機動駐在コジロウ




郷に入ればグッドに従え



 七月の祝日に、二人は上野動物園を訪れた。
 休日を謳歌している子供達や家族連れでごった返していて、真昼の日差しよりも、人いきれの方が暑苦しいほど だった。入場ゲートを潜り抜けたひばりは、それだけで感極まりそうになった。だが、突っ立っていては後がつかえて しまうので、続いて入ってきた長孝と連れ立って先へと進んだ。表門から入って右手の二つ目の檻には、入場客が 際立って集中していた。パンダがいるからだ。

「タカ君、パンダだよパンダ!」

 ひばりは弁当と水筒を入れたトートバッグを振り回しそうになったが、堪え、長孝の袖を引いた。

「ああ。クマだ」

「クマだけど、白と黒で可愛いからパンダなの! 見に行こうよ、ねえ!」

「解った」

 反応が鈍い長孝とは相反して、ひばりはハイテンションだった。家族に動物園に連れてきてもらえたことなんて、 一度もなかったし、友達もいなかったので、学校行事の見学でも誰かと連れ立って見て回ったこともない。だから、 一緒に出掛けると決めた日から嬉しくて嬉しくてたまらず、昨日の夜など上手く寝付けなかった。
 パンダの檻の前の行列に並び、しばらく待つと、長孝とひばりの順番が回ってきた。檻の中には、気怠げに脱力 している珍獣が横たわっていた。白と黒の分厚い毛皮を持つクマは、群れを成して興味津々で檻を覗き込んでくる 人間達を見返しつつ、笹の葉を囓っていた。子供達に紛れながら身を乗り出し、ひばりはパンダをじっと見つめた。 夏の暑さで上気した獣の匂いと笹の青臭さが入り混じったものが、檻の外側に漂ってきていた。黒い模様の中心に ある、黒々とした丸い目が少し動き、鬱陶しげに人間達を睨め回してくる。長孝は一歩身を引いていて、ひばり がパンダを観察する様子を観察していた。
 長孝の言う通り、確かにパンダはクマだった。だが、あの絶妙な色遣いが、真っ黒で巨大なヒグマやツキノワグマ とは逆方向の魅力を生み出しているのもまた事実だった。要するに可愛かったのである。人間を観察し返している かのような態度も、全くやる気に欠ける仕草も、怠慢な動作も、パンダの何もかもがひばりを魅入った。

「あっ」

 パンダの檻から離れる際、長孝は人波によって押し出され、二人の間に距離が開いてしまった。ひばりは小走り に駆けて、夫の人工外皮に包まれた腕を掴んだ。爬虫類を思わせる、温もりのない体温とぐにゅりとした手応えが 返ってくる。長孝は思い掛けないことに驚いたのか、立ち止まって振り返る。

「どうした」

「人が多いから、はぐれちゃうよ」

 ひばりは長孝に身を寄せると、腕を絡ませた。

「だが」

 手を繋いだことはあっても腕を組んだことがないからか、長孝は困惑気味に目を泳がせる。

「この方がいいの。だから、今日はずっとこうするの!」

 ひばりがにんまりすると、長孝は口角をほんの少し曲げた。

「仕方ない」

「ほらほら、あっちにはゾウさんがいるよ! でっかいねぇ、立派だねぇー!」

「動物に敬称を付けるのか」

「いいじゃない、その方が可愛い感じがして」

 ひばりは長孝に言い返すと、腕を引いて次の檻に進んだ。何もかもが新鮮で楽しくて、じっとしていられなかった。 それから、二人は全ての動物を見て回った。どの動物も物珍しく、素晴らしかったのは、長孝が隣にいてくれたから に他ならない。長孝はひばりの気が済むまで付き合ってくれた。同じ動物を長々と眺めていても咎めず、急かさず、 ひばりのペースに合わせてくれた。ここが凄い、これが面白かった、という、稚拙な感想も最後まで聞いてくれた。 その間、ずっと腕を組んでいてくれた。
 昼時を迎えたので、弁当を食べるために休憩出来る広場に向かったが、ベンチやテーブルのあるスペースは既に 大勢の家族連れで埋まっていた。仕方ないので、ベンチでもなんでもない花壇の縁に並んで腰掛け、この日のため に気合いを入れて弁当を広げた。細かく切った梅干しとシソを混ぜ込んだおにぎり、肉団子の甘酢和え、ピーマンと タマネギのカレー炒め、シソの葉を入れた卵焼き、夏野菜のピクルス。そして、保冷剤として弁当箱に添えておいた 冷凍フルーツゼリーは、程良く溶けて食べ頃になっていた。

