横濱怪獣哀歌




闇ト共ニ在リヌ



『諸事情により、休業致します。 店主』
 そう書かれた張り紙がドアに貼り出されてから、二ヶ月も過ぎただろうか。狭間真琴はカーテンが閉ざされた窓 から店内を覗いてみるが、昨日と何も変わっていなかった。真琴は時折店内を掃除しているが、人の出入りがないので 空気が淀んでいて、コーヒーの香りも途絶えて久しい。中の様子を窺うが、静まり返ったままなので、今日もやはり 海老塚甲治は帰宅していないようだ。ヲルドビスの中だけは、時間が止まったかのようだ。
 兄も愛歌も、そして海老塚もいなくなってしまった。両親が船島集落の温泉街ごと消え去った時に感じた空虚感と 同等か、いや、それ以上かもしれない寂しさに襲われ、真琴はその場に立ち尽くした。聖ジャクリーン学院に登校 すればクラスメイト達がいるし、仲良くなった男子生徒もいるし、彼らは真琴に親しくしてくれるが、それだけだ。 真琴も彼らに対しては気丈に振舞えるが、こうして一人になってしまうと、呆気なくメッキが剥がれる。どれだけ 背伸びをしても、所詮は十七歳の子供に過ぎないのだと思い知らされる。

「別に、いいか」

 今日ぐらいは学校に行かなくても、どうということはない。授業にはすぐ追いつける。

「いいよな」

 一人きりになった方が余程寂しいじゃないか、学校に行った方がいい、と思いはするが、どうしても足が校舎へ は向かなかった。真琴は化石の如き喫茶店に背を向けると、歩き出した。街の様子が穏やかなのは、桜木町一帯 で抗争を繰り広げていた裏社会の住人達が鳴りを潜めているからだ。
 九頭竜麻里子とジンフーの結婚式は荒れに荒れ、挙句にエレシュキガルが現れ、更には光の巨人が現れ、ツブラは その両者と共に姿を消した。兄の真人はその際に重傷を負い、帝国陸軍に保護されたとのことだったが、それから 連絡が取れなくなった。海老塚は兄に会いに行ってくると言ったので、手紙を預けたが、ちゃんと届いたかどうか は解らない。海老塚がいなくなる前日にヲルドビスを訪ねてきた九頭竜会の幹部によれば、九頭竜総司郎もジンフー も瀕死の重傷を負っていて、どちらも構成員を半分近く失ったそうで、新妻となったばかりの九頭竜麻里子も首を 帝国陸軍に奪われたのだそうだ。だから、今、九頭竜会も渾沌も争っている場合ではないのだ。
 ――――なんて嘘臭い話だろうか。どれもこれも現実離れしていて、地に足が付いていない。いっそのこと、全部 作り話だったら、どれだけ気が楽になるだろうか。兄も両親も愛歌も海老塚も書き割りの裏側に引っ込んだだけで あって、ヲルドビスは舞台上に造られた張りぼてで、皆は演者だ。怪獣達も着ぐるみで、中には人間が入っていて、 与えられた役割を演じているだけに過ぎない。真琴もそのうちの一人だが、主役にはなれないのだ。それでも、舞台 の幕が下りれば寂しさや辛い気持ちからは解放される。しかし、そんな幕はどこにもない。
 だから、苦しみを味わうしかない。暗澹とした心中が足の動きを鈍らせ、真琴は俯き加減になった。図書館に でも行こうか、いや、読みたい本は大体読み尽くしてしまった。映画館にでも行こうか、いや、現金は少しでも 多く温存しておいて生活費に回すべきだ。海でも見に行こうか、見てどうする。誰かを誘って盛り場で遊ぼうか、 いや、平日の真昼間にそんなことをすれば補導されかねない。
 不良の真似事をする度胸はないが、半端な時間から登校して悪目立ちする勇気もなく、真琴はふらふらと歩いた 末に兄と愛歌が住んでいた安普請へと至った。手狭な駐車場には二人の愛車が停まっていて、大人しくしている。 一階の住人である一条御名斗も結婚式でひどい傷を負ったそうで、フォートレス大神に戻ってきた気配はなく、 郵便受けに突っ込まれている新聞が溢れ出して山と化していた。放火でもされると面倒なので、真琴は新聞の山を 抱えてから二階に上ると、二人の部屋も同じ有様だった。やはり、まだどちらも帰っていない。

