ドラゴンは滅びない




巣立ちの時




 ロイズは、一息吐いていた。


 肉体的にはそれほど疲労していないはずなのに精神的に疲弊してしまい、手足がやたらと重たくなっていた。 似合わない礼服の上着を脱いで肩に引っ掛け、講堂を離れた。窓から漏れる明かりが、暗い裏庭に零れている。 講堂の中からは、絶え間ないざわめきと音楽が聞こえる。卒業式の後に始まった舞踏会は、なかなか終わらない。
 宴の類は、どうにも慣れない。騒がしいことはあまり嫌いではないのだが、華やいだ雰囲気が肌に合わない。 礼服も、一時間も着ていたら息が詰まってしまう。腰を絞ったドレスを着ている女子生徒達には、感心してしまう。 ドレスも化粧も髪も凝りに凝っていて、普段は目立たない女子生徒も今日ばかりは主役になろうと躍起になっている。 だが、それほど興味はなかった。黒人であり、奴隷上がりの平民という設定のロイズは、学校では浮いている。
 この学校の大多数は白人の生徒で、黒人の生徒は数えるほどしかいない上にロイズよりも肌の色が薄い。 ロイズは父親は黒人だが母親は白人なので、肌の色は薄い方のはずなのだが、それでも目立ってしまっていた。 おかげで、共和国から転入した当時から陰口や蔑みが絶えなかったが、今となってはそんなものは気にならない。 暴言を吐かれようと、陰で殴られようと、教師から見下げられようと、十年前の苛烈な戦いに比べれば子供騙しだ。 ゼレイブに来る以前も、連合軍との交戦を繰り返しながら逃亡を繰り返していたので、大分堪え性が出来ていた。 数日間は何も食べられなくても平気だし、体力も精神力も付いたので一晩眠らずに行軍することも出来るだろう。 あの頃に比べれば、今の暮らしは夢のようだ。寝る場所があり、簡素だが食事もあり、おまけに人並みに学べる。
 そんな中でロイズを蔑む者達は暇なのだろう。或いは、見下す存在を作って心の平穏を保っているのだろう。 学校という閉鎖社会に押し潰されそうな脆弱な心を守るには、逃げ道を作り、そこに感情を吐き出すしかない。 正直鬱陶しいのだが、連合軍と国際政府連盟から監視を受けているので、下手に殴り返せないのが歯痒かった。 殴り返せさえすれば一発で昏倒出来る自信も腕力もあるのだが、問題を起こして連行されてしまいたくなかった。 監視役の諜報員だけでなく教師にも目を付けられているのだから、些細なことでも問題を起こすわけにはいかなかった。 だが、それも今日で終わりだと思うとほっとする。監視からは解放されないが、学校からは解放されるのだから。

「ロイ、こんなところにいたんだ」

 その声に振り返ると、窓から零れる明かりを背負った少女が立っていた。

「講堂からいなくなっちゃうんだもん、どこに行ったのかと思った」

 長い薄茶の髪を結い上げて金の髪飾りを差し、幼さが濃く残る顔に薄化粧を施しているが、リリに違いなかった。 リリは薄青のドレスの裾を引き上げ、ロイズへと駆け寄ってきた。ロイズは向き直り、幼馴染みの少女を出迎えた。