「タカ君、おいしい?」

 ひばりが箸を止めて尋ねると、長孝は答えた。

「ああ。問題はない」

「来てよかったね、楽しいねー。タカ君が貸してくれたデジカメに、何十枚も動物の写真を撮っちゃった。でも、ピント がずれずれなのばっかりだから、後で整理しないとねー。携帯電話も持ったことがないから、デジカメなんて触った こともなかったから、使い方がよく解らなくて」

「それは帰ってからでもいい。メモリーには、まだ余裕がある」

 人工外皮を被った顔の表情は窺いづらいが、長孝の声色は心なしか明るい。それを知ると、ひばりは一層嬉しく なってきて頬が勝手に緩んでしまった。これはデートだ、紛れもなくデートだ、デート以外の何物でもない。普段は、 近所の公園や土手を散歩するだけだったので、連れ立って遠出するのはこれが初めてだった。二人で手を繋いで 散歩するのも好きだが、デートとなるとまた別の嬉しさがある。

「ひばり」

「んーん?」

 長孝に名を呼ばれ、ひばりはコップに注いだ麦茶を飲みながら応じた。

「俺は檻の外側にいるが、檻の内側にいてもなんらおかしくはない。むしろ、それが自然だ」

 家族連れの話し声に紛れる程度の音量で、長孝は平坦に語った。

「だが、俺はこうして外側にいる。その理由は至って簡単だ。父さんは母さんが持ち込んだ道具を利用して、国内の 税収の一割を担うほどの財を成しているからだ。だから、政府も俺を泳がせておくんだ。そうしておけば、父さんは 俺がいずれ成すであろう子供を支配せんがために、道具とその力を大企業や妙な組織に与え続ける。そうなれば、 その企業や組織の技術力が急上昇し、それに伴って外貨が大量に流入し、日本経済が底上げされる」

「そんな大袈裟な」

「事実だ。俺は父さんが大株主となっている企業を調べてみたが、母さんが持ち込んだ道具を使わなければ決して 成し得ない技術を用いて自社製品を開発、製造、販売していた。ひばりも名前は耳にしているだろう、新免工業、 ハルノネット、フジワラ製薬、弐天逸流の名は。弐天逸流は企業ではなく新興宗教団体だが、その影響力は企業 にも決して引けを取らないほどの組織なんだ。いずれも三四十年のうちに急成長したが、それらの背後にいるのは、 総じて佐々木長光だ。だから、俺は国家規模の金蔓なんだ。だが、俺は全てを諦めている。俺がどう足掻こうとも 事態は急転しないことも、これだけの権力を左右出来る力がないことも、父さんがばらまいた道具を回収する方法 が見当たらないことも、父さんの支配に囚われ続けている弟を救い出せないであろうことも、母さんを守りきれない であろうことも、何もかも。最初から最後まで、俺一人の手に負えることではないんだ」

 膝の間を睨み付け、長孝は眉間に深いシワを刻んだ。

「俺は外見こそ常軌を逸しているが、中身は常人だ。それは俺自身が一番理解している。道具を使うために必要な 遺伝子情報は欠損していて、道具をフル稼働出来ない。道具を暴走させて自壊させられればと考えたこともあった が、道具は俺の命令を受け付けなかった。母さんは過去に何度も肉体に甚大な損傷を受け、再生させた際に遺伝子 情報に微細な欠損が生まれてしまい、道具をフル稼働させられなくなった。だから、管理者権限が隔世遺伝するよう にと設定を施したんだ。父さんが孫には人並みの温情を抱くはずだ、という恐ろしく楽観的な主観に基づいた判断 であり、問題の先送りでしかないが、母さんはそれだけしか余力が残っていなかったんだ」

