横濱怪獣哀歌




マリネリス番外地



 眩しさが、意識を引き戻させた。
 触手の繭の隙間から入り込んでくる粒子が目に突き刺さり、網膜を痛める。ここがどこなのか、考えるだけ時間 の無駄だった。イナンナは触手を解き、ドーム状の天井を仰ぐと、壁画が描かれていた。光を背負った神話怪獣 と、闇を纏った神話怪獣が争う姿だ。どちらも神々しいが禍々しく、生臭さの中に神性が滲んでいた。表情は 互いに怒りに満ちていて、荘厳さはない。むしろ、俗っぽい。
 金星の大地から切り出された岩石を組んで作られたミンガ遺跡は、どうしようもなく懐かしかった。祭壇の形状は バビロニアの神殿のものとは似て非なる形をしている。金星の住人達と神話時代の地球人では、技術のレベルも 価値観も違うのだから当然だ。溶岩が固まった灰色の玄武岩に触手を伸ばし、なぞると、冷たかった。イナンナは 触手を用いて上体を起こし、背後の祭壇を見やった。エレシュキガルのことだ、生きた人間でも転がしてあるのか と思いきや、祭壇は空っぽだった。その理由は、考えるまでもなく理解出来た。祭壇に繋がっている鎖が、イナンナの 両足に結び付けられていたからだ。
 
「姉様、とてもお似合いよ」

 イナンナの傍らで影が凝固し、エレシュキガルが現れる。しかし、その姿はイナンナに似たものではなく、むしろ、 あの女に似ていた。エレシュキガルと通じ合いたいがために生と死の境界を彷徨い、クル・ヌ・ギアへと通じる体 を得た女。光永愛歌の外見に酷似していた。顔の造形も、体形も、血色の薄い肌も、ピンク色の髪も。

「姉様は知っていたはずでしょう、この女とその妹が私と通じていたことも」

 触手ではなく長く伸びた髪をうねらせて、エレシュキガルはにんまりする。人間のように。

「それなのに、姉様は間近にいながら何もしなかった。私の分身たる女を暴れさせないため? いいえ、そんなこと ではないでしょう? 人の子に好かれるために、怯えさせないように、いい子ぶろうとしたからでしょ?」

 光永愛歌のそれと全く同じほっそりとした指が、イナンナの顎を掴み、強引に上向かせる。

「ああ、なんて浅ましい! なんて馬鹿馬鹿しい! なんて愚かしい!」

 エレシュキガルの指が顎の骨に食い込み、歯のない口を歪ませてくる。

「人間と怪獣が通じ合えたのは、神話の中だけのこと! 人間の妄想、怪獣の妄執、暗喩であり隠喩、真実でも なければ現実でもないというのに! 人の子が姉様に親しくしてくれたのは、姉様が物珍しかったからというだけ なのに! 地球の怪獣達が天の子などと呼ぶから、姉様も人の子と同列なのだと思い上がってしまったのね! そう、 きっとそうなのよ! 姉様は姉様でいるべきなのに! 私の唯一にして最大の脅威、最高にして最悪の、神話怪獣の 生き残りであり続けていなければ困るのに! 私が正しく在るためには、今度は姉様に悪者を演じて頂かなければ 困るのに! それなのに、人の子と通じようだなんて!」

 口角を吊り上げて牙を剥き、エレシュキガルは激昂する。カムロの如く髪の毛を伸ばし、イナンナの手足と触手 をきつく戒め、祭壇に叩き付ける。石の台座と頭蓋骨が激突し、その音で神殿が震える。

「この星を完全に私の星にするためには、必要なものは山ほどある。姉様もその一つよ」

 髪の毛を解いてから呼吸を整えたエレシュキガルは、激痛に呻くイナンナに擦り寄ってくる。

「姉様、恋しいでしょう? 人の子が愛おしいでしょう? だったら、その感情を惜しまずに高めるといいわ。その昔、 姉様の支配下にあったミンガ遺跡は、ミンガに住まう女達の美しさへの誇りとそれを欲する男達の欲望を熱量へと 変換し、光の扉を生み出していたけど、私はその仕組みに少し手を加えたのよ。地球で生まれた人間は、どいつも こいつも地球を忘れられないし、忘れようともしない。黄金時代の賞金稼ぎの男ですらもそうだった。だから、私は その感情をミンガ遺跡に喰わせ、望郷の念を昇華させ、光の巨人に作りかえるようにしたの」