「ああいうの、好きになれないんだよ。そういうリリは?」

「私は楽しいけどな、踊るのって好きだし」

 リリは肘の上まである白い手袋を填めた手を扇ぎ、汗ばんでいる首筋に風を送った。

「でも、熱くなっちゃって。楽しいんだけど、楽しすぎて興奮しちゃうんだ」

「熱冷ましに来たってわけか」

 ロイズは手近なベンチに腰を下ろすと、リリもその隣に腰掛けた。

「うん。フリューゲルに魔力を注げば冷めることには冷めるんだけど、体に籠った熱を抜くには時間が掛かるから」

 ああ熱い、とリリはハンカチを取り出し、大きく開いた襟ぐりの胸元や首筋の汗を拭った。

「十曲も踊っちゃったから、足も痛くなっちゃった。かかとの高い靴って可愛いけど、可愛いだけなんだよねぇ」

「実用性皆無だよなぁ」

 ロイズはリリのドレスの裾を引っ張り上げ、リリの靴を見た。つま先は鋭く尖り、ヒールは針のように細い。

「ヴィクトリア姉ちゃんは凄いよ、いつもこんな格好をしているんだもん。私なら一日で嫌になるね」

 リリはドレスの裾を引っ張り上げるロイズの手をぴしゃりと叩いて、裾を下ろさせた。

「コルセットで腰もお腹もぎゅうぎゅうに締め付けられているし、髪も大して長くないのに無理に結ったから 首筋の皮が引きつって痛いし、自分の香水と化粧の匂いでうんざりしちゃうし、しかも踊らなきゃいけないんだから 大変だよ。本当に、貴族に生まれなくて良かったよ」

「踊るのは嫌いじゃないんだろ?」

「踊るのは、だよ。それ以外のことは、あんまりね」

 リリは靴を脱ぐと、ベンチの下に並べた。窮屈な靴から解放されたつま先には、痛々しい赤い痕が付いていた。

「そういうロイはどうなの?」

「踊る相手がいないから、踊るに踊れないんだよ。リリが来てくれたら、もう少しは講堂にいたと思うけどね」

「それって当て付け?」

「いや、皮肉だよ」

 礼服を傍らに置いたロイズはシャツの襟元を緩め、タイも緩めた。

「ごめんね、ロイ。行こうとは思ったんだけど、皆が誘ってくれるから蔑ろには出来なくて」

 リリが苦笑すると、ロイズは横目にリリを見やった。

「まあ、いいけどね。どうせこの格好でヴィクトリアのところに行けば、嫌でも踊らされるはずだし」

「そうなの?」

「そうなんだよ」

 ロイズはベンチの背もたれに寄り掛かり、不愉快げに顔をしかめた。

「礼服を作るために街まで行ったついでにヴィクトリアの家に寄って、卒業式のことをちょっと話したら、 妙に乗り気になっちゃってさ。練習だとか言われて、散々踊らされたよ。悔しいことに、僕より上手いんだよ」

「ヴィクトリア姉ちゃん、器用だもんね」

「礼服を見せてやろうかって言ったら、そんなものは見たくもなんともない、って言うくせして顔が緩んで いるんだよ。だったら見せない、とか言ってやると、今度は食い下がってきてさ。見たいなら見たいって 最初から言えばいいのに、回りくどくて面倒臭いよ」

「でも見せに行くんだ」

「見せなきゃ、後がもっと面倒だからな。どれだけ拗ねられることやら」

「仲良いね、相変わらず」

「どこがだよ」

 ロイズは盛大にため息を吐き、口元を歪めた。

「あんなに面倒で厄介な女となんて、出来れば付き合いたくないよ。でも、僕達の境遇が境遇だから、 離れるわけにいかないんだよ。放っておいたら何をやらかすか解らないから、見張っておかなきゃならないしね」

「意地っ張りぃ」

「誰も意地なんか張ってない。意地っ張りなのはヴィクトリアの方だ」

 ロイズがむっとして言い返すと、リリはくすくす笑った。

「可愛いなぁ、ロイもヴィクトリア姉ちゃんも」

「どこも可愛くない。ていうか、あいつに可愛げなんてあるかよ」

「えー、可愛いじゃない。ロイと踊ったのだって、他の女の子に先を越されたくなかったからだと思うな」

「そうなのかなぁ」

「まあ、私の推測に過ぎないけどね。でも、そんなところじゃないかな」

「解るようで解らないよ」

「ロイだって、ヴィクトリア姉ちゃんの処女は奪いたいでしょ? それと一緒だよ」

 リリがさらりと言い放った言葉に、ロイズは面食らった。

「下品なこと言うなよ。酒でも引っ掛けてきたのか?」

「私にお酒は利かないから、それはないよ。素面も素面だってば。小さい頃にお父さんのお酒を飲んじゃった ことがあるんだけど、ちっとも酔わなかったから。お母さんも酔わないし、お父さんは馬鹿みたいに強いし。それに、 フィル婆ちゃんが言っていたんだけど、竜族はお酒には酔わない代わり、コーヒーに酔うんだってさ。不思議だよね」

