横濱怪獣哀歌




車輪ヨ、我ガ夢ヲ回セ



 午後四時を回ると、客足も落ち着く。
 昼と夕方の合間、古代喫茶・ヲルドビスにはゆったりとした時間が流れていた。ジュークボックスから流れる曲目 も、明るい曲調のカントリーミュージックからしっとりとしたバラードになり、西日が差し込んでいる店内に深みの ある雰囲気を作っていた。狭間は店内とバックヤードの中間で、休息を取っていた。本来の休憩時間ではないのだが、 客の数が少ないので、海老塚が少し休んでもいいと言ってくれたのだ。朝からずっと立ちっぱなしで動き続けていた ので、とてもありがたい気遣いだった。
 小さなテーブルと使い古しの丸椅子に腰掛け、狭間は賄いで出してもらったサンドイッチを齧っていた。ツブラは 退屈すぎて眠たくなったらしく、絵本の束を抱えてうとうとしている。一番のお気に入りは相変わらずかぐや姫だが、 最近では他の絵本も熱心に読むようになった。空き地で紙芝居を見てからは、絵本に書かれている物語を楽しむ ことも出来るようになったらしく、ひらがなを一文字ずつ音読するようにもなった。

「日に日に成長しているんだなぁ、お前は」

 それに引き換え俺ってやつは、と狭間は自嘲する。賄いに使われたサンドイッチは、今朝の仕込みで狭間がカット したものだが、切り口ががたがただったので客に出せるはずもない代物だった。食パンを切った経験が皆無だったので 仕方ないと海老塚は笑っていたが、慰められると尚更情けなくなった。

「あれはあれ、これはこれだ」

 これもまた自分で淹れたコーヒーを飲むが、酸味がやけにきつかった。狭間はツブラがテーブルの下から伸ばして くる細い触手をいじってやりつつ、思慮した。海老塚が只者ではないというのは薄々感じていたことではあった が、九頭竜会の根幹に関わっていたとまでは思いもよらなかった。海老塚の奉公先であり、九頭竜会にゴウモンの 眠る山を譲り渡したヴォルケンシュタイン家については知らないことだらけで、正直不気味だが、それは海老塚の 人の好さを損なうものではない。海老塚にも何かしら腹積もりはあるのかもしれないが、だとしても、狭間に良くして くれているのは事実だ。だから、むやみに警戒してはいけないし、そんな態度を取っては恩を仇で返すことになって しまうからだ。今まで通り、アルバイトとその雇主として接していけばいい。

「狭間君、よろしいですか」

「あ、はい」

 その海老塚が狭間を呼び付けた。その途端に、指に絡んでいたツブラの触手が引っ込んだ。

「ムァ?」

 サングラスの奥で目を瞬かせたツブラは、小さな口を開けて欠伸をしたが、また寝入ってしまった。

「御指名です」

 狭間が店内に戻ると、カウンターで応対していた海老塚が来客を示した。

「いらっしゃいませ」

 その来客を見、狭間は少し戸惑った。店の出入り口に立っていたのは、赤いランドセルを背負った小学生だった からだ。クセの強い髪を両耳の上で結んでいて、明るいオレンジのポロシャツに真っ赤な吊りスカートを着ている。 吊り目がちな目は見るからに気が強そうで、狭間は内心でやや臆した。小学生の知り合いなんていたっけ、だけど 御客だから無下に扱うわけには、と狭間が言い淀んでいると、小学生は一礼した。

「御仕事中、失礼いたします。佐々本モータースです」

 ランドセルを担いだ背中を起こした小学生は、店の外を指す。

「狭間さんですよね? 工場の作業場に空きが出来たので、予定よりも早くバイクをお預かりに来ました。んで、その ための車が外にあります。軽トラですけど。よろしければ、今からお預かりに伺いますが」

「行ってきてもよろしいですよ、狭間君」

「マスターの許可も頂きましたが、どうしますか」

 小学生はかかとを上げて狭間を見上げてはいたが、少しも気後れしてはいなかった。僅かばかり膨らんだ胸元に 付いている名札には『横浜市立元町小学校 6年3組 佐々本つぐみ』とあった。

「では、お言葉に甘えて」

 狭間は海老塚に礼を述べてから、仕事着から私服に着替えるために一旦奥に引っ込んだ。何かの拍子で汚して しまったら、クリーニング代が馬鹿にならないからだ。寝起きでぼんやりしているツブラも連れて外に出ると、荷台 の側面に『佐々本モータース』と書かれている軽トラックが待ち構えていた。その運転手も。

「どうも」

 作業帽を外して一礼したのは、少年と言っても差し支えのない面差しの青年だった。狭間が佐々本モータースを 訪れた際に応対してくれた、整備士の小暮小次郎である。機械油汚れの付いた軍手をポケットに突っ込んでいて、 紺色の作業着も至る所に金属粉と機械油の染みが付いていた。控えめな態度は、いかにも職人らしい。

