恋歌の指示により、トライポッドは横浜駅の傍を流れる帷子川を目指した。 操縦しろと言われた時は面食らったが、やってみるとそう難しいものでもなかった。トライポッドの中身は内臓を 摘出された昆虫の如しで、操縦席に当たる座席も外骨格の内側を削り出して作られたものだった。窓はないが、内壁 の至るところにある結晶体が外の景色を映し出してくれた。肝心要の操縦方法は、座席にくっついているジェル状の クッションと同じ素材のジェルが詰まっている筒に手を入れて、指を動かすと、トライポッドの進行方向や高度が 思い通りに操れた。要領を掴んでしまえば、こっちのものだ。 問題は、どうやって光永愛歌を相手にするか、ということだ。相手は人間ではなくなったとはいえ、ついこの前まで は人間として振舞っていたのであり、親しい間柄でもある。場合によっては攻撃しなければならないだろうが、軍人 でもなければヤクザでもない真琴にはそんなことは出来ない。ケンカだってろくにしたことがないのだから。しかし、 クル・ヌ・ギアへ通じる闇を自在に操る愛歌を放っておけば、今後も何十何百もの人間の命が吸われるだろう。それを 止められるのは、今、真琴だけだ。そう思うと、功名心のようなものが疼いてきた。 トライポッドが横浜駅に接近するにつれ、警報が聞こえてきた。さすがに今度ばかりは軍も市民を退避させないわけ にはいかないらしく、横浜駅から止めどなく吐き出されてくる人々を警官と駅員が誘導していた。皆、怪獣の襲来だと 思い込んでいるのか、悲鳴を上げながら我先にと逃げていく。男達は荒々しく人波を掻き分け、女達は髪を振り乱して 化粧も崩しながら必死に前進し、何人もの子供が親とはぐれて泣き叫んでいる。その有様に、真琴は今し方感じた妙な 下心が萎んだ。俺は一体何をやっているんだ、ただの悪党じゃないか、と我に返る。 だが、ここまで来て引き返せない。真琴は極度の緊張に襲われ、三杯も飲んだコーヒーが喉の奥に戻ってきそうな 感覚に見舞われたが、男の意地で飲み下した。ぐにゅりと筒の中のジェルを握り締め、両足を踏ん張る。真琴の拙い 戦意に呼応し、横浜駅近隣に意識を向けると、結晶体の映る景色も拡大された。そのうちの一つは温度を視認 出来る画面に変化しており、ガス玉怪獣を使っている飲食店街は全体的に温度が高いので真っ赤に染まり、日陰や 川面は紫から青に染まった。エレシュキガルが出現する際、急激に周囲の気温が下がるということは真琴も 知っている。となれば――――あそこだ。 画面の中で最も黒い一点、つまり最も温度が低い場所を拡大させる。集中し、集中し、それでも拡大しきれない ので真琴は目頭が鈍く痛むほど目を凝らした。その甲斐あって、目標を明確に捉えられた。下流故にのったり とした流れの帷子川の上に掛かる、東海道本線の橋梁の下にそれは潜んでいた。影の凝固物でしかない彼女もまた こちらに気付いていて、真っ直ぐ見据えてきた。と、同時に闇が暴れ出した。 「うっ!?」 思わず、真琴は身を引いた。光永愛歌と思しき物体が橋桁から外界に出てきた途端、彼女が纏っている影から 土石流の如く闇が噴出した。それは質量を持つ川にも影響を及ぼし、緩やかな流れが一変して大荒れとなり、闇が 混ざった水は猛烈な勢いで水位を上げていく。このままでは、甚大な被害が出る。――――ならば。 トライポッドが火星の産物だというのなら、火星怪獣の成れの果てというのなら、火星由来の力に触れられる はずだ。浅はかな願望でしかなかったが、それに賭けるしかない。真琴は筒の中で指を広げてから手首を捻ると、 トライポッドは蛇腹の三本足を渦巻かせ、推進装置の火力を落として浮力を弱めた。その態勢のまま急降下して 帷子川に突っ込み、闇と川の水をたっぷりと浴びた。火星怪獣の粘膜と皮膚を繋げているからか、真琴は指先から 体温を抜き取られたような感覚に陥って、身震いした。トライポッドを通じて触れただけでもこれなのだから、戦闘 をあまり長引かせると命に関わる。即死は免れるがダメージは防ぎきれない、ということだ。 真琴は再度指を曲げ、三本足のうちの二本を高く振り上げる。