横濱怪獣哀歌




或ル愛ノ歌



 声が聞こえる。
 すぐ傍から、遥か彼方から、記憶の底から、遠い未来から、誰も彼もが忘れてしまった古い時代から。それを耳に するのが自分だけではなくなったと知った時、ほんの少しの悔しさと共に清々しい気持ちになった。怪獣達と人間達 の隔たりが日に日に薄くなっていき、時代が巡ると、人の子と呼ばれていた男は己の役割を見い出した。
 怪獣の伴侶である。




 ――――照和六十八年。四月某日。


 歌が聞こえる。
 はっきりとした歌詞はなく、しっかりとした旋律はないが、それでいて感情を揺さぶってくる。これはどこの怪獣 の言語だろう、その辺もちゃんと判別出来るようにならないと、南洋の古代文明由来なのは確かだけど、などという ことをぼんやりと考えながら、狭間真琴は電車に揺られていた。地球の周回軌道をゆったりと巡っている大陸怪獣 アトランティスが上空を過ぎったのだろう、街全体に大きな影が被さり、静かに遠のいていった。
 国鉄桜木町駅から横浜駅を経由し、都内へ向かう。怪獣監督省に出向き、怪獣Gメンの同僚達と仕事をこなした が、半ドンで切り上げて退勤した。朝方は寒かったので薄手のコートを着ていたが、昼間ともなると軽く汗ばむほど 日差しが強いので、コートは脇に抱えてスーツの襟元も緩めた。すると、赤いネクタイが独りでに動いた。

「大人しくしてくれ、急に動かれるとくすぐったいんだ」

 縫製怪獣グルムである。グルムは赤い目を瞬かせていたが、独りでに伸びて真琴のスーツの内ポケットを探って 手帳と鉛筆を抜き出した。それから、真琴が歩いていてもお構いなしで書き始めた。

『真琴、今日はいやに早いがどうしたんだ。お前がサボるとは思えないが』

「半ドンで上がったんだ、それぐらい解るだろ」

 真琴は手帳と鉛筆を取り返して通勤カバンに突っ込んでから、グルムも元に戻し、歩調を早めた。一連の出来事 に伴い、怪獣に関する法律が大幅に改正された。それによって怪獣の個人所有が可能となったため、真琴もグルムを 大っぴらに持ち歩けるようになった。怪獣を国家で管理して管理する法律は、元を正せば動力怪獣を徴発して 兵器に転用するための法律であり、戦争が終結して久しい今となっては経済を圧迫しかねない要因であると判断 されて改正された。それでも、個人で怪獣を所有するには役所の許可が必要なので、真琴も正規の手繋きを取り、 グルムを傍に置いた。もちろん、グルム当獣の意思も確かめた上でだ。

「今日と明日、枢は公務が休みなんだよ」

 真琴の言葉でグルムは半ドンの理由を察したらしく、にんまりと目を細めた。商店街に立ち寄ってオモチャ屋を 覗いてみると、セルロイドの鳳凰仮面の人形で溢れ返っていた。彼と敵対する怪人達の人形も山積みになって いて、子供達が群がっている。主役の鳳凰仮面に次いで人気なのが、鳳凰仮面の弟子である鳳凰仮面二号、次に 人気なのがその弟である鳳凰仮面三号だった。鳳凰仮面当人のスカーフの色は七色だが、二号のスカーフは紫、 三号のスカーフは赤である。子供達は首に似たような色合いの風呂敷やハンカチを巻いて走り回り、鳳凰仮面 ごっこに勤しんでいる。その光景に、真琴は居たたまれなくなった。

「俺の若気の至りが……」

 これでは、あの時の過ちを忘れようにも忘れられない。鳳凰仮面は、投げ技の初代、空中殺法の二号、関節技の 三号、という具合に戦い方も区別されているので、僕が初代だ俺が二号でお前は三号だ、と子供達は狭い店内 で騒いでいたが、その勢いのまま外へ飛び出していった。隣接している駄菓子屋にいた子供達も、鳳凰仮面ごっこ に加わるべく彼らを追いかけていった。甲高い歓声が遠のいていくと、真琴は嘆息した。