「小次郎、私も一緒に乗っていってもいい? 荷台でいいからさ!」

 つぐみは小次郎の傍に駆け寄るが、小次郎は作業帽を被り直し、背を向けた。

「ダメだ。さっき納車したバイクの汚れが付いているから、スカートが汚れてしまう。そうすると、うららさんの 仕事を増やしてしまう。歩いて帰れるだろう」

「自分で洗うからいいもん」

「ダメだ」

「社長令嬢に向かってそりゃないよー。まあいいや、りんなちゃんちに寄り道していくから」

 小次郎の意地悪ぅ、と言い残してから、つぐみは元町商店街の方向に駆けていった。二つに結んだ髪とランドセル が遠のいていくと、小次郎は詰めていた息を緩め、運転席に乗り込んだ。

「行きましょう。フォートレス大神までの道は知っているので、大丈夫です」

「大丈夫なんですか? あの子は」

「大丈夫ですよ」

 俺なんかよりも余程、と呟き、小次郎はシートベルトを締めた。狭間は助手席に乗り込み、シートベルトを締めて からツブラを膝の上に載せた。すると、海老塚がわざわざ見送りに出てきてくれた。気恥ずかしさを感じつつも手を 振ると、海老塚はにこにこして手を振り返してくれた。小次郎はやりづらそうだった。
 入り組んだ路地を抜けてフォートレス大神に到着し、狭間がバイクを見せると、小次郎は壊れた個所を調べ始めた。 最も目立つ損傷は後輪のパンクだが、ボディは傷だらけでブレーキパッドも外れている。その間、怪獣タンクの中に いる動力源の怪獣は大人しくしていた。ここ最近、燃料を与えていないからでもあるが。

「フレームまで壊れているかもしれないので、一度、全部ばらした方がいいですね」

 小次郎は腰を上げると、軽トラックの荷台からブリッジを出して荷台と地面の間に置いた。狭間は壊れたバイクを 押していき、荷台の真ん中に載せると、小次郎はワイヤーでバイクを固定した。ツブラは物珍しそうに作業の様子を 見ていたが、狭間から離れようとはしなかった。怪獣なりに人見知りをしているようだ。

「娘さんですか? でなければ、妹さんですか?」

 狭間の足の陰に隠れているツブラを見、小次郎は腰を落として目線を合わせた。

「遠縁の子ですよ」

「マ! ツブラ!」

 狭間がいつもの調子で誤魔化すと、ツブラは小さな手を挙手した。

「つぐみさんは小暮さんの妹じゃないんですよね? さっきの言い方からすると」

 ツブラを撫でつつ、狭間が問い返すと、小次郎は少し間を置いてから答える。

「妹ですよ」

 ため息混じりに発した言葉には、頑なな決意だけが漲っていた。それから、佐々本モータースへ向かったが、その 道中で狭間と小次郎は世間話程度に言葉を交わした。小次郎は高卒で佐々本モータースに入社し、今年で十九歳に なったことや、つぐみは佐々本モータースの社長である佐々本忍孝おしたかの一人娘であることや、小次郎は兄と姉と弟 がいる四人兄弟の次男坊であることを。小次郎はかなりの口下手らしく、喋っていたのは狭間ばかりで、小次郎は 相槌が多かった。横浜に来てからは歳の近い同性と出会う機会がなかったせいで妙に嬉しくなってしまい、やたらと 話しかけてしまった。気付かないところで、狭間も他人との交流に飢えていたのかもしれない。
 お喋りというには一方通行だったが。




 佐々本モータースは、元町商店街の外れにある自動車整備工場だ。
 愛歌が愛車のシビックの整備に利用しているので、バイクの修理に打って付けだろうと紹介してくれた。工場自体 はそれほど広くはなく、車は二台、バイクは四台入れるだけで一杯になってしまう。天井からはワイヤーやチェーン が何本もぶら下がっていて、車を持ち上げるためのリフトには先客が収まっていた。壁に作り付けられている棚には、 工具やスペアの部品がびっしりと並んでいる。働いている整備工は、今は小次郎だけのようだった。

「……あれ?」

 リフトで持ち上げられている車には、見覚えがある、ような気がする。だが、色と車種が同じだからといって同じ車 であるとは限らないし、と狭間が自問自答していると、小次郎は何気なく言った。

「寺崎さんのサバンナですよ。走り屋の間じゃ有名ですよ、この車」

〈また会ったな、バイト坊主! そしてドリーム!〉 

 サバンナが唸り、狭間に早々に話しかけてきた。

〈お前か、サバンナ! 丁度いい、前回のレースの決着を付けてやる!〉

 軽トラックの荷台の上で狭間のバイクも騒ぎ、ぎしぎしとワイヤーを鳴らした。

「僕は走り屋じゃないですけど、仕事が仕事ですから、色んな話を聞くんですよね」

 小次郎は軽トラックの荷台からバイクを下ろして工場内に運び入れ、改めて眺め回した。

「そのサバンナ、レース用のチューンなんですよ。だから、生半可な車じゃ渡り合える代物じゃなくて、横浜一帯の 走り屋を制したのはそのサバンナだったんですけど、無謀にも勝負を挑んだ挙句に僅差まで追い詰めたバイクが いるって話を聞いたんですよ。寺崎さんから」

