生命の起源は、人類と大差のないものであった。 ニルヴァーニアンが息づいていた惑星は、とある銀河の片隅に浮かぶ星系にて公転周期を巡っていた。その星も 地球と同様にラグランジュ・ポイントに位置しており、生命が育つために不可欠な水を多分に宿し、恒星からの熱と 重力を程良く受けながら何十億年も過ごしていた。数え切れないほどの天変地異の末に掻き混ぜられたアミノ酸が 結合し、細胞となり、ありとあらゆる試練を経て進化した末、ニルヴァーニアンが出来上がった。地球に息づく生命 との決定的な違いは、そのアミノ酸がL型ではなくD型であったということである。 窒素を吸収して酸素を排出する排出する植物が生い茂り、青というよりも紫に近い色味の空が広がり、空の色を 写した海に覆われた惑星にて、ニルヴァーニアンは緩やかな文明を築いていったが、長い歴史を紐解いてみても、 ただの一度も戦争が起きたという記録はなかった。それもこれも、ニルヴァーニアンは産まれながらにして精神体が 繋がっている種族だからだ。だから、価値観の相違も起こらず、意見も食い違わず、思想も割れず、知能も一定で、 平和と呼ぶに相応しい時代を過ごしていた。その頃はまだ、目も鼻も口もあり、手も足も揃っていた。 牧歌的な平和は何十万年、何百万年と続いていたが、ある時を境に文明が急激に発展した。だが、それについて の情報はほとんど残されていない。ニルヴァーニアンの住んでいた惑星の情報を全て取り出し、異次元宇宙に再現 された母星の中をどれほど捜してみても、それらしい情報は見当たらなかった。 「さて、どうしたものかなぁ」 情報の海の中に再現された母星の地表に降り立ったシュユは、農業と稚拙な科学だけで成り立っている原始的な 文明社会を眺め回しながら、取っ掛かりがないものかと思案した。 「これを用いてみてはいかがでしょう」 シュユの背後に浮かぶ幻影、クテイが差し出してきたのは、人間の子供の拳大程の小さな肉塊だった。 「つばめちゃんの心臓じゃないの。どうしたの、これ」 シュユが驚くと、クテイは小鳥のように暖かな心臓を、触手で優しく包み込む。 「長光さんを鎮めるためにはどうしても必要でしたので、つばめちゃんの心臓と管理者権限に関わる情報をほんの 少し失敬したのですよ。管理者権限は遺産に適応される遺伝子情報でありますが、遺産を動かせるということは、 異次元宇宙に充ち満ちている情報も揺り動かせるということです。遺産はあくまでも、異次元宇宙に宿る演算能力 を物質宇宙に引き出すための道具でしかありませんから」 「そういえばそうだね。でも、どこに使おうか」 シュユは泡立つ波が打ち寄せる海岸線を見渡していると、クテイは海の沖合いを指し示した。 「あちらに、情報の空白地帯が存在しております。そこに手掛かりがあるような気がいたします」 「あ、本当だ。じゃ、行ってみよう」 シュユはクテイを伴い、ざぶざぶと波間に分け入っていった。濡れた砂を踏み締めて潜っていくと、水の冷たさと 水圧の厚みまでもが再現されており、触手と下半身が重たく圧迫された。だが、そんなものをいちいち味わって いたら切りがないので、真っ直ぐ歩いて浅瀬から深みに没した。 白く爆ぜる水泡を纏いながら、シュユとクテイは下っていった。水面から離れて行くに連れて陽光が弱っていき、 海中が暗くなる。荒くれた岩場を通り、海草の森を抜け、水中の生物達を横目に進んでいくと、海底に巨大な黒い箱 が鎮座していた。触手を伸ばして触れてみるが手応えはなく、暑くもないが冷たくもない。遺産の一つであるコンガラに 似ていなくもないが、古代の母星にはコンガラは存在していないはずである。だから、これはコンガラではない。 「となると、これが空白地帯かな」 寺坂や道子が執心しているゲームには、たまにグラフィックのミスがある。3Dダンジョンなどで視点を変えると、 通路と壁の合わせ目に黒い空白が出来ていたり、何もないはずの空間でいきなりぶつかったり、壁に向かったら 体がめり込んでしまったり、というようなものだ。異次元宇宙における母星も、言ってしまえば再現度が異常に高い 3Dダンジョンゲームなので、その部分の情報を削除、或いは封印するのは容易いのだろう。 