勝負は、呆気なく付いた。 やはり、勝利を収めたのはグレイスだった。ロイズは、正視するのが憚られるほど痛め付けられてしまった。 己の血溜まりに突っ伏しているロイズの戦闘服は派手に切り裂かれ、その間からは肉と筋が垣間見えていた。 グレイスの放った魔法を素手で受け止めたために両手の爪は割れ、指先は吹き飛び、白い骨が覗いていた。 対するグレイスはロイズの返り血を少々浴びている程度で、服装すら乱しておらず、至って涼しい顔をしていた。 タイを締めていた襟元を緩めたグレイスは、さも満足げに笑ってから、革靴のつま先でロイズの肩を小突いた。 「精神世界ってのは、本人の意思が反映されているから生身よりも肉体の強度はあるはずなんだがなぁ」 ロイズは濁った呻きを漏らしたが、動かなかった。 「ま、その程度ってことだ」 グレイスの口調には罪悪感も後悔もなく、心底楽しげだった。すっかり機嫌も良くなっていて、浮かれている。 二人の戦闘は、グレイスが一方的にロイズに攻撃を撃ち込んでいただけでしかなく、激しいどころではなかった。 ロイズの体から流れ出る血の多さに居たたまれなくなったリリは、フリューゲルの傍に座り込んで青ざめていた。 この精神世界を成しているのはリリの魔力なので、リリの感覚にはロイズの痛みも感情も流れ込んできたのだ。 同時に、ロイズを攻め立てるグレイスの快感や愉悦も流れ込んでくるので、リリはすっかり気が滅入ってしまった。 この精神世界を構成させているグレイスの残留思念は、リリの魔力中枢に直結しているので、感覚も切れない。 現実ではないことが唯一の救いだったが、鼻を突く血生臭さやロイズから感じる苦痛はあまりにも痛々しかった。 吐き戻してしまいそうになったが、なんとか堪えた。ロイズは頑張っているのだから、吐いたりしたら申し訳ない。 肩を足で押され、ロイズは仰向けに転がった。胸部と腹部に空いた貫通痕からは、じわじわと血が溢れ出した。 両親が死に際に感じていた感覚もこんなものなのだろうか、と想像しながら、目を動かしてグレイスを見上げた。 歯が立たない以前の問題だった。グレイスの傀儡であるレベッカよりも、グレイス本人の方が遙かに強かった。 魔法の精度、攻撃の出力、咄嗟の状況判断、戦闘技術の豊富さ、そして、終始冷静に物事を考えて戦っていた。 口ではあれほど感情的なことを言っておきながら、行動は冷静とは卑怯に思えるが、それは彼の戦略なのだろう。 感心すると共に、圧倒的な敗北感に打ちひしがれていた。生身でなくて良かった、と思った自分が情けなかった。 戦うからには決して負けてはならないのに、どんな状況であれ全力でなければならないのに、逃げを見つけた。 事実、心のどこかで負けを決め込んで諦めた節がある。強くなったと思っていたのが、思い上がりだったからだ。 押し潰されそうなほどの自責で涙が出そうになるも、歯を食い縛った。折れた歯が口の中を切り、血が滲み出た。 「よう、ヴィクトリア」 グレイスの上機嫌な声で、ロイズは目線を動かした。白い衣装に身を包んだ彼女が、傍に立っていた。 「ダニエルの息子だって言うから少しぐらいは歯応えがあると思ったが、てんで大したことなかったな」 ヴィクトリアは眉一つ動かさずに、掠れた呼吸を繰り返すロイズを見下ろした。 「オレを怒らないのか、ヴィクトリア?」 グレイスに笑顔で問われ、ヴィクトリアはようやく口を開いた。 「怒らないわ、お父様。だって、これはロイズが状況判断を見誤ったから起きた結果なのだわ」 「そう来たか」 嬉しそうなグレイスに、ヴィクトリアはぱちりと扇を閉じた。 「ええ、そうよ、お父様。賢い人間であれば、お父様に敵う人間がこの世に存在しないことぐらい解っている はずなのだわ。これだって、異能者の端くれなのだから、その程度のことは感じ取っているはずなのだわ。