 まあ話半分ですけど、あの人は大袈裟だから、と言いつつ、小次郎はレンチを使ってタイヤを外し始めた。

「はあ、そうなんですか」

 あれは俺じゃなくてこのバイクだ、と狭間は言いたかったが言えるはずもなく、言葉を濁す。

「――――んで、俺はそのバイクともう一度勝負したい。もちろん俺が勝つけどな!」

 突如響いた大声に狭間と小次郎が振り返ると、他ならぬ寺崎善行が出入り口に仁王立ちしていた。

「ぃよお、バイト坊主。アレ以来だな」

 寺崎はスカジャンを翻しながら狭間に歩み寄ってきたので、狭間は逃げ腰になる。

「どうも、御久し振りです」

「おい小次郎、そのバイク、キレたセッティングにしてやれ。でないと、ライダーの腕が鈍っちまう」

 小次郎に近寄った寺崎は、不躾に小次郎の頭を小突く。が、小次郎は意に介さない。

「それは狭間さんの注文に合わせますよ。寺崎さんのサバンナは、いつも通りにしますけど」

「お前で大丈夫かよ? タカさんに比べて、どうにも詰めが甘い気がするんだがなぁ」

「辣腕のレースメカニックだった社長と入社二年目の若造の腕前なんて、比べるもんじゃないですよ」

「もっとバキバキに攻めてくれよ、でないと全力で走れねぇ」

「文句を言うんだったら、他の工場に行ってくださいよ」

「他のところじゃ受け付けてくれないから、わっざわざ佐々本に来てんじゃねぇか」

 小次郎はまとわりつく寺崎をあしらいつつも、休むことなく手を動かしている。

「仕事の邪魔をするんでしたら、ちょっと外に出ていて下さいよ」

「ストリップよりもトルコ風呂よりも余程ムラムラすんだよ、俺の車がバラされているのを見るのはさー。そんなのを 見逃すわけにはいかねぇだろうが、解ってねぇなぁ小次郎は」

「それは解らないでもないですけど、それとこれとは別です」

「お堅ぇなぁ、社長に似てきやがって」

「作業員として当たり前のことを言っているだけです」

 狭間は工場の隅に立ち、二人の不毛なやり取りが終わるのを待ち侘びていると、奥の事務所のドアが開いて女性が 現れた。クセの強い髪をポニーテールに結んでいて、目元の吊り上がり具合がつぐみにそっくりだった。となれば、 彼女はつぐみの母親なのだろう。見たところ、二十代後半といったところか。

「あら、御客様? いらっしゃい」

「どうも、御世話になります」

 狭間が一礼すると、女性は頭を下げ返す。

「いえいえ、こちらこそ」

「うららちゃんもさぁ、もっと言ってやってくれよ。小次郎にさぁ」

 不満げな寺崎は小次郎をまたも小突くが、佐々本うららは笑うだけだった。

「生憎だけど、私は機械のことはさっぱりなの。事務は出来るんだけどねぇ。だから、機械は職人に任せておくのが 一番! 小次郎君はタカさんとは違うけど、きちんと仕上げるから、もうしばらく待っていて下さいね」

 こちらにどうぞ、とうららは狭間を事務所へと促した。事務所は狭苦しく、書類棚とスチール机と応接セットが窮屈 そうに入っていた。使い込まれたソファーに座った狭間には緑茶を、ツブラにはコーヒー牛乳を出してから、うららは バイクの修理費を見積もった。修理個所が新たに見つかれば修理費用は上がるかもしれないが、先日の臨時収入とこれまで 貯めた金で賄えそうな額だったので、狭間は徹底的に直してやってくれと頼んだ。
 ポニーテールを揺らしながら帳簿に書き込んでいるうららの肩越しに、壁に掛けられた額縁が見えた。古びた雑誌 記事の切り抜きで、デビュー間近のレーサーの名前と小さな写真が載っていた。気鋭の新人、寺崎善行。十数年分 若く、髪もあり、サングラスも掛けていない。レーシングスーツ姿の青年がカメラに睨みを利かせている。

「このレーシングチームでね、タカさんが――うちの主人がメカニックをしていたのよ。んで、あの人は腕はいいけど 気性の荒いレーサーだったそうよ。私はあの人の現役時代を知らないけど、タカさんが言うには物凄かったみたい。 世界も狙えるんじゃないかってほどに。それなのに、今となっちゃ暴走族相手に粋がるヤクザになっちゃった。人生って、 どうなるか解らないものよね」

 うららは切なげに額縁を見つめていたが、狭間に向き直って表情を取り繕った。そこで、狭間は気付いた。うらら の目線は、若かりし日の寺崎ではなく、寺崎の背後にいる男に据えられていたことに。険しい面持ちでスパナを握る 作業着姿の男が、佐々本モータースの社長である佐々本忍孝なのだろう。そして、またも気付く。
 机の上にある黒い額縁に、佐々本忍孝は収まっていた。





 


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