照和五十六年、一月。 本命から滑り止めまでの大学受験を終えた直後、真琴は帝国海軍に連行されて遠洋に向かう戦艦に乗せられた。 試験の緊張から解放された清々しさや結果が出るまでのやきもきした気分を味わう暇すらなく、屈強な海兵達と 玉璽近衛隊の面々に囲まれて波に揺られ、数日の船旅を経て目的地に辿り着いた。 太平洋沖合いの海域にて、宇宙怪獣戦艦に準じる大きさの怪獣が発見されたとの情報があった。羽生を始めとした 怪生研の研究員とその他諸々の専門家が膝を寄せ合って意見を交わし、その正体は浮遊怪獣アマノウキフネ ではないかという結論に至った。そこで呼び出されたのが、人の子の弟、狭間真琴である。だが、これが初めてと いうわけではなく、これまでにも何度も呼び出されては扱き使われている。それもこれも、真琴と再会して以来、 グルムがへばりついているからだ。字が書けるので人間と意思の疎通が出来るグルムを政府と軍が見逃すはずも ないのだが、玉璽近衛隊と綾繁家がグルムにみだりに手を出すなと言明しているので、結果としてグルムを現場 に連れていく口実として真琴も連れていかれる羽目になった。それは本末転倒だろう、と真琴は田室にも枢にも 意見したのだが、他国のスパイに攫われて拷問されるよりは余程いいだろう、と言い返された。 それはそうなのだが、だが、しかし。解せない気持ちを抱えたまま、真琴はアマノウキフネが沈んでいるであろう 海域に至った。真琴も海兵と同じ防寒着を着せられているが、階級章はなく、その代わりに綾繁家の家紋が入った 腕章を付けさせられている。現場で兵士と間違えられたら大事だからです、と枢が言い張って寄越したものだが、 これが意外と役に立つ。怪獣学者達は重大な情報をすんなりと教えてくれるし、目に見えて待遇が良いし、兵士達 も真琴をぞんざいに扱わない。中には、太平洋上で怪獣弾頭ごと轟沈した狗奴国に乗っていた海兵もいて、あの時 は兄上に命を救って頂きましたっ、と最敬礼さえしてくれる。 だが、それはそれで重荷でもある。彼らが見ているのは狭間真琴という人間でなく、怪獣と通じ合える人の子の 弟という外殻であり、必ずや良い結果をもたらしてくれるだろう、という期待が感じられるからだ。兄であれば、 そんなのは怪獣に聞いてくれ、俺はあいつらの話を聞くだけであって御機嫌取りなんてしねぇよ、と言ってのける のだろうが、真琴にはそんな啖呵を切れる度胸はない。だから、こんな状況に陥っている。 「えと、その、真琴君」 海面をむっつりと睨んでいる真琴に近付いてきたのは、怪獣戦隊研究所の研究員として復職した鮫淵仁平 だった。彼もまた分厚い防寒着を着込んでいるので、大柄な体格が一回り大きくなっている。 「アマノウキフネというのは、その、神話怪獣に近い位置付けの怪獣ではあるけど、どちらかというとオカルト路線と いうか、インドラの矢というかヴァジュラというか、まあ……戦艦みたいに扱える怪獣ではないだろうね」 「だとすれば、俺が出る幕なんてないですよ。グルムに話を付けてもらうにしても、相手が悪すぎます」 「アマノトリフネとアマノイワフネは純然たる神話怪獣なんだけど、その、それは、南極で怪獣聖母が死んだ後に 死んでしまったから、もうどうにもならないし」 「他にないんですか、宇宙怪獣戦艦になりそうな飛行能力を備えた怪獣って」 「いるにはいるだろうけど、どう考えても他国の領土や領海内だし。僕としては、その、アララト山で眠っている 箱舟怪獣ノアを発掘して、その居住臓器に溜め込まれているであろう古代生物の標本をじっくりと調査してみたい ところだけど、そうもいかないし。アマノカガミノフネ、アマノカブトノフネ、と真日奔の神話に基づいて調査を 行ってみたけど、どちらも生体反応はなかったし。だから、うん、神話怪獣とは成り得なかったが故にアマノウキフネ は長らえているんじゃないか、ということで」 「熱反応があるからと言って、怪獣本体が生きているとは限らないわけですからね」 「ああ、うん。