なのに、 粋がってお父様と真正面から戦ったりするからこうなるのだわ」 ヴィクトリアは白いドレスの裾を赤黒く染めながら、ロイズの傍に膝を付き、その胸倉を持ち上げた。 「自分の実力を思い知りなさい。所詮、その程度の男でしかなくってよ」 乾いた音が響き渡り、ロイズの頬が張り飛ばされた。ヴィクトリアはロイズを殴った手を下ろし、唇を噛み締めた。 だが、ロイズの胸倉を掴んでいるヴィクトリアの手は僅かに震えていた。白い長手袋に血が染み、滴り落ちる。 「あなたがお父様に勝てると思って? お父様は数え切れないほどの場数を踏んできている上に、あなたが 生きた年数なんて馬鹿馬鹿しく思えるくらい長い年月を生きていらしたのよ。どんなことにも対処出来るに決まっていてよ。 たとえ万に一つに勝機があったとしても、それを覆せるような考えを持ち得ているのだわ。それなのに挑むなんて、 あなたって、本当に愚かだわ!」 ヴィクトリアは珍しく声を荒げ、ロイズを揺さぶる。 「あなたは私に何を求めて、お父様に何を期待して戦ったの? 答えなさい! 答えなければ承知しなくってよ!」 ごぼっ、とロイズの喉の奥に溜まった血が迫り上がった。ロイズはヴィクトリアの手を離させ、血を吐き出す。 咳き込むたびに何度となく蹴られた背中と胸部と腹部の穴が痛むが、霞む目を開いてヴィクトリアを見据えた。 「一言で言えば、面白くなかったんだよ」 ロイズは折れた歯を吐き捨てて、血と胃液に汚れた口元を拭った。 「お父様、お父様、お父様、ってそれだけしか言わなかっただろ」 「…それだけのことで?」 ヴィクトリアが目を剥くと、ロイズは再度咳き込んでから返した。 「止めてくれたらすぐにでも止めるつもりだったけど、止めもしないから別にいいのかなぁって思ってさ。確かに、 僕も勝てるとは思っていなかったけど、ここまで徹底的にやられるとは思ってもなかったよ」 魔力を全身に回して傷口を塞いだが、ヴィクトリアに張られた頬の痛みだけは残し、ロイズは言った。 「今度ばかりはヴィクトリアが正しい。殴るんだったら、好きなだけ殴っていい。死に別れた父さんとせっかく会えたのに、 僕が余計なことをして邪魔をしたのは間違いないしね」 「だって、それはお父様が」 「君の父さんを調子に乗らせたのは僕だ。だから、責任は僕にある」 「ええ、そうよ、全てあなたがいけないのだわ!」 ヴィクトリアは腹立たしげに喚き、ロイズに詰め寄る。 「そんなことにために戦う意味がどこにあって!? その傷と流した血には何の意味もなくて!? 精神世界だからと いって、生身に影響がないわけではないのだわ! どれだけ私が、どれだけ…」 灰色の瞳をうっすらと潤ませたヴィクトリアは語尾を弱らせ、目を伏せた。 「ごめん」 ロイズはヴィクトリアの唇の端が切れていることに気付き、手を伸ばした。だが、その手が弾かれた。 「だから触るなっての!」 もちろん、グレイスの仕業だった。途端に不機嫌になったグレイスは、またいきり立っていた。 「いいか、もう一度でも触ったらその首を切り落として暖炉の上に飾ってやるからな!」 「ケチだなぁ」 ロイズが不平を漏らすと、グレイスは身を屈めてロイズに顔を寄せた。 「なんだったら、また戦うか? うん? まともな体で生きて帰れると思うなよ!」 「もうまともじゃないんですけどねぇ」 腹に穴が空いたし、とロイズが腹部を押さえると、グレイスは唇をひん曲げた。 「もう塞がったじゃねぇかよ」 「この…」 ヴィクトリアはロイズの胸倉を掴んで引き寄せ、頬を張るために右腕を高く掲げたが、振り下ろせなかった。 無謀な戦いをしたロイズへの怒りよりも、ロイズが死ななかった安堵感が勝ったため、怒りが削がれてしまった。 