全身隈無く、激痛が滾っている。 細胞の一つ一つが食い破られ、引き千切られ、こね回されるかのような苦しみが絶えず襲ってくる。流れ出た汗が シーツを濡らし、喘ぎと共に呻きが漏れる。だが、それがたまらなく心地良い。突き出した舌は渇き、見開いた眼球は 干涸らびかけ、衣服を一切纏っていない肌は冷や汗でぬるついているが、躍り出したいほどの高揚感がある。 あれから、何時間が過ぎたのだろうか。伊織は体の上に申し訳程度に掛けられているタオルケットで顔と首回りの 汗を拭ってから、上体を起こした。それだけの動作で筋肉痛に苛まれたが、気にするほどのものでもない。寝心地 がやたらに良かったのは、ソファーに寝かされていたからだった。いつもはその辺りの床で適当に眠っているので、 まともな寝床を与えられたと知って意外に思った。何度か瞬きしてぼんやりとした視界をクリアにすると、壁一面が 鮮やかすぎる青に染まっていた。巨体と化した伊織が破壊した壁の大穴にブルーシートが張ってあり、破損部分と シートの隙間から冷気が忍び込んできていた。風を受ける度にブルーシートがたわみ、青い影が膨張する。 「やっと起きやがったか」 寝起きの伊織を小突いてきたのは、疲れた顔をした武蔵野だった。 「んー、ああ?」 伊織がぐしゃぐしゃの髪を掻き毟りながら曖昧な返事をすると、武蔵野は盛大に嘆息した。 「お前の後始末をするのに手間取ったんだからな。後の片付けはお前がやれ。だが、その前に風呂に入ってこい。 汗臭くて敵わねぇんだよ。それと、適当な服を着てこい。お前の粗末なモノなんか見たくもねぇんだよ」 「面倒臭ぇ……」 心底億劫だったので伊織は武蔵野を張り倒してやりたかったが、そんな気力さえ湧かなかった。遺産の力を存分 に使ったのはこれが初めてではないが、ここまで疲れ果てるのは経験していなかった。巨大化したとしても、身動き が取れなくなるのは精々二三時間程度だった。それなのに、今回は夜が明けるまで目覚めもしなかった。これが、 佐々木つばめが保有する管理者権限の力なのだろうか。 リビングの隅に壁の破片が山と積み重なっていて、木屑と梁から落ちた埃で穴だらけの床板は全体的に白っぽく なっていた。吹き抜けの最上階にあったのでシャンデリアは無事だったが、それ以外の内装は壊滅状態だ。暖炉も 潰れていて、レンガと煙突が粉々になっている。二階の位置にあった出窓も消え失せていて、元々はどんな内装で あったのか思い出しづらいほどだった。それを眺めていると、今更ながら敗北感を味わわされた。 今度こそコジロウを確実に追い詰めた、と思ったのだが。敵陣に飛び込んできたつばめを手中に収めるのは簡単 であると伊織も考えていたし、他でもないりんねが確信していた。つばめの管理者権限についても、りんねが伊織を 始めとした遺産に与える効果と同等だと思っていた。所詮は名ばかりの権力なのだと。だが、蓋を開けてみれば、 つばめは伊織を引っぱたいただけで行動不能に陥らせてしまった。りんねの場合では、唾液ごと粘膜を刮げ取って 摂取しなければ効果を得られないというのに、この違いは一体何なのだ。佐々木長光の血の濃さは同じであるはず なのに、条件はどちらも変わらないはずなのに。訳もなく悔しくなり、伊織は舌打ちした。 「で、お嬢はどうしたん?」 「東京に行っちまったよ。道子も連れてな」 「はぁ?」 「この別荘を直すために必要な重機を手配しに行くんだそうだ。ここまでぶっ壊れちまえば、別の拠点を作った方が 早いと思うんだがなぁ。佐々木側に俺達の居場所が割れちまっているし、体勢を立て直すためにも、移転した方が いいと進言したんだがお嬢は聞き入れてくれなくてな。で、俺とお前が留守番だ」 「あの根暗なチビのおっさんもか?」 「いや、高守は仕事だ。昨日の朝飯の中にちくわが入っていたのは、高守だったじゃないか。お嬢と佐々木の小娘 が取り交わした約束と、今日の日付を思い出してみろ」 武蔵野がキッチンのカレンダーを指し示したので、伊織は目を凝らした。 「あー、日曜?」 「そうだ。あの馬鹿げた約束のせいで、俺達は土日勤務になっちまったからな。誰もが羨む週休五日の身の上だが、 ちくわロシアンルーレットが当たる確率は五分の一だから、これまで以上に暇になっちまう」 暇潰しに鍛え直すか、と武蔵野が呟くと、伊織は舌を出した。 