思い掛けない質問だった。 夫と娘達が眠る黒御影石の墓石を濡れ雑巾で磨いていたが、その手を止めた。振り返ると、その質問をした主は 竹箒を手にしてにこにこしている。メイド服姿の女性型アンドロイド、設楽道子と向き直って、吉岡文香はどう答える べきかと逡巡した。娘、吉岡りんねの誕生日は、厳密にはいつなのだろう。 文香は無意識に下腹部を押さえながら、思い起こした。十五年前、胎内で成長が止まってしまった胎児、りんねを 外界に引き摺り出した日が誕生日なのだろうか。否、成長しなくなったから殺す他がなかったのだ。ならば、遺産の 力と祖父の執念を得て生まれ変わったりんねが、肉人形として覚醒した日が誕生日なのだろうか。政府の助力で 作った戸籍に書いた日付は、嘘ではないが真実ではなかった。けれど、誕生日に当て嵌まる日付があるとすれば、 それ以外に思い当たらなかったのだ。文香はしばし間を置いた後、躊躇いがちに述べた。 「六月二十八日よ」 「じゃ、来週ですね! わあい、お祝いしなきゃ!」 皆さんにも教えてきますね、と道子ははしゃぎ、軽い足取りで玉砂利を蹴って本堂に戻っていった。文香は彼女を 止めようと手を伸ばしかけたが、何も言えずに下ろした。程なくして、寺坂と道子のやり取りが聞こえてきた。二人は とても楽しげだった。言わない方が良かっただろうか、と後悔しつつ、文香は吉岡家の墓を一瞥した。 吉岡家乃墓、と刻まれた墓石の側面には、夫である吉岡八五郎の名と、りんね、まどか、たまき、めぐり、と複製 されて使い捨てられた娘達の名が並んでいた。東京の一等地にあった吉岡邸を売却し、家財道具や調度品なども 全て売り払って現金に換えて、文香とりんねの当面の生活費に充てることにした。一度政府に押収されたが、再び 手元に戻ってきた娘達の遺骨は、夫である吉岡八五郎の遺骨と共に墓に収めてある。 「あなた達の誕生日はりんねと同じにしちゃっていいのかしら。厳密に言えば、皆、違うものね」 文香は冷たい墓石を撫でながら、話し掛けた。当然ながら返事は返ってこなかった。 「それじゃ、また来るわね」 火を灯した線香を供えてから、文香は浄法寺の墓地を後にした。りんねの誕生日を一大イベントにしたいのか、 本堂からは道子と寺坂のやけにテンションの高いやり取りが漏れていた。二人もりんねに対しては複雑な気持ちを 抱いているだろうが、すっかり割り切っているようだ。その切り替えの早さが、正直羨ましかった。 愛車であるクリーム色の軽自動車を運転して、家路を辿りながら、文香は胸中の苦味を堪えていた。紆余曲折を 経てようやく家族になれた一人娘、りんねを本当に愛せるのか。そもそも、自分は誰かを愛せるのだろうか。そんな 自信があるわけがない。今も、良い母親らしく振る舞っているだけだ。上っ面だけだ。嘘だ。偽物だ。 吉岡文香という人間の人格には、幼少期の苦悩が未だに根を張っている。文香の生まれ育った家庭は常に貧困 が蔓延していたが、そのくせ子供の数はやたらと多かった。いわゆる大家族というやつで、両親の無計画な妊娠に よって毎年のように子供が産まれていた。文香はその中の一人で、三番目に生まれた。三歳上の姉と二歳上の兄 は騒がしく荒れた家を疎んでいて、家出を繰り返していた。だから、必然的に文香に下の兄弟を世話をする役割が 周ってきて、朝から晩まで仕事をさせられた。勉強をする暇もなく、宿題をする場所もなく、幼稚園の出迎えに食材の 買い出しに遊び相手に着替えに風呂に歯磨きにオムツ交換に、馬車馬の如く働かされた。同じ年頃の少女達は 流行りの服を着て携帯電話を持って友達と遊んでいるのに、文香は色褪せた服を着て家事に追われていた。 そんな生活に嫌気が差すのは、時間の問題だった。