ヴォルフとの戦いを終えた翌日。 ブラッドは重たい疲労の残る体を引き摺りつつ、帰路を辿った。あそこまで派手に魔法を使ったのは久々だ。 魔力が抜けると、それ相応に回復能力も衰えてしまう。いつもなら、一眠りしただけで疲労は回復するというのに。 だが、久々すぎたせいで歯止めが利かなかったらしく、胸の中心の魔力中枢が少し痛むほど使ってしまった。 ルージュやローガンの前では何事もなかったかのように振る舞い、仕事もこなしたが、一人になると気が緩んだ。 「あー…しんど」 ブラッドはごきごきと首の関節を鳴らしてから、ぼやいた。 「血ぃ飲みてぇ…」 こういう日は、無性に魔力の濃い血が啜りたくなる。特に良いのは、味は鈍いが魔力は高純度の竜の血だろう。 だが、幼い頃にフィリオラの血を飲み過ぎて我を失ったことを覚えているので、その吸血衝動はぐっと飲み下した。 家に帰る前に、適当な獣でも捕まえて血を啜ろう。飢えに負けて夜中に家を抜け出すことなど、あってはならない。 日没後の森の中は暗く、一寸先も闇という表現がぴったりだが、吸血鬼族の目には昼間にも等しい暗さだ。 森の中に潜む連合軍の監視役の諜報員達の気配を感覚の先端に薄く感じつつ、歩いていると、何かが目に入った。 目を凝らすと、太い針葉樹の根元に小さな影が座り込んでいた。ぴんとした耳と尾は、間違いなく息子のそれだ。 「どうした、ローガン」 ブラッドが歩み寄ると、ローガンはブラッドを認めた途端、ぐしゃりと顔を歪めた。 「とおちゃん」 「なんだ、母ちゃんに怒られでもしたのか?」 ブラッドはローガンの前に膝を付き、抱き上げた。 「父ちゃん、なんでオレには変な耳と尻尾が生えてるんだ?」 ローガンの言葉に、ブラッドは絶句したが、表情を取り繕った。 「そりゃ、それは」 ブラッドは、遂に来たか、と少し目を伏せた。 「なあ、どうしてだ?」 ローガンに揺さぶられ、ブラッドは言葉を選びながら言った。 「どうしてローガンは、自分のことが変だって思ったんだ?」 「母ちゃんに…」 ローガンはブラッドの襟元を掴んだまま、項垂れた。 「買い物に行く母ちゃんの後に、付いていったんだ。オレ、ずっとこの森で暮らしているから、母ちゃんが どこに行くんだろうって思って、付いて来ちゃダメだって言われたんだけど、どうしても行きたくなっちゃって…」 「それで」 「オレな、母ちゃんに気付かれないように気配を殺して付いていったんだ。そしたらな、母ちゃんは森から出て、 家が一杯ある場所に行ったんだ。オレもその後に付いていったんだ。そしたら、そこには一杯人がいたんだ。母ちゃんは 色んなものが置いてある家に入って、色んなものをもらってて、面白そうだったからオレも行こうとしたんだけど…」 ローガンは、ぺたりと耳を伏せた。茶色い毛に覆われた耳の中程が切れ、薄い切り傷が出来ていた。 「知らない子に、石、投げられた」 「そうか」 ブラッドはローガンの耳の傷口に触れたが、敢えて魔法は使わなかった。 「それでな、その子、オレとは違ったんだ。耳はあったけど小さかったし毛も生えてなかったし、尻尾だってなかったし、 目だって違ってた。でな、その子、オレのことをバケモノって言うんだ。何度も何度も」 ローガンはブラッドの服を握り締めたが、その手は震えていた。 「なあ、父ちゃんはバケモノじゃないよな? オレがちょっと変だってだけで、父ちゃんも母ちゃんもそうじゃないんだよな? なあ、父ちゃん?」 ブラッドは息子を抱いたまま、腰を下ろした。父親に縋り付く息子の腕には力が込められ、人と違う自分に 怯えていた。いつか、解ることだった。森の奥の家に身を隠し、息を殺して暮らしていても、いずれ悟られるのだと 知っていた。