機動駐在コジロウ




転ばぬ先のチェーン



 そして、吉岡めぐりが作り出された。
 りんね、まどか、たまきの反省点を踏まえた上で改良され、世間に馴染めるようにと有り触れた性格を付与された 状態で完成した。美少女とは言い難い容貌で、丸顔で背が低めで、黒髪を三つ編みに結んで銀縁のメガネを掛け、 読書が趣味で運動が苦手だが愛嬌のある、掃いて捨てるほど存在している少女が完成された。
 めぐり、という名前にしたのは、吉岡りんねという名前の少女が死にすぎたために、過去のりんねと吉岡グループ との関連性を探られないためである。過去のりんねは、いずれも吉岡グループの社長令嬢として振る舞っていたの だが、死亡後に事実を改変されて赤の他人から引き取った養子という扱いになったが、それだけで誤魔化しきれる ものではない。だから、めぐりの場合、最初から思い切って吉岡グループとは無関係な他人として扱われた。
 吉岡グループの社員の間に産まれた一人娘として、平凡な中流家庭で生まれ育ち、穏やかな生活と暖かな家族 と心地良い日々の中、ごく当たり前に暮らしていた。と、いう記憶が植え付けられていた。
 ありもしない記憶を抱き、合成写真が貼り付けられたアルバムを広げては偽りの両親と偽りの思い出を語らい、 吉岡グループから事前に金を渡されているクラスメイトと友達になり、自分の境遇に何の疑問も持たずに過ごして いた。その均衡が破れたのは、高校に進学した時のことだった。めぐりは無難なレベルの市立高校を受験して無事 合格し、当たり障りのないクラスで当たり障りのない時間を過ごすはずだった。入学式を終え、それぞれの教室へと 移動する最中、めぐりは一人の男子に目を留めた。十六歳に成り立てにしては妙に背が高く、おまけに髪もまだらに 脱色しているので目が付いたからでもある。その気怠げだが緊張を宿した横顔は、一生忘れないだろう。
 あれは誰かと聞く前に、新入生達が囁き合う。あいつって変な奴なんだよ、俺は同じ中学だったけどヤバすぎる から一度も話したことないんだ、うわー最悪ぅ、でも御曹司なんだろ、つっても製薬会社だぞ、なんかヤバい薬でも ヤッてんじゃねぇの、あーあの会社、そうそうそれそれ、フジワラ製薬、フジワライオリってんだよ、あいつ。
 藤原伊織。その名前を聞いた途端、めぐりの視界が開けた。伊織の名が秘密のパスワードであったかのように、 次々に情報が溢れ出してくる。常に身に付けている水晶玉のペンダントの意味、自分の家族の素性、友達の真相、 吉岡グループ、吉岡八五郎、吉岡文香、そして佐々木長光。自分という人間が根幹から否定されて、めぐりは気が 狂いそうになったが、なんとか帰宅した。それから、めぐりは伊織から遠ざかろうと努力した。
 伊織が自分にとってどんな存在なのかは、薄々感づいていた。けれど、変わりたくはなかった。過去のりんねは、 伊織と出会うことで変わろうとしていた。吉岡りんねという概念から、人格を逸脱したがっていた。けれど、めぐりは 現状で満足している。全てが偽物であることにさえ目を瞑れば、とても幸せなのだから。
 それなのに、気付けば、めぐりは伊織の後を追い掛けていた。伊織もまた読書が趣味で、暇さえあれば図書室に 入り浸って本を読み漁っていた。伊織が読んだ後の本を見つけ出しては、めぐりもそれを読むようになった。伊織の センスはなかなかのもので、古典文学から最新のベストセラーやライトノベルまで幅広く読んでいたが、そのどれもが 傑作だった。それを繰り返していると、少しだけ、伊織のことが解ったような気がした。
 図書室で何度も擦れ違っても、伊織はめぐりには目もくれない。その目に見てほしい、意識の隅に捉えてほしい、 その一心でめぐりはロングヘアを思い切ってショートカットにした。けれど、伊織は何も言わなかった。目も上げずに 通り過ぎるだけだった。だから、意を決して話し掛けた。