「全く……」

 真琴は通学カバンを探って合い鍵を取り出し、錠前を回すと、難なく開いた。ドアを開いて二軒分の新聞の 山を放り込んでから、鍵を閉めた後に窓を開けて空気を入れ替える。窓際には、兄が頻繁に吸っていた安物の タバコの吸い殻が詰まった灰皿があり、愛歌が飲んでいた安酒の空き缶が台所に残されている。ハンガーには 趣味の悪いスカジャンと派手な色のシャツが掛けられていて、結婚式に出席するためにスーツに着替えた際に 脱ぎ捨てたジーンズがそのままの形で残っている。
 今日こそ片付けなければ、と思うが、どうしても触れない。兄と愛歌が生きていた痕跡、ここにいた証拠をなくして しまうような気がするからだ。結婚式の二週間前の作戦会議で筆談に使った広告紙も、ゴミ箱の中から拾い上げて しまった。そんなことではいけない、とは思っても、身を切るような寂しさには勝てない。
 テレビもラジオも付けず、制服も脱がずに、真琴は毛羽立った畳に寝転がって天井の木目を数えた。子供の頃、 実家でもよくそうしていた。兄とは違って体がそれほど丈夫ではなかったから、頻繁に熱を出しては寝込んでいた。 熱が下がると退屈になるから、こうして天井を見上げてはぼんやりと色々なことを考えていた。取り止めのない言葉 を思い浮かべては繋げ、繋げては切り離し、意識を半端に手放す。
 兄に対する複雑な感情もまた、浮かんでは消え、緩んでは形になる。肉親として大事に思っているし、思われて いるとも知っているが、たまらなく疎ましくなる瞬間がある。妙な体質に生まれついた兄の苦しみは解るようでいて 解らないが、解りたいとは思わない。あれほど魅力的なのに愛歌に対して一切の劣情も抱かないのは許しがたく、愛歌 ではなく触手まみれの幼い怪獣に惹かれていることもまた無性に憎らしかった。もっと自分に関心を持ってほしい、 と兄に言いたくても言えないのは、情けなくてどうしようもないからだ。
 ああ、煩わしい。




 ――――ねえさま。
 ねえさま、ねえさま、ねえ、ねえさま。
 からころと下駄を転がしながら、華やかな着物を着た少女の背を追いかけていく。同じ身の丈で、同じ髪の長さ で、同じ顔で、同じ声の、同じ血を引くねえさま。ねえさましかいない。ねえさまの他には、大きくて怖い大人達と、 冷たくて硬い怪獣達しかいない。だから、ねえさまがだいすき。ねえさまも、きっとそうだと思っていた。

「……ねぇさま」

 けれど、そうではなかったのだ。

「ねえさまぁ」

 怪獣達と繋がるために、怪獣達を操れるようになると大勢の人に喜んでもらえるから、怪獣達と通じ合えれば 御父様にお会い出来るし、御母様にもきっとお会い出来るし、偉いね良い子だねと褒めてもらえる。御褒美に甘い 飴玉を頂いて、ねえさまと一緒に食べるのだ。いつもは苦い薬や味のしない御飯ばかりを頂いていたから、甘いもの はとても尊くて、愛おしくて、嬉しいものだから。だから、分けっこしていたのに、ねえさまは独り占めした。
 二十三年前。第三次世界大戦の真っ只中。レイテ島沖での戦闘で大損害を受けた帝国海軍と共に、怪獣使い見習い、 綾繁かなしは本土に帰還しようとしていた。怪獣が思うように操れなくて、戦艦が次々に沈んでいき、 艦載機が次々に落とされていき、兵士達があっという間に死んでいった。怪獣使いの加護を受けられることを尊び、 うちの怪獣使いは娘と同い年なんだ、俺の妹もそうだ、と言って悲の身の上を憐れんでくれた、優しい男達が次々に 血を流して死んでいった。砲撃を浴びて吹き飛び、機銃掃射で消し飛び、燃え盛る戦艦と運命を共にした。
 怪獣達もまた、砕け散っていった。いかに頑丈な怪獣達といえども、連合国軍の護衛空母から発進していった 数百もの艦載機が投下する爆弾には勝てなかった。ネバダ級戦艦の凄まじい砲撃の前では成す術もなく、光線砲 もネバダ級戦艦の頑強な装甲を貫けなかった。皆、皆、皆、死んでいった。

