引っ越し当日は、雪の晴れ間だった。 うずたかく積もった雪の壁に四方を囲まれた合掌造りの家が、佐々木親子を待ち構えていた。厚手のマフラーで 覆っていた口元を出して白い息を吐いてから、つばめは目を瞬かせた。外見だけ見れば、佐々木長光邸となんら 変わりがないように思えるが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。家主が姿を消して久しいのに屋根の積雪が 除雪されているところを見ると、コジロウが暇を見て手入れしてくれていたらしい。増築されたガレージはシャッター が閉ざされたままで、合掌造りの家に前に伸びている細い道路には、今朝方除雪された痕跡は見受けられたが、 今し方乗ってきたワゴン車以外の轍はなかった。 つばめは隣に立っている一人と一体を、そっと見上げた。いつもの作業着の上に申し訳程度の防寒着を羽織って いる、佐々木長孝は凹凸のない顔で借家を眺めていた。袖口から出ている触手には鍵の束が下がっており、時折 吹き付ける風がちゃりちゃりと小さな金属音を立てていた。そして、長孝の奥では警官ロボットのコジロウが背筋を 真っ直ぐ伸ばして立っていた。赤いパトライトから淡い光が滲み、彼の周囲だけ雪が赤く染まっていた。 「本当にこれで良かったのか」 長孝に問われ、つばめは聞き返す。 「何が?」 「やろうと思えば、家の一軒や二軒新築出来るほどの金があるのに、なぜ古い家にするんだ。政府が寄越す口封じ のための賠償金もそうだが、俺が使ってこなかった金もそれなりにある。それを使えば、つばめの思い通りの家が 出来上がる。それなのに、またこの作りの家にするのか?」 「だって、勿体ないじゃん。それに、私、お爺ちゃんの家は結構好きだったんだ」 「そうか。お前がそう言うのなら、それでいいんだ」 長孝はつばめを一瞥してから、柔らかな新雪が降り積もった玄関先を歩いていった。靴を履かずに素肌の触手を うねらせて移動する父親の足跡は独特で、細かな筋が何本も付いている。雪との接地面が少ないのと体重が分散 されているからだろう、大柄なのにするすると淀みなく進んでいった。長孝は鍵束の中から玄関の鍵を見つけ出すと、 それを差し込み、回して錠を開けた。木枠に磨りガラスが填った古い引き戸を開けようとするが、積雪の重みで家が 少し歪んでいるからだろう、がたつくばかりで思うように開かなかった。 「お父さん、コジロウに手伝わせようか?」 見るに見かねたつばめが進言するが、長孝は玄関の敷石に入ってから両足の触手を踏ん張らせた。 「……いや、構わん」 押し殺してはいたが、力を込めているせいで若干上擦っていた。そんなことで意地にならなくても、とつばめは少し 呆れたが、長孝なりに父親の矜持を見せたいのだろうと考えておくことにした。引き戸は少し動いては突っ掛かる、 を繰り返していたが、長孝の奮闘の甲斐あって開き切った。大きな肩を上下させ、長孝は両足の触手に付着した 雪を払ってから、つばめとコジロウに振り返った。 「開いたぞ」 表情は見えず、声色も平坦だったが、どことなく誇らしげだった。つばめは笑みを零しつつ、雪道を進む。 「はーい。お父さん、やるじゃない」 「当然だ」 長孝は若干乱れた上着の襟を正してから風防室に入り、別の鍵でもう一つの引き戸の錠を開けた。玄関マットで 両足の触手の汚れを拭いてから、冷え切った板張りの廊下に上がった。つばめは玄関の敷石に長靴の底を強めに 叩き付けて雪を落としてから、ダウンジャケットのフードに積もった雪を払ってから、長靴を脱いで三和土に上がった。 最後に入ってきたコジロウは、廃熱で機体のそこかしこに付いた雪を一瞬で蒸発させた後、両足の裏を拭ってから 三和土に上がった。雨戸も閉め切られているので、家の中は真っ暗で芯まで冷え切っていた。 ぱちん、と硬い音がすると、廊下の天井から吊り下げられている電灯の明かりが付いた。オレンジ色の柔らかな 光が闇を拭い去ったが、厚手の靴下を呆気なく通り抜けて襲い掛かってくる寒さは相変わらすだ。つばめはつま先 立ちになって進みながら、父親の後を追った。つばめの後を、コジロウが従順に付いてきていた。 長孝がふすまを開いて中に入ったので、つばめもその部屋に入った。そこは居間で、他に部屋に比べると間取りが 広く、天井も高かった。囲炉裏までは付いていなかったが、掘りゴタツと思しき四角い穴が畳に空いていた。居間の 奥に、段ボール箱と見覚えのある家具が積み重ねられていた。