中学三年生の頃、飽きもせずに子作りをして妊娠した母親が 産気付いたので、父親もそちらに向かった。兄妹達も何人か連れて行かれたが、文香は山盛りの洗濯物を洗って 干せと命じられたので連れて行かれなかった。いつもであれば疎外感に苛まれるのだが、その日は妙に冷静で、 今なら家出出来る、と思い立った。新聞配達で貯めた金も少しだけあったので、それと生活費を使えば、この家族 から逃げられると確信した。覚悟が据わってからの行動は早く、一時間後には文香は家を出ていた。 手持ちの服を全部詰め込んだのに重くないショルダーバッグを提げ、行き先を確かめずに乗った電車を気の向く ままに乗り継ぎ、辿り着いた先が関東近郊の地方都市だった。電車賃で現金を半分以上使ってしまったので、文香 は当面の生活費を自力で稼ぐことにした。行きずりの売春を始めたのである。 男達の喰い物にされる日々は辛かったが、それ以外に生きていく術がなかった。幸いなことに、顔形はそれなりに 整っていたので客の入りは良く、おかしな性癖の男にも引っ掛からなかった。貯まった金で身なりを小綺麗にして、 化粧も覚えると、年齢を誤魔化し、キャバクラで働き始めた。慣れない酒を飲まされて死にそうになったことも一度や 二度ではなかったが、それでも意地で踏ん張った。あの地獄に戻るぐらいなら、と思うが故だった。 遊びもせずに働き続けていたおかげで、それなりの額の金は貯まり、身の振り方も上手くなった。固定客が何人 も付いてくれて、何十万、何百万と貢いでくれた。その金を使って整形し、理想の顔を手に入れた。本来の名字を 捨てるために金を積んで養子縁組をしてもらい、吉岡の名字を手に入れ、法的手続きを取って下の名前も改名 した。読みは元々同じフミカだが、あの親から付けられた名前がどうしても嫌で、漢字を変えたのである。この体さえ あれば手に入れられないものはないと信じて、文香の固定客の一人であり、湯水の如く金を使う上客だった佐々木 八五郎に迫り、計画的に妊娠して彼の妻の座を手に入れた。 欲しいものを手に入れたのに、その後は失うばかりだった。吉岡八五郎となった夫の心と愛情は、最後まで手に 入れられなかった。娘は産まれる前に死んでしまった。吉岡グループの社長夫人の座も、文香に良く似た肉人形 に奪い取られた。取り戻すためにあらゆる手を尽くした。娘さえ取り戻せれば、夫が振り向いてくれるものだと稚拙な 期待を抱いていた。それなのに、夫は殺されてしまった。 「うぁ」 視界がぼやけ、運転が危うくなったので、文香は路肩に車を止めた。大丈夫、大丈夫だから、と自分に何度となく 言い聞かせながら深呼吸を繰り返す。八五郎が文香を愛してくれていないことぐらい、当の昔に知っていた。夫の 眼差しは文香を捉えず、文香の目を通じて自分自身を見ていたからだ。だから、愛されたわけではない。 それでも、文香は夫を愛していた。愛されたかったから、愛するしかなかったのだ。管理者権限を持って生まれた りんねを利用したいがために、文香を繋ぎ止めていただけだと知っていてもだ。夫以外に愛してくれるような相手が いなかったから、家族の誰も文香を見てくれなかったから、ただの記号として、労働力にされていたから、結婚生活 だけは幸せにしようと頑張った。愛されようとした。けれど、無駄だった。 「おたんじょうび、なんて」 どうやって祝えばいい。それ以前に、文香にりんねの誕生を祝う資格があるのか。前頭部に鈍痛を感じた文香 は、冷や汗の滲んだ手をハンドルから離し、頭を抱えて背を丸めた。過去を顧みれば、今の平穏な生活は文香に とっては幸せと言えるだろう。だが、りんねにとっての幸せとはなんだ。そもそも、りんねは何を以て幸せだと感じる のだろう。考えれば考えるほど、頭痛がひどくなっていく。 息が出来なくなっていく。 