だから、黒い箱が出来上がっている。その中に何があるのかは解らないが、知ってみて損はないだろう。シュユは クテイを促し、つばめの心臓を黒い箱に触れさせた。途端に黒い箱が薄らぎ、海水の流れが変わり、僅かなノイズ の後に中身が露わになった。そこには、ひどく錆び付いた機械が横たわっていた。 「なんだろ、これ」 「ロボットでしょうか。ですが、ニルヴァーニアンの歴史に置いて、ロボットは生み出されませんでしたし、使われた こともありません。私がロボットに関する概念や知識を得たのは、長孝を通じてのことでしたので」 シュユが不思議がると、クテイも見当が付かないのか訝った。ニルヴァーニアンがロボットに相当する機械を発明 しなかったという事実は、シュユも把握している。ニルヴァーニアン同士は決して争わなかったので、兵器を作ること もなければ、農作業の能率を上げるための道具も荒削りなものしか生み出さなかった。道具が便利になればなった 分だけ、労働者の仕事が減ってしまうと考えていたからである。 となれば、このロボットと思しき機械は全くの異文明からの来訪者なのだろうか。だとしても、一体どこからやって きたというのか。銘板でも付いていれば多少の見当も付くのだろうが、それらしいものは見当たらなかった。作業用 に特化した形状らしく、球状の胴体からは四肢が生えていて尖端が枝分かれしていた。背面にはスラスターの役割 をするであろうノズルが放射状に並んでいたが、砂や海草などの堆積物で目詰まりを起こしていた。 きっとこのロボットはこのまま朽ちていく運命にあるのだ、とシュユとクテイが漠然と考えていると、海面が割れた。 大粒の気泡に包まれながら潜ってきたのは、薄着の少女だった。銛を片手に細長い両足で水を蹴り、短く切った髪 を靡かせながら海底へと進んでいく。恐らく、この海岸近くにある漁村の住民だろう。少女は岩場の隙間に隠れて いた魚に狙いを定めると、銛で突こうとしたが、ロボットに気付いて目を留めた。 そして、ロボットもまた彼女に気付いた。 海底から引き上げられた古びた機械は、漁村に運ばれた。 少女を始めとした住民達の手で、分厚い外装にこびり付いている貝や藻を剥がされ、洗われていくうちに、彼の 全貌が明らかになった。無駄という無駄を削ぎ落とした球状の胴体は鈍色で、それが堆積物の隙間から見えて いたせいで錆のように思えただけであり、実際は錆一つ浮いていなかった。数十本の金属製の触手も同様で、 潤滑油も当の昔に枯渇しているはずなのだが、滑らかに駆動した。 ニルヴァーニアンは平和を体現している種族ではあったが、その実では極めて閉鎖的な種族でもあった。どこの 馬の骨とも解らないロボットとも精神体が通じているのだと思い込み、話し掛けたが、ロボットは精神感応能力に 匹敵する通信手段を備えていなかったのか応答しなかった。その後も何度か住民達に話し掛けられたが、ロボット の反応は変わらなかったので、住民達はロボットから関心を失うようになった。 けれど、ロボットを最初に見つけた少女だけは、彼が気になっていた。腹が減っているから機嫌が悪いのだろう と判断し、魚を運んでみるが、ロボットはそれを食べるはずもなかった。魚は嫌いなのだろうと山から果物を取って きてみたり、果物は旬ではなかったからと根菜を持ってきたり、と手を替え品を替え、少女はロボットと交流を図ろうと した。それでもやはり、ロボットは反応しなかった。 話し掛けても、食べ物を分けても、通じ合えないのだと少女は理解した。少女が理解すると、他の住人達もおのず とそれを理解した。理解し合えない相手がいるという価値観は、それまでのニルヴァーニアンに存在すらしていない ものだったので、凄まじいカルチャーショックが起きた。当然ながら漁村は混乱し、漁村の近隣の住民達にも伝播し、 その住民達から更に他の住民達に伝播し、とニルヴァーニアン全体に混乱が蔓延していった。 「こんなことがあったなんて、知っていた?」 漁村の住民達が逃げ出していく様を傍観しながら、シュユが問うと、クテイは否定する。 