生懸命描いた画用紙一杯のパンダの絵を誇らしげに掲げている写真を 幾度見つめただろう。小学校に上がったつばめが、ちょっと気恥ずかしげな笑顔でランドセルを背負って校門の前 に立っている写真をどれほど眺めただろう。中学校に上がったつばめが、真新しい制服に身を包み、少し冷めた 眼差しでカメラを見据えている写真を数え切れないほど触手の先でなぞったことだろう。
 三年前。二次性徴を迎えた十一歳のつばめに起きた心境の変化は、長孝の想像以上だった。パンダのコジロウ が遺産同士の互換性を用いて報告してくれた情報で、娘の痛みを知った。把握しているのは、小学五年生になった つばめが授業の一環で自分のルーツを探したということだ。名字が違うので備前家とは違う血縁だとは薄々感じて いただろうが、どこの誰から産まれ、なぜ備前家で暮らしているのか、それが解らなかったのだろうとは容易に想像 が付く。備前夫妻は職業柄も相まって堅実な性分だ、佐々木家の複雑な状況を知っているから、つばめには敢えて 佐々木家の実情を明言しなかった。それは優しさではあったが、自分の足元が不確かだと不安がっていたつばめ は不安が不信に変わったのだ。パンダのコジロウは、ベッドに潜り込んだつばめが布団を被って呪詛を呟いていた とも報告している。世の中なんてそんなもんだ、自力で生きるしかないんだ、私はろくな人間じゃないんだ、と。
 それから程なくして、つばめはパンダのコジロウにハサミを入れた。尻の部分の布地を縫い付けている糸を切り、 綿を抜き出し、尻の部分の布地にファスナーと隠し袋を付けた。ムリョウとムジンの破片は、つばめが作業している 合間に自力で脱した。長孝は備前家の傍でムリョウとムジンを回収し、つばめの部屋の窓を見上げたが、それだけ だった。娘が自分の存在の不確かさに怯えていても、その前に現れ、父親だと言い張れるわけがなかった。
 それから、長孝は旧知の友人である小倉貞利が経営している小倉重機に掛け合い、警官ロボットの量産体制を 整えさせた。佐々木長光の息子というだけで政府からも目を付けられている長孝は、異次元宇宙との接続している ことで得られる演算能力を用いて、比較的低コストで高性能な警官ロボットを完成させて政府側に売り込んだ。その 結果、警官ロボットが大量生産された。その中の上位個体が、コジロウの新たな体となった。
 その警官ロボットが全国に配備されれば、つばめがどこに家出しようと、どんな事件に巻き込まれようと、いかなる 危機に見舞われようと、コジロウが下位個体の機体を遠隔操作して助けてくれる。長孝が出来ないことをしてくれる 道具だ。こんなことでしか、娘への愛情を表せなかった自分がどうしようもなく歯痒い。

「すまない」

 今まで、何もしてやれなくて。長孝は地中に埋め込んだ触手を目一杯伸ばして蠢かせながら、昨夜と今朝、つばめ が振る舞ってくれた料理の味を思い起こした。寄せ鍋も味噌汁も、妻の料理と同じ味がした。生まれて間もなく別離 したはずの母親の面影が、そこかしこに滲み出ていた。リニア新幹線のホームにて、長孝と向き合った時に見せた 表情は、長孝の正体を知った際にひばりが見せた表情に似ていた。ああ、親子だ、と痛感した。

「やっと、やっと会えたんだ。俺のことを、お父さんと呼んでくれたんだ」

 上部が途切れている光輪から一際激しい光が迸り、急激に肉が盛り上がっていった。いびつではあったが、生体 アンテナが繋がり合って真円を成す。肩を怒らせて息を荒げながら、長孝は心の底から叫んだ。

「俺達の娘をっ、道具にされてぇっ、たぁまるかぁあああああああっ!」

 心の殻、精神の器、空間と空間を隔てる壁。かつて、宮本製作所を物質宇宙から隔絶した時と同じように、長孝 はあらん限りの激情を燃料に変える。何らかの理由で外殻を失ったフカセツテンの上に、長孝の精神力を用いた 異次元を覆い被せていく。この触手で娘を抱き締められなかった代わりと呼ぶには荒々しいが、こうすることでしか 娘を手助けすることは出来ない。どうか生きていてくれ、どうか屈しないでくれ、どうか俺を信じてくれ。父親としての 希望と願望を多大に含んだ異次元が張り詰めると同時に、局地的な揺れが起きて穴の周囲の雪が崩れた。
 それは、外界に侵出したクテイの根が、長孝の異次元に阻まれた際に発生した衝撃だった。





 


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