意志とは裏腹に目頭まで熱くなってきて、ヴィクトリアは強烈な羞恥に苛まされてしまい、顔を覆って項垂れた。 そのまま体を預けた先は生温く鉄臭い血に汚れた戦闘服の胸元で、余計に恥ずかしくなって顔を上げられない。 肩に手が回されたことが解ったが、女々しいことを言ってしまった自分が情けなくてたまらず、固まってしまった。 「で、どうします?」 胸に寄り掛かってきたヴィクトリアの肩に手を回しながら、ロイズはグレイスを見上げてにやりとした。 「その頭だけでも吹っ飛ばしてやろうか」 グレイスがむっとするも、ロイズは開き直っていた。 「心配しなくても、ヴィクトリアは充分親離れしてますよ。あなた方が、僕らの目の前で死んだせいで」 「ロザリアも、か?」 遠慮なく叩き付けられた事実に、グレイスは勢いを失った。ロイズは頷く。 「僕は目の前で父さんが死んだことで精一杯だったからあまり覚えてないんですけど、少佐から聞いた話では、 ロザリアさんはヴィクトリアを守るために戦おうとしたところをエカテリーナに殺されたんですよ。で、その直後に、 アレクセイに胴体を貫かれた状態のあなたの死体が僕らの前に曝されたんです」 「ギルディオス・ヴァトラスは」 「少佐も死にましたよ。僕らを生かすために、ファイド先生と戦ってくれたんですよ」 「ああ、そうか…」 グレイスは空しさと切なさを混ぜた声を漏らし、灰色の城を仰いだ。 「全部、終わっちまったんだぁ」 「フィフィリアンヌさんの話に寄れば、あなたもファイド先生の手駒にされていたそうですけど、気付いていました?」 「そんなもん、当たり前だ。ブリガドーンの話を持ちかけられた時から、何かあるとは思っていたさ」 「なのに、やられたんですか」 「ああ、やられちまったんだよ。けど、後悔はしてないぜ。オレの両手で、ヴィクトリアの未来を守れたんだからよ」 グレイスは一度目を閉じてから、開いた。その眼差しからは、子供染みた苛立ちは抜けていた。 「ロイズ。お前とも、生身でやり合いたかったぜ。その生意気な横っ面を、全力で張り倒してやりたいよ」 「でも、認めちゃくれないでしょうね」 「ああ、絶対に認めやしねぇよ。大体、根本的な部分で釣り合わねぇだろうが」 「それは僕も気付いていますけど、でも、僕以外の誰がヴィクトリアの相手が出来るんですか?」 「それもそうだな。お前ぐらい馬鹿な男じゃねぇと、うちの我が侭お姫様の相手は務まらないかもしれねぇな」 でも認めない、とグレイスがにやけたので、ロイズは辟易した。 「やっぱりケチだなぁ」 「親心と言え、親心と」 グレイスは屈むと、ヴィクトリアの肩に触れた。 「ヴィクトリア」 「お父様…」 ヴィクトリアはロイズの血と照れで頬を赤く染めながら、父親に向いた。 「ヴィクトリア。結構、楽しそうに暮らしてるじゃねぇか。安心した」 グレイスの優しい笑顔に、ヴィクトリアは張り詰めていた神経が緩んでしまい、ぼろぼろと涙が溢れ出した。 「でも、やっぱり、お父様とお母様とレベッカ姉様がおられないと、寂しくってよ」 「オレも寂しい。けど、それでいいんだよな」 グレイスはヴィクトリアの頭を、幼子のように撫でた。妻とよく似た顔立ちに成長した娘を見つめ、目を細める。 「綺麗になったな、ヴィクトリア。ロザリアと同じくらいに」 「いいえ、私はお母様には敵わなくってよ。お父様にも、追いつけなくってよ」 ヴィクトリアはグレイスの胸に縋り、声を詰まらせる。グレイスは、その背を愛おしげに抱き寄せる。 「ありがとう、ヴィクトリア。お前は最高の娘だ、愛している」 「私も愛しているわ、お父様」 「けど、さよならだ」 グレイスはヴィクトリアを離すと、立ち上がった。 「少しの間だったが、楽しかったぜ。オレが本体じゃなくて残留思念だってのが物凄く惜しいが、きっと天上の どこかで本体もオレの思念を感じ取っているはずさ。