横濱怪獣哀歌




聖キ母ノ園



 糸の如き、数多の意識の切れ端を束ねる。
 それらにほんの少し触れただけで、恐ろしく膨大な情報と自我と記憶が襲い掛かる。それもそのはず、バベルの 塔とも呼ばれる神話怪獣エ・テメン・アン・キの力で通じ合ってしまった、全ての知的生命体の意識と怪獣の意識を 一纏めにしたものなのだから。狭間はメーに付着させた己の血を舌で広げ、唾液と共に刃のないナイフに塗り付け、 今一度粘膜に触れさせた。人の子の味を知りたがっているのは、何も怪獣聖母だけではない。神話怪獣に傾倒して いない怪獣でさえも、狭間真人という存在を求めている。だから。
 その味を求めて、無数の意識がメーに突き刺さる。怪獣電波は質量は伴わないが、電波も出力を上げに上げれば 落雷の如き衝撃を生み出す。思わず狭間は腕を下げかけたが、雪を踏み締めて姿勢を保った。頬の裂傷から 流れる血が生温いのは血管から滲み出した瞬間だけで、肌を伝って衣服に滴る時には既に凍り付いてしまった。 それもまた、怪獣を誘う餌だ。そして、怪獣聖母もまた例外ではない。

「来やがれ、獣共」

 怪しき獣達が放つ激情が、メーを通じて狭間の骨身に突き刺さる。

「俺を喰いたいか?」

 地鳴り、雷鳴、暴風、大波、竜巻。大地が、否、星に宿る怪獣達が欲望を剥き出しにする。

「だったら、俺を独り占めしようとしている怪獣聖母にケンカでも何でも売りやがれ」

 ぉおおおおお、るぉおおおおお、ぎゅろろろろろ、ぎぎぎぎぎぎ。怪獣達が吼える、吠える、咆える。

「俺を誰だと思っていやがる?」

 ――――お前らが求めるソロモン王だ。狭間がメーを軽く振り上げると、雲が裂けて電流を纏った怪獣が出現し、 エレバス山へと向かっていく。海原に大きな水柱が立つと、氷を凝固させたかのような怪獣が浮上し、怪獣聖母の 住まう島に無遠慮に上陸していく。硬く締まった雪に覆われた大地が裂け、透き通った岩石を寄せ集めたような 形状の怪獣が低く咆哮を放つ。巨体の怪獣達が一斉にエレバス山に体当たりをかますと、雪崩が起き、真っ白な 瀑布が山どころか荒れ狂う海面すらも濁らせた。いつしか雪が止み、寒風も収まっていた。

「……狭間君」

 シビックのボンネットから出てきた悲は、唖然としながら青年の背を窺う。

「我ながら、ひどいやり方ですよね。幻滅します?」

 頬の血を拭わずに、狭間はへらっと笑う。

「私がそんなに純情な女じゃないってこと、知っているくせに。だけど、モテる男は辛いわねぇ」

 悲は頬を歪めると、狭間は肩を竦める。

「全くですよ」

「誰が勝つと思う?」

「誰も勝てないと思いますがね」

「その根拠は?」

「俺に執着しているのは、何もあいつらだけじゃないってことですよ」

 そう言って、狭間は空の彼方を示した。清らかな光が迸り、雲が消し去られると、光の柱が海面に突き刺さって 海水を消失させた。光の粒が降り注ぎ、波の飛沫や流氷や怪獣達が撒き散らした土塊を奪い去る。光の柱の内から 新たな光が滲み出し、光輪を背負い、六対の羽根を帯びた光の巨人が出現した。先程現れた光の巨人の倍以上の 軍勢が、いや、更なる軍勢が現れて南極大陸を取り囲んでいる。今度ばかりは狭間を逃がさない、という相手側の 覚悟が見て取れる。その巻き添えを食う形で、消されていく怪獣も少なくはなかったが。

「エ・テメン・アン・キを成長させたことで、エレシュキガルが異変に感付いたんでしょうよ」

 狭間は怪獣達に蹂躙されているエレバス山を横目に、光の巨人に向き直った。

「狭間君が考えていることが読めたけど、それはさすがに危なくない?」

 悲の懸念に、狭間は口角を歪める。

「何を今更」

「それもそうね。私も付き合った方がいい?」

「それはカナさんの意思に任せますよ。だが、お前はこの星に留まっていてくれ」

 狭間は金色のスカーフを解き、雪原に投げ捨てると、縫製怪獣グルムは鳳凰仮面の如き形に変化した。

〈ちょ、ちょっと待ってくれ! 人の子が考えていることは俺にも察しが付く、あの光の巨人共を通じて火星 に飛ぼうっていう腹なんだろうが、だとしたら尚更俺を手放すべきじゃないだろう! 火星の大気は地球のもの とは大違いで、気温も違えば重力も違う! 火星に行ったところで、その場で天の子が見つかるわけじゃない んだから、その間は誰かが人の子を手助けしてやらなきゃならないだろう! 俺にはそれが出来る、いや、俺は そのために人の子の傍にいたんだ!〉