海底火山の中に沈んでいく途中かもしれないしね」 「そのアマノウキフネが見つかった方がいいのか、よくないのか……」 真琴が渋ると、鮫淵は苦笑する。呼気で白く曇ったメガネのレンズを拭い、視界を取り戻す。 「真琴君、大学合格しているといいね」 「そうなんですよ! 合格していなきゃ困るんです、苦労が無駄になります! でもって、合格して大学生になっても こんな生活が続くとなると、せっかく進学してもまともに勉強する時間が取れません! 勉強するために進学したのに その本分が果たせないとなれば、俺が横浜に留まっていた意味がなくなってしまいます!」 真琴が力説すると、鮫淵は少し表情を緩めた。 「相変わらずだなぁ、真琴君は」 「それが何か問題でも」 「いや、うん、なんていうか、安心するというか」 鮫淵の気の抜けた言葉に、どぼんどぼんどぼん、と重たい水音が重なった。潜水服を着た海兵達が、海中の調査を 行うために飛び込んでいったのだ。彼らに空気を送るためのチューブがどんどん伸びていき、命綱であるワイヤーも どんどん伸びていく。つまり、それだけ深い海底にアマノウキフネが沈んでいるということだ。グルムだけを海底に 送り込んで話し合わせてくるべきか、だけどそれじゃ俺が来た意味がない、などと真琴は考え込みながら、海面に ごぼごぼと浮き上がって爆ぜる気泡を眺めていた。 それからしばらくして海兵達が引き上げられると、撮影してきた水中写真が早速現像された。フラッシュを焚いても 光量が足りないので、ぼんやりとした輪郭しか映っていなかったが、複数の写真を組み合わせると全体像が見えて きた。船は船でも戦艦や旅客船のような形状の船ではなく、円盤に似ていた。言ってしまえば、小型のブリガドーン である。生命反応もあるとの報告も上がってきたので、真琴は腹を括り、赤いスカーフを解いた。 そして、鳳凰仮面三号は真冬の海に飛び込んだ。 大学一年生の秋、バイクの免許を取った。 映りの悪い顔写真が貼り付いた免許証を学生証に入れ、古着屋で調達したライダースジャケットを羽織り、ライダース ブーツを履き、ヘルメットを被ってから、兄のお下がりのホンダ・DREAM・CB750FOUR・K2に跨ると、格好 だけは一人前だ。だが、腕前は初心者丸出しで危なっかしいので、遠出する時は小暮小次郎に同行してもらうように していた。もちろん、どちらも都合が良い時に限り、小次郎の単車には佐々本つぐみを載せたサイドカーが付いている 場合もある。寺崎がしゃしゃり出てくるのでは、と懸念したが、その寺崎は麻里子の産んだ男児、九頭竜大河の世話 に奔走していて、今ではヤクザ稼業よりも子守の方が忙しいので、彼のサバンナは暇を持て余している。 都内の大学に進学してからは、環境が大きく変貌した。それまで、真琴と接点のある者達は、一ヶ谷市の住民 以外では兄を通じて知り合った人間と怪獣ばかりだった。だが、大学では当然ながら真琴の経歴や兄の存在を知る 者はおらず、皆、ごく普通に接してくれた。今までが今までだったので、却って新鮮だった。映画や音楽の趣味が 似通った学生と言葉を交わすようになり、数人の男子学生と友達と呼べる間柄になり、ヲルドビスでの仕事と勉強に 勤しんでいると、やはりこれが身の丈に合った人生なのだと痛感する。 『まこと』 真琴の首に巻き付いていた赤いスカーフが細長く伸び、鉛筆を掴んでノートの隅に文字を書いた。大学進学に伴い、 ヲルドビスの二階からフォートレス大神の兄と悲が住んでいた部屋に移り住んだ。 「なんだよ。物理の課題がまだ終わってないんだ、このノートは使っている最中なんだから書かないでくれ」 真琴はグルムに言い返して鉛筆をひったくるが、逆に奪い返された。それから、グルムは続きを書く。 『アマノウキフネ かいしゅう せいび いんべとう いかなくても いいのか』 「俺が行ったってどうにもならないよ。邪魔になるだけだ。それに、今、印部島には鮫淵さんとウハウハザブーンが 一緒にいるんだろ? 