ブラッドとルージュもそうだったように、人でないことに気付く。そして、自分が世界の異物だということも。 「父ちゃん…」 否定されることを願い、ローガンは答えを乞うた。だが、今、生温い嘘を吐いたところで救いにならない。 ブラッドは自分よりも高めの息子の体温と、土と草の匂いが入り混じった汗の匂いを感じながら、腹を決めた。 「ローガン」 ブラッドは息子の耳を撫で付け、声色を和らげた。 「オレもルージュも、化け物なんだ」 耳元で息が吸われ、ローガンがびくりと震えた。 「違う! 父ちゃんも母ちゃんも普通だ! ちょっと手が冷たいけど、なんか羽根が生えるけど、普通なんだ!」 「良く聞け」 ブラッドはローガンの丸まった背を、軽く叩いて宥めてやった。 「オレは吸血鬼だ。半分は人間だがな。ルージュも吸血鬼だったが、今は死んでいて、魔導兵器っつー機械人形の 中に魂を入れて動かしている。いつもの格好は、魔法で変化しているんだ」 「そんなの嘘っぱちだ!」 「そう思いたい気持ちはよく解る。だがな、ローガン」 ブラッドは声を落とし、語気を強めた。 「それが現実だ」 そう。現実だ。普通の生活は最初から望めない。ブラッドは自分に言い聞かせながら、息子を抱き締めた。 ヴォルフを殺しても、ヴィンセントを利用しても、フィフィリアンヌらの力を借りても、何一つ状況は変わらなかった。 現実に抗おうとしすぎて、肝心なところを見失いかけていた。根本的な部分から、人間社会に馴染めないことを。 ローガンを学校に入れて学ばせても、ローガンは自分と社会の間にある溝に気付き、疎外感を深めるだけだ。 外の世界に放ったとしても、差別されるだけだ。無理矢理ねじ込んだとしても、ローガンの心を痛め付けてしまう。 ブラッドが掴もうとしていたのはローガンの求めている未来ではない、ブラッドが押し付ける未来に過ぎないのだ。 ブラッドの両手が成せることなど、最初から限られている。目の前の敵を薙ぎ払って、二人の命を守ることだけだ。 だが、それ以外は何も出来ない。フィフィリアンヌのように賢くもなく、ギルディオスのように力強いわけではない。 手の届く範囲でしか、物事を動かせない。ヴォルフの心臓を抉り出せたかもしれないが、息子の未来は別だった。 今は亡き母親のように未来を見通すことも出来ないブラッドには、ローガンの明日を視ることすら不可能なのだ。 そんな男が、息子の未来を変えられるわけがない。心の底にいつも淀んでいた苦い諦観が、じわりと広がった。 「ごめんな」 ブラッドが居たたまれなくなって謝ると、ローガンが戸惑った。 「なんで父ちゃんがオレに謝るんだ? 悪いのは、耳と尻尾があるオレの方じゃないか」 「オレとルージュは人間じゃないし、お前も人間じゃない。だが、オレは大したことが出来なかった」 ブラッドは、自分への悔しさに肩を怒らせた。 「オレは、オレなりに頑張ってみたんだ。やれることはやるだけやってみた。だが、やっぱり何も変えられなかった。 お前を脅かすものがいなくなっても、倒しても、やっぱりオレ達の生活は変わらなかった。薄暗い森の中でしか暮らせなくて、 外に出るためには力を隠さなきゃならなくて、ありのままの自分を曝け出せないんだ。世の中は、オレ達に合わせちゃくれない。 オレ達がどうにかして合わせていくしかないんだ」 ローガンの背を撫でながら、ブラッドは沈痛に述べた。 「じゃ、オレ、父ちゃんと母ちゃんの子のままでいいのか?」 ローガンは不安に揺れる眼差しを、ブラッドに注いできた。 「オレ、バケモノだから、父ちゃんと母ちゃんと一緒にいちゃいけないんじゃないかって思ってたんだ」 「そんなこと、あるわけないだろ」 ブラッドが少し笑みを見せると、ローガンは伏せていた耳を立てた。 「本当に?」 