「にいさま」

 にいさまだけは死なないでほしかった。生き延びてほしかった。西洋人の青年、枢軸国軍魔術少尉。白い肌に茶色 の髪に灰色の瞳の青年は、英霊となった者達のために祝詞を上げ続けていた悲に寄り添ってくれ、母国の言葉で 祈ってくれた。それは魔法であり、時に子守歌にもなった。
 砲火が落ち着くと、にいさまは祖国の話をしてくれた。大きな御屋敷、立派な御爺様、優しい御父様、凛とした 御母様、活発な弟様。そして、長年御家に仕えてくれている使用人の御話だった。にいさまの御家の使用人の 御方は、真日奔の殿方とにいさまの祖国の御令嬢が御結婚されて御生まれになったが、殿方の御父様がどうしても 御母様をお許しにならなかったので離縁され、殿方は御一人で我が子をお育てになったが、殿方は上位軍人であった ので戦地に向かわれた。だが、再び祖国の土を踏むことは出来ず、残された御子様はみなしごとなってしまった。 そこで、にいさまの御爺様が御子様を引き取られてお育てになった。それからずっと、戦争が起きるまでは、皆は とても幸せに御暮しになっていた。けれど、戦争が起きたから、にいさまの御家族は英霊となった。

 ――カナはしあわせにおなりよ。

 ――わたくしはしあわせです。おくにのためにはたらくのが、かいじゅうつかいのしあわせなのです。

 ――カナは怪獣使いではないだろう。御名玉璽を頂いていないではないか。それなのに、カナは。

 ――ねえさまもいただいておりませんが、きょうもたくさんのてきかんをしずめられました。

 ――そりゃ嘘だ。

 ――ていこくかいぐんのでんれいがかりがうそをおっしゃるはずがありません。

 ――かなし様の艦隊は、とっくの昔に本土に帰還なすったんだよ。絶対国防圏も脅かされている。

 そう言ったにいさまの目は、ひどく悲しげだった。それからしばらくして、悲の乗った改秋月型駆逐艦は硫黄島の 援護に向かったが、連合国軍の足止めを喰らったせいで到着が遅れ、辿り着いた頃には戦況は最悪だった。それ でも成すべきことをしなければと悲は力を奮い起こしたが、六歳の体で無理に無理を重ねて怪獣を操っていたため、 倒れた。御父様から頂いた薬も効かなくなり、上から下から血やら何やらを垂れ流し、身動き一つ出来なくなった。 にいさまは立派な軍服が汚れるのも厭わずに悲を抱き締め、祖国の言葉で謝ってきた。にいさまに抱き締められる のは嬉しくて、誰かに触れられるのはなんだかくすぐったくて、苦しいのに心地良かった。
 それからしばらくして、護国怪獣が目覚めた。けれど、魔法使いのにいさまの力では目覚めさせるだけで精一杯で、 目覚めさせても操れず、鎮められないほどの怪獣だった。だから、護国怪獣は敵も味方もなく暴れた。にいさまの 御命を喰った護国怪獣は硫黄島と兵士達を守り抜いたが、荒ぶり、本土をも焼き尽くそうとした。
 悲はにいさまの気持ちを無駄にはすまいと死に掛けた体を奮い起こしたが、それが最後だった。護国怪獣を鎮めた のはねえさまであると知ったのは、一度死んだ肉体を闇の中に放り込まれ、失った命の代わりに闇をたっぷりと吸収 して人ならざるものとして蘇った後だった。にいさまは護国怪獣と共に果て、英霊となった。