俺とお前よりも、あの二人の方が余程息が合っている」 『まこと それで いいのか』 「お前まで、何をそんな」 『まこと たいくつ そうだから』 「はあ?」 『おれは まこと すき だけど まこと よろこぶ こと あんまり しらない』 「いや、それでいいんだよ。俺は人間で、グルムは怪獣なんだから」 『だけど おれは なにか したい』 「だったら、まずは俺のノートを汚すのをやめてくれ。グルム用のやつを買ってやっただろうが」 『だって あれ ここに ない』 「だからってな……。ああ、板書を写したやつに被せて書くんじゃない、そこはダメだ」 真琴は再びグルムから鉛筆を奪おうとするが、赤い布はきつく巻き付いていて離れようとしない。ともすれば 鉛筆を折られてしまいかねないので、真琴は根負けして鉛筆を解放した。それから、カバンの中からグルムと会話 するためだけに使うノートを出して広げてやると、グルムは水を得た魚のように文字を書き連ねた。 『まこと ひとのこ すき だから ひとのこ やってきた こと しようと する だけど それは むり だって まこと ひとのこ ちがう だから まこと まこと にしか できない こと して ほしい おれ ずっと そう おもって いる だけど うまく いえない かけない ごめん』 「……充分解るさ」 グルムが鉛筆を離したので、真琴はその鉛筆を指の上で回転させた。何度も何度も何度も何度も。 「俺だって、兄貴の真似なんてしたくないし、そんなつもりはなかったんだ。だけど、気付いたら兄貴の背中を追い かけちまっている。好きでもないのにタバコを吸いたくなるし、俺の趣味とは正反対なのにスカジャンを着てみたく なっちまうしさ。兄貴が好きだった洋楽のレコードも聞いてみたけど、ギターがうるさいだけでピンと来なかった。 でも、兄貴が気に入っていた屋台のラーメンは旨かった。あれは俺も好きだな」 真琴は寝そべると、フォートレス大神の古びた天井を仰ぎ見た。兄が吸っていたタバコと悲が吸っていたタバコ のヤニが残っているから、時折あの匂いが流れてくる。その度に、やるせない気分になる。悲の私物はひとまとめ にして枢の元に送り届けたが、兄の私物はそうもいかなかった。高校を卒業するかという頃合いに真琴は急激に背が 伸びたので、兄の服を着ても袖も裾も余らなくなった。だから、お下がりを拝借するという名目で、兄の私物は一つも 捨てられなかった。それこそ、空っぽになったタバコのパッケージでさえも。 「俺はなんなんだろうな」 兄はソロモン王だった。そして、人の子だった。だが、自分はどうだ。 「ただの学生だ」 いずれ卒業し、就職し、結婚し、そして死んでいくだろう。 「それでいいんだ」 そうあるべきなのに、それを望んでいたはずなのに、釈然としない。 「ああそうだよ、そうなんだよ、面白くないんだよ!」 今正に、兄と両親は地球への旅を続けている。大陸怪獣アトランティスが地球に辿り着き、兄とその伴侶たる怪獣 が月に留まれば、今度こそ何もかもが終わってしまう。怪獣の世界が作り変えられ、それによって人間の世界も変化 が生じつつあるが、そんなのは些細なことだ。兄に出来たことがなぜ自分に出来ない、同じ血を引いているのに なぜ自分には何の力もない、なぜどこへも行けない、自分が何者かを見定める機会すらも得られないのか、と憤り さえ覚えてしまう。ざらついた畳に爪を立てるが、ささくれが刺さっただけだった。 「くっだらねえ」 他でもない自分がだ。真琴は身を起こし、ささくれを取るために安全ピンで薄皮を削いだ。後少しでささくれが 抜ける、というところで黒電話のベルが鳴り響いた。思いがけないことに驚いたが、辛うじて安全ピンを刺さずに 済んだ。グルムも多少驚いたのか、奇妙な形で硬直している。 「もしもし」 若干苛立ちながら電話を受けると、弾んだ声が聞こえてきた。 『真琴さんですか? 私です、枢です』 「あ?」 怪獣使いが電話を掛けてくるとは。いや、そりゃ使えるだろうけど。真琴がきょとんとすると、枢が慌てる。 