「ああ」 「あのな、オレ、父ちゃんと母ちゃんがいてくれればいいんだ」 ローガンはブラッドに縋り、声を詰まらせた。 「だから、もう街になんか行かない。二度と行かない。ずっとずっと、この森の中でいい」 その言葉に、ブラッドは返せなかった。今はそれで良いかもしれない。だが、この先はどうなるのだろうと 考えてしまう。けれど、その思考をすぐに払拭した。ローガンの未来を切り開いていくのは、他でもないローガン 自身なのだから。今、ブラッドがやるべきことは息子を存分に愛して人に蔑まれても道を誤らないように育てるだけだ。 「うちに帰ろう、ローガン」 ブラッドはローガンを下ろし、その目元に僅かに滲んだ涙を拭ってやった。 「母ちゃんが心配してるぜ」 「…うん。腹減った」 ローガンはブラッドの手を握ると、並んで歩き出した。枯れ葉を踏み締める父と子の足音が、暗闇に溶けた。 指をきつく握り締めてくる息子の手を感じながら、ブラッドは安堵していた。出来ることから、していくしかないのだ。 無理に背伸びをしたところで、結果は見えている。今のところは、連合軍に見張られている身分に甘んじておこう。 ヴォルフは悪しき魔物だったが、その血に手が汚れてしまった。戦い続けていけば、いずれ人を殺すことになる。 だが、それだけは許されないことだ。ここに至るまで大量の人間を犠牲にしたのだから、更なる犠牲は無意味だ。 森の奥にある家からは、明かりが零れていた。野菜の煮える匂いが漂い、ローガンはそれを嗅いで微笑んだ。 ブラッドもまた、安心感に満たされていた。今日はどんな夕食なのだろう、と思うだけで途端に心が浮き立ってくる。 いつか、安息の日々は終わるだろう。ローガンが巣立つ時か、或いは連合軍か、もしくは見知らぬ誰かの手で。 それが解っているからこそ、抗いたかった。だが、抗えば抗うほど思考は泥沼に填り、状況が見通せなくなった。 ならば、一旦藻掻くことを止めてしまえばいい。深みに填って、見えていたことが見えなくなってしまったら最悪だ。 守るべきは、家族なのだから。 星空は高く、風は震えるほど冷たい。 吐き出した息は白く、ただでさえ体温の低い体から体温が抜けていく。事を終えたら、ベッドに潜り込まなくては。 わざわざ暖炉の火を起こすのも億劫で、かといって酒を引っかけても酒精が効かないので何の意味もない。 だから、魔法で疑似体温を成している妻に暖を求める他はない。それ以前に、妻の肌が恋しいと言うこともあった。 ブラッドが屋根の上に座り込んで数十分が過ぎた頃、軽い足音が屋根を踏み締め、ひたひたと歩み寄ってきた。 どこまでも深い闇に真っ向から逆らう色の体毛に身を包んだ小さな生物は、二股に分かれた尾をゆらりと振った。 「おばんでやんす、吸血鬼の兄貴」 ヴィンセントはするりとブラッドの膝の間に滑り込むと、しなやかな体を丸めた。 「なんでそこに入るんだよ」 ブラッドが白ネコの首の後ろを掴んで引き摺り出そうとすると、ヴィンセントは身を捩った。 「いいじゃねぇですかい、こんなに寒い夜なんでやんすから。ちょいとあったまらせて下せぇな」 「お前の毛が服に付くと目立つんだよ」 ブラッドは白ネコを引き摺り出すことを諦め、胡座を掻いた。ヴィンセントは、その足の上に身を滑り込ませた。 彼はブラッドの低めの体温を感じ取り、心地良さそうに目を細め、鼻の両脇から伸びたヒゲを軽く震わせた。 ブラッドは足の上に広がる温もりに、少し気を緩めそうになった。確かに、寒さを紛らわすには丁度良い温度だ。 だが、気を許すことは出来なかった。今夜、ヴィンセントがブラッドを訪ねてきた理由は解り切っているのだから。 「なかなかええ仕事でしたぜ、吸血鬼の兄貴」 ヴィンセントは前足を舐めて顔を拭ってから、ブラッドを見上げた。 