無数の計算式がノートを埋め尽くしていく。 恐ろしい集中力で計算を続けている羽生鏡護は、二十本目のダンヒルを吸ってから煙を吐き出した。ノートの主で ある真琴は、真っ黒になったページを覗き込んでみたが、どれもこれも難解で一問も理解出来なかった。しかし、 羽生の元同僚である鮫淵仁平はそうではないらしく、コーヒーを片手に興味深げに見入っている。時折、二人は 数学用語で言葉を交わすが、一言二言だけだった。その際に二人の思考が真琴の脳にも流れ込んでくるのだが、 これもまたやはり理解出来るはずもなかった。天才と秀才の頭脳は回転が速すぎるからだ。 海老塚が淹れたコーヒーを傾けていると、脳内で荒れ狂う雑音が少し落ち着いてくる。精神が波立つと、その隙間 にすかさず他の人間や怪獣の思念が滑り込んでくるので、精神を安定させて自分を律していなければ他人の思考と 感情に押し流されそうになる。自分を頑なに保つ、というのは思いの外難しいことだ。そもそも、自分というもの は不安定かつ不確定な代物だ。外から得た情報を詰め込み、取捨選択し、未熟な感性と半端な知識を個性であると 言い張っているだけなのだ。真琴は常々そう思っていたが、図らずも他者と繋がれたことで確信を得た。 「ですが、真琴さん。そうでもないとも思いますよ?」 古代喫茶・ヲルドビスのカウンターに腰掛けた海老塚甲治は、コーヒーと共に葉巻を嗜んでいた。 「今、意外だとお思いになりましたね? 私もそう思いますよ、こんなものを口にするのは久し振りですから」 「あ……」 なんかすみません、と真琴は言おうとしたが、それもまた海老塚に流れ込んでいるのだと思うと口にする必要が ないのでは、と思って口を噤んだ。すると、ボックス席に身を収めていた九頭竜麻里子は首を横に振る。 「それとこれは別の問題ですよ、真琴さん。私はカムロと繋がり合い、運命を共にしておりますが、魂までもは 共有しておりません。私の心は私の心で在り、カムロの心はカムロの心で在り、私達は別物なのです。カムロと意見 を違えたことは一度や二度ではありませんし、カムロが私を疎んだことも一度や二度ではありませんが、その都度、 私達は言葉を連ねて話し合ってきました。思考を共有した程度で他者との融和が成立する、というのは安易にして 幼稚な結論です。むしろ、その逆なのではないかと思っているのです」 〈そうとも。その理屈がまかり通るとしたら、俺達はいつまでたっても一つの固まりでしかなかっただろう。怪獣と いう概念すら得ず、個体として確定することはなく、マントルの海から俺達の卵が産まれることもなかったんだ。個と いうものはな、お前が思っているよりもずっと強く確かなものなんだ。怪獣が言うんだ、間違いねぇよ〉 麻里子の髪が波打ち、カムロが赤い目を見開いてにぃっと牙を剥いた。 「あの、ジンフーさんは御一緒じゃないんですか? それと、お父さんも」 真琴が躊躇いがちに尋ねると、麻里子はふと目線を遠くに投げた。 「あの男達はつくづくどうしようもありません。こんな状況であるのをいいことに、裏社会を牛耳るための情報という 情報を得ようと外に繰り出しているのです。そのついでに、互いの組織の不穏分子の粛清も行っているのでしょう、二人分 の殺意とそれに伴う高揚がこれでもかと流れ込んできますよ。だから、当分は戻ってきませんよ。暴れるのは構いませんが、 死体の後処理だけはきちんとしてもらいたいものですね」 「……あー、あったまいてぇ」 行儀悪く床に寝転がっているのは、寺崎善行だった。禿頭を抱え、顔を歪めている。 