「タカ君のお母さん、頑張っているんだね」

「ああ。そうだ」

「だったら、一度、会ってみたいな。だって、今は私のお母さんでもあるんだし」

「現状では不可能だ。だが、機会が作れれば面会すべきだ。母さんも、ひばりを好いてくれるだろう」

「だと、いいね」

「それについては確信出来る」

「まあ、とにかくさ。頑張ろうよ。底抜けに幸せになれば、きっといいことがあるよ。お父さんとお母さんのことだって、 どうにかなるかもしれないし。ね、タカ君」

「……そうだな」

 話すだけ話して胸のつかえが取れたのか、長孝は深呼吸して肩を上下させた。弁当を綺麗に平らげ、溶け切った フルーツゼリーも食べ終え、しばらく休んでから動物園巡りを再開した。一巡した後に、どうしてももう一度見たいと 思ったパンダの檻の前に行った。相変わらず黒山の人だかりだったので、遠巻きに眺めた。他の動物の餌やりや 飼育員によるショーを見るために移動したが、その最中にもパンダの檻に目線が向かってしまった。ひばりがあまり にも熱心にパンダを見つめていると、いつのまにか長孝がいなくなっていた。さすがに呆れたらしい。

「まあ、そりゃそうだよね」

 一人取り残されたひばりは、空になった弁当箱を入れたトートバッグを肩に掛け直し、離れた場所からパンダの檻 をじっと眺めた。檻の主は相変わらずやる気がなく、地べたに寝そべっている。そうすれば、少しは涼しいのだろう。 何度も園内を巡っているうちに日が陰ってきて、入場客もまばらになってきた。遊び疲れて寝入った子供を背負った 父親や、お土産のぬいぐるみを抱えて上機嫌な子供と手を繋いでいる母親や、終わりに差し掛かったデートを名残 惜しむカップルなど、皆が皆、幸福そうだった。私とタカ君もその景色の一部になれていたかな、とひばりは少しだけ 誇らしく思った。穏やかな休日を当たり前に過ごせることほど、幸せなことはないからだ。

「ひばり」

 声を掛けられ、ひばりが振り返ると、売店の店名がプリントされた紙袋を下げた長孝が立っていた。その中から 顔をちょこんと覗かせているのは、パンダのぬいぐるみだった。

「パンダちゃんだ」

 ひばりがきょとんとすると、長孝は紙袋をひばりに渡してから、やりづらそうに顔を背ける。

「不要だったか」

「全然! パンダちゃんを連れて帰りたいけど、結構な値段がするから、買おうかどうしようかって迷っていたから、 タカ君がパンダちゃんを連れてきてくれて嬉しい! よおし、今日から君はうちの子だ! 可愛がってやる!」

 ひばりが紙袋ごとパンダのぬいぐるみを抱き締めると、長孝はぎこちなく口角を持ち上げた。

「そうか。ならば、いいんだ」

「それじゃ、パンダちゃんと一緒に帰ろう。ね、タカ君」

「そうだな」

 長孝はひばりに手を差し伸べてきたので、ひばりはパンダのぬいぐるみを脇に抱えながら、彼と手を繋いだ。薄皮 を被せて触手を詰め込んである骨のない手は、そっと指を曲げてひばりの手を握り返してきてくれた。上野駅から 電車に乗って帰路を辿っているうちに、ひばりは眠気に襲われた。長孝の肩に頭を預け、パンダのぬいぐるみ入り の紙袋を抱き締めながら、すんなりと寝入った。今日が終わらなければいいのに、と願わずにはいられない。
 幸せすぎて切なくなったのは、これが最初で最後だった。