「いいえ。存じ上げておりません」 「そりゃ、宇宙の神たるニルヴァーニアンにとっちゃ、ロボット一体にビビっちゃったのは汚点だろうけど、隠すほど のことでもないような気がするんだけどなぁ」 シュユは疑問に駆られながらも、時間の経過を早めるためにクテイと共に再び海中へと潜った。つばめの心臓を 使って情報の空白地帯を解放したからだろう、歴史の転換期の年代がいつなのかも把握出来るようになったので、 その頃合いを見計らって海から上がると、住民が消えていた漁村が様変わりしていた。 漁村は見違えるほど栄えていて、簡素な民家は一つ残らず取り壊されており、仰々しい建物が建っていた。その 形はロボットに酷似していて、球状の構造体が中心に据えられ、末広がりに触手が伸びていた。何がどうなってこう なったのだと戸惑いつつ、シュユとクテイが扉を擦り抜けて建物の中に入り込むと、円形の大広間の中心にロボット が置かれていた。その傍らには、年月を経て成長した、あの少女が控えていた。 そして少女は言った。彼は神だと。 理解出来ないものを畏怖し、畏怖するが故に敬意を抱く。 それは、どこの世界でも変わらないことだ。だから、ニルヴァーニアンにも神の概念が生まれた。かつての少女が 巫女となり、意思も言語も何一つ疎通出来ないロボットを神だと祭り上げると、その信心が伝播していった。人々の 輪の中心に据えられたロボットは黙したまま、やはり動かなかった。それから何年経とうとも、変わらなかった。 月日が過ぎていき、ニルヴァーニアンが神が存在しているという概念に慣れてきた頃、神に対して懐疑的になった 者がいた。その懐疑心もまた波状に広がっていき、神ならばいかなる苦痛にも耐えられるはずだと信じてロボット に危害を加えるようになった。しかし、膨大な年月を海底で過ごしても錆一つ浮いていなかったロボットに、稚拙な 道具では掠り傷も付かなかった。それが更に人々の信仰心を高めたが、高ぶりすぎてしまい、ロボットはあらゆる 苦痛から解放された存在なのだと思い込むようになった。 その概念が生まれた時を境に、ロボットの扱いは一変した。それまでは台座に乗せられて丁寧に磨かれていた のだが、台座から引き摺り下ろされて人々に打ち据えられるようになった。神を敬い、祈りを捧げるためにかつての 漁村を訪れた者達もまた、棒を振るい、ロボットを殴った。それでもロボットは耐え抜き、何百、何千、何万、何億もの 苦痛と信心を受け止めた。だが、ある日、度重なる打撃で関節が緩んでいたらしく、ロボットの触手が外れた。 神が傷付いた、との混乱がまたしても膨れ上がり、ニルヴァーニアン全体に蔓延していった。そして、その概念は いつしか、ニルヴァーニアンは神を滅ぼし陵駕出来る、というものに成り果てた。 「なるほどねぇ、そういうことだったのか。道具が神様だった、なんてことを知ったら、今のニルヴァーニアンにとって はカルチャーショックなんてものじゃないよ。天地どころか宇宙の法則がひっくり返るぐらいの衝撃だよ。だから、昔の ニルヴァーニアンが封じておいたんだ。余計な混乱を招いてしまわないように。だけど、そういう重要なことを知らずに いたものだから、新しい世代のニルヴァーニアンが増長しちゃったのもまた事実なんだよねぇ。難しいねぇ」 ニルヴァーニアン達によって分解されていくロボットを見下ろしながら、シュユは理解した。 「私達のこの姿は、彼を模したものだったのですね」 「で、遺産は彼に搭載されていた部品の模造品だったんだ。ムリョウ、タイスウ、アソウギ、コンガラ、ナユタ、アマラ、 ラクシャ、そしてフカセツテン。ニルヴァーニアンの技術では模倣することが出来なかったから、それに近しい能力を 備えた道具を造ったんだ。他の星に神託を伝えに行こう、だなんてことを思い付いたのも、彼の通信装置に恒星間 通信がザッピングしたからだったんだね。蓋を開けてみれば、どうってことないことばかりだね」 「それが現実というものでしょうね」 シュユの傍らでクテイが呟くと、ロボットの球状の胴体を止めていたボルトが引き抜かれ、外装が剥がれた。 