「じゃ、コーヒーなのか?」

「私はコーヒーにも酔わないよ。お母さんの血よりも、お父さんの血が濃いのかもね」

 リリは裸足の両足を投げ出すと、夜空を仰ぎ見た。

「ねえ、ロイ。初めて会った時のこと、覚えている?」

「忘れるわけないだろ」

 ロイズもリリに倣い、夜空を見上げた。ゼレイブに注ぐ星明かりもまた、同じなのだろう。

「ロイとダニー小父さん達がゼレイブに来た時、私、ロイのことがちょっと怖かったんだ。だって、ダニー小父さんって お父さんよりもずっと目が怖いんだもん。ロイもなんだか困った感じだったし、他の小父さん達も警戒心の固まりで、 あっけらかんとしていたのはヴェイパーだけだった。でも、同い年の子供に会うのはロイが初めてだったから 嬉しかったなぁ。次の日から一緒に遊んで、山にも登ったし、釣りも一杯したよね。三人でギル小父さんに悪戯をして、 お母さんから物凄く怒られたっけ。その時だったよね、ロイがやっとまともに笑ったのは」

「ああ、そうだったな」

 ロイズは子供の頃の蛮行を思い出し、苦笑いする。

「悪いことだとは解っていたんだけど、少佐が本気でビビったのがどうにも可笑しくってさぁ。それまでは 笑うに笑えなかった、というか、父さんに遠慮していたんだよ。あの頃の父さんは一番荒れていたから、 笑っただけでも怒られるような気がしてさ。母さんが死んでからは、ずっとそうだったから」

「あの頃が一番楽しかったけど、一番辛かったなぁ…」

 リリは目元に滲んだ涙を拭おうとしたが、その手を止めた。化粧が崩れてしまうからだ。

「ロイとヴィクトリア姉ちゃんがブリガドーンに攫われたのは、私のせいだしね。そのせいで、ダニー小父さんと ヴィクトリア姉ちゃんのお父さんとお母さんも死んじゃったわけだし。今だから言えるけど、ロイと一緒に暮らす ようになったばかりの頃、ロイのことがちょっと怖かったんだ。復讐されるんじゃないか、って」

「するわけないだろ。何言ってんだよ、馬鹿。父さんが死んだのは、アレクセイとエカテリーナのせいで」

「うん。でも、ヴィクトリア姉ちゃんからもいつ襲われるのかって心の中じゃびくびくしてた。だから、一生懸命 笑って、力一杯遊んだの。フリューゲルと同じで、友達になれば許してくれるかもしれないって思って」

「僕は、そんなことは思っちゃいなかったよ。そういうことを考える余裕すらなかったから」

「ごめんね、ロイ」

「なんで謝るんだよ」

「謝らなきゃいけないこと、一杯あるから」

「それは僕も同じだよ。だから、リリだけが謝ることなんてない」

「それって優しさ? それとも同情?」

「少し違うな。共感、かな」

「そっかぁ…」

 リリは安堵したように、唇の端を緩めた。

「学校が終わるって思うと、色んなことを考えちゃうなぁ」

 リリは靴を履き直し、ドレスの裾も整えた。

「もう子供に戻れないんだなぁ、とか、ゼレイブに帰れる日が来るのかなぁ、とか、夢を叶えられるかなぁ、 とか、他にも色んなことを考えちゃって。踊っている間は忘れられたんだけど、ロイの傍に来るとダメだなぁ、 なんだか気が抜けちゃった。大人になるのが、不安でたまらないの」

