オスカー・ワーカーホリック。 その名を今一度胸の内で反芻してから、いや違う、俺はプライスレス、プライシーだ、と思い直した。ガスマスクの ゴーグルは元々汚れていたので視界は霞んでいるが、意識は大分はっきりしてきた。辺りを見回し、そこかしこに 転がる腐乱死体と白骨で、ここが死体置き場なのだと悟った。最も多いのが子供の死体で、産まれて間もない胎児 が青黒く膨れ上がっている。ヘソの緒が付いたままで、中には産湯にすら浸かっていないであろう血みどろの胎児も いた。自分も一歩間違えばそうなっていたのだと思うと、感慨深さよりも可笑しさが沸き上がってきた。 俺はこいつらに勝ったのだ。こうして、生き長らえているのだから。デッドストックに何度となく痛め付けられた腹を 引きつらせ、ハニートラップに踏み締められた喉を振るわせ、笑う、笑う、哄笑する。右腕を振り上げると、ぐじゅりと 汁気が飛んで女の腐った乳房が破れた。そこから無数の蛆とハエが飛び出し、渦巻いた。足がやたらと多い虫や、 でっぷりと太ったゴキブリや、芋虫や、ありとあらゆる害虫が背中の下で蠢いている。 「……俺の全財産!」 そこで初めて、リュックサックを背負っていないことに気付いた。あれは全てが入っている。それこそ、プライスレス がオスカー・ワーカーホリックという名を捨ててプライスレスと名乗るようになってからの、人生が詰まっている。現金 や道具だけではない、命に代えても奪われてはいけないものもある。ハニートラップに煽られるがまま突っ掛かった のは失敗だった。いや、クイーンビーの色街に来たことがそもそも間違いだった。幸運に幸運が重なって女王バチ の支配下から逃れられた自分の悪運を信じていたからか、顔も名も知らない母親に乳臭い憧憬を抱いていたからか、 育ての親にも等しいハニートラップを殺してこそ真の自由を得られると思い込んでいたからか。 「ストッキーに妖精ちゃん、まだ生きてっかなぁ」 自分の失態を責めるぐらいなら他のことを考えようと、プライスレスは腐敗能力の男と人造妖精のことを思った。 今頃、二人はどうしているだろうか。クイーンビーの元に向かったとしたら、生きて帰っては来られまい。独占欲の 深いクイーンビーのこと、デッドストックはともかく、プレタポルテは愛玩用具として手元に置くはずだからだ。 思えば、三人で行動するようになってから、それなりの時間が経っていた。友人ですらなく、家族であるわけもなく、 似てはいるが根本的に違う行動理念によって同じ道を進んでいた。デッドストックは素っ気なく、事ある事に殴って くるが、プライスレスのお喋りを少しは許してくれている。純真無垢を絵に描いたようなプレタポルテは、デッドストックに 懐いているが、プライスレスにも気を許してくれている。自分もまだ子供ではあるが、それよりも遙かに幼く無力な 相手から慕われるのはあまり悪い気がしない。つまり、三人で過ごしているのは楽しかったのだ。 四角く区切られた外界は狭く、遠く、高かった。それもそのはず、死体置き場は縦長の四角い穴だからだ。深さは 十数メートルはあり、コンクリート製の壁にはハシゴの類はない。用途は不明だが、色街のそこかしこにこの穴は 存在していて、死んだ女や胎児やジガバチに殺された男達が放り込まれるものだった。だが、穴の入り口まで死体 が溜まって溢れた試しはない。いつのまにか、そっくり消えているのである。恐らく、色街の土台の下にある下水道 か何かに落ちているのだろう。となれば、死体の山を掘り返して下水道に至る穴を見つければ逃げ出せる、という ことになるのだろうが、さすがのプライスレスでもそこまで出来るほどの余力はない。 