「うげぇ。暇すぎてマジ死ぬし」 「お前に勤労意欲があるとは意外だな」 武蔵野のからかい混じりの言葉に、うっせぇ、と吐き捨ててから伊織はソファーを下りた。わざわざシーツを敷いて から寝かせてくれたのも武蔵野だろうが、感謝する気は更々なかった。余計な御世話だ。気に掛けられたところで、 嬉しいともありがたいとも思わない。他人など、煩わしいだけだからだ。 適当に何か喰ったら片付けを手伝え、と武蔵野が言ってきたが、伊織は生返事をしただけだった。力の入らない 足を引き摺るように階段を昇っていき、生欠伸を繰り返す。面倒だとは言ったが、体中のべとつきが煩わしいのは 事実なのでバスルームに向かうことにした。その前に伊織の部屋として割り当てられた部屋に入り、量が少ないわり に散らかり放題の私物をひっくり返して着替えを引っ張り出し、背中を丸めて歩いていった。 二階の南側に面したバスルームのドアを開けると、りんねが使用しているシャンプーやトリートメントの甘い香りが ふわりと漂い、伊織は顔を歪めた。その上品ながら粘つく香りを外に出すために窓を全開にしてから、蛇口を捻って 温水を出した。頭からつま先まで一度に流すと全身の汗が剥げていき、ぬるつきが収まっていくが、心地良さよりも 歯痒さが沸き上がってきた。意味もなくタイルの壁を殴り付けるが、疲労が溜まっているせいで大した力が出せず、 薄っぺらい肉と骨がタイルに激突しただけだった。発散しきれなかった戦闘衝動が燻り、体液が煮詰まる。 戦わなければ、体液に喰い殺される。 なんて清々しい朝だろう。 雨戸を開け放って縁側に立ったつばめは、朝日を全身に浴びながら深呼吸した。やはり、行動に出ると出ないの では大違いだ。思い切って敵陣に乗り込んでみて本当に良かった。少なくとも、平日はびくつかずに過ごせるように なったわけだし、土日だけ警戒していればやり過ごせるのだから。その安心感からか、いつになく熟睡出来た。 けれど、心から笑えるわけではない。つばめは雪がちらほらと残る庭に面した雨戸を開けていき、玄関に至ると、 つんと機械油の匂いが鼻腔を刺激してきた。玄関と居間の間にある風防室には、多大に破損したコジロウが土間 に座り込んでいた。一晩経っても破損箇所はあまり修復されておらず、アイセンサーカバーや胸部の傷はそのまま で機体のそこかしこに刻まれた傷跡も痛々しかった。つばめは突っ掛けを履き、土間に下りる。 「コジロウ、大丈夫?」 「基本機能の維持については問題はない。エネルギー供給システムに生じた若干の不具合の影響で自己修復機能 が一時的に低下しているが、デバッグと同時にシステムのリロードを行っている」 「それ、いつ頃終わりそう?」 つばめはコジロウの傍に屈み、破損が著しいマスクフェイスに柔らかく触れた。外装は冷たいが、内部は熱い。 「五時間四十分後を予定している」 「そっか。じゃ、それまではじっとしていてね」 「了解した」 コジロウが平坦に快諾したので、つばめは無性に切なくなった。結果オーライだとはいえ、つばめの迂闊な行動で コジロウが破損したのは事実だ。文句の一つでも言ってくれても構わないのに、コジロウはどこまでも従順だ。それ が嬉しくもあり、やるせなくもある。戦闘中に伊織が言っていたように、コジロウは道具としての本分を弁えている。 だから、つばめの見通しがどれほど甘くとも、判断がいい加減でも、躊躇わずに従ってくれる。ロボットとしてはそう あるべきであり、そうでなければつばめの身の安全など守れないのだが、胸の奥がちくりと痛む。 「ごめんね」 つばめは手のひらでコジロウの外装の汚れを拭いながら謝ると、コジロウは赤い瞳を向けてきた。 「つばめが本官に謝罪する理由が見受けられない」 「だって……」 こんなにも好きなのに、大事にしたいと願っているのに、コジロウをちっとも上手く使ってやれていない。こんなこと なら、やはり吉岡りんねの所有物になった方が幸せだったのではないだろうか。刃物一つ取っても、使い方次第で 絶品の料理が作れたり、綺麗な細工の彫刻が作れたりする。場合によっては人や動物を切り裂くことすら出来る。 だが、つばめはコジロウを上手く使えた試しがない。