機動駐在コジロウ




転ばぬ先のチェーン



 生温い羊水から、外界へと引き摺り出された。
 その瞬間の記憶は、かすかに意識にこびり付いている。視界の外で、ふやけたヘソの緒で肉体が繋っている女が 苦痛に泣き叫んでいる。血と羊水の入り混じったものが染み込んだ液体を纏いながら、ヘソの緒を切られて金属の 皿に載せられた。今し方まで自身を孕んでいた女は看護師達から処置を受けながら、しきりに誰かに謝っていた。 それが自分であればいいのに、と途切れ途切れの意識の片隅で願わずにはいられない。
 けれど、その意識は、今、どこに宿っているのだろう。胎児がある程度成長した後の繋留流産の処置は、一般的な 堕胎手術となんら変わらないため、広がりきっていない産道の中を通すために胎児は医療器具で切り刻まれて から引き摺り出されるのだ。自身も例外ではなく、後頭部は潰されていた。だから、未熟な脳髄は当の昔に壊れて いるはずであり、意識を宿せるはずもない。それ以前に、自身は既に生命を終えているのだ。女の胎内で生温い骸 と化していたから、女の生命を脅かさないために異物として扱われて排除された。
 ならば、己は一体何だ。この意識はどこからやってきている。そもそも、なぜ意識を得たのだ。様々な疑問を柔軟 な精神に巡らせながら、永遠に下がらない薄い瞼を開いて処置室を見つめていた。すると、自身を載せた金属の皿 が運び出されていった。辿り着いた先は医療廃棄物を収めるゴミ袋でもなければ、霊安室でもなく、応接室だった。 そこで自身を待ち受けていたのは、母親でも医師でもない、初老に差し掛かった年頃の男だった。
 死よりも凄まじい、恐怖に襲われた。




 それから数日後、産まれ直した。
 ぬるつく浅い池から身を起こし、長い髪から垂れ下がる緑色の液体を無感情に見つめる。シワ一つない手は赤子 そのものだったが、自身の感覚よりも遙かに大きかった。ささやかに膨らんだ乳房、くびれのない腰、細い手足、その どれもが二次性徴に差し掛かっていた。これは異常だ。死んだはずなのに、どうして肉体が成長している。
 真っ暗な部屋に、一筋の光が差し込んできた。ぎこちない動作で眼球を動かすと、スライド式のドアが開いて誰か が入ってきた。幅広の光源が照らし出したのは、閉め切られたカーテンと白い壁、そして自身と浅い池を取り囲んで いるビニールカーテンだった。規則正しい足音が近付き、薄いゴム手袋を着けた手がビニールカーテンを開けた。

「どれ、出来を見せてごらんなさい」

 薄緑色の服を着込んでマスクを付けた男は、ゴム手袋を填めた手を伸ばしてきた。その意図が解らず、男の手を 凝視していると、男は粘液に濡れた頬を撫でてから髪に指を通し、ぬちゃりと液体を削ぎ落とした。

「さすがはアソウギ。完璧ですね」

 男の指が唇をなぞったので、反射的に口を開くと、男は舌を押さえて喉を覗き込んできた。

「この分ならば、問題はないでしょう。充分使えますね」

 男は濡れた指を服で拭ってから、マスクの上の目を満足げに細めた。

「あなたの命、決して無駄にはしませんよ」

 そう言い残し、男は去っていった。それと入れ替わる形で大勢の人間が入ってきて、粘液の入ったプールから体を 引っ張り出されて全身を拭われた後にビニールシートを貼ったストレッチャーの上に載せられた。それから、風呂場に 連れ込まれて徹底的に体を洗い流され、検査をされ、服を身に付けさせられた。
 訳の解らないうちに、産まれ直したばかりの自身が一人の人間に仕立て上げられた。目の前の鏡には、品の良い 紺色のワンピースを着せられた少女が立っていた。長い黒髪に少し吊り上がり気味だが澄んだ眼差し、人形の如く 整いすぎた顔立ち、魂のない表情。すると、背後に二人の人影が立った。先程の男と、また別の男だ。