「俺の代わりに働いて“くれよ”って命令出来る道具でもあれば、話は別なんだけどなぁ」 生憎、それらしいものは見当たらない。ダメで元々、という気持ちで死体に能力を使ってみたが、死体の群れは 不安定な動作で起き上がったものの、一歩も進めないうちに崩壊してしまった。新鮮な死体であればまだ扱いよう があったのだが、どれもこれも死んでから日数が経ちすぎている。さて、どうしたものか。 プライスレスは比較的汚れの少ない壁に寄り掛かり、考えを巡らせていたが、不意に足元が波打った。地震か、 或いはまたどこぞで起きた小競り合いの余波か、そうでなければ下水道内でメタンガスでも爆発したのか。下手に 被害を被りたくはないので、プライスレスは死体をいくつか踏み抜きながら歩き、移動した。と、その時、今し方足を 抜いたばかりの死体を何かが貫いて壁に突き刺さった。一つは不格好な鳥の模型、もう一つは皿。 「……てぇことは、あいつら、生きてんの?」 更に言えば、自分はまだ目標から外れていなかったのか。プライスレスはびくつきながら、穴の角へと進んだが、 鳥と皿の洗礼は続いた。余程多く手玉を用意していたのだろう、ひっきりなしに死体の山が震えて穴が空き、鳥と 皿が飛んできては壁に激突する、砕け散る。その都度腐った肉片と骨片が舞い、プライスレスは頭からつま先まで べっとりと汚されてしまった。ガスマスクに貼り付いた糸を引く肉片を拭い去ってから、舌打ちした。 次はどこから、どれだけ来る。迎え撃つことは不可能だが、心構えは出来る。プライスレスは呼吸を整えていると、 前触れもなく足を掴まれた。死体の手が引っ掛かったのかと目をやると、死体の下腹部を突き破って腸にまみれた 腕がプライスレスの左足首を掴み、猛烈な力で引き摺り込んできた。心臓が痛むほど驚いたプライスレスは肺の中 の空気を残らず絞り出し、絶叫したが、為す術もなく地下の地下へと誘われた。 腐臭で膨張した暗闇の中に、放り出された。 甘く、濃く、おぞましい蜜の壷。 赤と黄色が混じった弱い光が、ハチの巣状のビルの内側を満たしていた。ハチミツ色とでも称すべきか。ねっとりと 鼻腔を塞いでくる甘ったるい匂いが充満していて、心なしか空気もべとついている。鏡のように磨き上げられた床に はデッドストックとプレタポルテの汚れた足跡がべたべたと連なったが、昆虫に酷似した体形故に歩行が困難なのか、 金属製の虫の外骨格を纏っているハニートラップは飛行したままだった。 これが、アッパーの世界の一端なのだ。原色に塗られた針金をでたらめに組み合わせたかのようなオブジェや、 薄布一枚を気怠げに纏った裸婦の彫像や、球体が不規則な位置に浮かんでいる装置などなど、用途不明の物体 がそこかしこに陳列されていた。壁の色彩は目に染みるほど鮮烈な青で、不定型な白いものが漂っていた。それが 空の立体映像なのだと感付けたのは、奇しくも青空を背負って活躍しているクリスタライズの映像のおかげだった。 きらきらと煌めく噴水に虹色の光が注がれ、とろけるような光を浴びて無数の花々が花弁を広げていた。 「ごしゅりんたま!」 歓喜したプレタポルテは、水で育てられている花々を指し示し、デッドストックの裾を引っ張ってきた。 「ふぁんつぁすてっきゅ!」 「触るな。毒がある」 「えちゅしゅーるー?」 「本当だ」 「じゅぬぽんしゅぴゃ!」 「急に饒舌になったな」 短い単語を喋るだけで精一杯だったのに、急激な成長だ。デッドストックが不思議がると、プレタポルテはきょとんと 目を丸めて首を傾げた。