残りの一本と浮力だけで立っていなければならない のは辛いが、これといって攻撃手段がないのだから仕方ない。狙うは、闇を解き放った愛歌の本体だけだ。一撃で 済むことを祈りながら、真琴はトライポッドの二本の足を鞭のようにしならせて振り下ろし、叩き付けた。その際、 東海道本線の橋桁に先端が引っ掛かり、コンクリートが砕けてしまった。視界を拡大させ過ぎて距離感を見誤った せいだった。もう一方の足が水面を真っ二つに割った瞬間、猛烈な衝撃と痛みに気が遠くなり、真琴は悲鳴にすら 至らなかった掠れた吐息を散らした。これは、どういうことなのだ。 「あー、言い忘れていたけど。まこちゃんはトライポッドを一度だけ操れるけど、それはトライポッドがまこちゃん のことを火星怪獣だと認識しているからであって、ズブの素人のまこちゃんが操縦するには神経を接続させてする しかないわけだから、痛いのもきついの全部返ってくるから。ごめんねー」 しれっと笑う恋歌に、真琴は激痛から生じた脂汗を顎に伝わせながら吐き捨てた。 「……先に言って下さいよ!」 要するに、今は真琴自身がトライポッドであるというわけだ。何の代償もなしに力を得られるわけがない。そんな もの、兄の人生を目の当たりにしていれば嫌というほど思い知る。真琴から見て右側の足が右腕、左側の足が左腕 と直結しているのか、右側の足を橋桁に引っ掛けた際の衝撃で、右手中指の爪が割れたらしく物凄く痛かった。 痛いが、痛すぎて逆に頭が冴えてくる。クル・ヌ・ギアに対抗出来るのは光の巨人とシャンブロウしかいなかった、 クル・ヌ・ギアを塞ごうとすれば逆に飲み込まれる。生者が触れれば命を吸われ、死ぬだけだ。 つまり、これは元より勝ち目のない戦いだ。恋歌はそれが解り切っているから、真琴を火星怪獣に乗せたのだ。 両手を筒からぬるりと引き抜いた。神経接続を外すと痛みも寒気も遠のき、割れたばかりの爪からは生温い血が 垂れ落ちていた。傷を見た途端に痛みを自覚し、真琴は涙目になる。ずきずきと中指の爪が疼き、指先から手の甲 に血が流れていく。その抗いようのない激痛が、淀んだ思考を晴らしてくれた。 「真っ当に戦おうとするから馬鹿を見るんだよ」 試しに座席から背中を外してみると、更に神経接続が切れ、トライポッドは活力を失って降下した。制御を失った 三本足は虚空を切り裂いていたが、胴体が闇混じりの水に着水すると大人しくなった。恋歌の口車と場の雰囲気に 乗せられて、トライポッドで愛歌と戦うつもりになってしまったが、その必要はどこにもないのだ。大体、真琴は 愛歌当人にも怪獣使いにも恨みもなければ因縁もないのだから。 そもそも、真琴が兄に近付こうとする意味もない。そう気付いた瞬間に、下らない執着心が瓦解した。兄が 鳳凰仮面が振り翳す正義に少年じみた憧憬を抱いているように、真琴も人ならざる者達と通じ合える兄に羨望を 抱くがあまりに疎み、冷ややかな態度を取ってばかりいた。だから、真琴を特別扱いしてくれる恋歌が、恋歌との 出会いという秘密を真琴に与えてくれた彼女の言うことを妄信していた。けれど、それこそが最大の過ちだった。 真琴を揺さぶり、同情させるような態度を取り、実の妹を殺させようとするような女がまともなものか。そして、 そんな女にそそのかされて火星怪獣に乗った自分も正気ではない。けれど、一線を越えずに済んだ。 「まこちゃん、どうしたの? ねえ、どうして止めちゃうの?」 恋歌は真琴を引き留めようとするが、真琴はその手を払う。恋歌はいかにも傷付きましたというような顔を したが、そんなものを見せられても、心は動かない。 「そんなにあの人と戦いたいなら、自分でどうにかして下さい。だって、あんたは怪獣なんでしょう?」 恋歌が止めるのも聞かず、真琴は右手を庇いながら狭い通路を這い上がり、ハッチを開けてトライポッドの外に 出た。秋めいてきた冷たい潮風が吹き付けて、脂汗と火照りを冷ました。恋歌が出てくる前にハッチを閉めてから、 真琴は橋桁の下に隠れている愛歌に向き直った。戦う前に双方の言い分を聞いてみなければ、無駄な血を流して しまいかねない。実際、ちょっと流れてしまったのだが。 