「これでいいんだろう、父さん」

 中年に差し掛かりつつある年頃のスーツ姿の男は、やたらと嬉しそうだった。

「ええ、ええ。あなたはとても良い子ですね」

 薄緑色の服もマスクも手袋も外した初老の男が微笑むと、スーツ姿の男は声を弾ませる。

「だったら、俺は実家に帰っていいんだな? 俺だけが帰れるんだよな、兄さんは本当に来ないんだよな?」

「ええ、もちろんですとも。クテイもお喜びになるでしょう」

「ハルノネットと取引のある会社と弐天逸流と関わりの深い会社を掻き集めて、巨大な企業団体を作り上げたんだ。 会社の規模は様々だけど、会社の数だけ事業を展開しているし、分野も幅広い。もちろん、海外展開している会社も 少なくない。それを一元化すれば、国家予算に匹敵するほどの財源を得られるよ、父さん」

「それは豪儀ですねぇ」

「それもこれも、父さんが貸してくれたものと、母さんの肉片のおかげだよ」

 そう言って、スーツ姿の男は内ポケットから小さな水晶玉のペンダントを取り出した。

「ラクシャは情報を保存するだけが取り柄じゃない、保存した情報を分類して分析することも出来る。その演算能力 さえあれば、世界経済の未来予知なんて簡単だ。先の需要が割り出せれば、確実に商品を供給出来る。おかげで、 ハルノネットの株価は上がる一方だよ。フルサイボーグの売り上げも上々だ」

「そうですとも」

「俺の複製体も出来上がっているんだろう、父さん」

「ええ、もちろん。文香さんの複製体も、遠からず完成いたします」

「文香は父さんをあまり好いていないようだけど、気にしないで。どうせ、俺の金目当ての頭が空っぽの女だしね。 兄さんが子供を作ったって話を聞いたから、俺も管理者権限を持った子供を作るために繋ぎ止めておいただけの 女なんだ。結婚したのは成り行きだったけどね。この子の原型の嬰児を摘出する時に、子宮がダメになったから、 二度と子供は産めなくなってしまったよ。だから、役には立たないけど使い捨てるのは気が引けるから、これからも 一緒に暮らしていくよ。その方が、色々と都合が良いだろうしね」

「それでは、祝福いたしましょう。あなた方の新しい門出を」

「ありがとう、父さん。ラクシャもありがとう。これからは、これがなくても会社を回せそうだしね」

 俺は仕事に戻るよ、と言ってからスーツ姿の男は水晶玉を初老の男に渡し、部屋を出ていった。頭上で交わされる 二人のやり取りを感覚の隅で捉えていたが、彼らの関係がうっすらと理解出来た。二人は親子であり、初老の男 が父親でスーツ姿の男は息子で、次男なのだろう。次男である彼は兄にコンプレックスを抱いているのか、父親の 関心を惹き付けたくてたまらないようだった。だが、父親は彼のそのコンプレックスを利用している。その結果が己 であり、この肉体だ。視力が悪いのか焦点が今一つ定まらない目をしきりに瞬かせていると、初老の男は水晶玉の ペンダントを首に掛けてきた。かちり、と金のチェーンのホックが掛けられた瞬間、情報の奔流が押し寄せてきた。