翌日。文香は、頭痛で起き上がれなかった。 原因は解っている、ストレスだろう。若い頃からの持病で、きつい仕事をこなした後は頻繁に頭痛に見舞われた。 その度に寝込む羽目になったが、大したことではない。きっと、ドライブインを新しく開業しようと日々動き回っていた せいだろう。店舗の借り受けに改装に新メニューの開発に、全部一人でこなしていた。その上、自宅の家事なども 文香が処理していたのだから、疲れも溜まって当然だ。朝早く起きて夜遅く寝るまでの間、腰を落ち着けている時間 は一時間もなかったのだから無理もない。天井の木目を見つめながら、文香はそんなことを考えていた。 「お母さん?」 ふすまが開き、りんねが顔を出した。パジャマ姿のままで、長い髪はぼさぼさだった。 「大丈夫、ちょっと頭が痛いだけだから」 文香が弱く笑うと、りんねは不安げに眉を下げる。 「風邪?」 「違うわよ。昔から、こういう体質なの。近頃忙しかったから、今日はゆっくり休むわ。御飯は冷蔵庫の中のもので、 適当に食べてちょうだい。お弁当は昨日のうちに出来ているから、御飯を詰めるだけでいいから。大したことは ないから、心配しないでね」 「でも……」 りんねは心細そうだったが、いいから、と文香が念を押すと、りんねは渋々ふすまを閉めた。階段を下りる足音 が遠ざかっていき、階下からはりんねと伊織の会話がかすかに流れてきた。今日は平日なので、りんねはこれから 分校に登校する。その準備を始めたのだろう、洗面台で水を流す音や、電子レンジのアラームや、テレビの音も耳に 届いた。それから小一時間後、行ってきます、との声が聞こえた。聞こえないのを承知で、行ってらっしゃい、と文香 は呟いた。頭痛の波が徐々に収まってきたので、その後、久し振りに二度寝した。 ずる休みをしたような気分になった。 二度寝から起きると、少しは体調が良くなっていた。 在り合わせの朝食を終えて鎮痛剤を飲んでいると、奥の間から本を手にした伊織が現れ、具合はどうなんだよ、 と聞いてきた。りんねにしか興味がない彼にしては珍しいので、文香が意外に思うと、伊織はりんねに頼まれたの だと素っ気なく言い捨てた。ずっと心配していて、今日は学校を休んで家にいた方がいいのでは、と言っていたが、 俺がいるから大丈夫だと言い切って登校させたのだという。 「そうだったの。ありがとう、伊織君」 文香が礼を述べると、伊織は触角を片方曲げた。 「どうってことねぇよ」 そう言って、伊織は奥の間に戻っていった。二人が一緒に住むようになってから、ただの物置だった奥の間には 本の山が次々に築かれていった。なので、今となっては、奥の間は伊織とりんねの書斎であり愛の巣窟だ。文香は 掃除のためにたまに入る程度で、普段はあまり近付かない。二人が心穏やかに過ごせる場所を踏み荒らすのは、 気が引けるからだ。鎮痛剤が回って頭痛が紛れてきたので、食器を片付けた後、気晴らしに散歩に出た。 考えてみれば、この集落を出歩いたことはほとんどなかった。ドライブインにするための店舗と自宅を行き来して いるだけで、朝早く出て夜遅く帰ってくることばかりだったからだ。梅雨の晴れ間で、冴え冴えとした青空からは日光 が満遍なく降り注いでいた。黒々とした杉林が生い茂り、吹き付けてきた風には水気を含んだ草の匂いが混じって いた。持ち主がいなくなったので、耕作が放棄された田畑には雑草が伸びていたが、ある一角だけは作物が青々と 葉を伸ばしていた。武蔵野の住む家の前にある畑とその裏にある田んぼは、土が綺麗に均されていた。 「おーす」 畑に近付いた文香に声を掛けてきたのは、作業着姿の柳田小夜子だった。彼女は首筋にタオルを巻いて軍手に 長靴を履いていて、傍らには雑草の山が出来上がっていた。