パステルカラーのタンスに水玉模様のカーテンと いった、古民家に不釣り合いな色彩の固まりは、備前家に置きっぱなしだったつばめの私物だった。 「おお、私の荷物!」 つばめがタンスに駆け寄ると、触手を器用に使って段ボール箱を開封しながら長孝が言った。 「それは備前夫妻に頼んで送ってもらったものだ。つばめの部屋のものをそっくり運び出してもらったが、足りない ものがないかどうか確かめておけ」 「で、お父さんのものは?」 「ああ」 そう言って長孝が示したのは、十個足らずの段ボール箱だった。つばめの私物の半分以下しかなく、その上箱が どれも小さめだった。つばめが不思議がっていると、長孝は返した。 「俺は大して広い部屋に住んでいたわけではないし、モノを増やすのが好きではなかったんだ。だから、こんなもの なんだ。まあ、半分近くはどうしても処分出来なかったひばりの遺品でもあるんだが」 「そっか」 「そうだ」 つばめが納得すると、長孝は簡潔に応じた。すると、薄暗い室内に出し抜けに光が差し込んできたので、何事かと 振り返ると雨戸が開けられていた。障子戸に影絵を作りながら雨戸を開け続けているのは、もちろんコジロウだ。 一つ開けてはまた次の雨戸を開けていくので、この分では家全体を一周してくるつもりだろう。 障子戸を開けて淀んだ空気を入れ換えたが、その間、とても寒かった。日差しは強いが暖かいとは言えず、ただ 眩しいだけだった。なので、ダウンジャケットを脱ぐことすら出来ず、つばめは私物の山の中で丸まっていた。 「つばめ。見てみないか」 ガムテープを剥がす音の後、長孝がつばめの前に冊子を差し出してきた。 「なあに、これ」 つばめは言われるがままにA4サイズの厚手の冊子を広げると、華やかな装丁のフレームに囲まれている写真が 露わになった。それは、ウエディングドレス姿の母親と人工外皮を被った父親のタキシード姿を写したものだった。 紛れもない、結婚の記念写真だ。つばめが感嘆すると、長孝は少しやりづらそうに首を捻る。 「金もなければ呼ぶ客もいなかったから、式は挙げなかったんだが、写真だけはと思って撮っておいたんだ」 「お母さん、綺麗だね」 「そうだろう」 「ねえ、コジロウ! お母さんの写真だよー!」 嬉しくなったつばめが立ち上がってコジロウを呼ぶと、雨戸を開け終わったコジロウが居間に戻ってきた。つばめ はコジロウにも両親の結婚記念の写真を見せると、コジロウは長孝と写真を何度も見比べていた。その度に長孝は 妙な呻きを漏らし、羞恥心を堪えているようだった。恥ずかしがることなんてないのに、と思うが、父親の気持ちも 理解出来なくはなかったので、つばめは何も言わないことにした。 それから、新たな家での日々が始まった。 佐々木家が引っ越してきた家は、船島集落から離れた場所にある、全く別の集落にある。 N型溶解症による非常事態宣言で一ヶ谷市民は退去したため、この集落の住人も一人残らず退去した。だが、 百年以上も守ってきた古民家をダメにするのは惜しいとのことで、N型溶解症の根絶と土壌消毒に携わるために 一ヶ谷市内に留まっている人々に向けて格安の家賃で貸し出すこととなった。佐々木親子や他の面々はその恩恵 に授かり、それぞれで住む家を借り受けたというわけである。 しかし、前の住人の息吹が染み付いたままではやりづらいので、必要最低限のリフォームを行って、家財道具も 運び出して本来の持ち主の元に送り届けた。家電製品も同様で、何から何まで新しくした。そのための費用の出所 は、政府と吉岡グループである。畳も全て新品に張り替えられ、風呂もトイレもキッチンも今時のものになっていた ので、清々しい気持ちで新生活を始められる。 そのはずだったのだが、つばめは不機嫌だった。住み心地の良さそうな部屋に私物を持ち込んで、自分の部屋を 作ったし、家財道具を少しずつ増やして居間も居心地を良くしたし、新品の家電製品の調子は良いし、胸の傷跡は 一生消えないが心臓は好調で体調も安定している。だが、肝心要の父親が帰ってこないのだ。 「ぬー……」 つばめは唸りながら、父親の作業着を折り畳んでいた。小倉重機、との刺繍が胸元に縫い付けられている。この 家に引っ越してきた当初はがらんどうで寒々しかった居間は、大きな石油ストーブを置いて掘りゴタツも作ったので 暖かい。部屋の大きさに見合ったテレビも、部屋の隅に据えてある。つばめは、掘りゴタツの傍に正座して洗濯物 の山を片付けていたが、あまり捗っていなかった。 「異変か、つばめ」 つばめの隣で正座して洗濯物を畳んでいたコジロウに訝られ、つばめは頬を膨らます。 