胸が、心が、魂が痛い。 鋭い痺れにも似た感覚が隅々まで広がると、かひっ、と肺に残っていた空気が横隔膜に押し出された。反射的に 突き出た舌が湿った空気をなぞり、鉄臭い味のする唾液が喉に溜まっていた。つばめは盛大に咳き込んでそれら を払ってから、慎重に呼吸を繰り返した。鼻の奥にも血の臭いがこびり付いていて、一度は死んだのだ、と改めて 認識させられた。手足もまだ冷たく、シャツの胸元は裂け、乾いた血が布地を固めている。 両手を何度も開閉させ、足に力を込めて曲げ、手足の動作を確認して、心臓を切り取られた傷口を触ってみた。 乾いた血を拭い去ってみると、穴が開いた皮膚が塞がっていた。だが、その手触りはつばめ自身の皮膚とは明らか に違っていて、祖母の触手と同じ感触が返ってきた。クテイが心臓を作ってくれたのだ。 「コジロウ」 狭い闇の中、つばめは彼を欲する。彼の存在を、彼の忠誠心を、彼の無限大のエネルギーを。胸元に当てた手 の下から、心臓の位置から、暖かくも力強い熱が沸き上がる。考えるまでもなく解る、ムリョウのエネルギーだ。 「行こう!」 外の世界へ、現実へ、そして感情を鬩ぎ合わせる戦いの場へ。つばめが熱の塊を両手で握り締めると、指の間 から青い光が上がった。それは赤黒い根によって作られた繭を満たし、闇を拭い去る。躊躇いも迷いも恐れも弱気 も何もかもが失せ、体も熱くなる。つばめは息を詰めて目を見開くと、ムリョウの熱を閉じ込めた両の拳を思い切り 頭上に突き出した。硬く組み合わさっていた根が解け、開いた。 薄紫の空が見えた。 緩んだ根の隙間から、背嚢を引き摺り出した。 大半の荷物が潰れているが、幸いなことに、中に入れておいたハンドガンとマガジンに歪みはなかった。武蔵野は 使い慣れたブレン・テンを取り出してマガジンを差し込み、チェンバーをスライドさせてから、スペアの拳銃を一乗寺 に投げ渡した。一乗寺は難なくそれを受け取り、じゃきりとチェンバーを動かす。 戦況は覆っている。考えるまでもなく解る、佐々木長光が動揺しているからだ。武蔵野は拘束された際に破られた 戦闘服を少しばかり気にしつつ、桜の木の根本で呆然と立ち尽くしている男を見据えた。五十年に渡ってシュユが 留まっていた異次元を、ムリョウのエネルギーで突破してクテイの根を物質宇宙にはびこらせようとしたようだが、 その異次元の外側に新たな異次元が形成されて阻まれたようだった。その際に発生した衝撃が太い根を緩ませ、 圧砕されたとばかり思っていた背嚢を見つけられた。そればかりか、根の動きが沈黙していた。 「クテイ、どうしたのですか」 長光はぎこちなく目を動かし、桜の木に振り返る。淡い色彩の花弁を帯びた樹木は、黙していた。 「クテイ、私の声が聞こえないのですか? あなたが欲していた、あんなにも食べたがっていた、孫娘を与えたでは ありませんか。ムリョウのエネルギーも与えたではありませんか。それさえ使えば、もう一枚の異次元などは容易く 打ち破れるでしょうに。クテイ、クテイ、答えて下さい」 だが、桜の木は無反応だった。何度も何度もクテイの名を呼ぶ長光の足元で、根が盛り上がり、捻れた金属板と 青い基盤が吐き出された。ムリョウとムジンである。その傍らには、子供の拳大の小さな小さな肉塊、つばめの心臓 が寄り添っていた。明確な拒絶の意思だ。長光はひどく狼狽え、声にならない声を漏らす。 「もう一仕事、すっかぁ」 道子に右腕の破損部分を応急処置してもらった寺坂は、上体を捻り、腕のない右袖を振り回した。 「あーもう、さっさと帰りたーい。すーちゃんとイチャイチャしたーい」 一乗寺は武蔵野の荷物から予備のマガジンを引っ張り出してから、戦闘服のポケットに入れた。 