熱い湯気を吸い込み、吐き出した。 バルブを捻って湯を止めると、足元に溜まっている体を流れ落ちた湯が、泥と汚水が入り混じった渦を描きながら 排水口に吸い込まれていった。素肌を洗っている間に湯が腐らなくなったのは、目覚ましい進歩だ。能力を抑える ことに不慣れな頃は、石鹸すらも手にした瞬間に腐り落ちてしまったのだから。 左手で錆びた鏡を拭うと、黒い覆面を被ったままの男が映る。まともに喰えるようになったおかげだろう、以前より も目に見えて筋肉の厚みが増している。上腕は太股と同程度の太さを得るようになり、胸筋と腹筋はくっきりとした 割れ目が刻まれている。その筋肉の間を伝った水滴が下半身に至り、滴る。自分の体を眺め回して悦に浸る趣味 は自分自身にはないが、連れ合いはそれが好きらしく、スーツを身に付ける前に姿を見せないと不満がる。それの どこがいいのかはさっぱり解らないが、喜んでくれるのならば悪い気はしない。 シャワールームのドアを開け、洗い晒しのバスタオルで水気を拭い去ると、ラバーマスクを引っ張って間に入った 水を出した。それもタオルに吸い込ませてから、シャワールームとリビングを隔てているカーテンを開けた。肌を隠す ものといえばバスタオルだけだが、それも首に引っ掛けているだけなので、下半身は無防備だ。 「おい」 デッドストックが声を掛けるよりも早く、プレタポルテが駆け寄ってきた。 「すてき」 「毎度毎度、何がそんなに面白いんだ」 褒められて悪い気はしないのだが、何もかもを眺められるのはさすがに恥ずかしい。デッドストックが盛大に嘆息 しながら、手狭なリビングに併設しているキッチンに向かう最中も、プレタポルテはしげしげと眺めてきた。人造妖精 の視線のくすぐったさに辟易しながら、冷蔵庫を開けて瓶ビールを取り出した。缶のものでは、手に持っている最中 に腐食させてしまうことがあるからだ。王冠を捻って外し、薄味で炭酸のきつい酒を喉の奥に流し込んでから、再度 人造妖精を窺ってみた。ソファーに座っていたが、今度はその上からデッドストックを眺め回していた。 「……おい」 「んふふふ」 プレタポルテは使い古しのソファーの背もたれに寄り掛かり、笑みを零した。その満足げな表情に、デッドストック は文句を言えなくなり、黙って瓶ビールを飲み干した。アルコールが効かない体なのは百も承知だが、ビール特有 の苦味と喉越しが好きなのだ。まだ冷え切っている空き瓶をゴミ箱に突っ込んでから、二本目の瓶ビールを出した デッドストックは、上機嫌な人造妖精と目を合わせ、ラバーマスクの下で笑みとも付かぬ歪んだ表情を作った。 どれほどの年月が経とうとも、慣れないことの方が多い。 数多の因果に縛られている二人は、世界の理からはみ出している。 故にまともに社会生活は営めないのだが、元より足並みを揃える気はない。地下世界でヴィランとして生きてきた ような男が、現生人類が造り上げた枠組みの中に収まるわけがない。人造妖精も同様で、デッドストックの根底から ねじ曲がった倫理観や価値観に染まりきっているので、真っ当な感覚を持ち合わせていない。だから、彼女は純粋さ こそ失っていないが、その優しさや愛情が注がれるのはデッドストックだけだ。それ以外には、極めて冷酷だ。 我が身に宿った遺伝子とそれが成す能力により、二人は衰えを知らない肉体で永き時を過ごす身となった。そして、 あの旧い時代からの仇敵であるリザレクションの血が生み出す不死能力者に対抗出来る唯一無二の存在となって はいるものの、だからといって隠匿する意味もなければ理由もない。だから、アッパーの死蔵品であり地中深くに 埋まっているデータベースに身を潜めもしなかった。面倒なことになったら、空間転移装置で逃げればいい。 プレタポルテはテレビが好きだ。なんでも、アッパーのヴィジョンよりも内容が突飛で、番組の種類が豊富だから なのだそうだ。だが、デッドストックにはどれも大して変わりがないとしか思えない。けれど、上機嫌にテレビを見て いる人造妖精の様子を見ているのは嫌いではないので、黙って付き合っていた。 「む」 プレタポルテが首を傾げて見上げてきたので、デッドストックは拳大のチーズの固まりと彼女を見比べた。 「なんだ」 「ほしい」 「全部はやらんぞ」 デッドストックは半分ほど囓ったチーズの固まりを毟ってやり、口を開けて待ち兼ねていたプレタポルテに喰わせて やった。