「あなたは私です。そして、私はあなたなのです」

 初老の男、佐々木長光が鏡越しに笑みを向けてくる。格別の悪意と存分な執念に充ち満ちている。

「……う」

 初めて声らしきものを零すと、長光の両手が肩に添えられる。生温い他人の体温が、じわりと体を侵食する。

「すぐにお解りになりますよ。あなたの産まれた意味が」

 そんなもの、解りたくもない。自分は自分で、私は私なのだから。生まれ持った自我が外的刺激を受けて凝固し、 肌に触れた水晶玉から流れ込んでくる無数の情報に逆らおうとするが、大波に攫われた小舟も同然で、抗えるはず もなかった。初老の男が水晶玉に封じ込めた情報の渦に翻弄され、自我が押し流されていく。繋ぎ止めようとしても 無駄で、自分が拭い去れ、塗り潰され、押し潰され、掻き消されていった。
 情報の奔流が収まると、おのずと自分の立場を理解した。名前は吉岡りんね。父親である吉岡八五郎が設立して 破竹の勢いで事業を拡大している大企業、吉岡グループの社長令嬢として作り上げられた、吉岡文香が死産した 胎児の複製体であり改造体だ。美少女の条件を全て備えた肉体に仕上げられたのも、吉岡グループの事業を円滑 に進めるためだ。マスコットであり、取引先への賄賂であり、幹部社員の愛玩具になるのだから。
 人間と人間を結び付けるのは、欲だ。まだまだ不安定な吉岡グループに盤石な地盤を与えるためには、その欲を 抱いて擦り寄ってくる人間を抱き込み、縛り付け、安定した利益を供給させなければならない。だから、忘れがたい毒 を、俗世では決して味わえない快楽を、惜しみなく与えてやる必要がある。いつの世も、人間の根底は単純だ。
 そして、吉岡りんねは完成した。




 それから、一年、二年と経過し、三年目を迎えた。
 設定上、吉岡りんねは十三歳である。類い希なる美貌と大人を圧倒する知能を生まれ持ったが、それ故に世間に 馴染めずに父親が経営する会社に入り浸っている。それ故に、世間一般の価値観を逸脱した感覚を備えている。 それ故に、常に孤独だ。それ故に、冷淡に振る舞っているが心の底では常に誰かに甘えたいと願っている。それ故 に、父親の目を盗んで父親と同年代の男に近付く。それ故に、それ故に、それ故に。
 それ故に。ぼやけた目で天井を仰いでいたが、吉岡りんねは枕元を探って銀縁のメガネを手にした。身を起こして から掛けると、視力が矯正されて周囲がよく見えた。いつもの光景が待ち受けていた。吉岡グループと取引して いる会社の幹部社員が、妻の目を盗んで浮気をするために買った高層マンションの一室だ。そこで弛んだ肉体の 男から、屈折した欲望を際限なく注がれ、蹂躙されたのだ。いつものことだ。いつものことだ。いつものことだ。
 りんねちゃんは可愛いね、私の娘も子供の頃は可愛かったんだが今はもう生意気で化粧臭くて、ああ良い子だね、 良い子だから御褒美をあげよう、良い子だね良い子だね良い子だね良い子だね良い子だね。
 同じ言葉を何度も繰り返され、頭の中に反響している。素肌の胸元に落ちている水晶玉のペンダントは冷ややか で、それだけが心地良かった。荒っぽく愛撫された肌は至るところが赤らんでいて、執拗に責め立てられた場所に 至っては腫れ上がっている。下着を着けて隠したいが、布地が擦れたら更に痛くなりそうで躊躇する。
 りんねを痛め付けた主はベッドにひっくり返り、缶ビールの空き缶に囲まれて高鼾を立てていた。ラクシャによって 感情も制御されているからだろう、怒りは微塵も感じなかった。それでも、肉体は苦痛に耐えかねたのか、片目から 音もなく体液が滑り落ちた。自分の服を掻き集めて抱き締め、弱い足取りでだだっ広い寝室を出た。
 この後も、また同じ目に遭わなければならない。ラクシャがりんねの肉体を成しているアソウギを操作し、ダメージ を受けた部分を修復するので、赤痣も擦過傷も綺麗に消え去る。そうしなければ、りんねを求めてくる男達が不満 がるからだ。だが、それが事実を消し去るわけではない。事実は残る。時間に刻まれ、歴史に組み込まれ、現実を 構成する片鱗となる。吉岡りんねという人間を形成する、情報となる。
 バスルームに入り、シャワーを出して湯を浴びる。水を浴びていると電気抵抗が変化するのか、ラクシャの支配 が僅かばかり緩んでくれる。だから、風呂に入るのは好きだった。りんねは不意に目を上げ、湯気で曇ったガラス製 の壁を見やった。隅から隅まで情事のために作った部屋なので、バスルームの内装もひどいものだ。三面をガラスで 覆っていて、体を一切隠せない。バスタブは妙に広く、毒々しい形状の器具がそこかしこに転がっている。

