翌週、日曜日。 相模湖から程近い場所にあるサーキットで、狭間は出走直前の二台のポケバイとそのライダーを見守っていた。 手前のポケバイに跨っているのは小次郎で、膝当ての付いたバイク用の白と黒のレーシングスーツを身に着け、 ヘルメットを被っている。ポケバイのボディカラーは白で、なぜかパンダのステッカーが貼ってあった。奥のポケバイ に跨っているのはつぐみで、こちらも子供サイズのバイク用のオレンジのレーシングスーツとヘルメットを身に着け、 長い髪は首の後ろで一括りに結んである。ポケバイのボディカラーは青で、こちらもパンダのステッカーがタンクに 貼ってあった。タイヤとエンジンの暖気を兼ねたテスト走行を終えた二台は、スタートラインに付き、出走する瞬間 を今か今かと待ち侘びている。 エンジン音は聞こえてきても怪獣の声は聞こえてこないのは、ポケバイの排気量が50ccだからだ。タンク容量 とエンジンの耐久力の都合で、50cc以下のバイクの動力源に怪獣を使うことは出来ない。その代わりに入っているのが 怪獣の分泌液で、一度給液すると計算上では一〇〇キロ以上の走行が可能だ。 「ポケバイのレースを見るのは初めてねぇ」 狭間の傍らからコースを眺めているのは、愛歌だった。 「俺もですけど、だから車を出してくれたんですか?」 おかげで電車賃とバス代が浮きましたが、と狭間が少し笑うと、愛歌はタバコに火を着けようとしたが、火気厳禁 の看板を見つけて渋々ライターを引っ込めた。ピットではガソリンやオイルを扱うので、当然である。 「非番だから、暇だったってだけ。せっかくだから、相模湖で遊覧船にでも乗りましょうよ」 「ダカラ!」 二人の間で背伸びをしているツブラは、身を乗り出した。 「お時間を割いて御足労頂き、ありがとうございます。狭間君、愛歌さん」 「いえいえ、私達の方こそ御邪魔してしまってすみません」 「今日は御招き頂いてありがとうございます」 作業着姿の佐々本うららは、深々と頭を下げた。愛歌は礼を返し、狭間もそれに倣い、ツブラも真似した。 「寺崎さんも、ありがとうございます。うちの子達のためにサーキットを借りて下さって」 うららはもう一人の観戦者に頭を下げる。千手観音のスカジャン姿の寺崎は、二人のレーサーを見やる。 「どうってこたぁねよ、うららちゃん。小次郎の走りは暴走族の馬鹿共と違って切れ味が良いから、それを見たかった ってだけだ。つぐみちゃんも、前に見た時よりもかなり上達しているだろうしな」 「いやに親切ですね、九頭竜会の舎弟頭ともあろう御方が」 愛歌の皮肉に、寺崎は口角を曲げる。 「お気に入りには優しくすんだよ、ヤクザってのは。で、このことは他の連中には内緒だからな。馬鹿な暴走族共には 特にだ。もちろん御嬢様にもだ。このレースは俺の個人的な楽しみなんだからな!」 「承知いたしました」 寺崎の惚れ込みぶりに呆れつつ、狭間は承諾した。埠頭のレースの時に比べると寺崎の態度は雲泥の差だが、 佐々本一家とその社員はそれだけの価値があるという証拠だ。だったら、どんな走りなのか見てやろうではないか。 好奇心が湧いてきた狭間が白黒の市松模様のスタートラインを見据えると、ストップウォッチを二つ手にしたうらら がスタートの合図を送ると同時に、二台のポケバイは発進した。 四〇〇メートルのコースを十五周。原付とは少し違うエンジン音を響かせた二台はほぼ同時にスタートを切った が、少し前に出たのはつぐみだった。体重が軽いから、立ち上がりが速いのだ。すぐさま1コーナーのインコースに 入るが、カーブの曲がり方が少し不安定だった。入った時と出た時の幅が違っていた。レコードラインをなぞっている ので、小次郎もつぐみと全く同じコースを辿ったが、こちらは全く無駄のない動作でカーブを曲がっていた。