「怪獣の一つや二つ、現地調達出来るだろ」

 狭間が笑うと、グルムはサングラス状に変化させた赤い目を伏せる。

〈しかし……〉

「お前は義理堅いというよりも、しつこいんだよ。どうしてもっていうのなら、真琴にくっついてやれ。あいつ は俺みたいな力はないが賢いから、お前を上手く使ってくれるはずだ。字が書けるのなら、筆談でもなんでも してやって話してやるといい。……真琴は寂しがるだろうから」

〈俺は人の子にはなれない。人の子の弟に兄貴面出来るのは、人の子だけじゃないか〉

「ああ。だから、兄貴面してやるんだよ。御節介だのなんだのと言われて突っぱねられても、食い下がれ。なん だったら、俺の味を知ってからでもいい。お前には、結構苦労掛けちまったからな」

〈いや、遠慮しておく〉

「なんだ、グルムらしくもない」

〈俺が知るべき人の味は、人の子の弟の味だからだ〉

「そうか。それじゃ、よろしく頼む」

 狭間はグルムの肩をぽんと叩いたが、手応えは軽く、布の空袋が潰れただけだった。行きましょう、カナさん、 と狭間が促すと、悲はシビックのボンネットに戻って発進させた。

「怪獣達に襲い掛かられているティアマトは放っておいてもいいの?」

「別にどうってこたぁないでしょう。自称神様なんだから」

 狭間はカナシビックに乗り込むと、グルムがぱさぱさと空っぽの手袋を振り回して見送ってくれた。狭間もその手に 振り返してやってから、海上を埋め尽くしている光の巨人の群れと向き直った。光の巨人が出現した影響だろう、 怪獣電波の嵐が少し収まっている。悲がエンジンを暖め直している最中、狭間は弟の意識を探り出そうとしたが、 掴まえられなかった。だが、それでいいのだろう。別れの言葉を二度も三度も交わすのは格好悪い。
 アクセルをベタ踏みして白い地表にタイヤ痕を刻み――――海面へと飛び出した。が、海面にタイヤが触れるかと 思われた瞬間、海中から岩石が隆起してカナシビックを受け止めた。それどころか、流氷が集まってきて車体を再び 南極へと押し戻していく。誰の仕業なのかは、考えるまでもなかった。
 怪獣聖母ティアマトだ。狭間は右往左往するカナシビックのハンドルを回し、再度海面に向かおうとするが、タイヤ が噛んでいる雪面もまた盛り上がって傾いた。横転しかけたが、悲の力でバランスを取り戻した。光の巨人が飛来して 腕を伸ばしてくるが、エレバス山の山肌が突如噴火して巨体の怪獣が吹き飛ばされ、それが光の巨人に激突した。膨大な 質量を得たことで光の巨人は消失し、寒風が戻ってくる。狭間を逃がしたくないのは、エレシュキガルもティアマト も同じだということだ。狭間は舌打ちし、運転席から出ようとした。が、ドアを外から押さえられた。

〈俺がなんとかしてくる〉

 鳳凰仮面、否、グルムだった。金色の布地がありもしない筋肉で膨らみ、サングラスに狭間を映す。

〈鳳凰仮面の紙芝居の結末がどうなるかは気にならないでもないが、それは人の子が見届けてくれ。俺は、俺の正義 を貫く! なぜならば、俺は正義の味方だからだ! 炎の中より生まれいずる、金色の不死なる鳥!〉

 グルムは狭間の血が滴る雪を掴み取ると、握り締め、己の布地に染み込ませる。

〈この拳は、正義がために在り!〉

 そう叫ぶや否や、グルムは雪原が抉れるほど力一杯踏み切って跳躍した。狭間の血の匂いを嗅ぎ付け、怪獣達 の視線が金色の布の固まりに向く。腰に巻き付けたクジャクの羽根に似た飾り布がたなびき、血よりも鮮やかな赤 のスカーフが翻り、狭間の血を染み込ませた右の拳を高々と掲げる。

〈必殺!〉

 腰を捻り、空中でありながらもしっかりと踏み込み、右の拳を真下へと振り下ろした。

〈とか言ってみたけど特に何も思い付かなかったああああああああああああ!〉

 と、締まりのないことを叫んではいたが、グルムの拳は確かな衝撃波を生み出した。南極に相応しからぬ灼熱の 暴風が雪を巻き上げ、蒸発させ、怪獣と光の巨人の注意を惹き付ける。ティアマトの意識もまた、半ば条件反射で そちらに向いた。その隙を見逃すはずがない。狭間はメーを銜え、怪獣電波に入り混じる人間の意識の中でも特に 強烈な意識を絡め取ると――――それとティアマトの意識を結び付けた。当然ながらティアマトは抗ったが、狭間は メーに歯を喰い込ませながら踏ん張り、堪え抜いた。