が、その姿勢のまま、バランスを崩して床に倒れ込んだ。 「おい、どうした」 デッドストックが鎖を引っ張るが、プレタポルテの反応は薄かった。うぃー、にゅー、と曖昧な返事を返しながら短い 手足をばたつかせるが、それだけだった。仕方ないので抱き起こしてみるが、首がぐにゃりと仰け反ったばかりか、 ガスマスクのゴーグルの下の目は虚ろだった。色素の薄い肌がほのかに熱を持ち、呼気も荒い。まるで、酩酊して いるかのようだが、プレタポルテに酒を飲ませた覚えはない。 「そうか、お前には効かないのか」 ハニートラップは羽音を響かせながらデッドストックの頭上に至ると、複眼に男を映した。 「ということは、お前は生まれつき毒に対する耐性が凄まじいんだな。持って生まれた能力のせいか、単純に神経が 鈍いだけなのかは計りかねるが。この建物には、クイーンビーが分泌する神経毒を含んだ香料を満たしてあるん だよ。ガスマスク越しでも吸い込めるほどの細かい粒子に変えてあるから、どんな輩であろうとも、クイーンビーの元に 辿り着く前には千鳥足なのさ。だから、クイーンビーは色街の女王として長らえてこられたんだ」 「つまらない小細工だ」 デッドストックは足元の覚束無い人造妖精を担いで肩に載せると、再び歩き出した。 「デッドストック、お前は実にユニークだな」 ハニートラップは笑みを浮かべるように顎を開閉させてから、先導していった。独りでに動く螺旋階段に載り、それに 誘われるがままに上昇していく。その間にも、数多の色彩が視界を過ぎっていったが、デッドストックの琴線に触れる ものは存在しなかった。アッパーの価値観も、クイーンビーの美観も、全く理解出来ない。見栄えが良いだけで実用性 に欠けるものが有益だとは、どうしても思えなかったからである。 円形に薄い水の膜が滴り落ちている吹き抜けを通り抜け、更に昇っていくと、壁に投影されていた空が途切れた。 小さな光の粒がちりばめられた藍色に移り変わり、金色の光を放つ弓形の物体が浮かんでいる。夜空だ。人工の 星空の真下には、巨大なバラを模した玉座に身を収めている、女王バチが君臨していた。 逆三角形の頭部には細い触角と鋭い顎、黒い複眼、黄色と黒に彩られた外骨格。二メートル半はあろうかという 巨躯でありながらも、凶悪な色香に溢れているのは、人間とそうでないものの外見が混ざり合っているからだろう。 華奢な首の下には母性的でさえある立派な乳房が備わり、腰は細くくびれ、下両足の太股に当たる部分は外骨格で あるにも関わらず豊かな曲線を描いている。見るからに殺傷能力の高い毒針が生えた腹部は尻尾のように左右に 振られ、透き通った四枚の羽は艶々としている。 「我らが女王、妖精をお連れいたしました」 赤絨毯が敷き詰められた室内に入ったハニートラップは、六本足を着けて頭を垂れる。女王バチは下両足を扇情的 に組み直してから、首を曲げ、触角の片方を立てる。 「妖精にしては、随分と泥臭いのねぇ」 「お前がクイーンビーか」 デッドストックは不躾に室内に踏み入ると、クイーンビーはぎちりと顎を開く。 「あなたがデッドストックぅ? ヴィジョンでは散々目にしたけれど、実物は随分と見窄らしいのねぇ」 「女を買いに来た」 大股に歩いて赤絨毯を汚しながら進んだデッドストックは、ボロ布も同然のショルダーバッグを開いてひっくり返し、 細々とした道具と共に有り金を全てぶちまけた。汚れた紙幣の紙吹雪が舞い上がり、束の間、視界を塞いだ。 「リザレクションを」 「分類番号・LDH0316のことです」 「あぁら、そう。あの子をねぇ……」 ハニートラップの説明を受けたクイーンビーは、尖った爪先を擦り合わせて金属音に近い音を立てる。 