「愛歌さん!」 トライポッドに血の滲む右手で触れて少しだけ前進させながら、真琴は声を張り上げる。闇の中から、目の覚める ような鮮やかなピンク色の髪と白い肌を備えた人影が浮かび上がってきたが、上半身だけだった。下半身は裾の長い ドレスのような形状に変化しているが、やはり闇と一体化している。愛歌は真琴と向き直ると、強張らせていた表情 を僅かに崩したが、白い手を握り締めて堪えた。 「まこちゃん……そんなもので何をしに来たの」 「何も」 真琴は恋歌が出てこないかどうかを気にしつつ、愛歌に語り掛ける。 「俺は兄貴みたいになろうとしちゃったんですけど、でも、俺はやっぱり俺でしかなかったんです」 自覚しただけ。真琴は警戒心で怯えを隠している愛歌を見つめ、左手でスラックスを 千切れそうなほど握り締めた。愛歌もまた真琴と同じように、血を分けた相手に近付こうとするがあまりに、自分を 追い込んでしまった。だから、他人事ではない。 「愛歌さん。あなたのシビックの中にいたのが誰なのか、知っていますか」 「あの子は普通の動力怪獣で、誰でもないわよ」 決意を揺らがせまいと意地を張る一方で、誰かに止めてもらいたいという気持ちが残っているのか、愛歌は橋桁 の下からおずおずと顔を出した。真琴は愛歌に出来るだけ近付こうとするが、クル・ヌ・ギアに触れすぎたせいで トライポッドが恐ろしく冷たくなってしまい、真琴は仕方なく手を離した。当然ながらトライポッドも動きを止め、 三本足も弛緩してしまった。真琴は冷え切った手のひらを尻に擦り付けてから、白い息を吐く。 「じゃあ、知らなかったんですね?」 「馬鹿にしないでよ、私は全部知っているわよ! 私はにいさまの栄誉を取り戻すために、にいさまにもう一度 会いたいから、エレシュキガルもクル・ヌ・ギアも受け入れたんだから!」 にいさま。それが愛歌の行動理念の芯であり、きっと初恋の相手だ。真琴は心臓が疼いたが、顔には出さない ように努力した。彼女の思い出に張り合ったところで、どうにもならないのだから。 「シビックの中にいたのは、愛歌さんの」 最後まで言い切れなかったのは、足を滑らせたからだ。足が冷えすぎたからではない、空間の歪みから生えて きた手が真琴の足を掴み、帷子川へと放り投げたからだ。視界がぐるりと巡って上空に向き、夕焼けに染まった空と ビル群と橋桁とトライポッドと闇と闇と闇と闇が迫ってくる。 あ、これは死んだな、死後の世界は火星だそうだけど火星に行ったらツブラに会いに行こう、でもって兄貴が どれだけ恋しがっているのか教えてやろう、両親も探しに行こう、船島集落の住民達も、ああでも今度のテストが あるんだよな、出席日数足りないから進級するには勉強頑張らないと、だけど死んじゃったらどうでもいいか、などと真琴は 長ったらしい走馬灯を見ていると、背中に何かが激突した。と、同時に布状のものがまとわりついた。それが何なのかを 視認する前に布が伸び、橋梁の端に引っ掛かって落下を防いでくれた。真琴は恐る恐る自分の手を見ると、金色の手袋 が填まっていた。視界がいやに暗くなったのでメガネをよく見てみると、サングラスに変わっていた。その上、首には七色 のスカーフが巻いてある。この格好はもしや、だが、しかし。 「鳳凰仮面!?」 思い出すまでもなく、愛歌がその名を叫んでくれた。真琴、否、鳳凰仮面三号は状況を全く理解出来ないまま橋桁に 昇ると、安堵した。が、またも背後の空間が歪んで背中を押されたが、この格好をしていると通常の数倍の筋力が発揮 出来るらしく、少しつんのめっただけで済んだ。そればかりか、動作も素早くなっている。すかさず振り返り、空間の 穴から伸びてきた手を掴んで引き摺り出し、放り投げた。 「今までのお返しだ、恋歌さん!」 闇の川へと落下する寸前、恋歌は舌打ちした。それでも空間を歪めて脱しようとしたので、鳳凰仮面三号は橋梁の 破片を投擲した。真琴の運動神経の鈍さを鳳凰仮面の衣装が存分に補ってくれたおかげで、コンクリートの破片は 恋歌に命中した。額を割られながら首を逸らした恋歌は、呪詛を吐いたが、どぶんと闇に没した。 