下手に感情移入しているばかりか好意までも寄せているから、 コジロウを道具扱いするなんて以ての外、と常に心の片隅で思っているからだろう。だから、いざという時に大胆な 行動を取らせられない。彼と家族になりたいのか、完璧な主従関係を築きたいのか、一振りの刃物を握る使い手に なりたいのか、つばめ自身が決めかねているせいでもある。 「難しいよなぁ、色々と」 つばめはコジロウが動かないのと人目がないのをいいことに、コジロウの肩に寄り掛かった。いっそのこと手でも 握ってやろうか、とも思ったがさすがにそこまでの勇気はなかった。コジロウは動作が不完全な首を動かし、つばめを 窺ってきたが、つばめから指示がないと知ると首を所定の位置に戻した。 「事態は難解ではない。つばめの身柄と財産を奪取せんと画策する企業と団体の数こそ多いが、動機はいずれも 同じだ。遺産を操るために不可欠な管理者権限を保有しているつばめを所有物にせんがために共同戦線を張り、 船島集落とつばめに襲撃を繰り返している。よって、戦況は複雑に見えるが、構図は至って単純だ」 独り言に対してコジロウが真っ当に答えてくれたので、つばめは少し笑った。 「で、コジロウは私を守るために戦ってくれる、ってことだね」 「そうだ」 「うん、そうだね」 そう言われると、深く考えることなどないのかもしれない。第一、つばめはりんねと部下の扱い方で勝負をしていると いうわけではないのだから。あちらはあちらで、こちらはこちらだ。やれることをやれるだけやればいい。 「おっはよぉーっ、つばめちゃあーんっ!」 寝起きなのにテンションの高い美野里が、居間を通り抜けて駆け寄ってきた。が、つばめとコジロウの構図を見るや 否や、あらま、とにやけて後退った。 「後は若い二人でごゆっくりぃー」 美野里は背を向けて台所に行ってしまったので、つばめはすぐさまコジロウから離れ、赤面しながら弁解した。 「あっえっ、これは別にそういうわけじゃなくってさあ!」 「いいのよ、つばめちゃん。お年頃の女の子のボーイフレンドの一人もいない方が珍しいんだもの。ただ、その相手 がロボットだったってだけよ。だから、お姉ちゃんは気にしないわっ!」 振り向き様に美野里は親指を立ててみせたが、つばめは照れ臭くなって顔を背けた。 「だから……そんなんじゃなくて……」 恐る恐るコジロウを窺うが、コジロウは無反応だった。当然だ、コジロウにとってはつばめと美野里のじゃれ合いの 理由も意味もどうでもいいのだから。 「ねぇどうするぅ? お赤飯でも炊いちゃうー?」 台所から美野里が浮かれた調子で話し掛けてきたので、つばめは全力で言い返した。 「普通でいいの、普通で! 大体、お姉ちゃんはお赤飯なんて炊けないでしょ! 御飯は私が作るから、お姉ちゃんは 大人しくしておいてね! コジロウに変なことも吹き込まないでよね!」 「えぇー、お姉ちゃんも朝御飯作りたーい」 美野里が不満げに唇を尖らせたが、つばめは語気を強めた。 「お姉ちゃんに生活能力が皆無なのは今に始まったことじゃないし、料理なんて特にダメじゃん。着替えてくるから、 ちょっとそこで良い子にしていなさい。解ったなら、お返事!」 「はーい」 美野里は心底不満げだったが答えたので、それで良し、とつばめは頷いてからふすまを閉めて自室に向かった。 弁護士になるために勉強尽くしの人生を送ってきた弊害で、美野里は家事がほとんど出来ない。母親の景子は同じ 弁護士ではあるが要領が良く、料理も掃除も洗濯も買い出しもそつなくこなすのだが、美野里はどんなことをさせても トンチンカンになってしまう。部屋を片付けたはずなのに余計に散らかってしまったり、掃除機を掛けたら手近な棚に ぶつけて物を壊してしまったり、買い出しに出かけたはずなのに道に迷ってしまったり、と。弁護士としての能力は 申し分ないので、他人に迷惑を掛けないためにも結婚せずにバリキャリとして一生を終えてもらいたいものだ。 寝間着を脱ぎ、美野里の服と一緒に買い込んできた春物のトレーナーとスカートに着替えた後、洗面所に行って 顔を洗って髪をツインテールに結んだ。これも服のついでに買ってきたエプロンを着ながら台所に戻ったつばめは、 昨日のうちに仕込んでおいた煮干し出汁を漉して一煮立ちさせ、具材を入れてから味噌を溶いた。昨夜のおかずで ある車麩と野菜の煮物を温め直しつつ、目玉焼きを二人分焼き、タクアンを薄めに切った。