「俺だって、ニンジャファイター・ムラクモの最終回を見るまでは死ぬつもりはない。十二月のクリスマス商戦がある せいだろうが、今月に入って怒濤の盛り上がりを見せているからな」 武蔵野が真顔で言うと、メイド服のスカートの布地を引き裂いた即席の包帯を腹部に巻いた伊織が毒突く。 「んだよ、しょーもねぇ。そんな動機で戦うんじゃねーよ、クソが」 「そういう伊織君だって、りんねちゃんとイチャイチャしたいがために戦うんでしょうが。不純ですねぇ」 強化素材の人工外皮に覆われた素足を露わにした道子は、両脛に装備していたナイフを抜いて弄んでいた。 「ウゼェな。てめぇはどうなんだよ、道子」 伊織が顎を軋ませながら言い返すと、道子は澄ました。 「お買い物がしたいんです。つばめちゃんと一緒に、色んなお店を見て回りたいんです。ずっとドタバタしていたもの ですから、出掛ける暇すらなかったんですから。ネット通販だけじゃつまらないんですよ」 「人生なんてそんなもんだ。つまんねぇこと、下らないことの積み重ねだ。問題は、それを楽しむか否かだ!」 おら行くぞぉっ、と寺坂が先陣を切って駆け出した。無駄に元気ですね、バッテリーの電圧が半端なのに、と道子 は苦笑しながらも、寺坂に続いて根のはびこる地面を蹴って跳ねていった。つばめが閉じ込められている根の繭を 横目に気にしながらも、佐々木長光を目指す。いかなる策を講じているとしても、佐々木長光の肉体を叩き潰せば 事態は更に好転するはずだ。異次元といえども物質宇宙の延長、肉体がなければ幽霊に成り下がる。 左腕の仕込みナイフを展開した寺坂が、サイボーグの脚力にものを言わせて駆け抜けていく。触手のように弾力 がある根を踏み締め、その反動で高く舞い上がった寺坂は、投擲された槍の如く急降下した。佐々木長光は敵襲 と知って我に返ったが、避けようとはしなかった。今も尚、概念を操作しているからだ。だが、それがなんだ。 「相手を潰す前にぃっ、手の内明かす馬鹿がいるかぁあああああっ!」 概念が操作されている、と知った段階でその概念は覆っている。寺坂は長光の頭上に足を振り下ろしたが、若干 照準がずれ、長光の肩に強かにかかとをめり込ませただけだった。だが、当たった。命中した。確信は確証となり、 現実に訪れた。肉食獣の威嚇じみた攻撃的な笑みを浮かべた寺坂は、その足を捻って長光の側頭部を叩いた。 その拍子に足袋を履いた足から雪駄が抜けて宙を舞い、桜の木に向かった。それが長光の注意を逸らしたのか、 長光は一瞬寺坂は目を外す。それを見逃す理由はない。 「悪役なら悪役らしく、ハッタリ効かせて余裕ぶちかましてくれないと退屈ですよ!」 続いて突っ込んできた道子が、着地すると同時に両腕を大きく振り回す。銀色の刃が翻り、ナイフの切っ先が長光 の服を呆気なく切り裂いた。生身の人間と遜色のない血が飛び散り、長光は目を剥く。道子は長光がよろけた隙に 蹴りを加え、後退ったところで跳び膝蹴りを喰らわせる。と、同時に、柔らかな右太股が開いて機関銃が出現した。 だだだだだだだっ、と口径の大きい銃弾が一息に吐き出されて薬莢が舞い、腹部を撃たれた長光は崩れ落ちる。 「あら、呆気なぁい」 「退けぇっ!」 寺坂と道子を薙ぎ払って迫ってきたのは伊織だった。腹部に巻いた紺色の包帯を靡かせながら、黒い矢となって 落ちてきた伊織は、長い下両足を交互に繰り出して長光を蹴り、切り裂く。道子の銃撃でボロボロにされた胴体 を上両足の爪で真っ二つにすると、いくつか銃弾が残っていた作り物の内臓が吹き飛び、割れた背骨が覗いた。 中両足で分断された下半身を投げ捨ててから、伊織は長光の上半身を追う。