「お父さんが帰ってこないんだもん」 「サブマスターは小倉重機一ヶ谷支社に再就職した。よって、業務を行わなければならない」 「そりゃそうだけど、だからってさぁ」 つばめは腕を組み、折り畳んだばかりの作業着を睨み付ける。 「サブマスターにはサブマスターの業務が存在する」 コジロウに諌められたが、つばめは苛立ちが収まらなかった。 「だとしてもだよ、私が起きる前に出掛けることないじゃん、私が寝る直前に帰ってくることないじゃん。お父さんの 仕事がどんなのかはよく知らないけどさ、そこまで忙しいもんなの? 最近は御飯だって一緒に食べられた試しが ないし、お弁当だって作ってやれないしさぁ」 つばめはコジロウに寄り掛かり、ため息を吐く。また雪が降り出していて、障子戸の外は薄暗い。 「お父さん、私と一緒に住みたくなかったのかな」 「サブマスターはつばめとの生活を切望していた。よって、その認識は誤りだ」 「でもさぁ」 「つばめは寂しいのか」 「そりゃそうだよ」 コジロウの膝の上で寝そべったつばめは、コジロウを真下から仰ぎ見た。どの角度から見ても、格好良い。 「だって、お父さんなんだもん」 胸に手を添え、心臓の確かな鼓動を感じた。祖母が作ってくれた心臓が脈打ち、つばめの体の隅々まで熱い血を 巡らせてくれるが、それを得られたのは父親がいたからだ。長孝がひばりと愛し合わなければ、クテイがひばりと心を 通い合わせなければ、クテイが長孝をこの世に産み出してくれなければ、今のつばめは存在していない。母親とは 二度と会えないが、父親とは一緒に暮らせる。家族として生きられる。そう信じていたから、手術に対する恐怖 も、入院の寂しさも、コジロウが傍にいない空しさも、耐えてこられたのに。 「色々、話したいこととかあったんだよ?」 コジロウが差し伸べてくれた右手を掴んだつばめは、その手を胸元に導き、服越しに片翼の傷跡に触れさせる。 「でも、一緒にいなきゃ話せないんだよ。お母さんのことだって、ちっとも聞けていないし。だけど、お父さんが忙しい んなら、それを邪魔しちゃいけないし。でも、やっぱり寂しいや。皆が引っ越してくるまでにはもうちょっと時間が必要 だから、誰かにあって気を紛らわすってのも出来ないしね。コジロウがいてくれるから、まだ気が楽なんだけどさ」 「本官は職務を続行する」 「……うん」 つばめはコジロウの指先の硬さを感じながら、気を紛らわそうと頬を持ち上げようとしたが、出来なかった。 「食材が届くのは明日だから、それまでは残り物で夕飯をどうするかを考えないと。お父さんが何か好きか解れば、 それにするんだけどなぁ。でも、聞くに聞けないからなぁ。だから、私が好きな料理ばっかりになっちゃうなぁ」 込み上がってきたものを堪えながら、つばめは首を横にして、居間と隣り合っている仏間を見やった。薄暗い部屋の 一番奥、床の間と大黒柱の間に立派な仏壇が据えられていた。その中には、両親の結婚記念の写真が遺影の 代わりに立て掛けられていた。末広がりのスカートにドレープが付いた純白のドレスを着ているひばりの微笑みは 底抜けに明るかったが、慰めにはならなかった。母親もいない寂しさまでも思い出してしまったからだ。 「あー、暇、暇、暇!」 つばめは勢いを付けてコジロウの膝の上から起き上がり、気を紛らわそうとした。 「よし、勉強でもしよう」 「教材は届いている」 「で、勉強が終わったら、掃除して、お米を研いで炊飯器に入れて、雪掻きはコジロウがしてくれるからいいけど」 「重労働は本官の業務の一環だ」 「で、その後、どうしよう」 テレビを見ても退屈だ、漫画を読んでも退屈だ、携帯電話でインターネットを彷徨っても空虚だ。父親に話したいこと がどんどん積み重なっていくのに、何も話せないまま、時間ばかりが過ぎていく。コジロウに話してもいいのだが、 コジロウは常につばめの傍にいるので、話すまでもない場合が多い。 ずっと会いたかったのに、やっと会えたのに、一緒に暮らせるようになったのに、同じ時間を過ごせない。つばめ は途方もない悔しさと同時に切なさに襲われ、唇を噛み締めたが、子供染みた甘ったれた感情が膨張して涙腺を 内側から押さえ付けてきた。このくらいのことで、と自制しようとするが、熱い雫がつばめの頬から顎に伝い落ちた。 コジロウが肩を支えてくれたが、彼の気遣いが余計に切なさを煽り立て、つばめは緊張の糸が途切れてしまった。 彼の外装に縋り付いて感情のままに声を上げたが、古い家と雪に吸い込まれた。 ただただ、寂しかった。 13 3/19 |