「狭間はよくもまぁこんなのを我慢していやがったな……。うえええ、気持ち悪ぅ……」 「それでは口頭で聞きますけど、皆さん、なんでまたヲルドビスに集まってきたんですか?」 真琴が質問をぶつけると、羽生は鉛筆を走らせていた手を止めた。その手首には針金怪獣が絡まっている。 「よくぞ口頭で聞いてくれた、真琴君。今、この叡智の結晶にして森羅万象を解き明かす才覚を備えた僕は狭間君 がやっていたように怪獣の脳と意識を演算装置として間借りして複雑極まる計算を行っているわけだが、少しでも タバコとコーヒーを切らすと脳の血管が切れそうになるんだよこれがああもう黙ってくれ今書くから解くから少し 大人しくしていろ叡智の神たるこの僕の命令が聞けないのか怪獣共め頼む静かにさせてくれジャコツ!」 羽生は左手首を押さえて喚き散らすと、針金怪獣ジャコツがくいっと先端を伸ばして曲げた。 〈怪獣電波を何割か分散させたぞ。これでいいか、鏡護〉 「……吐き気が少し収まった。君というアースがいなければ、この僕の崇高なる脳は今頃破裂している」 羽生はダンヒルを吸おうとしたが空になっていたので握り潰し、二箱目を開けて銜え、火を灯した。渋い煙を肺に 入れて吸い込むと、羽生から漏れてきた思念が羽生が体感している情報までも伝えてきたので、真琴はニコチンが 血中に回った錯覚に襲われて目眩がした。それが収まると、煙の苦さを払拭するほどの心地良さが訪れる。兄が 味わっていたのも、この感覚なのだろう。だから、常に安いタバコを手放せなかったのだ。 「けれど、おかげで活路が見えてきた。宇宙怪獣戦艦による定期航路をいかにして開発し、運用すべきかとこの僕 は長らく考えていたんだが、怪獣共の目と体感を通じてそれぞれの能力を理解出来たから、どうにでもなりそうだ。 問題があるとすれば莫大な資金源だが、それもまあどうにかしてみせる。この世は怪獣で出来ている、故に怪獣を 掌握した者がこの世を制するんだ。だから狭間君はソロモン王だったんだ、ソロモン王以外の何物でもなかった。 だから狭間君はソロモン王以外の何物にもなることは許されず、何物にもさせてもらえなかった。それは人間として 不幸以外の何物でもなかったが、怪獣にとっては幸福以外の何物でもなかった。それはそうだろう、カムロが言った ように停滞しきった怪獣の生に死をもたらしてくれるのだからね。……全く、何が神話怪獣だよ」 ダンヒルのニコチンが回ってきたのか、羽生は眉間に刻んだシワを少しばかり緩めた。 「神は現世にはおりません。神とは、死したもの、命を持たぬもの、形を成さぬものに名という概念を与えて生まれる ものなのです」 苦いです、と顔をしかめつつも枢はコーヒーを啜った。 「枢さんも来ていたんですね」 真琴がちょっと驚くと、枢は小さな肩を竦める。 「この状況では、全人類が怪獣使いですからね。つまり、今の私はどこにでもいる十歳の小娘ということです」 「コーヒー、飲んで大丈夫ですか? 結構、胃腸に来ますよ」 「…………いい香りなんですけど、苦くて、ぅ」 そう言うや否や枢は青ざめていき、御不浄をお借りしますぅ、と弱々しく漏らしながら店の奥に入っていった。程なく して枢の気分が悪くなったらしく、その感覚が流れ込んできて、真琴もいくらか吐き気を覚えた。他の者達も例外では ないようだったが、皆、それなりに堪えていた。寺崎はそうもいかなかったらしく、よろけながら店の外に出て盛大に 胃の中身をぶちまけていた。それがまた他の誰かに伝わったらしく、近所から何人もの呻き声が聞こえてきた。 この世は地獄だ。だが、兄は、狭間真人は、ソロモン王は、人の子は、一人きりでその地獄に耐えていた。