程度の低い罵倒もせず、純然たる 殺意だけを宿した爪を何度も何度も振り下ろす。抵抗する余力すら削がれたのか、長光の上半身は桜の木の根本 に転がった。既に両腕は切り落とされていて、首も薄皮が辛うじて繋がっている状態だった。 が、頭部を割ろうと爪を振り上げた寸前で、伊織は活動限界を迎えて下両足を折った。腹部の即席の包帯に体液 が滲み、触角が震える。道子がいきり立つ伊織を宥めて引き下がらせると、一拍遅れてやってきた武蔵野と一乗寺 が銃撃を始めた。体液を垂れ流して頽れている下半身に鉛玉を撃ち込む一乗寺はいやに明るく、歓声すら上げて いる。敵が反撃してこないと知っているから、二人は遮蔽物に身を隠すことすらなく、互いのタイミングを測りながら 銃撃を繰り返す。桜の木の根本で項垂れている長光の頭を、胸を、喉を、腹を、銃弾が貫く。 「もう誰も殺したくならないし、ハイにならないと思っていたけど、あんただけは別だったみたい」 軽く息を弾ませながら、一乗寺は空になったマガジンを抜き、熱した銃身に新たな銃弾を詰め込む。 「あんたを殺せるのって、最高に気持ち良すぎ」 「ひばりとつばめに出会う切っ掛けを作ってくれたことだけは感謝する。だが、それだけだ」 武蔵野もまた、火傷するほど過熱したブレン・テンに銃弾を装填する。 「じゃ、どこにするぅ?」 「そうだな、脳天を二発。そうすれば、確実だ」 ランチにでも誘うような一乗寺の口振りに、武蔵野は穏やかに返した。同時に引き金を絞って撃鉄で叩き、火薬 を炸裂させる。空中を引き裂いた二発の殺意が、ほぼ同じ位置に命中し、長光の額に重なった穴が二つ開いた。 濁った蛋白質塊が後頭部から散り、桜の木に肌色の飛沫が貼り付いた。 赤黒い肉塊と化した長光の仮初めの肉体は、ごぶりと泡立ち、膨れ上がり、溶けた。肉も皮も骨も生温い液体と なり、根と根の間に汚らしい水が溜まる。そこに、小さな水晶玉が浮かんだ。ラクシャだ。武蔵野はジャングルブーツ のつま先でラクシャを弾き出すと、寺坂が飛び上がって受け止め、法衣の袖で汚れを拭き取った。 「んじゃ、こいつをつばめに壊してもらおうじゃねぇか。どうせ死んでないはずだ、外に出てくるまで待ってやろうぜ」 「いや、そんな暇はなさそうだぞ」 再び脈打った根を見渡し、武蔵野は舌打ちする。桜の木の根本に長光の名残が吸い込まれていくと、赤黒い根 が躍動し、遺産が桜の木の根本に引き寄せられた。アマラ、ナユタ、アソウギ、コンガラ、ムリョウ、ムジン。タイスウ はコジロウが無に帰してしまったので、手に入れようがなかったようだ。銀色の針と粘液と金属の箱と捻れた金属板 と青い基盤が一塊にされ、捻られ、根が膨れ上がる。そして、粘土細工のように不格好なモノが出来上がった。 一言で言えば、ニルヴァーニアンの紛い物だった。クテイの肉体の一部を採取して遺産で繋ぎ合わせた人型の 異物は、部品はないがごつごつとした顔面と捻れた触手と、光を微塵も放たない光輪を背負っていた。体格は桜の 木と同等で、下半身の触手はそのまま地面に繋がっている。植物の延長だ。 武蔵野と一乗寺がすかさず銃撃するが、皮膚が恐ろしく硬いらしく鉛玉は呆気なく跳ね返された。道子が投擲した ナイフも同様で、刺さりもせずに弾かれた。この分では、寺坂も伊織も当てに出来まい。手持ちの武器はこれまで の戦闘で粗方使い尽くし、背嚢に入れていた武器も破れた部分からどこかに零れ落ちてしまった。だからといって、 ここまで追い詰めておいて逃げ帰ることは許されない。そもそも、逃げようがないのだから。 「おお、おおおおおおっ」 ニルヴァーニアンに形だけ似せた肉体を得た長光は歓喜し、硬い触手を折り曲げる。寺坂の手中のラクシャは 長光に吸い寄せられ、分厚い外皮を抉って体内に没する。 