小さな口には収まりきらないチーズの欠片を頬張った人造妖精はもちゃもちゃと咀嚼していたが、飲みかけ のコーラで流し込んだ。そんな喰い方で味が解るのかどうかは怪しいが、気が済むのであれば、それでいい。 古いドラマ、子供向けのアニメ、スポーツ中継、ニュース、ドキュメンタリー、映画、トーク番組、とテレビの画面からは 延々と情報が垂れ流されていく。合間に挟まるCMはどれもこれも誇張が激しいが、派手でなければ客が商品を手に 取ってくれるわけがないからだ。いつしか窓の外は暗くなり、リビングを照らすのはテレビだけとなった。 スーツを着ることを許されたのは、プレタポルテがソファーの隅で丸まって寝入った後だった。おかげで、すっかり 湯冷めしてしまったが、その程度のことで体調を崩すほど脆弱でもない。脱ぐ時は緩むのに袖を通す際は肌に密着 してくるスーツに肉体を戒められると、その緊張感で少々気が引き締まる。トレンチコートを羽織るかどうかを悩んだ が、今はそこまで着込む必要がないと判断して、スーツを着ただけの姿で再びソファーに腰掛けた。 部屋の至る所には、この建物の中で起きた惨劇の痕跡が残っている。壁には弾丸が埋まり、干涸らびた血飛沫が 散り、脳天を撃たれた男の死体がガレージで腐っている。武器を使った様子からして、能力者ではない人間達で構成 されたギャング団が仲間割れした挙げ句に全滅したようだった。食糧庫にはドラッグもたっぷり残っていたが、誰も それを取りに来ないことからして、ギャング団の残党もいないようである。それならそれで好都合だ、余計な手間を 取らずに済む。十本目のビールを口にしたデッドストックは、手袋を外した左手で人造妖精の頬に触れた。 幼くも熟れた面差しで眠る少女の顔の右半分を隠している髪を上げると、青黒く腐った皮膚と右目を抉り取られた 眼窩が現れた。その部分だけ皮膚の感触が異なり、瑞々しさはなく、がさついていてぶよぶよしている死人の肌だ。 血も巡っていないから、新陳代謝もない。その懐かしくも愛おしい手触りに、口角が綻ぶ。 「みゅ」 触れられて目が覚めたのか、プレタポルテは目を開き、身を乗り出してきた。人造妖精に顔を近付けていたため にすぐさま距離を詰められ、デッドストックが身を引くよりも早く、プレタポルテの小さな唇がラバーマスク越しに男の 唇を塞いできた。ラバーマスクを上げようとしたが、その手を阻まれ、薄膜の上から情欲を注がれた。 キャンディを味わうかのような入念な愛撫の後、軽く息を弾ませながら、プレタポルテは離れた。左目はうっすらと 潤み、テレビのちらつく光が反射していた。寝乱れた薄緑色の髪を撫で付けてやり、その髪の間から零れる石鹸の 芳香に混じる少女の匂いを深く吸い込む。能力が抑えられるようになったから、メタンガス混じりではない匂いもよく 解るようになった。肉も脂肪も薄い体を包んでいるスーツに指を這わせ、白い肌を闇の中に曝す。 情愛と呼ぶには苛烈な、感覚の共有を行った。 どちらかが飽きるまで、怠惰な時間は続いた。 左腕の上腕の内側に、くっきりと小さな歯形が残っている。痛みを堪えたのか、それとも妖精に相応しからぬ甘い 喘ぎを殺したのか。いずれにせよ、可愛らしい痒みが獣じみた交わりを思い起こさせてきて、尽きたはずのものが 頭をもたげてきそうになる。粘膜がひび割れてしまいそうなほど喉が渇いているので、生温く気の抜けたビールが 底に残っていた瓶を呷った。だが、それだけでは慰めにもならなかった。 どちらのものとも付かない体液の痕跡が散らばるソファーから身を起こし、デッドストックは鈍い頭痛がする額を 左手で押さえながら、再び冷蔵庫に向かった。だが、散々飲み尽くしたせいで瓶ビールの残りはなく、その代わりに 毒々しい色合いの甘ったるい炭酸飲料しか見当たらなかった。仕方ないのでそれを飲んだが、砂糖まみれの液体が 喉に貼り付いて喉越しは悪く、胃の中にもったりとした重みが残った。 冷凍庫の奥底でガチガチに凍っていたベーグルを溶かそうとしたが、電子レンジが動かなかったので、取っ手に 錆が浮きかけているフライパンを使うことにした。ざっと洗い流してから、チーズと一緒に買い込んできたのであろう オリーブオイルを多めに垂らして熱した後、冷凍ベーグルを二つ放り込み、塩を振った。程良く焼けて解凍しきった 頃になると、シャワールームから人造妖精が戻ってきた。