炊飯器の中で艶やかに 炊き上がっていた白飯を茶碗に盛り、火の通った味噌汁を椀に盛り、二つの盆に分けて載せた。煮物と目玉焼きと タクアンも二人分に分けて盛ってから、盆に載せ、美野里を呼んだ。 「お姉ちゃーん、自分の分は運んでよーう」 「はいはーい」 美野里は台所に来ると、量が多めに盛られた盆を持って居間に戻っていった。つばめは一通り火を消してから、 自分の分の盆を抱えて居間に向かった。テーブルを囲むのではなく御膳に載せて食べるのはまだまだ不慣れでは あったが、向かい合って食べることに変わりはない。頂きます、と手を合わせてから食べ始めた。 「にしても、今日は良いお天気だねぇ。残っている雪もみーんな溶けちゃうんじゃないかな?」 美野里は目玉焼きに醤油を存分に掛けてから、丸ごと白飯の上に載せた。 「そうだねぇ」 つばめは味噌汁を啜り、内心でその出来に満足した。美野里は目玉焼きで白飯を食べつつ、眉を下げた。 「ごめんね、つばめちゃん」 「ん、何が?」 つばめが聞き返すと、美野里は俯く。 「またつばめちゃんと一緒に住めるようになったのに、役に立てなくて。昨日だって、私がもっとしっかりしていたら、 やり込められることなんてなかったかもしれないのに」 「うん、そうだねぇ」 「あ、そこは違うでしょ! そんなことない、って慰める場面でしょ!」 美野里がむっとするが、つばめは事も無げにタクアンを囓る。 「お姉ちゃんが自覚しているなら、それでいいの。問題はその後だもん。ダメな点を改善出来るか否か」 「辛辣だなぁ」 「あの成金御嬢様を相手にするんだもん、こっちだってシビアに行かなきゃ。ビジネスライクには出来ないけど」 「それもそうよねぇ。生半可なことじゃ相手に出来ないってのは、身に染みたもの」 そう言いつつ、美野里は車麩の煮物に箸を付けた。目玉焼きの黄身に醤油を掛け、つばめはふと思った。 「そういえば、先生は? 昨日、別荘に案内してもらってから見かけないけど」 「軽トラックを返しに行ったけど、その頃には分校にもいなかったわよ。政府の諜報員だっていうから、きっと何かの 仕事で出かけちゃったのよ。まあ、その方が静かでいいんだけど」 「だね」 一乗寺がいないと、それだけでやかましさが格段に減る。つばめは食べ終えた食器を重ねてから、提案した。 「じゃあ、今日は散歩でも行こうよ。引っ越してきてから一週間になるけど、集落の中を見て回る暇なんてなかった んだもん。お弁当でも作ってさ、歩き回ってみようよ」 「うん、それがいいね! そういえば、日当たりが良い原っぱに菜の花が咲いていたわ」 「じゃ、決まりだね」 つばめは快諾し、空の食器を重ねた盆を抱えて立ち上がった。 「コジロウ、お弁当箱……はないだろうから、重箱ってどこにあるか解る?」 台所に入る前に土間に顔を出し、尋ねると、コジロウは左腕を挙げた。 「重箱であれば、台所の食器棚の最下段に入っている」 「ありがとう!」 つばめは自分の分の食器を水に浸し、食後のお茶を淹れるべく、ヤカンで湯を沸かし始めた。すると、土間から 上体を乗り出したコジロウが、台所で忙しく動くつばめに声を掛けてきた。 「つばめ。外出するのであれば、本官が同行する」 「いいっていいって、その辺なんだしさ。昨日の今日だもん、吉岡一味だって大人しくしていてくれるって。あそこまで やり返されたんだから、普通はやる気なくすって。それに、コジロウだって私が起動させてからは働き詰めだったし、 体が元通りになるまでは大人しくしていてよ。無理させたくないし」 「しかし」 「これは命令だよ?」 「……了解した」 つばめの得意げな笑顔に対し、コジロウは若干間を置いてから了承した。コジロウが言うことを聞いてくれたので、 つばめは頬が緩みそうになるほど安堵した。美野里と一緒にのんびりと散歩をすれば時間なんてあっという間に 過ぎてしまうだろうし、春先の暖かな日差しの下で他愛もないお喋りに興じたい、という気持ちもあった。お弁当に 何を入れるかと考えているだけで浮かれてきて、束の間ではあるが、祖父の遺産を巡る争いのことが忘れることが 出来そうだった。せっかく田舎に来たのだから、その気候を満喫してもいいではないか。 少なくとも、罰は当たるまい。 12 4/11 |