 初めての結婚記念日を過ぎた頃、ひばりは体調を崩した。
 ひどい吐き気と頭痛と目眩に見舞われ、長孝に支えられながら病院に行くと、おめでとうございます、妊娠二ヶ月 です、と医師から告げられた。心当たりはいくらでもあったが、本当に妊娠出来るとは思ってもいなかった。長孝は 妊娠を告げられた際にひどく動揺したが、すぐに覚悟を決めてくれた。二人でこの子を守り抜こう、と言ってくれた。 ひばりはまだ平べったい下腹部を撫でながら、夫の覚悟を受け止めて頷いた。佐々木長光の目論見がどんなもの であろうとも、阻んでみせるという妙な自信が湧いてきたからでもある。
 悪阻が重く、起き上がれない日も多かった。少し動いただけで貧血を起こしてしまうし、吐き気が収まらないので、 家事もろくに出来なくなってしまった。おかげで、二人の住む部屋は散らかり放題だった。炊事洗濯は長孝がやって くれるのだが、帰宅時間が遅くなっていたので、掃除機を掛けられないことが多かった。そのせいで部屋の隅には 埃が溜まり、ひばりは居たたまれなくなった。主婦にも主婦の矜持があるからだ。

「むー……」

 今日もまた、動けずに一日が終わってしまった。ひばりは付けっぱなしのテレビを横目に見、唸った。起き上がる ことが出来れば、暇潰しに本でも読めるのだが、それだけの動作でも胃の内容物が戻ってきそうになる。だから、 寝そべっているのが一番だった。せめてテレビが見られるように、と長孝が居間に敷いてくれた布団に横たわり、 枕元に座っているパンダのぬいぐるみを撫でた。ふわふわした手触りが、少しだけ心を癒してくれた。

「ひばり。具合はどうだ」

 買い出しから戻ってきた長孝が、ひばりの枕元に膝を付いた。

「相変わらずだよぉ」

 ひばりが拗ねると、長孝はひばりの寝乱れて跳ね放題の髪を撫で付けてくれた。

「食べられそうなものを買ってきた。少しでもいいから、胃に入れるといい」

「また吐いちゃったらごめんね」

「構わない」

 長孝はひばりの軽く汗ばんだ肌に触れてから、買い物袋の中身を冷蔵庫に移すべく、台所に向かった。仕事帰り のまま買い出しに行ってくれたので、作業着姿で人工外皮を被っている。機械油と金属粉で黒々と汚れた作業着 からは、鋭い刺激臭が僅かに流れてくる。それが吐き気を催させるかと思いきや、逆に落ち着いた。

「ねえ、タカ君」

 ひばりは夫の後ろ姿を見上げ、昼下がりに時代劇の再放送を見ながら思い付いたことを述べた。

「この子が男の子だったら、小次郎にしよう。女の子だったら、つばめにしよう」

「どうしてだ」

「だって、佐々木だから。佐々木って言ったら小次郎でしょ、んで、秘剣燕返しでしょ。だから、小次郎かつばめ」

「それは道理だ。異論はない。以前に流行した、突飛な当て字の名前は付けるべきではない」

「うん、私もそう思う。じゃ、決まりだね」

 ひばりが笑いかけると、長孝も口角を緩やかに持ち上げた。人工外皮を被っている時だけではあったが、長孝は 人間のそれに近い表情を見せるようになっていた。素顔を曝している時も、頬の表情筋らしきものを上向かせる時 がたまにある。人間味とは縁遠い男だったのに、こうも軟化したのは、ひばりが毎日長孝に笑いかけていたせいに 違いない。それもこれも、長孝がひばりを大事にしてくれるからだ。だから、自然と笑顔になってしまう。