草毟りに精を出していたようだ。 「こんにちは、柳田さん」 文香が返すと、小夜子は腰を上げて背筋を伸ばしてから、一息吐いた。 「慣れねぇことすると、変なところの筋肉が痛くなっちまうなーもうー」 「武蔵野さんのお手伝いですか?」 「あー、まあ、そんなもん。他にやることねぇし」 小夜子は畑から出ると、軍手を外してベルトに突っ込み、胸ポケットからタバコを出して銜えた。 「にしても珍しいっすね、文香さんが昼間から外に出てくるなんて」 「近頃忙しかったから、今日はちょっとお休みしようと思ったんです」 「それがいいっすよ。たまに気ぃ抜いておかないと、バツンと切れちまうから」 小夜子はタバコに火を灯し、煙を吸い込んで味わった後、緩やかに吐いた。 「みっちゃんから聞いたんすけど、来週はりんねの誕生日なんすね」 「ええ。そういうことになるわね」 「んじゃ、なんか見繕っておかねぇとなー。何がいいかなぁ」 「いえ、お構いなく」 「そうは行かねぇだろ。色々あったんだし、ストレートにめでたいことを祝わんのは勿体ない」 小夜子は口角を持ち上げてから、武蔵野の自宅に呼び掛けた。 「なー、むっさん。りんねの誕生日、どうするか決めたー?」 少し間を置いて、庭木の影から大柄な人影が立ち上がった。泥汚れが目立つ作業着姿の武蔵野は、その手には 大きな草刈り鎌が握られていた。その鋭利な刃に文香が目を剥くと、武蔵野は苦笑し、足元を示した。砥石と水の 入ったバケツが並んでいたので、鎌の刃を研いでいたらしい。 「むっさんにはククリナイフの方が似合うよな、絶対」 小夜子が真顔で言い放つと、武蔵野は顔をしかめる。 「俺はグルカ兵にはならん」 全く、とぼやいてから、武蔵野は草刈り鎌を砥石の傍に横たえた。タオルで手を拭きつつ、文香に言った。 「りんねの誕生日は祝うべきだな」 「いえ、お気遣いなく。武蔵野さんも、りんねのことは複雑にお思いでしょうし」 文香が謙遜すると、武蔵野は義眼の填った右目を下げて文香を捉え、両の瞼を狭めた。 「そうでもないさ。なんだかんだあったが、俺はりんねが嫌いじゃないんでな。そりゃ、お嬢だった頃は鼻に突くガキ だと思っちゃいたが、中身が佐々木長光だと知らなかったからだ。それに、散々な目に遭ってきた者同士、これから は労り合うべきだ。でないと、また下らんことで争う羽目になる」 それで何を贈るつもりなんだ、と武蔵野が小夜子に尋ねると、小夜子はちょっと得意げに笑った。 「この前、秋葉原に行った時に見つけて衝動買いしちまった、超リアルな軍隊アリのフィギュア。実寸の十倍だから、 全長二十センチはあるぞ。で、質感がまた絶妙でさー。で、むっさんはなんかあるのかよ?」 「チクワ入道の可動式フィギュアがダブったんだ。だから、それをやろうと考えているんだが」 「なんでダブったんだよ、そんなもん」 「仕方なかったんだ。ニンジャファイター・ムラクモの初回特典付き完全数量限定生産BOXにチクワ入道の可動式 フィギュアが付いてくると知っていれば、完全受注生産のチクワ入道のフィギュアはキャンセルしたんだが、うっかり 忘れてしまっていてな。だが、俺は保存用にしておくような趣味はない。だから、頃合いを見計らってりんねにやろう と思っていたから、丁度良い機会だ」 「むっさん、どんどん深みに填ってねぇ?」 「俺の稼ぎで買ったものを俺の家に飾るだけだ、文句を言われる筋合いはない」 「誰も文句なんて言わねぇよ。でも、たまにはニンジャファイター達をあたしの超合金ロボと戦わせろよ」 「ああいいだろう、だが負けはせんぞ」 饒舌に語り合う二人を見、文香は可笑しくなった。 「なんだか楽しそうですね、お二人とも」 途端に我に返ったのか、武蔵野と小夜子は同時に身を引いた。