「で、彼がどこから来たのかは誰も知らないんだね」 「それを知ってしまったら、神という概念自体が崩壊してしまいます。その概念が失われれば、ニルヴァーニアンの 根幹が揺らぐことでしょう。今の私達には、己が神であるという自負が欠かせませんから」 「でも、僕は知りたいなぁ。現実の彼はもう存在していないけど、彼の情報は引き出せるはずだからね」 つばめちゃんを貸して、とシュユが触手を差し伸べると、クテイは渋りつつも孫娘の心臓を差し出した。 「あまり深入りなさりませぬよう」 「深入り出来るほど、底があるとは思いがたいけどね」 海面を跳ねて砂浜へと至ったシュユは、ロボットを取り巻いていた人々が去っていくのを待ってから、スクラップと 化した神に近付いた。てらてらと光る機械油が砂に染み込み、砕けたレンズが紫色の空を写していた。主要な部品 も打ち砕かれていたが、ここは現実ではない。異次元宇宙に保存された情報までもは砕けていないはずだ。 基盤と思しき青白い板につばめの心臓を寄り添わせると、電流が走り、ロボットの動力機関が動き始めた。彼は 砕けたレンズをぎこちなく動かしてシュユを捉えると、濁った機械音声を発した。 「情報収集と同時に状況確認の後、座標特定開始」 「やあ」 シュユはロボットの前に腰を下ろし、顔を寄せた。 「君はどこから来たんだい?」 「艦隊の空間転移装置の誤作動により、当初の目標地点とは異なる座標へと転移、後に具象化。以後、行動不能 に陥り、自己修復作業と並行し、艦隊へ誘導ビーコンを送信。未だ応答なし」 「だってさ」 シュユがクテイに振り返ると、クテイは彼の割れたレンズの縁に触手を添わせ、そっと撫でた。 「それはさぞやお寂しかったでしょうねぇ……」 「他には何を知っているの?」 シュユはつばめの心臓でロボットの集積回路を小突くと、彼は応じた。 「本機は艦隊の工作部隊に属する、作業用無人機である。植民地となる惑星を探索するために外宇宙への進軍を 行う際にルート上に存在する障害物を排除し、艦隊の進路を切り開くのが本機の主要任務である」 「てぇことは、君は兵器じゃないんだね」 「本機は任務内容に応じて装備を変更するが、戦闘用には設計されていない」 「じゃ、艦隊はどこの惑星の種族が作ったの?」 だが、その問いに答えは返ってこなかった。つばめの管理者権限を用いて強引に旧い情報にアクセスした弊害 なのか、情報の劣化が始まり、ロボットの集積回路は一握の砂となって白い砂に混ざった。それ以外の部品も 儚くも崩れ去っていき、触手に触れた砂も砕けて微細な粒子となった。 だが、シュユは満足した。知りたいことを知れたからだ。同族の神の起源と、その神の正体と、神の存在によって 生じた概念と、それによる影響に関する情報だ。神は作り物で、作り物の神を真似て、神になろうとした同族達に 対して侮蔑とも同情とも言い難い感情が沸き上がり、シュユは肩を揺すった。そして、彼女に問うた。 「ねえ、クテイ。僕達はどこに向かおうとしていたのだろうね。そして、どこに行き着いたのだろうね」 「生きることは捜すことです。それを知りたければ、生きなければなりません」 「うん、そうだね。そうなんだけどさぁ」 なんか気が抜けちゃったよ、と零してから、シュユはクテイの触手につばめの心臓を返した。クテイは小さな肉塊を そっと持つと、胸の内に収め、光の粒子の中に解かした。彼女の概念を取り払って脆い精神体を解放してやった後、 シュユは故郷の残骸から飛び立った。海、空、大気、重力を抜けていき、情報の宇宙へと至った。 神とは理解出来ないものに与える概念であり、箱であり、器だ。シュユが人間を理解しきれないように、人間もまた シュユを理解出来ないのであれば、シュユは人間にとっては神の領域に至っているという理屈になる。それが楽だと 思う一方で、神とは退屈なものだとも思う。神として括られた時点で、人間と同じ目線に立つことを許されなくなったの だから。ニルヴァーニアンはつくづく傲慢な種族だ。それ故に、佐々木長光に付け入られ、食い潰された。 何事も、過信してはいけないということだ。 13 5/6 |