その心中 は察するに余りある。兄はどこにいるのだろう、と考えると、怪獣達がすぐさま教えてくれる。南極のエレバス山で、 怪獣聖母にケンカを吹っかけているのだそうだ。距離が遠すぎるので兄には伝わらないだろうが、こう思わずには いられない。一気に畳みかけてマウントを取ってやれ、と。真琴はラリアットを喰らった首をさすった。 いずれ、プロレス技の一つでも覚えておこう。 真琴にはラリアットは不向きだな、とふと思った。 狭間真人は口に銜えていたメーを外し、白い息を吐いた。怪獣聖母を揺さぶった影響からか、地球全土の怪獣と 人間の思考が混線している。大半が悲鳴で、たまに歓喜が混じっている。その中に弟の声が混じっていた気がした のでそれに応えてやったが、届いたかどうかは怪しかった。要するに、電話局に交換手がいない状態だからだ。 エレバス山はかすかに震えていた。その度に流れ出してくる怪獣聖母ティアマトの感情の切れ端は希薄で、狭間 とメーの力をもってしても掴み取り切れなかった。怪獣達の謀反に困惑しているのか、人間達の浅ましさに呆れて いるのかも定かではない。そもそも、感情が成せるほど明確な人格を持っていないのかもしれない。気の遠くなる ような年月の中、怪獣達を連ねておくには概念と化すのが一番だ、とでもいうのだろうか。 「腕ひしぎ逆十字固め」 真琴が使いこなせる技はこれだろう。狭間が呟くと、悲が訝った。 「飛び付き式? それともマウントを取ってから? ……ああ、まこちゃんならマウントを取ってからがいいわ」 「だ、そうだ」 と、狭間は弟に向けて呟いたが、届いたかどうかまでは解らなかった。数十億もの怪獣電波と他人の思念が狭間の脳に 絶えず突き刺さってくるので、その中に弟の思念があったとしても判別が付けられなかったからだ。 「暇ねぇ」 「ですね」 怪獣聖母がケンカを買ってくれたかどうかも解らないのでは、こちらとしても動きようがない。このまま突っ立っていると 体力を消耗する一方なので、狭間はもそもそとカナシビックに戻った。悲もボンネットの中に戻り、ばこんと蓋を締めた。 世界の行く末を決める出来事は華々しく壮絶に始まるものだ、と狭間は心のどこかで思っていたのだが、そうでもないこと もあるのだと思い知った。それから、かなりの時間が過ぎた。 付けっぱなしのカーラジオからは、人間達の悲鳴が聞こえてくる。言うまでもなく怪獣由来の部品を使っているの で、怪獣電波に混線した人間の思念が漏れ聞こえてくる。誰かは自分が神だと思い込み、誰かは神に選ばれたの だと思い込み、また他の誰かは自分が特別な存在なのだと思い込み、そしてまた他の誰かは自分が特別な存在でも なんでもないのだと知って自殺願望さえ抱いている。作家はこれから書くはずだった物語が数多の人間と怪獣 に知られ、絶望に沈み込んでいる。画家もまた、これからキャンバスに叩き付けるはずだったイメージが世界中に 流出してしまい、苦悩に見舞われている。人と人が繋がると幸せになる、解り合えると平和になる、と言った人間は 数多くいたが、それは薄っぺらな詭弁であるとあまりにも乱暴な方法で証明されてしまった。 狭間からすれば、何を今更、と言い聞かせてやりたい。怪獣達と言葉を交わせても、感情をやり取り出来たとしても、 最後まで怪獣とは理解し合えなかったからだ。人間同士にしてもそうだ。根幹は違えども目的は似通っている ヤクザとチャイニーズマフィアは、互いの首根っこに喰らい付き合わなければ、並び立つことなど有り得なかった。 海老塚の一件にしてもそうだ。