「そりゃ僕だってそうだよ」

「でも、ロイは私よりも強いから。体もそうだけど、心の方もずっと」

「僕は自分を強いと思ったことはないよ。だから、鍛えるしかないんだ」

「でも、私はそう思うから」

 リリは立ち上がると、ロイズに手を差し伸べてきた。

「ね、踊ろう!」

「ここでか?」

 ロイズが戸惑うと、リリはロイズの手を引っ張って立ち上がらせた。

「どこだっていいじゃない。それに、ここの方が講堂よりも広くて踊りやすいし」

 リリに促されるまま、ロイズは渋々踊り出した。リリの足取りは、ヴィクトリアのそれに比べると頼りなかった。 隙がなく完璧なヴィクトリアの踊りに比べると雑だったが、溌剌としていて十八歳の娘らしい可愛らしさがあった。 明るい笑顔はいつものもので、ロイズの踊りを妨げないように気を遣いつつも自分らしさも前面に押し出していた。 講堂から漏れ聞こえる音楽は先程よりも緩やかになり、それに合わせて二人の踊りも落ち着いたものになった。 何曲か踊っていたが、そのうちにリリの足取りがもつれてきた。講堂でも踊っていたので、疲れてきたのだろう。 ロイズが足を止めると、リリも足を止めた。ロイズも軽く息が上がっていたが、リリは肩で呼吸を繰り返していた。

「楽しいけど、疲れるぅ」

 リリはロイズの胸に頭を当て、ぐったりと肩を落とした。ロイズは、リリの肩を支える。

「頑張りすぎなんだよ。なんだったら、寄宿舎に帰れば?」

「ううん、もうちょっといる」

 リリは瞬きしてから、ロイズを見上げた。改めて見ると、リリの顔立ちには幼さの中にも女らしさが滲み出ていた。 手の中の肩の感触は柔らかく、間近から感じる化粧の匂いには微妙な気持ちをくすぐる汗の匂いも混じっていた。 何考えてんだ、と自嘲したロイズはリリの肩を離して後退った。リリはきょとんとしていたが、小さく笑んだ。

「やらしいことでも考えたの?」

「この状況で、何も考えない男がいるかよ」

 ロイズが顔を背けると、リリは目を細めた。

「私も、ちょっとだけ考えちゃった。ロイにはヴィクトリア姉ちゃんがいて、私にはフリューゲルがいるのにね」

「だから、僕はあいつとは」

「じゃあ、なんで私には何もしてこないの?」

 首をかしげたリリの眼差しからは幼さが消え、大人びた光が宿っていた。ロイズは、一瞬言葉に詰まった。

「そりゃあ、だって、友達だからじゃないか」

「だから、ヴィクトリア姉ちゃんにも何もしないの?」

「それもある。でも」

「したいの?」

「お願いだから、そう生々しい表現をしないでくれよ」

 ロイズが辟易すると、リリはちょっと肩を竦めて平謝りした。

「ごめん」

「まあ…したくないって言ったら嘘になるけどね。前にヴィクトリアに言い寄られた時に根負けして、 恋人だって言え、とかなんとか言っちゃったこともあるし。手、出したことには出したけど、最後までは 出来ない。たぶん、これからも」

 ロイズはリリを正視することが出来ず、意味もなく足元を見つめた。

「共和国を追い出されてから僕達はずっと三人で、実際には四人か、四人で過ごしてきたわけだけど、 その間、特に何も起きなかっただろ? この間のグレイスさんの件は別だけど。リリはフリューゲルが好きで、 フリューゲルもリリが好きで、ヴィクトリアは相変わらず訳解らなくて、僕はこれといって何もなくて、これはこれで 平和だったんだ。ただでさえ周りがごたごたしているから、僕達の関係ぐらいは何も起こしたくなかったってのもある。 だから、僕が、その、ヴィクトリアに手を出したら、僕達の関係がおかしくなりそうな気がするんだ。だから、何もしないんだ」

「本当にそれでいいって思っているの?」

「思っているから、こうしているんじゃないか」

「だったら、どうしてロイはそんなに辛そうなの?」

「どこがだよ」

 ロイズが表情を取り繕おうとすると、リリは僅かに目を細め、祖先の竜の魔女に良く似た眼差しを向けてきた。

「ヴィクトリア姉ちゃんのこと、好きなんでしょ?」

 ロイズは否定の言葉を出そうとしたが、なぜか飲み下してしまった。好きになれないが、決して嫌いではない。 いつからかは解らないが気になって、落ち着いているくせに危なっかしいから目を離せず、美しさに心を奪われる。 傍にいれば息苦しく、離れていても息苦しく、人よりも冷たい指先が自分に触れる様を想像することも少なくない。 それを総合すれば、好き、になる。だが、やはり認めてしまいたくない。彼女に敗北したような気分になるからだ。