 死の女主人は、陶然と笑む。

「けれど、ミンガ遺跡は私に似て貪欲だから、望郷の念と一緒に命の熱も吸い取ってしまうのが難点なの。死体は 私がおいしく頂くけど、命が抜けてしまっているから少し物足りないの。ミンガ遺跡の仕組みを察して、望郷の念を 忘れようとする人々もいないわけではないけど、そんな時は歌を聞かせてやればいいの。地球の緑の丘を」

 エレシュキガルの手が、やんわりとイナンナの頬を包む。

「だから、姉様。人の子を存分に愛して。そして、ここへ連れてきて」

「いや、いやよ、そんな」

 もしも彼が火星に来たら、どうなるか。考えただけで胸が潰れそうになり、イナンナは顔を歪める。

「けれど、私はそれを望んでいるの」

 イナンナの子供じみた柔らかな頬に触れていたエレシュキガルの指に、力が込められる。鋭く尖った指先は肉を 抉り、皮膚を破り、体液を噴き出させる。それでも、懸命に口を閉じようとするイナンナに、エレシュキガルは 無理矢理下顎を押して開かせると、口中からずるりと触手を引き摺り出した。頭部の触手よりも繊細で、神経が 鋭敏で、感度の高い触手だ。それを、エレシュキガルは噛み千切る。一本、二本、三本、それから十本。
 狭間の喉に何度となく触れた触手が、矮小な肉片となって石畳に散らばる。彼に愛でてもらった唇が引き裂かれ、 寄せ合った頬が破られ、撫でられた肌が傷付けられていく。思い出すな思い出すな思い出すな、思い出しては彼を 更なる苦しみを与えてしまうだけだ。イナンナは懸命に己を律しようとするが、エレシュキガルの指先がイナンナの ささやかな胸から下腹部、そして人間のそれに似た機能が備わった股間に至ると、屈辱と絶望に襲われた。あの夜、 強かに酔って帰ってきた狭間の懐に潜り込んだ時、初めて触れられた場所が、狭間以外の誰にも許さないと決めて いたものが、エレシュキガルに蹂躙された。
 思い出すな、思い出すな、思い出したくない。――――けれど、思い出してしまう。子供でも怪獣でもなく、一人 の女として認識されているのだと知った喜びが蘇る。その夜、彼から求められた口付けはひどく酒臭くて、香辛料の きつい匂いもしたが、今までに交わした口付けとは比べ物にならないほど心地良かった。幸せだった。
 もう一度だけ、狭間真人に会いたい。そして。




 同時刻、横浜。
 山下公園で、九頭竜麻里子はベンチに腰掛けてタバコを嗜んでいた。カルティエ・ヴァンドームを銜えると、リーマオ が火を付けてくれた。カムロはあまりいい顔をしないが、鼻の奥にこびり付いた血の匂いを紛らわすのにはこれが 一番だ。煙を肺に入れてから緩やかに吐き、薄曇りの空を仰ぐ。宇宙と地球の狭間には、未だに空中庭園怪獣の影が 見える。カムロが麻里子の身体能力を引き上げてくれているからこそ出来る、芸当なのだが。
 空中庭園怪獣ブリガドーンが横浜駅目掛けて墜落してくる、と上へ下への大騒ぎになり、桜木町を含めた横浜駅の 周辺住民は一斉に避難した。なんだかんだで収拾は付き、ブリガドーンは空へ戻っていったが、横浜駅の地下から は狭間とその弟と光永愛歌が戻ってこなかった。ということは、彼らはブリガドーンと共に空へと旅立っていき、 氷川丸は何らかの理由でそれを追っていったのだろう。そして、未だに横浜駅周辺の避難警報が解除されていない ばかりか、立ち入り禁止にされている。包囲網を敷いたのは帝国陸軍だ。彼らにとっては、ならず者は一般市民の 範疇に入らないらしい。どさくさに紛れて、えげつないことをするものだ。
 おかげで、随分とやりやすくなった。九頭竜会と渾沌から派生した二次組織、三次組織の鉄砲玉が次から次へと 麻里子の生首を狙いに来るので、人目を気にせずに暴れられた。ここ最近は厄介な相手とばかり戦っていたので、 彼らを倒すのはあまりにも簡単すぎて、人間の脆さを改めて思い知らされた。