「私は何度目かも解らない死を以てして、ようやくクテイに近付けたのですね! ああそうですともそうでしょうとも、 クテイが私を拒絶するはずがないのですから! クテイが私を選ばないわけがないのですから! 私の愛が、私 の積年の思いが、私の全てが、クテイの全てなのですから!」 長光が一歩踏み出すと、地面が捲れ上がる。根が裂ける。青臭い体液が弧を描く。 「さあ、今こそ輪廻の環を断ち切り、物質宇宙へと!」 歓喜と勝利が漲った長光の猛りが、異次元の繭に響き渡る。外界への侵出を阻まれていた百二十八本の根が 活力を取り戻し、太さを増し、異次元を包んでいるもう一つの異次元を貫かんと荒れ狂う。幾度も幾度も激突しては 裂けるが、その度に再生している。長光の心の高ぶりが、クテイの生体組織を経由して接触している遺産に作用して いるのか、長光の見苦しい肉体のそこかしこから青い光が漏れ出ていた。光輪にも、うっすらと光が生じる。 が、その光を遙かに上回る光条が迸った。その光源は、心臓を抉られたつばめを捕らえていた、根の繭だった。 蕾のように固く閉じていた太い根が一つ一つ開いていき、禍々しい大輪の花を咲かせる。それが開ききると、中心 で仁王立ちしている少女が露わになる。つばめだ。 「さぁっ」 右手に何かを握り締めているつばめは、大きく振りかぶった。 「せぇっ」 両足を広げて強く踏ん張り、腰の捻りを加え、右腕をしならせて握っていたモノを投じる。 「るぅかぁああああーっ!」 見事な投球フォームでつばめは何かを投げきった。あれ、意外に元気じゃん、と呟いたのは誰だったのだろうか。 全員だったのかもしれない。心臓を抉られたはずなのに、いつもとなんら変わらない気の強さだった。 つばめの右手から解き放たれた物体は、真っ直ぐに警官ロボットに向かった。渾身の投球ではあったが弾道計算 までは出来なかったのだろう、警官ロボットの右斜め上を通り過ぎそうになったが、動力源を失っているはずの警官 ロボットが起き上がって右手を挙げた。その手中に、つばめが投げた物体が収まった。ムリョウだった。 「えぇ!?」 でも、今、ムリョウはあっちに、と道子が長光を指すと、腕組みをして胸を張っているつばめは叫んだ。 「そんなもん、ただの見せかけ! 遺産ってのは全部異次元宇宙に依存しているから、アソウギだろうがナユタだろう がアマラだろうがコンガラだろうがゴウガシャだろうがタイスウだろうがムリョウだろうがムジンだろうがラクシャだろ うが、この、私が、異次元宇宙から引っ張り出すための取っ掛かり! だから、私が全部どうにか出来る!」 その叫びを受けながら、満身創痍の警官ロボットが立ち上がる。長光の手で抉られた胸部装甲に、捻れた金属板 を押し込む。ほらムジン、とつばめが再度投げ渡すと、コジロウは青い基盤を受け取って胸に納めた。 「全部が全部、私のモノだ。こんな目に遭うのも、こんな力に振り回されるのも、私だけでいい」 つばめは赤黒い根に支配された船島集落と、桜の木の根本で異形と化した祖父と、戦い続けてくれていた皆と、 コジロウと、物質宇宙への侵略を防いでくれた異次元を見渡してから、全力で声を張る。 「だから、遺産なんて、他の誰にも渡してやるもんかぁあああああっ!」 母親と祖母と接した、束の間の幸福な記憶を糧にして、つばめは覚悟を据えた。事の真相が解ってしまうと尚更、 祖父から受けた仕打ちの理不尽さが頭に来る。異星人の祖母と、戸籍上の祖母に対する憐憫が深くなる。若くして 命を落としながらも、誰も恨まずに父親への愛を保ち続けている母親の暖かさに感じ入る。己を押し殺しながらも、 妻と娘のために孤独な戦いを続けていた父親への感謝の念が増す。