面と向かって言葉と弾丸と刃を交え、感情を剥き出しにしなければ何も知らないまま だった。ブリガドーンの一件で戦わなければ、田室正大少佐についても誤解したままだった。光永愛歌、もとい、綾繁 悲についてもそうだ。そして、他でもないツブラも、粘膜と粘膜を絡めるだけでは通じ合えなかった。 「どこまでも思い上がりやがって」 だからこそ、怪獣聖母ティアマトが鬱陶しい。 「怪獣は生き物だ。同じ星から生まれた者同士かもしれねぇが、それぞれが自我を持った瞬間に、あいつらは別々の 生き物になったんだよ。それをなんだ、死ぬ自由を奪いやがって」 それさえなければ、彼らは神話など求めなかった。彼女が神話怪獣になる必要などなかった。 「神様ごっこをしているだけの怪獣如きが、いつまでも偉そうにしてんじゃねぇよ!」 「へ?」 狭間の罵倒に、悲が目を丸めた。さすがにそれは言い過ぎじゃないの、との思念がじわりと流れてきた。 「寒いんだよ遠かったんだよ、ここまで来るのに無駄な苦労をさせられちまったんだよ! そうやって勿体ぶってりゃ ありがたがられるとでも思ってんのか、そんなわけねぇだろ! 出し惜しみされてナンボなのはストリップであって、 根性が腐った甘ったれの神様ごっこ大好きな怪獣なんかじゃねぇんだよ! いいか、俺は、あんたに、さっさと地球 から追放してもらいに来たんだよ! 今、ここで、こうして、ぼけっとしている間にも、俺のツブラに何が起きているか 解ったもんじゃないんだよ! 黄金時代に何があったか知らないが、ノースウェスト・スミスと俺は全く何も一切関係 がないんだよ! それをなんだ、事ある毎に絡めてきやがって! そんなにあいつが恋しいなら、あいつが生きていた 頃にどうこうすりゃよかっただけだろうが! 俺を、他人の、身代わりにすんじゃねぇ!」 カナシビックの運転席から出た狭間は、苛立ちに任せてエレバス山に怒鳴り散らす。 「あんたは怪獣共をそそのかして俺にちょっかいを出しまくっていたくせに、俺とツブラがあんたの代わりに光の巨人 とエレシュキガルと渡り合っていたってのに、ツブラがあんなにも頑張っていたってのに、一言もねぇのかよ! あぁ!? そうやってふんぞり返っている間にも、俺の大事な人達は、俺を頼ってくれた怪獣達は、俺が住んでいた 街は、俺を生かしてくれていた場所は、俺が愛した女は、火星に持っていかれちまった! 他の人間も怪獣もそう なんだよ! 怪獣共と繋がっているくせに、なんでそんなことが解らないんだ! 解ろうとしないんだ!」 叫んで声を張り上げるたびに、喉の粘膜が猛烈な寒風にやられて乾涸びていく。だが、止めようがない。 「バベルの塔が天を衝くほど伸びたって、神話時代なんて戻ってきやしねぇ! その証拠に、人間も怪獣もうるさい ったらありゃしねぇ! けどな、それが当たり前なんだ! どうしてもそれが解らないってぇなら!」 狭間はメーを翻し、己の首筋に添えた。氷の如き刃が皮膚を噛む。 「エレシュキガルでも呼び出して、一緒に説教してやろうじゃねぇか」 そんなに神話時代が恋しいのなら、鉄の時代を認められないのなら、神話時代の生き残りを呼び出して存分に 満たしてやろうではないか。悲は狭間を止めるべく手を伸ばしかけたが、躊躇い、そして下げた。その理由は至って 簡単で、狭間が首筋に刃を添えた時点で遠方の空が光り輝いていたからだ。分厚い雪雲が切り裂かれ、否、光の巨人 が触れた分だけの質量が消失し、僅かに青空が垣間見え、巨大な光の巨人と無数の眷属が現れる。 神々しき魔性は、音もなく吹雪を消し去った。 15 11/17 |