「あの、愛歌さん」 鳳凰仮面三号は腹這いになって身を乗り出し、呆気に取られている愛歌に問い掛けた。 「今、俺が着ているのって、たぶん怪獣だと思うんですけど」 「あ、う、うん。そう。狭間君がまとわりつかれちゃった、縫製怪獣グルムっていう怪獣で、それを身に着けていると 身体能力が恐ろしく跳ね上がるんだけど、どうしても脱がせてくれない怪獣で……」 そう話す愛歌は、怪獣Gメンの顔に戻っていた。鳳凰仮面三号はサングラスと化したメガネを引っ張ってみると、 メガネにまとわりついて色を黒くさせている半透明の物体がするりと解けたばかりか、顔を覆っている覆面も簡単に 外れた。ということは、兄にまとわりついた際に散々な目に遭わせたが、兄とツブラから叱り飛ばされたから、怪獣 なりに改心したのだろう。そのおかげで命を救われるとは、思ってもみなかった。 「あれっ!?」 愛歌も意外だったのか、声を裏返す。真琴は頭を覆うターバンも外し、乱れた髪を整える。 「積もる話があるのでお話ししたいんですけど、ここじゃ落ち着かないんで移動しませんか」 「え、そうだね、うん、げ、下水道でよかったら」 「上等です」 トライポッドを動かすという大騒ぎを起こしてしまったのだから、警察か軍隊に見つかればただでは済まない。 面倒事を避けるためにも、今は逃げなくては。真琴は覆面を被ってメガネを掛け直し、再び鳳凰仮面三号と化すと、 深呼吸してから川面に身を投じた。誰も彼も自分こそが 正しいと信じていて、それが間違っていると自覚しながらも正しさを肯定するために行動しているのだから、真琴 もそうしてしまえばいいのだ。愛歌の愚行は決して擁護出来ないし、彼女の初恋の相手には絶対に勝てないだろうが、 恋歌に乗せられてしまい、愛歌を殺そうとしかけた償いをするのは許されてもいいはずだ。 「愛歌さん、トライポッドをクル・ヌ・ギアに入れられますか? あれを放っておくと色々と面倒なので」 整備点検用の狭い階段に飛び降りてから、鳳凰仮面三号は愛歌に頼んだ。愛歌は少し考えた後、闇のドレスの 裾をぶわりと広げた。その中にはあるべきものがなく、肉付きの良い足の代わりに触手じみた闇がうねっていた ので、鳳凰仮面三号は苦いものが込み上がってきた。愛歌は少年の視線が逸れたことに気付き、恥じらう。 「……ごめんね」 「いえ」 気にしませんから、と言えなかったのが情けなかった。鳳凰仮面三号は胸元をぎちりと握り締めて、薄闇を纏った メガネ越しに愛歌の仕事を見つめた。闇の操り方については知っているようで知らなかったので、観察していると 色々なことが解ってきた。ただ闇雲に闇を広げているのではなく、愛歌はこちらの世界の影や暗がりを吸い取って 闇を濃くしてから、目標の物体を飲み込んでいるようだった。なので、トライポッドを飲み込むためにはそれ相応 の深さの闇が必要となるらしく、影という影を吸い込んでから川面に広げ、トライポッドを捕らえた。 「うっ、ぐぁっ、は……っ、あっ! ちょっと、これはさすがにきついかもぉっ……」 悩ましげな声を漏らしながら、愛歌は身を捩る。川面を満たした闇でトライポッドを包み込んだはいいが、質量が 大きすぎて上手く引っ張り込めないらしい。苦しげに眉根を寄せて唇を震わせる愛歌の横顔に、鳳凰仮面三号は体の 芯が疼いてしまい、気まずくなって視線を外した。 少しの間の後、愛歌は上流側に広げた闇から質量が多い物体を吐き出してから、改めてトライポッドを飲み込んだ。 愛歌が操れるクル・ヌ・ギアの範囲には制限があるのと同様に、中に収めておける容量にも制限があるので、今まで に入れたものを出してしまえばトライポッドを入れられる、とのことだった。エレシュキガルと一体化していた時は 火星に直結していたが、エレシュキガルがいなくなったので出口が塞がれてしまったのだそうだ。要するに今の 私はひどい便秘なの、と愛歌は苦笑してから、下水道に通じる排水口に向かった。鳳凰仮面三号はその背を追い、 生まれて初めてのデートが下水道になるとは想像もしなかった、と内心で漏らした。 けれど、悪い気がしないのは、恋をしているせいだ。 15 3/19 |