「あいつは…四つも年上だし」

 意味のない言い訳が、口を吐いて出た。

「そりゃ、綺麗だとは思うけど、あんな性格の悪い奴なんか」

「ヴィクトリア姉ちゃんは、ロイのことが好きだよ」

「それぐらい、リリに言われなくたって解っているよ」

「そんなに幸せなことは、他にないと思うのに」

 リリはロイズの頬を両手で包み込み、引き寄せ、視線を合わせてきた。

「ロイもヴィクトリア姉ちゃんが好きで、ヴィクトリア姉ちゃんもロイが好き。私は二人とも好きだから、どっちにも 幸せになってもらいたいって思っただけ。ロイがヴィクトリア姉ちゃんと何かあっても、私達は変わらないよ。 ずっとずっと友達でいられるよ。だから、ね」

 手袋越しに伝わる高めの体温と柔らかな感触に、ロイズは胸の奥が締め付けられた。だが、相手はリリだ。 慌ててリリの手を振り払うと、多少後退して距離を開いた。リリはかなり残念そうに眉を下げたが、背を向けた。

「これから色んなことが変わっていくけど、変えなきゃいけないこともあるよね」

「そうかも、しれないけど」

 胸の疼きを堪えながらロイズが漏らすと、リリは急に話を切り替えた。

「私が大学を受験したのは知っているよね?」

「ああ、うん」

「ちゃんと合格出来たから、今度から通うことになったの。そこで一杯勉強して、学校の先生になるんだ」

 リリの言葉には淀みはなく、固い決意が表れていた。

「まずはこの国で色んな子に色んなことを教えてから、いつか共和国に戻るの。それで、自分で学校を建てて、 私達みたいな子供を受け入れたいの。その子達に、当たり前の幸せを与えたいんだ。私もロイとヴィクトリア姉ちゃんが 来てからは凄く楽しかったし、勉強だって一人でするよりも凄く面白かった。毎日が嬉しくて嬉しくて、次の日になるのが とても楽しみだった。だから、皆にも同じ気持ちを味わわせたいの」

 淡い光の輪郭を纏ったリリは、逆光の中、ロイズに向き直った。

「それが私の夢。ロイは夢ってある?」

 答えようとしたが、言葉が出なかった。漠然とした思いは胸中に渦巻いているが、明確な形は成していなかった。 異能者の平和。故郷への帰還。両親の悲願の達成。どれもある。だが、どれも違う。リリのように固まっていない。 ヴィクトリアにはあるのだろうか。あったとしても、ロイズは足元にも及ばないだろう。ヴィクトリアとはそういう女だ。

「僕は…」

 ロイズは、たまらなくなって俯いた。答えられない自分が歯痒く、焦燥に襲われる。

「私達はずっと友達だよ。でもね、それ以前に一人の人間だから」

 それだけ言い残し、リリは講堂に戻った。その背を見送ったロイズは、ベンチに腰を下ろして項垂れた。 やはり、自分は強くない。リリのように心に据えたものがないから、リリの問いにすら答えることが出来なかった。 戦うことは恐れないくせに変化を恐れて、ヴィクトリアの気持ちを受け止めずに自分の気持ちからも逃げていた。 だが、どうすればいいのか解らない。生きている上で先へ進むことは免れないが、進む先が見定められなかった。 頬に残るリリの体温と鼻にこびり付いたリリの匂いが、思考を掻き混ぜる。そして、リリの夢が自尊心を押し潰す。
 自分が目指すべきもの、この先に求めるもの、いずれ手に入れたいもの。だが、一つとして思い浮かばなかった。 いつのまにか、自分が取り残されていることに気付いた。しかし、気付いただけでは前に進むことすら出来ない。
 巣の中に、未だに籠もっている。




 過去の殻を破った雛鳥は、経験という糧を得る。
 世界の異物で交わった三人の運命は、年月と共に解れ、新たな道を生む。
 未来への僅かな畏怖と無限の期待を抱きながら、羽ばたく者も在れば。

 躊躇うあまりに、翼を縮める者も在るのである。





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