「お」

 おたんじょうびおめでとう、りんねちゃん。僅かばかりの意思を絞り出し、りんねは曇ったガラス製の壁に自分自身 の誕生を祝う言葉を書いた。厳密に言えば死んだ日だが、母親の胎内から外に出てきた日なので、誕生日に分類 してもいいはずだ。どうせ誰も祝ってはくれないのだから。父親でさえも、忘れているのだから。

「う」

 泣けるものなら泣きたいが、生理現象すらも支配されている。りんねはシャワーを顔に浴び、目尻から擬似的に 涙を流して衝動を誤魔化した。シャワーの前に設置されている、これもまたやたらと大きい鏡に手を付いて、指先を 動かしていく。りんねはことしでさんさいです。精神年齢はラクシャに宿っている佐々木長光の匙加減一つでどうにでも なるが、肉体年齢は変えようがない。たとえ、見た目をどれほどいじられていても、現実だけは揺らがない。

「さ」

 三歳。誕生日祝いのケーキ、プレゼント、祝福、両親の笑顔。その、どれもが手に入らない。どうして親でもない 男と、肉欲で腐り切った空間で犯され続けなければならないのだろうか。膝を折って項垂れるが、りんねはラクシャ からは逃れられない。熱い湯が当たるたびに赤痣が疼き、背から股間に至った湯が真新しい擦過傷を痛ませる。 疲弊したりんねが鏡に寄り掛かると、指先が独りでに動き、文字を書いた。

  くるしいね、つらいね、かなしいね。

「ん」

  わたしは、ずっとずっとみらいのあなた。ぐるぐるしたあとに、わたしになるのがあなた。

「ん?」

  いまはわからなくても、あとでわかるよ。ぜったいに。

「ん……」

  ぐるぐるするために、おたんじょうびをやりなおそう。

「う?」

  かんたんだよ、おそらをとぶんだよ。

「そ」

  そう、おそらだよ。ちょっといたいけど、だいじょうぶ。すぐにまた、たんじょうびがくる。

「ん!」

  まっているね。あなたがわたしになるのを。だから、いっしょにおそらをとぼう。

「うん」

 そう書き終えた後、指は止まった。程なくしてシャワーが降り注ぎ、跡形もなく消えた。これは自分だ、死んだ胎児 に過ぎなかった自分に意識を与えてくれた、別の時間軸の自分自身なのだ。強烈に確信したりんねは、シャワーを 止め、確かな足取りでバスルームを後にした。濡れた足跡と髪から落ちる滴を廊下に振りまきながら、バスタオルも 被らずに真っ直ぐベランダに向かった。窓を開け放つと、高層ビルの隙間に夕日が沈んでいく最中だった。
 どうしたんだりんねちゃん、次はそこでか、と酔いの抜けきらない男が脂ぎった言葉を掛けてくる。りんねは濡れ髪 を夜風に靡かせながら、東側の空から厳かに現れた月を見据えた。素直に美しかった。都会の乱雑な夜景が目に 染み、風を受けたおかげで本当の涙が一粒だけ滲んだ。瞼を閉ざすと、目尻に熱い体液が膨らむ。
 空を飛ぼう、誕生日をやり直すために。りんねはベランダの柵に手を掛けると、懸垂して体を持ち上げ、手すりの上 に立った。底なしの解放感が訪れ、口角が緩む。けれど、笑顔には至らない。体中に纏っていた水が乾き始め、再び ラクシャの支配力が強くなっていたからだ。だが、いかにラクシャでも地球の物理法則には逆らえまい。
 両手を広げて胸を張り、頭を下げ、つま先で手すりを蹴る。地上百五十メートルから見下ろす外界は遠く、道路では 豆粒よりも小さな人々が行き来している。金のチェーンと水晶玉を踊らせながら、りんねは重力に身を委ねた。耳元で 風が切れ、吹き付ける風は冷たいが、胸の内は熱かった。迫り来るアスファルトに、両手を伸ばす。
 十数秒の空中遊泳の末、少女の肉体は砕け散った。







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