「いらっしゃい、まこちゃん」

 カウンターで店番をしていたのは、赤木進太郎だった。玉璽近衛隊を退役した後、どういうわけだか親戚の オモチャ屋を継ぐことになってしまったのだ。退役しても体は鍛え繋けているので、腕の太さは変わらない。

「どうも」

 にしても騒がしいですね、と真琴が笑みを返すと、赤木は苦笑する。

「あいつら、うちに来るだけで何も買っていかねぇんだよなぁー。ブロマイドの一枚でも買っていってくれたら、 とは思うが口には出せん。相手は子供だからな」

「アレの売れ行き、どうです?」

 真琴が鳳凰仮面グッズを指すと、赤木はにたつく。

「売れる売れる。野々村のおっさんも、紙芝居がここまで受けるとは思ってもみなかっただろう」

「火星から戻ってきてからしばらくしたら、紙芝居をテレビ漫画にしないかって持ち掛けられたんですよね」

「あの人は深く考えずに二つ返事でOKしたら、大幅に脚色された鳳凰仮面が大受けしてこの有様だ。世の中、何が どうなるか解ったもんじゃないな。当の本人は、未だにその辺の公園で紙芝居を上演し繋けているけどな」

 そうだろう、鳳凰仮面三号、と赤木に茶化されて真琴は赤面する。ネクタイと化しているグルムはしゅるりと体 を引き出すと、赤木へ笑みを向ける。

「鳳凰仮面三号が枢様をお守りするために大暴れしたのは一度や二度じゃないだろう?」

「あれはたまたまその場に居合わせたのと、玉璽近衛隊の警備が手薄になった隙を狙われたから、仕方なく応戦した だけですよ。グルムが頑張ってくれたからなりましたけど、ろくに鍛えていなかったから、あの後は筋肉痛でひどい 目に遭いましたよ。それがあまりにも辛かったから、今では筋トレが習慣になってしまいましたけど」

「いやあ凄かったな、あの飛び付き式腕ひしぎ逆十字! 相手が怪獣人間じゃなかったら大事だったな!」

「俺はあの技しか出来ないんですよ。色々とやってみたけど、腕ひしぎ逆十字しか覚えられなかったんですよ」

「だが、まこちゃんのおかげでグルムに似た性質の怪獣兵装の必要性が見い出されるようになって、研究と開発が 大いに進んだんだ。政府からも表彰されたし、帝国陸軍からは一時的とはいえ階級をもらったし、その時の謝礼金 で大分潤ったじゃないか。差し引きゼロだ」

「そもそも計算式として成り立っていません、利益よりも被害の方が大きいです」

「でもって、怪獣兵装適合者に訓練を行う教官は怪獣義肢と共に死線を潜り抜けてきた歴戦の兵士が相応しい、 ってことでうちの隊長が教官になって兵士共を扱いているが、仕上がりは上々だそうだ。これなら、また有事 が起きても問題はない」

「有事は起きないに越したことはないですけどね。魔法使いの技術を継承していくために研究機関を立ち上げる、 なんて話も出てきましたけど、マスターは関わっていないんですよね。あの人なしでどこまで出来るやら」

「税金の無駄遣いにならないことを祈る他はない。あと、氏家はどうしている」

「存じ上げていません。こちとら木っ端役人であって、御璽近衛隊に引き抜かれたエリートと関わることなんて 滅多にありませんよ。玉璽近衛隊と御璽近衛隊は役割からして違うんですから、会う機会すらないですし。そこまで 気になるなら、御自分で連絡を取ってみては?」

「それはそうなんだが、あいつのゲテモノ喰いを思い出すと二の足を踏んでしまうんだ」

「氏家さんは、戦時中は絶対国防圏の南洋諸島に配備されていたんでしたっけ。砲兵として」

「そうだ。その時の経験が未だに忘れられんとかなんとかで、あの有様なんだ。あんな輩を御璽近衛隊に引き入れる んだから、宮様の御考えはよく解らんな」

「まあ、宮様も要は怪獣ですからね。四年前に崩御なさるのではという噂が立ちましたけど、すっかり持ち直されて 御元気になられましたね。不敬もいいところなんですけど、あのまま宮様が崩御なさっていたら、今頃はどんな 元号になっていたでしょうかね?」