「藤原君、だったよね?」

 めぐりはハードカバーの翻訳書を抱えながら、窓際の椅子に腰掛けている伊織に近付いた。

「んだよ」

 乱暴に答えた伊織は、敵意が漲った眼差しを上げる。精一杯愛想良くしながら、めぐりは再度話し掛ける。

「いつも図書室にいるけど、読書、好きなの?」

「別に。つか、何?」

 心底鬱陶しげに吐き捨てた伊織に、めぐりは泣きそうになったが堪え、彼に背を向けた。

「……なんでも、ない」

 何を思い上がっていたのだろう。自分だけが輪廻するりんねの中で特別だと、心の隅で思い込んでいた。こうして 彼と近付けた分だけ、自分はりんねの輪廻から頭一つ飛び抜けた存在なのだと奢っていた。そんなわけがあるか、 伊織にとっては自分はなんでもない、ただの女子生徒だ。それなのに、それなのに、それなのに。
 それなのに、めぐりは伊織に近付きたくてたまらなくなった。彼の背を目で探し、彼の姿を求め、常に彼の名を 欲していた。伊織の傍にいるだけで、何か、救われるかのような気がしたからだ。その理由に気付いたのは、伊織 が校内の物陰で赤いカプセルを大量に摂取している様を見た瞬間だった。アソウギで強引に作り出された不安定な 生き物である彼は、常に管理者権限と接していなければ、生体組織が崩れかねないほど危うい。人智を越えた力を 持って生まれた弊害だ。だから、彼はりんねを食べている。いつも、いつも、いつも。

「ああ……」

 私は彼に食べてもらいたいんだ、食べてもらえば、この輪廻が終わるからだ。だから、彼が好きなんだ。めぐりは 執着心に根付いた渇望の正体を知ると、歓喜に襲われた。あの手で殺されたい、あの歯で噛み千切られたい、と 心から願った。それから、めぐりは一際伊織に近付こうと努力した。その甲斐あって、伊織はほんの少しだけだが、 めぐりの存在を意識してくれるようになった。しかし、ラクシャに宿った佐々木長光の意識は、めぐりの精神の成長を 快く思ってはくれなかった。だから、恋心を知った直後、めぐりは廃棄処分されることが決定した。
 三年目を迎える前に用済みとなっためぐりは、伊織を始めとした怪人達が摂取する生体安定剤の材料として加工 されるために、拘束されてトレーラーに積み込まれた。鎮静剤を投与すると加工する手間が増えてしまうので、何の 処置も施されずに丸裸のままでベッドに縛り付けられていた。コンガラによって複製された量産型のりんねと同じく、 吉岡りんね専用の加工工場に運ばれるのだ。めぐりを運ぶトレーラーに乗り込んできた吉岡グループの社員達の 中には、つい今し方まで吉岡めぐりの家族として振る舞っていた男と女もいたが、めぐりの有様を目にしても眉一つ 動かさなかった。工場に運ばれて切り刻まれてベルトコンベアに載せられるのだと諦観しかけたが、めぐりの胸中が ずきりと疼いた。明日は一学期の終業式だ、夏休みになれば伊織に会えなくなる。彼に会いたい。