「にいさま」

 崩れかけた体を闇で繋ぎ止め、愛歌は声を殺して泣いた。

「カナは幸せにはなれません」

 にいさまの手柄を独り占めにしたのは、ねえさまだった。それが悔しくて悔しくて悔しくて、闇を受け入れた。 にいさま――――シュヴェルト・ヴォルケンシュタイン魔術少尉の栄誉を取り戻すまでは、姉をクル・ヌ・ギア の深淵へと引き摺り下ろすまでは、膝を折れない。死んだ男のために体を張るのは、どれほど愚かしいことか。 幼い頃にただ一度抱き締められただけで、人ならざる身と成り果てても尚執念を燃やすのがどんなにも馬鹿げて いることか、解っている。解っているが、復讐心と執念がなければ心身を保てない。

「カナは、頑張っております」

 もう一度だけ、にいさまに会いたいから。だから、それまでは拒み続けていたエレシュキガルを受け入れ、闇の 力を解き放ち、力を増すために恨み辛みと命を吸い取った。そしていずれエレシュキガルと同化し、クル・ヌ・ギア の奥深くへと沈めれば、英霊となったにいさまがいるはずだ。

「馬鹿ね、そんなわけないのに」

 死者は死者でしかないというのに。彼に執着せず、短い間ではあったが真っ当な人間として生きられた幸福を噛み 締めながら、身を引くべきだったのに。シャンブロウの卵など見つけ出さなかったら、天の子たるシャンブロウを利用 しようなどと思わなければ、遠い昔にエレシュキガルが仕組みを狂わせた光の巨人をも利用し、横浜一帯と綾繁家を 脅かそうなどと考えなければ、薬も毒も使わずに怪獣と通じ合える青年の好意を利用しようと画策しなければ。どこか で躊躇っていれば、こうはならなかった。だが、もう引き返せない。
 血を分けた姉であり、綾繁家の家督を継いで名をさだめと変えた哀を怪獣使いの長の座から失墜させ、御名玉璽 を奪い取らなければ。そのために、曲がりなりにも妹である枢を利用するのは少しばかり気が引けた。だから、狭間と 怪獣達が枢を印部島から逃がしてくれて、心のどこかで安堵していた。自分はまだ人間だからそんなことを思ってしまう のだという嬉しさと、そんなことを気にしていたら何も成し遂げられないという不甲斐なさが胸中で渦巻いた。
 エレシュキガルが光の巨人とツブラによって火星に飛ばされてしまったことで、愛歌の内に宿る神話怪獣の力の 大半は失われたが、怪獣使いの祝詞と神話怪獣の歌を組み合わせた歌で怪獣を暴走させられるという術はまだ 残っている。だが、あれは何度も使える代物ではない。怪獣の心身を揺さぶる歌は、人ならざる体となった愛歌の 体も蝕んでくる。もう一度あの歌を使えば、ただでさえ不定形な体は完全に溶けてしまうだろう。それでも、 やらなければならない。引き返せないのならば、突き進むしかないのだから。

「とりあえず、ここから出ないと」

 三ヶ月もの間、愛歌は下水道の住人と化していた。他に行く当てもなく、姿を隠す場所が他に思い付かなかった からである。怪獣になってからは飢えも乾きもなくなったので、空腹に見舞われる心配はなかったが、食欲を失って しまったのは少々物寂しかった。汚水と汚物の匂いが体の隅々まで染み付いていて、闇の分子の一粒一粒も穢れていて、 風呂に入っても洗い流せるものではないだろう。にいさまに会う時は綺麗にしたいな、と内心で恥じらいながら、 愛歌は闇に溶けていた肉体を一纏めにして、肉体と呼べそうな形に作り直した。
 頭と上半身はそれらしい形に出来たが、下半身をまとめられるほどの余力もなく、仕方ないので裾の長いドレス のように闇を引き延ばして下半身を覆った。触手ですらない不定形な形状の下半身は女のそれとは言い難く、愛歌は そっと裾を戻した。女ですらなくなったが、きっと誰にも抱かれやしないのだから、気にすることもない。
 目指すは、横浜駅だ。





 


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