「新しい元号か、想像も付かないな。この分だと、照和は百年は繋きそうだからな。明慈と泰正は宮様が未成熟な状態 で孵化されたから短かったが、今度の宮様は成熟しきった状態でお生まれになったからな。で、今日はどうする。また 俺が見繕ってやろうか?」 

「いえ、自分で選びます。流行の主流と当人の価値観は違うことを嫌というほど思い知ったので」

 そう言ってから、真琴は棚という棚に陳列されているオモチャを見渡した。男児向けの超合金ロボや実在の怪獣を モチーフにしたビニール人形、神話怪獣が原型の人形、宇宙怪獣戦艦、大戦中の怪獣兵器などなど。女児向けの ぬいぐるみに着せ替え人形、ままごとセット、絵本やブロマイドと見比べていくが、これだというものがなかなか 見つからない。まあ頑張れ、と赤木に激励され、グルムからも引っぱたかれて叱咤され、真琴はそれに辟易しつつ も店内を巡った。妻に電話して聞いてみようかとも思ったが、それではダメだと思い直した。
 真琴が店を出たのは、それから二時間後だった。




 綾繁邸に到着すると、怪獣達が門を開けてくれた。
 ヒツギを始めとした怪獣行列を成す怪獣達がやってきて、真琴を導いてくれた。荷物を持とうとしてくれたが、 それはさすがに遠慮しておいた。広い庭園には桜が咲き乱れていて、春の訪れを謳歌している。あの日、横浜駅の地下 で目にした居住臓器の光景が過ぎる。きっと、綾繁哀は枯れることを許されなかった花々に自分を重ねていたの だろう。再びこの世に生まれたら、心穏やかに生きてほしいと願わずにはいられない。
 革靴の底で敷石を踏み鳴らし、落ち葉が掃き清められた玄関先に至ると、軍服姿の藪木丈治少尉が待ち構えて いた。その傍らには、和服にエプロンを付けた使用人姿の藪木秋奈が控えている。藪木は手術を繰り返して怪獣 義肢を縮小させつつ、身体能力を向上させたので、怪獣義肢を継ぎ接ぎした姿ではなくなっている。内臓を守る ためと防御力を向上させるために隙間なく外骨格を帯びているので、軍服の胸元ははち切れそうだ。言うならば、 人型の昆虫に近い。触角こそはないが、透視能力を備えた目と温度を視認出来る目を増やしたので、藪木の眼球 は四つに増えている。その膨大な情報を処理するための怪獣の脳も移植したので、どこまでが藪木でどこからが 怪獣なのかが解らなくなりそうで、意思も混ざりそうだが、今のところは藪木と怪獣達は齟齬を起こしていない。施術 したのは辰沼京滋技術少尉であり、その辰沼はすっかり宇宙衛星基地シスイに居ついてしまった。月とシスイの間 を行き来し、呼ばれれば火星にも赴き、怪獣義肢の研究に精を出しているのだそうだ。

「ういっすー」

 藪木は軍帽を上げて挨拶すると、その腰に提げられているライキリも鍔を上げて目を覗かせた。

「お待ちしておりました」

 秋奈が一礼すると、真琴も返礼する。

「こちらこそ、いつもありがとうございます」

「まこちゃんが上手いこと立ち回ってくれるおかげで、引導を渡す怪獣を見つけやすいんすよねー。怪獣が寿命を 自己申告してくれても、人間側がそれを無視するから、俺らが仕事をしなくちゃならないんすけどね」