デッドストックは二つとも食べるつもりでいたのだが、一つ を人造妖精にあげることにした。手を油と塩でべたべたにしながら熱いベーグルを頬張るプレタポルテを横目に、 デッドストックはもそもそとベーグルを咀嚼したが、あまり腹の足しにはならなかった。 服を着てから、二人はこの建物の中にある食糧を数えてみた。瓶ビールは一本残らず空になり、炭酸水は十二本 残っていて、缶入りのジュースもあり、見るからにアルコールの質が悪そうな安酒は数十本も残っていたが、肝心な 食糧が尽きかけていた。この建物を見つけた当初はそれなりの量があったのだが、二人が思い付くままに消費して いったので、底を突いてしまうのは当然の結果だった。 「ふむ」 すっかり寂しくなってしまった冷蔵庫のドアを閉じたデッドストックは、背後のプレタポルテに振り返った。金色の瞳 が瞬き、上目に見上げてくる。 「にゅ」 「買い出しにでも行くか」 「おかね、ないよ」 「そんなもん、いくらでも作れる」 デッドストックは倉庫を指し示した。その中にはギャング団の資金源であろう粗悪なドラッグが大量に残っている ので、それを売り捌けば簡単に現金が手に入る。 「でも、りゅうつうるーとをつくっていないよ」 「俺達がシンジケートを作ったところで、意味がないだろうが」 「あ、そうだね。だけど、あんまりやすくうると、なんだかもったいない」 「金が多くなりすぎても、動きづらくなるだけだ。その辺のケチな悪党に、安く売ればいい」 デッドストックは冷蔵庫のドアを閉めてから、倉庫に入った。無造作に転がされている段ボール箱を開けると、中には 乾燥剤が入っていて、その下にはカラフルな錠剤が入った袋が隠れていた。いわゆるアッパー系のドラッグだ。 「だが、素人に売ると足が着く。ここを使っていたギャング共と同格の相手に売るのが確実だな」 「うぃ」 「一つ、ヤってみるか?」 「にょん」 「だろうな」 デッドストックと同様に、プレタポルテもまた様々な要因によってドラッグの類が効かない体になっているからだ。 それはつまり、人造妖精に快楽を与えられるのはデッドストックだけということだ。お互いにそれを知っているから、 尚、離れがたくなるのだ。デッドストックはプレタポルテの洗い髪に触れてから、錠剤の詰まった袋を指先で抓み、 持ち上げた。小さな袋だが、百錠近くは入っていた。盛り場で捌けば、短時間で分厚い札束に変わるだろう。 「ガレージに車があったな」 「うぃ」 「その車で出るぞ。ここからそう遠くない街に、屑共が集まるナイトクラブがあると、ギャング団の遺品が教えてくれた からな。そこで、このドラッグを金に換える」 「かねづる」 「そうだ。一晩でどれだけ稼げるか」 「ひとばんなら、けいさつ、みつかりづらい」 「なんだったら、稼いだ金を掻き集めて、ここを離れて別の住み処を捜しに行ってもいい」 「んー……」 「なんだ。嫌なのか」 「ちょっとだけ」 「そうか」 珍しいこともあるものだ。プレタポルテは、住み着く場所に対してはそれほど執着を抱いたことがなかったのだが。 ギャング団の情婦の忘れ物であろう、薄っぺらくて肩紐の細いキャミソールを着た人造妖精は、てろりとした光沢が ある布地を抓んでいじっていた。肩紐が長すぎるので半分程度の長さに結んであるのだが、それでも裾が長いので、 下半身がすっぽり隠れている。本来は胸の下に来るはずのレースが、腰の位置に来ている。 「いっしょ、いく」 「お前が来ると、余計なことになりかねん」 実際、プレタポルテを人質に取られたり、奪われそうになったり、善意の第三者という名のお節介のせいで浮浪児 の保護施設にまで連れて行かれたことがあるからだ。その度に一暴れする羽目になったのだが。デッドストックが 苦い記憶を思い出していると、プレタポルテはデッドストックの腰の辺りを抓んだ。スーツが少し伸びた。 「だめ?」 「答えづらいことを質問するな」 本音を言えば、片時も離れたくない。視界から消してしまいたくない。触れていたい。だが、これまでの経験がある からこそ、厄介事には連れて行けない。それに、いざとなったら空間転移を行えばいいのだから、地球の反対側に いようとも一瞬で会える。だから、何を惜しむことがある。とデッドストックは思うのだが、そう言い切ってプレタポルテ を突っぱねられなくなってしまったのだから、随分と丸くなってしまったものだ。 小さな手に指を絡め、戒めた。 13 10/30 |