「御掃除、終わりましたか?」

 御機嫌麗しゅう、と一礼してきたのは、着物姿の綾繁枢だった。少女に傘を差し掛けているのは、従属怪獣ヒツギ である。麻里子はタバコを唇から外すが、火は消さなかった。

「ええ、滞りなく。あなたを攫おうとしていた悪党共を一人残らず掴まえて、細切れにして、魚の餌にしましたよ。 ですが、私達に借りを作ったということは、御覚悟はお済みですね?」

 麻里子が目を細めると、枢は笑みのようでいて柔らかさのない表情を作る。

「玉璽近衛隊がまともに機能していない今、ヒツギと怪獣行列の怪獣達の他に、私を守る戦力はありません。ですから、 他に選択肢はなかったのです。報酬は、払える時が来たらお支払いいたします」

「払えなかったらどうなるかは、御存知でしょうね?」

「ええ、どうぞお好きに。あれから何度も祝詞を上げたのですが、私の祝詞だけではバベルの塔を目覚めさせることは 出来ませんでした。なので、当分は膠着状態が続くでしょう」

 お隣、失礼いたします、と枢は麻里子が座るベンチの端に腰掛けた。

「なんや、静かすぎるっちゅうんが気に食わんわ」

 リーマオも自前のタバコを取り出し、銜えて火を灯す。

「マッポまで引き上げたっちゅうんが解せんわ。強盗殺人リンチ銃撃暴走と好き勝手出来るんはええけど」

「空爆でもなさるおつもりでしょうか」

 枢はヒツギが差し出してくれた水筒を受け取り、蓋を外し、そこにお茶を注いだ。

「元より、政府の方々は怪獣使いを快く思っておりません。戦時中ならともかく。横須賀でガニガニが暴走した時、 帝国海軍も陸軍も黙っていたのは、魔法使いが横浜駅を襲撃した後のことを想定していたからでしょう。あの時、 軍が身動きが取れなかったのは怪獣使いが強情を張ったから、とでも言い張ってしまえばどうにでもなる、とお思いの 軍人はまだまだ多いですし。御父様……いえ、哀姉様がお亡くなりになっていたと御存知だから、皆、そうも強気 に出られるのでしょう。その事実を政府側に知らしめたのは、御名斗さんでしょうね」

 盛大なスキール音の後、山下公園に真っ赤なサバンナが横付けされた。運転席から出てきたのは、寺崎善行で ある。千手観音のスカジャンを助手席から拾い、羽織ってから、彼は組長代理の娘に近付いてきた。

「御嬢様、どこもかしこもダメでしたね」

「やはり、主要な道路は封鎖されておりましたか」

 枢は温かなほうじ茶で喉を潤してから、小粒の砂糖菓子を口にした。

「ゴリラ風邪の段階で、予行練習は済んでおりましたからね。前例がないと動かないのがこの国の政府の慣例では ありますが、前例さえ作ってしまえばどうにでもなるのもまた慣例なのです」

「軍隊となると、さすがに真っ向からぶつかるわけにはいきませんね。ところで枢さん、それ、おいしそうですね」

 麻里子が枢の手中の紙包みを見下ろすと、枢は小さな手を二人の女に差し出した。

「毒も薬も入っておりませんから、御安心を。和三盆です、お一つどうぞ」

「うあー、上品な御味やなー」

 砂糖菓子を齧り、リーマオは半笑いになる。麻里子も一粒もらい、軽やかな歯触りを楽しんだ。

「砂糖一つとっても、モノがいいと味が段違いですね」

「ヤニに合うたぁ思えねぇけどな」

 そうは言いながらも、寺崎もちゃっかり砂糖菓子を拝借していた。

「御父様とジンフーさんはどうしていましたか?」

 麻里子は砂糖が溶けきってから再びタバコを銜え、部下に訊ねた。

「御二人は相変わらずですよ。傷が治り切ってないのに血の気ばっかり余っているから、相手をするのが大変で。 ヴィチロークっつーか、ライキリがバイト坊主の手に渡ったのは、結果として良かったのかもしれませんね。あれが 手元にあったら、親分はじっとしているわけがない」