自分で言うのもなんだが、根性が捻くれた野郎だからな。十年か そこいらじゃ、転生なんてしねぇだろうし」 「お父様」 ヴィクトリアは、影が薄らぎつつあるグレイスを見上げた。様々な思いが迫り上がり、胸の奥が締め付けられる。 両親が死んだばかりの頃の寂しさや苦しみを思い出し、引き留めようと手を差し伸べかけたが、踏み止まった。 ロイズに促されて立ち上がったヴィクトリアは、グレイスに深々と礼をした。涙を拭い去ってから、笑顔を見せた。 「さようなら、お父様」 「またな、ヴィクトリア」 グレイスも愛情に溢れた微笑みを返すが、その姿は掻き消え、人灰に似た灰色の粒子がかすかに舞った。 ヴィクトリアが手を伸ばすも、触れる前に灰色の粒子は消え去り、背景の灰色の城も薄らいで消え始めていた。 ロイズは立ち上がると、ヴィクトリアを抱き寄せた。ヴィクトリアは必死に嗚咽を殺しながら、ロイズに縋り付いた。 そうでもしなければ、大声で泣き出してしまいそうだった。懐かしさと愛しさと寂しさが、あらゆる感情を押し出した。 そして、いつのまにか、何もかもが消えていた。 頭痛と全身のだるさが抜けず、目を覚ましても起き上がれない。 リリは冷え切ったテーブルに突っ伏したまま、寒気を感じた。一度身震いしてみるも、体温は上がらなかった。 傍らには目元から外れたメガネが落ちていたが、そこからは何も感じなかった。魔力も思念も、全て失せている。 グレイスの残留思念は、天に召されたのだろう。白昼夢のような気もするが、しっかりと記憶が焼き付いている。 背後には屍のように手足を投げ出しているフリューゲルがおり、向かい側の二人も未だに突っ伏したままだった。 一番先に目覚めた者の役割として、まず部屋を暖めなくては。リリは気合いを入れ直して、勢いを付けて起きた。 グレイスに湯水のように魔力を使われたので少し頭がふらついたが、この程度なら夜になる頃には戻るだろう。 朝だったはずなのに、窓の外は薄暗くなっていた。西日も落ちてしまったらしく、藍色の空では星が瞬いている。 道理で冷えてきているわけだ、と思いながら、リリは暖炉に薪を放り込んで視線を凝らし、薪を素早く点火した。 ランプにも火を入れて部屋に明かりを付け、冷めた紅茶が残っているティーカップを回収していると、気付いた。 未だに目覚めないヴィクトリアとロイズの手が、いつのまにか握り合っていた。きっと、無意識に繋いだのだろう。 精神世界での出来事が、肉体にも影響を及ぼしたのだ。リリはそれを微笑ましく思いながら、台所に向かった。 次に目を覚ましたフリューゲルが起き上がり、半覚醒状態の頭をがんがんと叩きながら、リリの傍にやってきた。 リリが唇の前に指を立ててから二人を示すと、フリューゲルは頭を叩くのを止め、寝入っている二人を見やった。 「もうちょっと、寝かせておいてあげようよ」 リリが小声で言うと、フリューゲルは頷いた。 「うん。それがいいな」 二人は一度顔を合わせ、笑い合った。グレイスの残留思念がもたらしたのは、一日限りの淡い夢だった。 だが、その夢の中には様々な思いが満ちていた。しかし、それらの根本は家族や恋人への弛まぬ愛情だった。 ヴィクトリアとロイズの間にも、いつのまにか固い絆が出来ていた。リリとフリューゲルが入り込む隙間はない。 それを少しばかり寂しく思いながらも、二人が進展したことが嬉しくて、リリはにやけながら台所仕事を始めた。 とても充実した、休日だった。 志半ばで命を落とした呪術師の遺品に焼き付くは、一人娘への思い。 仮初めの世界で繰り広げられた偽物の戦いが残したのは、偽りのない愛情だった。 伝えられなかった思いを告げた娘は、異能の少年と新たな時を行く。 死者の残滓を握り締め、生者は歩み続けるのである。 08 1/12 |