叔父と叔母と、従姉妹にも。 つばめは胸に埋め込まれた祖母の生体組織から生じる鼓動を感じながら、強く欲した。アマラ、ナユタ、アソウギ、 ラクシャ、コンガラ、タイスウ、ムジン、ゴウガシャ。長光に奪われたはずの遺産は、つばめの周囲に次々と出現して 形を成し、転がる。試しにコンガラに触れてみると、遜色なく作動し、つばめの手のひらに付いていた血を複製した。 異次元宇宙と物質宇宙の狭間にいたおかげで、今までになく、あちら側に近付いているからだ。だが、それも長くは 持たない。だから、片を付けなければ。凝固していない自分の血液を払い、つばめはコジロウと目を合わせる。 コジロウは迷わずに跳躍し、つばめの元に至った。つばめはナユタを使って遺産を一つ残らず浮かばせてから、 コジロウに命じ、祖父の元へと向かわせた。つばめに従って遺産も後を追ってくる。タガの外れた哄笑を放つ祖父は クテイとの蜜月を阻まれてなるものかと、荒々しく触手を振り回す。だが、コジロウはそれを一つ残らず回避し、数本 を足掛かりにする。攻撃に及んできた触手は次々に殴り、蹴り、砕き、木片へと変えていく。 「でぇあっ!」 ナユタの光を収束させ、ぐるりと一巡させる。広範囲の光学兵器と化した閃光が祖父の禍々しい肉体を両断し、 胴体が滑り落ちて桜の木に激突すると、その衝撃で花弁が大量に舞い上がった。それらが降り注ぐ中、コジロウは つばめと遺産を伴って、長光の前に辿り着いた。胴体の切断面から体液を流しながらも、祖父は身を起こす。 「改めまして、お爺ちゃん。あんたの孫です」 つばめは長光と対峙し、一礼した。長光は無数の花弁を浴びながら、折れかけた首を起こす。 「クテイは、あなたを食べてくれなかったのですか? なぜ、なぜですか」 「そんなの、簡単だよ」 つばめはコジロウの手を借りて長光の胴体に昇ると、頭上に遺産を集わせ、使用する。タイスウの蓋を開かせ、 コンガラを用いてタイスウの体積を膨張させ、アマラを長光に突き刺して肉体の制御を奪い、アソウギで赤黒い根の 生体活性を失わせて沈黙させ、ナユタで長光を浮かび上がらせて周囲から隔絶させ、ゴウガシャを急成長させて 触手を用いてきつく拘束し、十六枚のムジンで遺産を制御し、最後にラクシャを握り締めた。 手のひらを通じてつばめに流れ込んだのは、佐々木長光の怒濤のような狂おしい愛情だった。息が詰まりそうな ほど重苦しく、やるせない、行き場のないものだった。クテイに近付こうと願うあまり、クテイの眷属である船島集落 の植物という植物を摂取していた。三年前に倒れ、それきり寝込んだのは、クテイの眠る桜の木の傍に生えていた 毒性の強い植物を大量に摂取したせいだった。最早愛情ではない、執念だ。クテイを振り向かせたいという一念が、 佐々木長光をどこまでも歪ませている。だが、それももう終わりだ。 「何から何まで、お婆ちゃんの好みじゃなかったってこと。あんたの性格も、プレゼントも、全部。だから、こんなことは 止めさせる。私が終わらせる」 つばめの手に、コジロウが大きな手を重ねる。人間の姿も、仮初めの姿も失った長光は、朽ちかけた植物の蔓 に酷似した触手を伸ばしてくる。つばめがその蔓にラクシャを添えると、長光は項垂れる。 「ああ、ああ、あああああ」 言葉にすらならない嗚咽を漏らし、長光は砕けていく蔓でラクシャを受け止めようとするが、滑り落ちる。その時、 長光が寄り掛かっていた桜の木が解け、傷付いた木肌を割って、赤黒く滑らかな触手が伸びてきた。クテイだった。 本物の光輪を背負った、砂時計型の体形のニルヴァーニアンは、長光を柔らかく抱き締める。 「クテイ」 ざらついた声ではあったが、長光はこの上なく幸せそうだった。