「あの子は見た目はそれなりだったけど、金は稼いでくれたわぁ。どんな男に痛め付けられたって、その日のうちに 傷がすっかり塞がっているんですものぉ。あなたみたいな変な能力者を宛がっても、嫌だなんて一言も言わないで 股を開いてくれたしねぇ。他の子ではそうもいかないわ、すぐに殺されちゃうものぉ」 「売ってくれ」 「だけど、あなたも知っての通り、今のあの子はバラバラなのよぉ?」 「売れ。そのためだけに来た」 「買ってどおするのよぉ」 「売れ」 「話にならないわねぇ。困った人だわぁ」 中両足でバラの花弁を押して立ち上がったクイーンビーは、気取った足取りで歩いてきた。一歩進むごとに爪先 が赤絨毯を切り裂いて床に当たり、かつん、かつん、と硬質な音を鳴らす。彼女の神経毒は、体中至る所から分泌 されているらしく、女王を囲んでいた花々が萎れては枯れ果てていく。猛烈な毒性だ。 「でも、あの子を買うつもりだったら、私を買わなきゃダメよぉ」 だってほらぁ、とクイーンビーはデッドストックの目の前で腰を曲げ、顎を広げてみせた。粘度の高い唾液が銀色 の糸を引き、人一人を楽に飲み込める太さの喉が開ききる。その奥には、外骨格の内側には、内臓の隙間には、 見覚えのある形状の乳房が付いた胴体が収まっていた。但し、それは結晶で出来ていた。ほのかに青味を帯びた 珪素であり、柔らかく脆弱でありながらも驚異的な再生能力を宿した女の肉を、ヴィジョンの中で暴れ回る男の能力 を用いて固めたものだった。 「御代は……そうねぇ、その子でいいわぁ」 クイーンビーは顎を閉ざして身を引くと、上右足の爪を鎖に引っ掛け、難なくプレタポルテを持ち上げる。酩酊状態 のプレタポルテは妙な声を上げるが、上下逆さまにされても無抵抗で、手足を投げ出した。汚れきったジャケットの 下からはみ出した虹色の羽はこれまでの旅路で付いた汚れがこびり付いていて、本来の輝きを損なっていた。それが 気に食わないのか、クイーンビーは不愉快げに触角を下げる。 「人造妖精って、アッパーの間では最上級の美食だそうじゃなあい? それに、不老不死の妙薬の材料にもなるっ ていう情報が、この建物の光る板に出てきたのよねぇ。だけど、このままだと小さすぎて食べるところがほとんどない から、ちょっと大きくなって太らせてから食べることにするわぁ」 複眼の前で人造妖精を揺らしてみせてから、クイーンビーは身を捩る。 「この鎖、邪魔ねぇ。でも、この子の足を切ると食べる分が減っちゃうからぁ」 あなたの腕を切ることにするわぁ、と黒い爪がデッドストックの右腕を軽く挟んできた。それがラバースーツにぐっと 食い込み、骨を圧迫したかと思うと、躊躇いもなく切断された。焼け付くような痛みと衝撃と右腕の手首から先が消失 した空虚感によろめき、デッドストックは滝のように流れ出してくる血を左手で受け止めるが、指の間から零れて 赤絨毯を腐らせてメタンガスの煙を上げ始める。痛みの奔流が全神経を逆立て、凄まじい吐き気を催させ、喉の奥 から濁った呻きを押し出させる。目眩というには生易しい感覚に陥り、両膝を付くと、今度は視界が回った。 恐らく、露出した血管を通じて空気中に充満している神経毒が体内に侵入したのだろう、デッドストックは呼吸さえも 忘れかけるほどの興奮に見舞われた。冷たすぎるものに触れたら高温だと脳が誤認するように、猛烈な苦しさを快感 だと履き違えてしまったらしい。途切れ途切れの意識の狭間で、デッドストックは混乱に駆られて叫んだ。 忘れもしない、女の名を。 13 7/13 |