『真琴さんの御都合がお悪いようでしたら、また日を改めて御電話いたしますが』 「あ、いや、そんなんじゃなくて。大したことじゃないですから。それで、俺に何か用でも?」 『御用と呼べるほどのものではないのですが……』 「じゃあ、何なんですか」 『秋奈さんから御電話の使い方を教えて頂いたものですから、どなたかに御電話を掛けてみたいと思ったんです けれど、海老塚さんはお店がお忙しいでしょうし、つぐみさんも学校がおありですし、玉璽近衛隊の方々は任務 と訓練がおありですし、ですから、真琴さんの御部屋ならよろしいのではないかと思いまして』 「つまり、俺は暇だと思われていたわけですか。大学生も結構忙しいんですけどね」 『申し訳ありません、勝手なことをしてしまって』 電話越しではあるが、枢が困惑しているのが伝わってくる。もしかすると、涙目にすらなっているかもしれない。 「すみません、言い過ぎました。それで、他に何か言いたいことはあります?」 さすがに居たたまれくなり、真琴が平謝りすると、枢の口調が明るさを取り戻す。 『先日、箱根に行ってまいりましたの! 紅葉の季節にはまだ早いのですけれど、広い湖で怪獣達がゆったりと水に 浸かりながら身を清められている様は壮観でした。彼らの怪獣電波も凪いでいて、気持ち良さそうでした。それで、 その帰りにお宿に寄って、外にあるお風呂に入りましたの。秋奈さんが御一緒して下さったんですけど、秋の風は ひんやりしているのにお風呂が暖かくて、とても気持ち良くて、ずっと入っていたいと思ってしまいました。その日 は東京には帰らずにお宿に泊まったんですけど、軍の基地とは比べ物にならないぐらい居心地が良くて、御料理が おいしくて、本当に楽しかったのです。こんなに素晴らしいことを独り占めしてしまうなんて、私、いけないことを してしまいましたね。あの日だけは具合も悪くならなくて、一度も吐き戻さなかったんですよ』 「普通の温泉旅行じゃないですか。気に病むことなんて何もありませんよ」 『秋奈さんも田室さんもそう仰っていました』 「だったら、なんで俺にまで聞くんです?」 『うーん……なんででしょうね。真琴さんにお話ししたくて、だけどいきなりお会いすることは出来ないし、お呼び出し するわけにもいかないので、お話だけするにはどうしたらいいのかと秋奈さんに訊ねたら、御電話してみたらどうかと 助言を頂いたのです。変な話ですけど、真っ先に思い浮かぶのが真琴さんのことなんです。真琴さんとお喋りした時の ことを思い出すと、胃腸の辺りの苦しさもすっと楽になるんですけど、それもなんだか不思議ですよね』 「確かにそれは変です」 『でしょう? 私と真琴さんが最後にお会いしたのは、猿島で海水浴をした時であって、それからはとんと御無沙汰 しているのに。帝国海軍が真琴さんとグルムを怪獣探索に駆り出した時、私もその現場に参る予定だったのですが、 別の公務が入ってしまったので、お会い出来ずじまいでしたし』 「まあ、どちらも特に会う用事もないですしね。カナさんの私物も全部お送りしてしまったし」 『ヲルドビスに行こうにも、なかなか時間が取れなくて』 「だったら、たまに電話してきてもいいですよ」 『よろしいのですか!?』 「ええ、まあ。この電話も使ってやりたいですし」 『でしたら、またお電話いたしますね!』 失礼いたします、おやすみなさい、と枢は電話を切った。がちゃん、と向こう側の受話器が下ろされても、真琴は しばらくの間は受話器を握っていた。久し振りに聞いた少女の声は、電話越しだからかほんの少し大人っぽくなった ような気がした。あの夏の日の光景が過ぎり、波の煌めきを背にして微笑む彼女が脳裏に蘇ると、訳もなく息苦しく なってしまった。相手に引き摺られるんじゃない、相手は十一歳の子供だ、馬鹿じゃないか、と自嘲するも、それに 反して記憶が次々に蘇ってくる。棚の上にある綾繁家の家紋の腕章を一瞥すると、痛みが心臓に及んだ。 頭がおかしいのは、兄だけではないらしい。 16 1/22 |