 藪木は頭を下げて玄関に入ると、軍靴を脱いで上がった。

「つうか、俺の主要な任務って本来はそっちなんすけどねー。綾繁家の護衛は別の部隊の仕事なんすけどねー」

「だったら、なんで今回は枢の護衛を引き受けたんですか」

「そりゃあ、自分の嫁に会えるからに決まってんじゃないっすか。言わせないでほしいっすね」

 うへへへへへ、と藪木が肩を揺すると、秋奈は分厚いメガネの奥で目を伏せた。照れているのだ。

「……同意」

「その気持ちは解らないでもないですけど」

 板張りの長い廊下は冷ややかで、朝の冷え込みが残っている。真琴が尋ねると、秋奈は答えずに奥の間を示す。 昼下がりの日差しが障子戸を透かして差し込み、勇ましい龍型怪獣が描かれたふすまを照らしている。その中から は、明るく弾んだ声が漏れていた。庭先に控えている怪獣達も奥の間を見つめていて、真琴とグルムと目が合うと、 ちょっと気まずそうに身を引いた。別に遠慮することはないのだが。真琴がふすまに手を掛けるよりも早く、内側から 勢いよく開かれた。途端に、着物姿の少女が転がり出てきて真琴に飛び掛かった。

「おとおさまあーっ!」

 長い髪を振り乱しながら父親に抱き付いてきたのは、長女の綾繁つむぎだった。

「グルム、御父様を見張っていた? そう、よしよしよしよし」

 紬は真琴に抱き付いたまま、そのネクタイを引っ張り出して丸い頬を寄せた。

「ちゃんと御仕事もなさっていた? 悪い人に絡まれなかった? 変な女の人にたぶらかされなかった? うん、 そう、解ったわ。それでこそ御父様だわ。うふふふふふ」

 グルムは幼子の問い掛けに応じ、布地を僅かに波打たせる。それに伴い、怪獣電波を発しているのだ。

「御母様、聞いていらしたー?」

 紬が奥の間に問い掛けると、不満を隠そうともしない顔で袴姿の少年が現れた。長男の綾繁つなぎである。

「そんなこと、紬が聞くまでもないじゃないか。それに、御父様が品行方正なのは解り切ったことなんだから、毎度 毎度確かめなくてもいい。グルムから報告を受けなくても、玉璽近衛隊の監視役が逐一報告してくれるだろ」

つなぎ兄様、それでは御父様とお会いした時の楽しみがなくなってしまうわ。無粋ね」

 紬は双子の兄に言い返していたが、真琴の首に短い腕を回して離れようとしなかった。

「御父様、紬はいつもこうなんだ。怪獣電波の出し方も荒くて、うるさいったらありゃしない」

 繋は妹を忌々しげに睨んでいたので、真琴は娘を下ろしてから息子に腕を伸ばす。

「ほら」

「御父様、そんなことよりも」

「お前が来ないと、今度はつづりが飛んでくるぞ」

 真琴が末の子を示すと、繋はやや躊躇いながらも父親に近付き、その腕に収まった。途端に息子は甘えてきて、 饒舌に喋り始めた。その様を見、繋兄様ったら、と紬は羨望とも嫉妬ともつかない顔をしていたが、母親が膝を 叩くと途端にそちらに向かっていった。おかあさまあーっ、と威勢よく駆け寄っていった。

「御土産だ」

 赤木の店で買ってきたオモチャを渡してやると、繋は遠慮がちに宇宙怪獣戦艦の人形を受け取った。

「アトランティスだ」

「レムリアは好きじゃないんだろ? だから、今度はアトランティスだ」

「アトランティスは好き。ありがとう、御父様。ムーとパシフィカはまだ発売されていないの?」

「ムーは金星、パシフィカは木星にいるから、形を調べて模型を作ろうにも写真も撮れていないんだよ」

「僕には見えるのになぁ」

 繋は大陸怪獣アトランティスの人形をしっかりと抱きかかえ、天井を仰いだ。真琴も息子に倣う。

「そうか、そこまで見えるようになったか」

 繋は怪獣の目が目にした景色を見られる、千里眼のような体質を持って生まれた。当人がその体質を自覚する までは大変で、怪獣の目を通じて見たものの映像が強すぎるせいで肉眼で見たものとの判別が付かず、あるはず のないものを見て混乱したり、映像が重なっているせいで目の前の障害物にぶつかって転んでしまったり、怪獣同士の ぶつかり合いを感じ取っては泣き喚いたり、と。今は視認しているものとそうでないものの区別が付けられる ようになったので、なんとかなっている。