「タカ君」

「今度はどうした」

「愛してる!」

 ひばりが勢いに任せて言い放つと、長孝は少し間を置いてから応じた。

「ああ」

「だから、この子は絶対に幸せになれるよ。ならないわけがないよ。そう、信じなきゃ」

「ああ」

「というわけだから、ゆっくり育ってから外に出てきてね。待っているよ、私もタカ君も」

 ひばりは上半身を起こし、下腹部に手を添えた。今はまだ胎児の気配すら感じられないが、そう遠くない未来に 出会えるのかと思うと、期待が膨らんでいく。冷蔵庫に食材を入れ終えた長孝は、脱衣所で作業着と共に人工外皮 を脱ぎ捨てて部屋着に着替えてから、ひばりの元に戻ってきた。
 どちらからともなく顔を寄せて、唇もなければ歯もないスリット状の口と唇を重ねる。背中に回された触手に身を 委ねて抱き締められながら、ひばりは夫の首に腕を巻き付ける。好き、大好き、愛している。どれほど言葉にしても 足りないから、行動で示すしかない。長孝もひばりに応じてくれ、舌に似ているが尖端が枝分かれしている口腔内 の部位を用いて好意を返してくれた。互いの感情を惜しみなく注ぎ合いながら、ただひたすらに信じた。
 我が子と、二人の幸福な未来を。




 耳の傍で、絶え間なく風切り音がする。
 潮の匂い、波間の光、ヘリコプターのローター音。それらを全身で感じ取りながら、ひばりは上空に留まっている ヘリコプターを見つめていた。その運転席で操縦桿を握っている、新免工業の戦闘員である武蔵野巌雄に感謝の 意思を伝えるために叫んだが、果たして聞こえただろうか。つばめとタカ君の次に大好き、と。
 長孝に続いて武蔵野と、ひばりは優しくしてもらってばかりいる。だから、彼らの頑張りに報いなければならない。 産まれて間もない娘を攫われたのに、何も出来ずにいた自分を悔いるばかりで顔を上げようともしなかった。だが、 武蔵野はひばりを決して見捨てなかった。そればかりか、最後の我が侭に付き合ってくれた。新免工業には、彼ら なりの目論見があった上でひばりを連れ去ったのだろうが、つばめを出産出来る環境を整えてくれたことには感謝 してもしきれない。だから、誰も、何も、自分さえも恨まない。憎まない。
 この人生を選び、生き抜いたのは、ひばり自身なのだから。胸に抱えていたつばめのヘソの緒が入った小箱を 力一杯握り締めた、ひばりは身を反転させ、海上を抉りながら青白い閃光を放つ巨大な結晶体、ナユタを見据えた。 つばめを胎内に宿していた時に感じていた疼きが、つばめがひばりの胎内に僅かばかり残していってくれた管理者 権限の片鱗が、ナユタとつばめの繋がりを如実に伝えてくる。つばめが苦しめばナユタも苦しみ、膨大なエネルギー を無秩序に放って大規模な破壊を繰り返してしまう。だから、つばめを、ナユタを宥めてやるしかない。
 青い光に触れた瞬間、ひばりの肉体は分子レベルで破壊されて吹き飛んだ。痛みを感じる間もなく、熱ささえも 感じずに灰燼と化した。つばめのヘソの緒を収めていた小箱も同様で、跡形もなく消えたが、ヘソの緒だけは無傷 でナユタに落下していった。乾いた小さな肉片が結晶体に触れると、間もなく、ナユタは沈黙した。
 それから、ナユタのエネルギーの余波で肉体から精神体が乖離したひばりは、物質宇宙と異次元宇宙の狭間を 漂うこととなった。見えるようで見えない、触れられるようで触れられない、近付けるようで近付けない、二つの宇宙を 眺めることしか出来なかった。そんな時、不意に情報と時間の波間から、心地良い空間に打ち上げられた。

「あ、れ……ぇ」

 甘く濃い、菜の花の香りがする。青々と茂った草木が弱い風に揺れ、暖かな陽光が注いでくる、板張りの縁側に ひばりは横たわっていた。目を動かすと、太い梁と囲炉裏のある畳敷きの部屋が見えた。あの世にしては、やけに 生活感のある場所だ。そればかりか、体の存在が感じられる。ひばりが起き上がると、足音が近付いてきた。