クテイは凹凸のない顔でつばめを見、一度頷いた。 つばめはコジロウの胸中からムリョウを取り出すと、それを軽く押してクテイの元に向かわせる。 「さようなら、お爺ちゃん、お婆ちゃん」 コジロウに抱かれたつばめは、長光の胴体の上から脱した。ナユタが作った青い光の泡から抜け出すと、クテイ は百二十八本の触手で長光を抱き締める。ありとあらゆる幸福と快楽と愉悦を混ぜ合わせた感嘆を零しながら、 長光はクテイに縋り付く。母を求める幼子のように、愛し抜いた異形の妻に甘える。 「ようやく、ようやく私の元に、クテイ、あなたが」 「長光さん」 鈴を転がすような、柔らかくも儚げな声を発したクテイは、長光のひび割れた顔にそっと額を合わせた。 「共に地獄へ参りましょう。あなたの業は、私の業です」 二体の異形が、愛に焦がれた男と愛を尊んだ女が、絡み合いながら、黒く巨大な棺へと吸い込まれていく。男は 幾度となく女の名を呼び続けるが、女は応じずに触手で伴侶を締め付ける。幾多の争いと数多の欲望を生んでは 食い潰してきた遺産も絡め取りながら、二人はタイスウの中に没した。 滑らかに迫り上がった蓋が棺に重なり、閉じる。タイスウの内側から出現した、四本の金色の釘が棺の蓋の四隅に 突き刺さり、深々と埋まる。束の間、沈黙が訪れたが、桜の木の根が持ち上がってタイスウを拘束し、そのまま太い幹 に引き込んでいった。柔らかな泥のように棺を飲み込み終えると、桜の木は静まった。 直後、一陣の風が吹き荒れた。コジロウが盾になったが、粉塵ばかりは防げず、つばめはきつく目を閉じた。風が 止んでから瞼を上げると、青い光の泡は消えていた。桜の木も同様で、大きな穴が穿たれていた。巻き上げられて いた桜の花弁が、静かに下りてくる。その中には、肌に触れると溶けるものも含まれていた。 雪だった。外殻を失ったフカセツテンに代わって均衡を保ち続けてくれていた異次元は音もなく爆ぜ、その外側の 異次元も失せ、慣れ親しんだ物質宇宙が頭上に広がっていた。冴え冴えとした青天で雪雲はなく、一連の出来事の 余波を受けた積雪が上空へ昇り、重力に従って下りてきたのだろう。その場に座り込んだつばめは、傍らで片膝を 付いているコジロウに頭を預けて弛緩した。 「お婆ちゃん、ムリョウとコジロウのムジン、置いて行っちゃったね」 手中に重みを感じたつばめは両手を広げると、クテイに渡したはずのムリョウとムジンが収まっていた。 「譲渡された、と認識すべきだ」 「うん、そうだね。だから、相続していいんだよね」 つばめはコジロウと寄り添いながら、遺産から解放された安堵感に浸っていた。ふと気付くと、桜の木が存在して いた場所に白と黒の丸っこい影が座っていた。ちらほらと落ちてくる薄い雪片が毛並みの柔らかな布地に積もって は溶け、丸いボタンの目が二人を見つめていた。パンダのコジロウだった。 つばめは立ち上がると、パンダのコジロウを抱き上げた。よく見ると、以前、つばめが修繕した部分が丁寧に縫い 合わされていた。尻の部分に付けたポケットも元通りで、毛並みも綺麗になっている。お母さんがしてくれたんだ、と つばめは直感し、パンダのコジロウを抱き締めた。生まれた時から、ずっと愛されていたのだと悟る。 三途の川のほとりで、祖母は祖父を愛していないと言った。腹の底から愛せない男だったからだ。だが、最後の 最後で共に地獄に行こうと言ったのは、愛ではないだろうか。いや、それは解らない。それはあくまでも、つばめの 主観であってクテイの主観ではないからだ。つばめは振り返ると、警官ロボットのコジロウと手を繋いだ。 その間に、パンダのコジロウを挟んで。 13 2/22 |