続いて 2コーナー、3コーナーと続けてカーブを曲がると、緩い下り坂のヘアピンカーブが待っていた。急カーブに向かうに 連れて下っていくので、つぐみは加速しすぎたのか、かなり大きく膨らんでカーブした。つぐみがカーブで手間取って いる間に小次郎はつぐみとの車間距離を狭め、上り坂の大きなカーブを昇ってストレートに入ったところでつぐみを 抜き去った。だが、つぐみも負けてはいない。ストレートが終わって直角のカーブに入ったところでインコースに 攻め込むが、小次郎の方が技術が上だった。つぐみに追い抜かせはせず、速度も落としていない。 「もっといけると思うんだけど、今はこれが限界かなぁ」 うららは右手に持っていたストップウォッチを見、苦笑する。 「それ、なんですか」 「右のがつぐみのラップタイムで、左のが小次郎君のラップタイムなんだけど、どんどん差が大きくなっているのよ。 その原因は、コーナーに入るたびに時間をロスしちゃうから。私も昔はバイク乗りだったけど、レースのやり方までは 知らないから、タカさん任せだったの。だから、つぐみのラップタイムを縮めてやりたくても、どうやれば縮まるのか まではよく解らなくて……」 うららは狭間にストップウォッチを見せてくれたが、小次郎のラップタイムはつぐみよりも十秒以上速かった。 「小次郎の奴、期待外れだ。なんだよ、あのなまくらな走りは」 急に割り込んできた寺崎はストップウォッチを見比べたが、けっ、と舌打ちする。 「あの野郎、手加減してやがる。たぶん無意識にだ。小次郎のタイムにしちゃ遅すぎる。バイクから降りようと思った だけで、バイク乗りの勘までもなくなっちまうわけじゃねぇ。この感じだと、後半で少しずつミスをしてつぐみちゃんに 追い抜かせるつもりかもしれねぇぞ。胸糞悪ぃ」 レースが八週目を迎えると、寺崎が予想した通りの展開になった。そうすればつぐみの気持ちは収まり、小次郎も バイクに乗る踏ん切りが付く。だが、それでいいのだろうか。前半の鋭い走りから打って変わり、小次郎はコーナー に差し掛かるたびにやけに大きく膨らんで曲がっていった。つぐみは小次郎の意図を察しているのだろう、やたらと 荒っぽい走りになった。先程以上に無理矢理インコースに入り、強引に追い抜きを掛けようとするが、その度に失敗 していた。下手に気を遣えば、つぐみの怒りを買うことは小次郎も解っているだろうに。 ファイナルラップに入ると、小次郎はとうとうつぐみに追い抜かれた。いや、追い抜かせた。直角のカーブを二つ 曲がってホームストレートを駆け抜け、つぐみのポケバイがゴールラインを突っ切った。三秒後に小次郎のポケバイ もゴールラインを突っ切り、減速し、二台はコース外に出てピットに入った。 「馬鹿にするのも大概にしろ!」 エンジンを止め、ポケバイを降りてヘルメットをかなぐり捨てたつぐみは、小次郎に詰め寄った。 「なんで私を追い抜かせたんだ、そんなことしなくてもいいんだよ、小次郎が走りたいように走ればいいんだ、なのに あんなに寝ぼけた走りをして! らしくないなんてもんじゃない、腑抜けたのか!」 エンジンを止めて余熱の残るポケバイから降りた小次郎は、つぐみに背を向ける。 「少し黙ってくれ」 「約束は約束だからね、それはきっちり守ってよね!」 つぐみは怒りと興奮に任せて怒鳴り、トイレ行ってくる、と妙に力強く宣言してピットから出ていった。これは 近付くべきではない、と狭間は遠巻きに見守ることにしたが、寺崎はそうは思わなかったらしい。うららが止めるのも 聞かずに小次郎に詰め寄ると、レーシングスーツの襟首を掴んでヘルメットを引き剥がす。 