「お目覚めですか、ひばりさん」

「あ……」

 声の主を見やったひばりは、全てを悟った。薄暗い屋内から出てきたのは、長孝と酷似した外見の異形の生物 だった。身長は長孝よりも一回りは小さく、藤色の着物を着ており、背中から生えている透き通った突起物は真円 を描いている。ひばりは四方八方に毛先が飛び跳ねているポニーテールを整えてから、佇まいを直す。

「タカ君の、じゃなくて、長孝さんのお母さんですか?」

「ええ。クテイと申します。タカ君でよろしいですよ、ひばりさん」

 クテイと名乗った異形の生物は、部品のない顔を少し傾けた。長孝とは違う、女性らしいたおやかさがあった。

「あの、クテイさん。ここは何なんですか? あの世みたいなものですか?」

 ひばりが問うと、クテイは着物の裾から出ている触手を折り畳んで正座した。

「異次元宇宙と物質宇宙の狭間に生成した、エアポケットとでも称しましょうか。どちらの宇宙からも情報の過干渉 を受けないために次元自体を隔絶してありますので、存分にお休みになれますよ。色々、おありでしたでしょうし」

「つばめも、タカ君も、大丈夫かなぁ。辛い目に遭っていないかなぁ、元気にしているかなぁ」

 ナユタを止めるために果てた後のことは、まるで解らないからだ。ひばりが案じると、クテイは慰める。

「ひばりさんは、つばめちゃんと長孝の幸福を祈る言葉を口になさいました。言葉とは固有振動数を発生させ、宇宙で 生じる事象に影響を与えるエネルギーです。ですから、ひばりさんの思いはいずれ届きましょう」

「クテイさんも、やっぱり亡くなられたんですか?」

「仮死状態とでも申しましょうか。桜の木と融合した際に生命活動を沈黙させておりますが、長光さんを止められる 機会が訪れる時を待ち侘びております。ですから、私はまだまだ死ねません。あの人に、罪と業の報いを授ける時 が来るまでは、この場からも逃れられません。ひばりさんをお出迎えするために、この空間の時間軸を少しばかり 操作いたしましたのは、ひばりさんの精神体を長光さんに奪われないためなのです。長光さんであれば、そのような こともやりかねませんので」

「だったら、付き合いますよ。タカ君のお母さんと、ちゃんとお話ししてみたかったし。それに、ここからだと外の様子 がちょっとは解るみたいですし。あの道具……じゃなくて、遺産か、それを通じた情報が流れ込んでくるから、つばめ とタカ君がどうしているのかが見えるから。もしかしたら、うっかりここに来ちゃうかもしれないから、その時はちゃん と追い返してあげないといけないし。あの子の人生は、まだまだこれからだから」

「ええ、ええ。共に過ごしましょう、ひばりさん。どうか、長孝のお話を聞かせて下さいませんか」

「じゃ、まずは何から話しましょうか。タカ君と結婚してから、私、ずうっと幸せだったから、話すことが一杯あって」

「それはとても楽しみですね。是非ともお聞かせ下さいませ」

「ええと、まずはお見合いの話から……」

 菜の花が咲き乱れる野原を一望しながら、ひばりは語り始めた。クテイは矢継ぎ早に喋り立てるひばりを、朗らか に見守ってくれていた。経緯こそ最悪だったが、長孝と出会えたことは人生最大の幸運だったこと。長孝がひばり を解ってくれようとしたから、ひばりも長孝を解ってやれたこと。細々とした出来事、忘れもしない動物園の思い出、 つばめを妊娠した時のこと、そして、つばめを守ってやれなかったこと。
 けれど、何一つとして後悔していない。自分が出来ることを、全力を尽くしてやり遂げてきたからだ。菜の花畑で 咲き乱れる黄色い花の鮮やかさが、心身に染みてくる。お喋りを中断して少しだけ泣いてから、ひばりはクテイが 差し出してくれたハンカチで涙を拭った。抜けるような青空を見上げ、肉体ごと消失したはずの結婚指輪が填って いる左手の薬指を陽光に翳す。そして、物質宇宙で長らえている夫と娘を想った。
 短いからこそ凝縮された、素晴らしい人生だった。







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