「あいたいね」

 トレーラーの駆動音とも、社員達とも異なる声が、めぐりの鼓膜をふんわりと撫でた。

「あのひとにあいたいね。あいにいこうよ、めぐりちゃん。そしてまた、ぐるぐるしよう」

 その音源を辿るために薄暗いコンテナを見回した末、めぐりは場違いな色彩を捉えた。透き通るような、真っ白な ワンピースを着た少女だった。過去のりんね、かつての自分、クローン、姉、未来の己。様々な単語が脳裏を巡り、 めぐりは鼓動が早まった。鍔の広い帽子を被った黒髪の少女が、めぐりに優しく微笑みかけてくる。
 そのために、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけおてつだいしてあげる。過去のりんねの囁きが遠のくと、めぐりの 血肉が沸騰した。皮膚が張り詰めて分厚くなり、ぎちぎちぎち、がちがちがち、と聞き慣れない音が全身の至る所 から聞こえてきた。倍以上の太さとなった手足は見るからに頑丈な外骨格に覆われ、漆黒に変色していた。昆虫に なったのだと悟るまでに、時間は掛からなかった。
 ちょっとだけみらいのりんねちゃんから、ちょっとだけいでんしをかりてきたの。過去のりんねの言葉を頭の片隅で 聞きながら、めぐりは硬いベッドから起き上がり、鋭い爪を振り下ろした。一人、二人、三人、そこから先は数えては いない。赤黒く鉄臭い水溜まりがいくつも出来上がったコンテナから降りると、弱い雨が降っていた。ああ、もうすぐ 梅雨が終わるのだな、と感じていると、運転席から出てきた人間達が発砲してきた。めぐりは彼らを難なく屠ると、 雨の中、駆け出した。工場街を抜け、幹線道路を横切り、線路と標識を辿り、かつての自宅に行き着いた。
 遠からず、ここにも手が回ってくる。そう悟っためぐりは、体が元通りになるのを待ってから、制服を着込んで通学 カバンを持って自宅から逃げ出した。高校に向かって、正門が施錠される前に校内に潜り込んで一夜を明かした。 浅い眠りを繰り返しているうちに朝を迎え、生徒達が登校してきた。その中には、伊織もいた。
 終業式を終えて図書室に向かい、彼が来るのを待った。昨夜の緊張と疲れが相まって、めぐりは本棚の側面に 寄り掛かってうとうとしていた。けれど、気を抜いては本懐を遂げる前に殺されてしまうので気を張っていた。なので、 物音がして目が覚めた瞬間、驚きすぎて変な悲鳴を上げてしまった。

「ひゃいっ!?」

 まさか、吉岡グループの追っ手か。めぐりがびくつきながら窺うと、カウンターに伊織の姿があった。

「あー、びっくりしたぁ……。藤原君だったんだ」

 もう一度会えただけでも、嬉しい。めぐりはその思いに任せ、頬を緩める。

「んだよ」

 伊織の態度は相変わらずで、攻撃性を剥き出しにしていた。

「どれを借りていこうかなーって思ったんだけど、もうこんな時間になっちゃった。早く決めないとね」

 めぐりは伊織に近付きながら、白々しい嘘を並べ立てる。伊織はそれを知ってか知らずか、吐き捨てる。

「知るかよ」

「だよね」

 めぐりは肩を竦めてから、もう少しでも会話を繋げられればとポケットを探った。携帯電話は持っていなかったが、 以前に通学途中に買ったが食べそびれていた、栄養補助食品の細長いクッキーが出てきた。彼が人間の食べ物 が受け付けないことを承知の上で、それを差し出す。

「これ、食べる? お昼の時間だし、お腹に何か入れておかないと寂しいでしょ?」

「そんなもん、喰えねぇよ」

「そっか」

 だったら、私を食べてちょうだい。めぐりはそう言いたかったが言えず、ポケットに戻した。顔を合わせていると、 照れ臭くなって言いたいことが言えなくなるので、彼に背を向けて海外文学の棚に向かった。

「あのね、藤原君」

 せめて、この気持ちを伝えられれば。

「私ね、ずっと藤原君のことが……」

 布が引き千切られる異音を耳にし、めぐりは振り返る。窓から差し込む淡い日差しを受けながら、制服の残骸に 囲まれて立ち尽くしていたのは、巨体の虫だった。昨夜、過去のりんねに促されてめぐりが変貌した姿に酷似した、 人型軍隊アリだった。なんて美しい、なんて雄々しい、なんて愛おしい。