どちらもひどくやりづらそうに目線を彷徨わせ、 若干赤面していた。りんねと伊織から、近頃は武蔵野と小夜子が一緒にいると聞いていたが、まさかここまで仲が 進展していたとは思いも寄らなかった。周囲に隠し立てするほどのことでもないが、かといって大っぴらにするのも 恥ずかしいらしく、武蔵野と小夜子はちょっと距離を開けた。それから、りんねの誕生日プレゼントを誕生日当日に 吉岡家に持っていくと言ってくれた。文香は二人に礼を言ってから、散歩を再開した。 「だけど、チクワ入道って……何?」 確かに、ちくわはりんねの大好物だが、チクワ入道が何なのかは解らなかった。ニンジャファイター・ムラクモも、 そういう名前の特撮番組があったとは知っているが、内容まではさっぱりだ。軍隊アリのフィギュアはりんねが確実 に喜ぶだろうが、チクワ入道はどうなのだろう。そもそも、入道とはなんだ。ちくわの妖怪なのだろうか。 集落と外界を繋ぐ道路から、大型トレーラーが入ってきた。青と黄色が塗りたくられた派手なコンテナの側面には、 REIGANDOO! の文字が躍っている。甲高い排気音の後に停止したトレーラーの助手席が開き、制服姿の 少女が軽やかに飛び降りてきた。分校の制服である半袖のブラウスに紺色のジャンパースカートを着、通学カバン を兼ねたスポーツバッグを肩に提げ、サイドテールを靡かせながら駆けてきたのは、小倉美月だった。 「あっ、文香さん!」 美月は息を弾ませながら、文香の前で立ち止まった。 「お久し振りです! 地方巡業が一段落したんで、飛んで帰ってきました!」 「御苦労様、美月ちゃん。その足で学校に行くなんて、大変ね」 文香が労うと、美月は満面の笑みを浮かべる。 「いえいえ、そんなことないです! つっぴーとりんちゃんに会えるのが楽しみで楽しみで! あっ、それと、来週は りんちゃんの誕生日だって道子さんからメールで教えてもらいました。んで、これをですね、今のうちにりんちゃんに プレゼントしちゃおうって思って。来週はまた九州まで遠征しなきゃならないんで」 美月がスポーツバッグから取り出したのは、目と口と細い手足が付いたちくわのぬいぐるみだったが、サイズが やけに大きかった。どう少なく見積もっても、全長五十センチはありそうだ。どこでこんなものを手に入れたのだ、 と文香が面食らっていると、美月は照れ笑いする。 「このぬいぐるみ、前に小さいのをりんちゃんにあげたら喜んでくれたんで、大きいやつだったらもっと喜んでくれる んじゃないかなぁって思って。おかげで、クレーンゲームの筐体に大分注ぎ込んじゃいましたけど」 「ありがとう、美月ちゃん。きっと喜ぶわ」 「じゃ、行ってきまーす!」 美月はちくわのぬいぐるみをスポーツバッグに戻してから、文香に大きく手を振りながら駆けていった。その背中 に手を振り返してやりながら、文香は自分まで嬉しくなってきた。美月は本当に良い子だ。りんねの正体や出生が なんであろうと気にせずに、仲良くしてくれるのだから。テレビ中継も始まって、今まで以上に盛り上がっているREC の仕事で忙しいはずなのに、その合間を縫って分校に通ってりんねとつばめと同じ時間を過ごしている。若いから こそ出来ることだ。政府の保養所に収容されている、弐天逸流の元信者である母親の経過も順調とのことなので、 小倉一家が揃って暮らせる日が来るのは、そう遠い話ではないだろう。 りんねは幸せだ。真っ向から好いてくれる人々に囲まれ、心から愛し合える相手を見つけ出せ、誕生日を祝って もらえるのだから。娘の幸せを素直に祝ってあげたい反面、嫉妬の一歩手前まで羨望が高ぶった。りんねの幸福 はりんねのものであって、文香がそれを奪えるはずもなく、成り代われるわけもないのに。 また、頭が痛くなってきた。 13 4/2 |