「川崎は片付きましたが、今度は東京の辺りが騒がしくなりましたね」

「帝国陸軍が道路を封鎖してくれたおかげで、東京のヤクザ連中に襲われないのは楽っちゃ楽ですがね」

 でもジリ貧なんですよねぇ、と寺崎は肩を竦めた。

「警報出ても横浜から逃げ出しもせんかったチンピラ共が怪獣使いを潰すのが先か、食糧を巡る争いで殺し合うの が先か、怪獣が暴走するのが先か、っちゅう感じやもんなぁ。で、空爆は一番最後やろ。証拠隠滅を兼ねて」

 なあカーレン、とリーマオは両足の怪獣義肢を小突いた。赤い靴はくるぶしの位置で目を開き、瞬きする。

「私が死した程度で事態が解決するぐらいであれば、この首など当の昔に差し出しておりますのに」

 ぼやきながら、枢は和三盆を口に運ぼうとしたが、眉根を寄せた。紙包みをヒツギの手に押し込んでから、振袖 を翻しながら海へと駆け寄っていった。薄い靄が立ち込めている海を凝視していたが、体を折り曲げ、海面へと胃の 中身を吐き戻した。呼吸を整え、口元を拭いながら、枢は後退る。

「あっ、あぁ、あ……」

 枢は怯え、うずくまる。彼女が何を感じ取ったのか、怪獣達はすぐさま察した。棺を背負った従属怪獣は幼い主人 に駆け寄ると、その背を支えてやり、横浜湾沖を睨んだ。カムロはぞわりと髪を波打たせ、叫ぶ。

〈来る、来るぞ、来やがった! 気を付けろ、麻里子!〉

「だから、何がですか」

〈見えねぇんだったら、見えるようにしてやるよ!〉

 カムロは苛立ちと焦りを麻里子にぶつけてきた。数十本の髪の毛がしゅるりと束になり、海へと伸びていき、 その先端でカムロは赤い目を見開いた。彼の目が捉えた映像が脳に直接飛び込んできて、麻里子は混乱しかけたが、 彼が何を見せたがっているのかを即座に理解した。理解せざるを得なかった。
 赤い触手を波打たせ、赤い瞳を蘭々と輝かせ、白い肌を海水で濡らしている、巨体の怪獣が屹立していた。背丈 は超大型怪獣と同等か、それ以上だ。頭部から生えた無数の触手は荒々しく乱れ、たっぷりと大きく膨らんだ乳房 を揺すり、引き締まった腰と下腹部には硬い筋肉が備わり、太股はむっちりとした脂肪が付いている。首から下だけ であれば、人間の女性と相違のない体だった。だが、それは首から下だけだ。頭部からは無数の赤い触手が生え、 荒れ狂っている。見間違えようがない、あれはシャンブロウだ。幾度となく、この街を救った怪獣だ。
 だが、今、光の巨人は現われていない。ならば、彼女は何と戦うためにやってきたのか。麻里子はカムロと共に 考え込んでいたが、察した。いや、本当なら考えるまでもなく解ることだった。柄でもないことだが、考えたく なかったのだ。シャンブロウが、ツブラが敵に回るなどとは。

「来る!」

 そう叫んだのは、寺崎だった。雲を切り裂かんばかりに高々と振り上げられた触手の束が、振り下ろされるに つれて伸びていき、横浜港と埠頭をあっさりと砕いた。爆発の如き衝撃が発生し、灰色の粉塵が舞い上がり、砕けた 破片が飛び散って埠頭の倉庫街に甚大な被害をもたらした。声にすらならない咆哮を放つシャンブロウに、麻里子は 恐怖心よりも先に高揚した。そして、無性に強い者と強いモノを戦わせたくなった。
 一度、伴侶を試したいと思っていた。だが、その相手は生半可な人間や怪獣人間では事足りない。強いて挙げれば シャンブロウだったが、そのシャンブロウがいないので戦わせようがなかった。狭間真人が傍にいたから、手を 出そうにも出せなかった。だが、今は違う。
 好機は、今しかない。





 


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