「俺はぁっ」

 怪人に変身した伊織は若干声色を上擦らせながら、上両足を振り回し、本棚を叩き壊す。本の雪崩、ページの 雨、情報の嵐。伊織の複眼に自分が映っているだけでも、めぐりは幸福だった。

「てめぇをっ」

 伊織の爪が壁にめり込み、めぐりの頭上の石膏ボードを削り落とし、白い粉を降らせる。陶酔しきっためぐりは その場に座り込んだが、それが伊織には怯えているように思えたのだろう、彼の触角が不安げに揺れた。

「喰っちまうんだよぉっ!」

 すぐ目の前で、人型軍隊アリはあぎとを開き切る。彼自身もまた、自分に怯えている。人間ではないのに人間と 同じ世界で暮らさなければならないから、人間を喰らいたいのに喰らえないから。伊織の言葉に、ほんの一欠片 だが好意が含まれていることを察し、めぐりは涙が滲んだ。喰っちまうんだよ。本当は喰いたくない、喰いたくないから 近付きたくない、近付きたいけど近付きたくない。異次元宇宙を通じた互換性によって、伊織が心の奥底に沈めて いる真意が、めぐりの精神と触れ合った。彼の心を動かせたのだ。この自分が。他でもない、吉岡めぐりが。

「……いいよ?」

 ずっと、ずっと、それだけを望んでいた。めぐりは伊織を見上げ、心からの笑顔を見せる。

「藤原君にだったら、食べられても平気だから。痛くても、我慢出来るから」

 本当は、その痛みすらも愛おしいのだが。めぐりは伊織に手を差し伸べるが、伊織は不意に身動ぐと、後退って 呻き出した。混乱している。その直後、伊織は窓を突き破っていずこへと消えてしまった。

「待って、待ってぇ、藤原君! 待ってよぉおおおおっ!」

 割れた窓から声を嗄らさんばかりに叫ぶが、雨の止みかけた空の下に響いただけだった。伊織の姿は既になく、 黒い背はどこにも見えない。もう終わりだ、何もかも。めぐりは絶望して崩れ落ち、滂沱した。

「めぐりちゃん、ぐるぐるしよう」

 過去のりんねが現れ、めぐりに囁きかける。めぐりは嗚咽しながら、意識の中の幻影に振り返る。

「でも……もう、次の私は出来上がっているんでしょお? 解る、解るよぉ、だってぇ、自分のことだもの」

 昨夜の浅い眠りの最中、めぐりは次なる自分を夢を見た。めぐりが廃棄処分された直後に製造されたであろう、 完璧で完全で完成された、吉岡りんねを通じた世界を。その、五体目の吉岡りんねには明確な役割が授けられて いる。吉岡りんねの従姉妹であり、管理者権限を正統に継承した、ニルヴァーニアンの遺産相続人である、佐々木 つばめと敵対関係となって彼女を追い詰めることだ。佐々木つばめが苦しめば苦しんだ分だけ、佐々木長光の妻で ある異星人、クテイが感情のエネルギーを喰らって肥えていく。りんねする輪廻もまた、クテイを保つための栄養源と して作り上げられた存在だが管理者権限が半分だけしかなかったため、エネルギー効率があまり良くなかった。 だから、つばめが選ばれたのだ。その結果、りんねはつばめを苦しめるためだけの道具に成り下がった。

「もう嫌、こんなの嫌、どうして私じゃダメだったの、なんで幸せになれないの、どうして、どうして、どうしてぇえっ!」

 過去の自分から流れ込む激情に任せ、めぐりは泣き叫ぶ。少女は、その背に寄り添う。

「だいじょうぶだよ。めぐりちゃん。わたしたちはつながっている。わたしたちは、ちがうけどおなじもの」

 少女はめぐりの濡れた頬を小さな手で包み、目を合わせてくる。

「だから、もういちど、ぐるぐるしよう。さっき、わかったでしょ? めぐりちゃんはね、つぎのりんねちゃんとあのひと をつなげることができたの。だから、ちょっとみらいのりんねちゃんは、あのひととひとつになれた」