「っぐぇあ、があっ!」

 意識と意識の結び目が解けないように、他の怪獣達の意識を巻き付けてやってから、狭間はようやく自分の怪獣 電波を引っ込めた。エ・テメン・アン・キの助力がなければ、到底成し得ない荒技だった。ずきずきと痛む頭を雪で 冷やしたくなったが、カナシビックの車外に出ると巻き添えを食ってしまいかねないので、狭間はずるりと運転席に へたり込んだ。それから程なくして、地鳴りが起きた。エレバス山が軋み、震え、脈打っている。

「狭間君、何したの?」

「えー……あー……。怪獣聖母の意識を拾って、それを他人の意識に結び付けたんですよ」

「まーたデタラメなことを。で、相手は誰なの?」

「麻里子さんですよ」

 悪趣味極まりないが、それしか思い付かなかったのだから仕方ない。それに、麻里子の意識はカムロと共に在る ので拾いやすかったのだ。ついでに言えば、地球から離れる前に麻里子には報復してやりたかったのだ。これまで、 麻里子のせいで死にかけたのは一度や二度ではない。かといって、物理的にも精神的にも 勝てる相手ではないし、機会を窺おうにも、麻里子は狭間の数段は上手なので生半可なことではやり返されてしまう だけだ。だから、怪獣聖母をやり込めるために利用させてもらった。
 九頭竜麻里子の狂気に敵う者は、ジンフー以外にいるものか。死んだ男に焦がれ、古い世界に固執して変化を避けて いたティアマトにとっては劇薬だ。そして、星の年齢に等しい年月を積み重ねてきたティアマトの記憶と経験と 執念は、カムロの助力があろうとも麻里子の精神に収まり切るとは思えない。麻里子のことだ、そう簡単に 負けはしないだろう。今一度、狭間はカナシビックのアクセルを踏み込んだ。
 光の天使が赤い車に群がり、そして――――。




 ぢりっ、と脳内に雑音が走った。
 カムロの意識でもなければ、雑多な人間の自我でもなければ、怪獣達の感情とも少し違う。刺々しい悪意はふんだん に盛り込まれていたが、出力が足りないので、麻里子の意識に侵入してくるほどではなかった。力任せに拒絶しよう にもそれが出来る状態ではなかったので、そのままにしておいた。どうせ、大した相手ではないのだろう。
 ――――目の前の男に比べれば。血と硝煙の匂いが染み付いた巨躯の男に組み敷かれたのは、ほんの数分前のこと だった。呆気なく首を外された麻里子は、ジンフーの小脇に抱えられたまま、自分の首から下が蹂躙される様を 目の当たりにさせられていた。目を逸らしきれず、首も動かせないので顔も背けられず、かといって首から下から 伝わってくる感覚からも逃れられず、麻里子は口中にねじ込まれた夫の指を噛んで精一杯反抗していた。しかし、 この状態では顎に力が入るはずもなく、骨張った太い指を舌でねぶるだけに留まっていた。

「いやに大人しいのう」

 おぬしらしくもない、とジンフーはにたつき、あられもない姿の妻の肢体とその頭部を見比べた。

「……う」

「ああ、これでは喋れぬか」

 ジンフーは麻里子の口から指を抜いてやると、唾液が糸を引き、顎に滴った。硝煙の苦さと鉄錆の生臭さが こびり付いた指が離れると、麻里子は喘いだ。それに伴い、素肌が剥き出しにされた胸が上下する。

「いきなり、こんなことをされては、どうしようも……ないではありませんか……」

「嫁の部屋は儂の部屋のようなもんじゃろうて」

「ですが」

 麻里子が夫を睨むと、ジンフーは床を指す。

「それとも、店におる者共が気になるっちゅうんか? なんぞ、可愛らしいのう」

「当たり前です。あまり分別のないことをしないで下さい」

「殺しの後は気が立ってどうしようもないんじゃ、おぬしにも覚えがないとは言わせんぞ。じゃから、何らかの 手段で慰めんと収まりが付かんのでな」

「それは否定しませんが」

 麻里子は小さくため息を吐き、夫を言い負かすのを諦めた。古代喫茶ヲルドビスに帰って来るや否や、麻里子を 二階の自室に引っ張り込み、ベッドに放り出されて首を外され、そして。まだ不慣れな感覚が、離れているはずの 胴体から首に至り、麻里子は唇を噛んで声を殺した。カムロは麻里子に入り込んだ雑音をどうにかしようとしている のか、感覚を切断する手助けはしてくれなかった。肝心な時に役に立たない怪獣だ。
 これだから、この男は面白い。麻里子は文句を続けようとしたが、またもや口に指を入れられて舌を押さえられ、 仕方なく銜え込んだ。雑音は頭の中に渦巻いていたが、ジンフーから注がれる欲望とも愛情ともつかないものに 集中しているうちに遠のいていき、そして――――ぱちんと途切れた。同時にカムロの意識も戻ってきて、 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てていたが、麻里子がカムロを咎めると少しばかり大人しくなった。
 肌を重ねている最中は、怪獣達の声は聞こえなかった。






 


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