「てめぇ、タマでも落っことしたのかよ!」 ドスの利いた声色で恫喝した寺崎は、小次郎に額を突き合わせて睨みを利かせる。 「それともなんだ、今ここで潰してやってもいいんだぞ、このクソガキが!」 「違います。僕の整備の腕じゃ、あれが限界なんです」 小次郎は寺崎の肉食獣じみた眼差しを臆さずに見返していたが、声はかすかに震えていた。 「僕のバイクは僕が手直ししました。でも、つぐみのバイクは社長が整備したものなんです。寺崎さんのサバンナと 形見のザッパーは、社長が整備のポイントをノートに書き残しておいてくれたから、上手く行っているだけなんです。 それ以外は全然ダメなんです。だから、あれが僕の限界なんです。走りも、整備も」 寺崎から顔を背けた小次郎は、肩を怒らせる。 「だから、僕には時間が必要なんです。走らずに歩いていかなければ、身に付かないことばかりなんです」 「だったら、最初からそう言えよ」 「言っているじゃないですか、何度も何度も。僕と社長の腕を比べるな、もっと上手く整備してもらいたかったら 他所の工場に行ってくれ、って」 「ただの軽口じゃなかったのか」 「違いますよ。僕はそんなの言えませんよ」 徐々に小次郎の声が詰まり、弱くなる。寺崎は手を緩め、小次郎を開放する。 「そういう面倒臭い性格まで社長に似てきたな、お前ってやつは」 「つぐみはその辺にいるだろうから、呼んできましょうか」 うららの言葉に、小次郎はグローブで顔を拭ってから首を横に振る。 「いえ、僕が行きます。でないと、もっと怒らせてしまうから」 若干よろめきながらも、小次郎は歩いていった。掘っ立て小屋のトイレから出てきたはいいが、戻るに戻れずに 立ち尽くしていたつぐみは、小次郎に気付いて文句を言おうとしたようだったが口を噤んだ。青年は髪が乱れている 少女と向かい合い、何度もつっかえながらも話し始めた。二人は言い合っていたが、次第に語気が穏やかになって きたので、収まるところに収まりそうだった。胸のつかえが取れた狭間は、愛歌に声を掛けた。 「それじゃ、俺達は帰りますか」 「何言ってんのよ、狭間君」 「はい?」 「ハイ?」 「カートとスーツとヘルメットを事務所でレンタル出来るみたいだから、走らなきゃ損よ! 遊覧船なんかよりも遥かに エキサイティングだわ!」 興奮した愛歌が指したのは、古いバスを塗り直して作り替えた事務所だった。確かに、カートとレーシングスーツ とヘルメットのレンタル料金が書かれた看板がある。狭間は逃げ出すが、愛歌はすかさず狭間のベルトを掴む。 「狭間君、競争しましょう! シビックもいいけど、こういうのもちょっと乗ってみたかったの!」 「俺の意志も確認してからにして下さいよ!」 「勝った方が一杯奢るのよ!」 「何をですか!」 「ラーメン!」 愛歌に引き摺られていく狭間の後ろを、ツブラがちょこまかと追いかけてくる。サーキットの周りは剥き出しの地面 なので、ツブラは小石や雑草に躓いたが、触手を器用に使って転倒を免れていた。その後、狭間は愛歌に言われる がままにカートに載せられ、愛歌とレースをする羽目になった。ついでに消化不良に陥っていた寺崎も乱入してきた ので、当然ながら寺崎がぶっちぎりで勝った。狭間も愛歌も、寺崎のテイルに喰らい付けもしなかった。 慌ただしい休日の締めは、相模湖畔の食堂のラーメンだった。 後日。 狭間のバイクの整備が一通り終わったので見に来てくれ、と学校帰りのつぐみに催促された。その日のヲルドビスは 客の数が多く仕事を抜けられなかったので、閉店後に佐々本モータースを訪れた。工場のシャッターの隙間から明かり が漏れていたが、中は静まり返っていた。シャッターの脇にあるドアから入ると、ぴかぴかに磨き上げられたドリーム が待ち構えていた。