「わたくしは御歌が上手くなったのよ! 御父様にお聞かせしてあげたいけど、ここで御歌を歌うと怪獣達が 御仕事をしなくなってしまうから、歌ってはいけないのだけれど」

 紬は立ち上がると、ばさばさと袖を振り回した。紬が持って生まれた体質は、従来の怪獣使いに通じるものでは あったが、歌を通じて怪獣電波を放つと無条件で怪獣を鎮静化してしまうというものだ。我を忘れて暴れ回る怪獣 を眠らせたり、過熱しすぎた怪獣を鎮めるためには極めて有効だが、怪獣を鼓舞することは出来ない。だが、兄と 同様に子供の頃は自分の体質を理解していなかったので、母親の真似をして歌っては手近な怪獣を問答無用で昏倒 させてしまい、そのせいで事故が起きたのは一度や二度ではない。怪獣行列が丸ごと墜落したり、綾繁邸の傍の道路 を行き交う車が急停止して大渋滞が起きたり、発電怪獣を眠らせて大停電を起こしたり、と。なので、紬が歌う時 は枢も歌い、その威力を相殺させている。

「ああ、そいつは残念だな」

 ほら御土産だ、と真琴が箱入りの着せ替え人形を差し出すと、紬はピンクの箱を受け取った。

「あら……。この子、うちにいるわ。田室の小父様が買って下さったのよ」

「ん、あー……悪い。そこまで把握していなかった。そうか、ダブっちまったのか」

「でも、いいわ。この子は妹にするから。ありがとう、御父様!」

 箱を抱き締めてから、紬は慌ただしく駆けていった。この落ち着きのなさは誰に似たのだろうか。枢でも真琴でも ない、ともすれば悲かもしれない。紬はヒツギの爪を借りて人形の箱を開け、早速取り出して遊んでいる。悲が現世 から去って久しいが、その息吹は確かに息づいている。
 それでは俺らは引っ込んでおくっす、と言い残して藪木と秋奈は去っていった。二人を見送ってから、真琴は 息子を抱えて奥の間に入った。綿の厚い座布団にちょこんと座って怪獣人形を振り回していた末の妹の綴は、父親と 兄を見上げてきた。それから、不満げに怪獣人形を畳に打ち付けてきたので、真琴は末っ子も構ってやった。繋と 紬は五歳、その下の綴は三歳になる。そして、母親の枢は今年で二十三歳になる。

「皆、元気だな」

 真琴が妻に微笑みかけると、長い髪を一纏めにしている枢は笑みを返してきた。妊娠と出産を経ても美貌に陰りは なく、母親としての覚悟が深みを与えている。久し振りに夫に会える日だからか、薄く化粧していた。

「ええ、元気すぎるほどに。秋奈さんや使用人の方々がいなければ、手に負えませんね」

「悪いな。出来れば、一緒に行ってやりたいんだが」

 真琴は綴を膝に乗せ、柔らかな髪を撫でた。綴は小さな手を伸ばし、父親に向けてくる。

「おとおさま!」

「仕方ありませんよ、私の公務と真琴さんの御仕事は別物なのですから」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ双子を一瞥してから、枢は物静かな末っ子を愛でる。綴の足元には、折れたクレヨンと画用紙 が散らばっていて、不定形な形が描かれていた。それこそが綴の体質で、怪獣の意思を読み取って図形を描くこと が出来るというものだ。グルムのように文字を操れる怪獣はほとんどいないし、文字という人間の主観を介さずに直接 怪獣の意思が現れるので、怪生研のような研究機関には重宝されている。だが、当の綴はそんなこととはつゆ知らず、 思い付くままに絵を描いていくので、宮様が枢に与えてくれた屋敷は今や落書きだらけである。