「藤原君と、一つに?」

「そう。からだも、こころも、ぜんぶ」

 しあわせになれるんだよ、わたしたち、ぜんぶが。過去のりんねは、めぐりと額を合わせてきた。それが幻影だと 解っていながらも、抱き締めずにはいられなかった。過去のりんねも、未来のりんねも、藤原伊織と出会うことだけ を心の支えにして自我を保ち続けていたのだ。めぐりも例外ではない。
 次こそは伊織と交わろう。過去のりんねが掻き消えると、不思議とめぐりの心中は落ち着いていた。怪人となった 伊織が飛び出していったからだろう、高校の構内に次々に警察車両がやってくる。赤いパトライトが割れた窓ガラス を擦り抜けて壁に映り、細切れの本棚を血の色に染める。きっと、あの中に吉岡グループの関係者も紛れているに 違いない。そして、殺される。めぐりは伊織の残した爪痕をなぞってから、晴れやかな気持ちで微笑んだ。
 程なくして、狙撃手が放った一発のライフル弾が、少女の後頭部を吹き飛ばした。




 春先の暖かな雨が、トタン屋根を叩いていた。
 いつのまにか、居眠りをしていたらしい。読みかけの本が膝の上に広がり、窓に貼り付いた雨粒が膨らみながら ぎこちなく下っていく。視界がぼやけているので何事かと思ったが、メガネがなくなっていた。りんねは目元を顰めて 辺りを見回していると、黒い爪が伸びてきて赤いフレームのメガネを差し出してくれた。

「ほらよ」

「あ、うん」

 それを受け取ったりんねが掛けると、爪の主は身を引いて壁に寄り掛かった。

「どれぐらい、寝てた?」

「大したことねぇよ。つか、学校で疲れてんだったら、俺に付き合ってないで寝ちまえ」

 人型軍隊アリの青年は触角を曲げてから、手元の本に視線を落とした。りんねは目を擦ってから、読みかけの本を 持って彼の傍に腰掛け、彼の頑丈な外骨格に背を預けた。今日の天気は、あの日に似ている。伊織がめぐりを 喰おうとしたが未遂に終わり、めぐりが射殺され、伊織が新たなるりんねと接触した日だ。そして、最後のりんねは 完全無欠の美少女肉人形である吉岡りんねとして振る舞い、佐々木つばめを苦しめるためだけに編成された部署 で伊織を部下にし、伊織に殺意に等しい恋情を注がれ、共に果て、生まれ変わり、再び命を落としたが、つばめの 助力で再び物質宇宙に戻ってこられた。それ以来、りんねは、一言では決して言い表せない複雑な感情を感じて いた従姉妹に対して、柔らかな好意を抱けるようになった。つばめはりんねと伊織を見捨てなかったばかりか、二人 の思いを汲み、生かしてくれたからだ。感謝しても、しきれない。
 最後に作られ、壊れ、再構築された、吉岡りんねは人間である。様々な精密検査を受けても異常は発見されず、 遺伝子情報も真っ当な、ごく当たり前の人間だ。吉岡八五郎と吉岡文香の間に産まれた娘としての戸籍も得、文香 と同じ家で暮らせるようになった。N型溶解症の保菌者として扱われ、隔離措置を受け、この集落から一歩も外に 出られないが、伊織と同じ時間を過ごせるのなら何の不満もない。

「一緒がいい。読む」

 りんねは少し乱れた髪を整えてから、伊織を仰ぎ見た。

「勝手にしろ」

 伊織は口では鬱陶しげだったが、上右足を挙げて腰を引いてくれたので、りんねは彼の好意に甘えて彼の膝の間 に移動した。伊織は軽く背を曲げ、短い中両足でりんねを支えてやりつつ、左上足で自分の本を目線まで上げた。 空は薄暗く、空気は湿っぽく、外界は耳鳴りがするほど静かだ。吉岡親子と伊織が住む家は、つばめ達が住む 集落からは離れているので尚更だ。新たにドライブインを開業しようと忙しく動き回っている文香が帰ってくるまで にはまだ時間があるので、当分は二人きりの時間を楽しめる。ずっと、ずっと、これを求めていた。