塗装も綺麗に塗り直してくれた上に、ワックスも掛けてくれたようだ。 「この前は見苦しいところをお見せして、すみませんでした」 作業着の上半身を脱いでいる小次郎は、照れ臭そうに顔を歪めた。 「夜も遅いので、走行テストはまた今度ですね。そこで不具合が見つからなければ、御引渡しいたします。こちらが 請求書になりますので、お納め下さい」 つぐみがうやうやしく差し出してきた請求書を受け取って、狭間は苦い顔をした。予算よりも少しだけオーバーして しまっているが、走行中の安全には変えられない。請求書をきちんと折り畳んで財布に入れてから、狭間は工場の片隅に 並ぶ二台のポケバイに目をやった。オーバーホールするのか、徹底的に分解されている。 「勝負はお預けです。僕の整備の腕前が上がってから再戦して、その時に決着を付けることにしました」 「だから、今は小次郎がバイクに乗っても乗らなくてもいいってことです。でも、その時は私が勝ちますけどね」 衝突を経て小次郎とつぐみが見出した答えは、実に二人らしいものだった。アパートに帰りたがるバイクを宥めて やってから、狭間は佐々本モータースを後にした。ツブラは奇妙な擬音を発しながら駆け出していったので、狭間は 慌てて追いかけて捕まえた。恐らく、ポケバイの真似なのだろう。手を繋いでいるとまた駆け出していきそうなので、 少女怪獣を肩車してやってから、狭間は夜の帳に包まれた帰路を辿った。 〈人の子。どうやら俺は思い違いをしていたようだ〉 地を這うように忍び寄ってきた声色は、ザッパーだった。 〈俺はお前を人と怪獣の仲介者だと認識していた。仲立ちするからには、両者を凌ぐ能力を持ち、双方からの圧力に 負けない精神を持っていると思い込んでいた。だが、そうじゃなかった。本当に! 何も! 出来ないんだな!〉 「強調しなくてもいい」 〈お前のバイク――ドリームと話し込んで、よく解った。買い被り過ぎていた。すまなかった〉 「解ってくれたんなら、もういいよ。他の怪獣にもそう言っておいてくれ」 〈でないと、俺みたいな怪獣がまた現れるかもしれないもんな。善処してみるさ〉 「ああ、よろしく」 ザッパーの申し訳なさそうな声に返しながら、狭間は顔をひきつらせた。狭間が超人的な人格と能力を持っている 人間だと頭から決め付けていたのでは、ザッパーの態度が悪くなるわけだ。きっと、どこぞの怪獣が狭間について いい加減な情報を流していたからだろう。でなければ、あそこまで強烈に思い込むわけがない。これで、怪獣達の 狭間に対する認識が改められればいいのだが。 等間隔に並ぶ街灯を頼りに進んでいたが、全く別の光源が現れ、狭間とツブラの影が拭われた。梅雨入り間近の 夜気が凍り付き、足首から上へと鳥肌が立った。その正体は、最早考えるまでもない。狭間とツブラが振り返ると、 舗装が荒い道路に降り立った光源を捉えた。体格は人間よりも一回り大きく、有翼で光の粒子を纏った光の巨人 は一人と一匹を部品のない顔で見下ろした。かと思いきや、体を反転させ、佐々本モータースに向いた。 「ツブラ」 「ウン」 狭間はツブラの被っているカツラとサングラスを外してやると、ツブラはすぐさま触手を躍らせた。人間大の一体 であれば、巨大化せずとも対処出来る。赤く細い触手は光の巨人を戒め、翼を砕き、首をねじ切り、裾の長い服の ような部位を切り裂いた。光の巨人は最後に残った右腕を高く掲げ、何かを乞うような仕草をしたように見えたが、 気のせいだろう。光の巨人は怪獣とも人間とも動物とも根本的に違う、自然現象のようなものなのだから。 人間のような形をしているから、人格があると思い込んでしまうだけだ。 14 6/18 |