「体、大丈夫か?」

 真琴が妻を案じると、枢は微笑む。

「ええ。マスターのお薬のおかげで怪獣毒素もすっかり抜けましたし、体力も付きましたし、胃腸も落ち着いています から。真琴さんこそ、御無理はなさらないで下さいね。出張も多いでしょうし」

「どうってことはない。怪獣Gメンといっても、俺の仕事はデスクワークばっかりだからな」

 真琴は左手の甲で妻の頬に触れると、金の結婚指輪が輝いた。真琴が綾繁家に婿入りしたのは七年前のことで ある。枢が十六歳、真琴が二十三歳の頃で、式を挙げたのは枢の十六歳の誕生日だった。だが、綾繁家に婿入りした ことを公表するとまた厄介なことになりそうなので、真琴は名字を変えなかった。枢はそれを了承してくれただけ でなく、狭間の名を途絶えさせるべきではない、とすら言ってくれた。二人が同居したのは新婚して間もない数週間 だけで、真琴が怪獣監督省の職員となり、枢が怪獣使いとして真日奔の各地をを巡るようになると、一緒にいること すらままならなくなった。会えない時は電話で話し、時間が作れる時は数分でも会い、繋がったものを緩めない ように尽力した結果、繋と紬が生まれ、更に綴が生まれたというわけだ。

「あの……」

 枢が遠慮がちにスーツの袖を引いてきたので、真琴は少し迷ったが、グルムを襟元から抜いて末っ子に渡した。 程なくしてグルムが発した怪獣電波を感じ取った怪獣達がやってきて、藪木と秋奈も戻ってきたので、真琴は子供 達を彼らに任せてから奥の間から離れた。枢の自室に入るや否や、妻は抱き付いてきた。

「真琴さああああん!」

 力一杯しがみ付いてきた枢に、真琴はにやける。

「はいはい」

「お会いしたかったですぅううっ!」

「俺も」

「寂しかったですぅううっ!」

「だから、俺もだって」

 真琴は苦笑しつつ、枢を宥める。背中に回された手には力が込められ、スーツにシワが刻まれている。

「子供達もですけど、私のことも構って下さいよぉ!」

「今から構うんだから、ちったぁ落ち着いてくれ」

「あの……だから……」

 急に勢いを失った枢は、躊躇いがちに夫を見上げてきた。

「解っているって」

 真琴は枢の頬に触れてから、身を屈めて唇を重ねた。ほのかな白粉と香水の匂いが立ち上り、真琴は良からぬもの が疼きかけた。だが、それは子供達が寝た後だ。たっぷりと時間を掛けて触れ合ってから、ようやく枢は身を引き、 呼吸を整えた。唇を彩っていた朱色が崩れ、息を荒げる様がたまらなく悩ましい。すると、枢は真琴の唇に触れ、 唇の端にこびり付いていた朱色を拭い去っていった。それから、照れ臭そうに目を伏せる。

「いやだ、私ったら。はしたない」

「次はいつ会える?」

 唇に残る妻の甘みに浸りながら真琴が問うと、枢は顔を逸らす。

「明後日になれば、また公務が始まります」

「俺もまた出張だ。月を経由して火星に行くから、一ヶ月は帰れそうにない」

「ですから、その」

 枢の細い指が、真琴のスーツの袖を引く。すかさず、真琴はその手を取る。

「嫌だと言っても可愛がる」

「……そんなこと、言いません」

 意地悪しないで下さい、と枢は袖口で顔を覆うが、その耳元と首筋は赤らんでいた。この分では、四人目が出来る のも時間の問題だろう。世継ぎを産むためという大義名分があるから、どちらも遠慮する必要がないからでもある。 枢は再び身を預けてきたので、真琴は存分に応じてやった。唇を吸い合い、互いの重みと体温を感じながら、日々 の忙しさを忘れる。怪獣達の声も遠のき、子供達のやかましさも薄らぎ、妻の肌を縁取る日差しが眩しい。
 この世界は愛おしい。





 


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