「伊織君」

「んだよ」

「めぐりちゃんのこと、覚えている?」

「まあな」

「たまきちゃんのことは?」

「ちったぁ」

「それよりも前の、私のことは?」

「まだ出会ってねぇだろ」

「それじゃ、今の私は?」

「この状況で、いちいち言わねぇと解らねぇのかよ」

「うん」

「全く、どうしようもねぇな」

 そうは言いつつも、伊織はどことなく嬉しそうだった。りんねが顔を上向けると、伊織は背を曲げてりんねの頭上 に顔を寄せて顎と髪を触れ合わせる。中両足でりんねの体を抱き寄せながら、胸郭を震わせる。

「幸せだよ。それ以上、どう言えってんだよ」

「うん、幸せ。私も、前の私も、これからの私も、全部が」

 りんねは両手を伸ばして伊織のあぎとに手を添え、優しく撫でた。きち、と伊織は軽く顎を動かす。

「で、あの時、メグはなんて言おうとしたんだよ」

「それはめぐりちゃんに聞いて」

「けど、メグは今のりんねでもあるんだろ。知らねぇわけがねぇだろ」

「教えなきゃ、ダメ?」

「でねぇと、今度こそ喰うぞ」

「じゃ、教えてあげる。明日もまた学校があるから、今、食べられちゃったら困るもん」

 りんねは伊織の複眼と見つめ合い、笑った。

「あのね、藤原君。私ね、ずっと藤原君のことが知りたかったの。近付きたかったの。だから、もっと藤原君と仲良く なりたい。色んなことをお話ししたい。私のことも、一杯知ってもらいたい」

「なんだ、そっちか」

 ちょっと拍子抜けしたのか、伊織は触角を伏せた。その様に、りんねは小首を傾げる。

「伊織君は、めぐりちゃんの言いたかったことをなんだと思っていたの?」

「なんでもねぇよ」

「もしかして、好きだった、とか言ってほしかったの?」

「ウゼェな」

「そんなの、いつでも言ってあげるのに。だって、今の私も、前の私も、これからの私も、ずっとずっと伊織君が好き だから。伊織君が私を好きになってくれたから、私も私を好きになれたんだもん」

 伊織の上右足に腕を回しながら、りんねは万感の思いを込めて言う。頭上で伊織の触角が跳ねたのが視界の 隅に入ったが、文句は降ってこなかった。その代わり、荒っぽい言葉遣いで答えが返ってきた。そんなん、俺もそう に決まってんだろうが、と。決して好きだとは言ってくれないが、それもまた伊織の魅力の一つだ。
 ぐるぐるぐるぐる、くるくるくるくると、りんねの命は、意識は、記憶は、情報は、輪廻した。意識を繋いで鎖と化し、 鎖に記憶を編み込み、情報を共有することで過去の自分の自我を結び付けていた。それは佐々木長光の支配から 逃れるためでもあり、クテイと通じるための糸口を見つけるためでもあり、そして伊織と出会うためだった。何一つ 無駄にはしないと信じ、願い、死を繰り返した。全ては、狂気にも似た恋を叶えかったからだ。
 輪廻した分だけ編み上がった鎖で、二人を結び付けておこう。物質宇宙に互いの命と肉体と精神を縛り付けて、 この人生が尽きるまで寄り添って生き抜こう。それが、幾重もの死と生の末に見つけ出した、至ってシンプルな幸福 の在り方なのだから。身を反転させたりんねは、伊織の顎の隙間から伸びてきた細長い舌に、己の舌を差し伸べて 絡めた。肌を重ねられない代わりに粘膜を触れ合わせながら、互いの愛情を貪った。
 輪廻の途切れた、終わりのある時を味わった。







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