「他の連中がゼレイブから出られねぇ今となっちゃ、あっしらにとっちゃ兄貴だけが頼りなんでさぁ。あっしも 魔性の者ではありやすが、見ての通り非力でごぜぇやす。変化したところで腕力もタカが知れちょりやすし、魔法なんざ 子供騙しなんでさぁ。そういうわけでやんすから、吸血鬼の兄貴。これからも、その手を貸して頂けやせんかねぇ?」 木々の静かなざわめきを妨げない声量で、だが、蠱惑的な声色で、ヴィンセントは言葉を連ねていく。 「もちろん、タダとは言いやせんぜ。吸血鬼の兄貴はあっしらにゃ出来ないことをして下さるんでやんすから、 御礼はたっぷりと弾みやしょう。半獣半人の坊ちゃんを学校に行けるように、手も尽くしやしょう。兄貴の働き口にしたって、 もっとええのを見つけてやりやしょう。家だって、こんな古ぼけたんじゃなくて立派なのを拵えてやりやすぜ?」 凍えた風が吹き抜け、ヴィンセントのヒゲとブラッドの髪を揺らした。 「ねえ、兄貴?」 その言葉が闇に吸い込まれ、消え失せてから、ブラッドは素っ気なく呟いた。 「断る」 「あんれまあ。またとない機会だと思いやすがねぇ」 ヴィンセントは首を上げ、ブラッドを覗き込んできた。 「受ける理由がねぇんだよ、オレには」 ブラッドはヴィンセントの眉間を指先で弾いてから、星空を仰ぎ見た。 「ヴォルフのことは、どうしてもオレがやらなきゃいけねぇって思ったから戦ったまでだ。だが、あれが最初で最後だ。 オレはもう、二度と戦わねぇ。どれだけ金を積まれようが、良い条件を与えられようが、何だろうが」 「そしたら、あの子は一生学校へは行けやせんぜ?」 ヴィンセントの眼差しが、ねっとりとした悪意を帯びた。 「いいんだ」 ブラッドはぐしゃりとネコの頭を撫で、耳を押さえ付けた。 「読み書き計算ぐらいだったら、オレとルージュで教えればいいんだ。無理に学校に行かせたって、辛い目に 遭うのはローガンなんだ。ローガンが本当に行きたがったら、考えないでもないけどな」 「そうですかい」 ヴィンセントは嘆息してから、ブラッドの太股に顎を載せた。 「まあ、そうじゃねぇかとは思っちょりやしたがねぇ」 「ヴィンセント。もう、オレのところに来ないでくれ」 ブラッドはネコの丸まった背を緩やかに撫でながら、目を伏せた。 「オレはそんなに強くない。おっちゃんみたいには出来ないし、父ちゃんみたいにも出来ない。だから、お前みたいな 逃げ道を持ってる奴に傍にいられると困るんだよ。オレはルージュと一緒にゼレイブを出たその日から、自分の力で 生きていくって決めたんだ。だから、もう関わらないでくれ」 「せっかく収まりのええ膝を見つけたと思ったんでやんすがねぇ」 残念でごぜぇやす、とヴィンセントはにゅるりとブラッドの膝から出ると、ちょこんと座り、深々と頭を下げた。 「そいでは、またいつかお会いしやしょう」 ヴィンセントは身軽に屋根から身を投じたが、着地音はしなかった。同時に、彼の小さな気配と息遣いも消えた。 足の上には温もりが残留し、ズボンには白く柔らかな毛が付いていたが、なんとなくそれを払う気が起きなかった。 これで良かったのだろう。ヴィンセントとの繋がりが切れるのは少々惜しかったが、平穏な日常を生きるためだ。 彼の存在は便利だが、便利すぎる。甘言を並べられ、誘われるがままに引き摺り込まれてしまえばどうなるか。 間違いなく、最悪の事態が訪れる。ブラッドには、ヴィンセントのような腹の見えない者を利用出来る技量はない。 これもまた、家族を守るためだ。ブラッドは屋根から飛び降りると足音を立てずに着地し、慎重に扉を開いた。 狭い居間には暖炉の熱が少しばかり残っていたが、足元から滑り込んだ重い冷気に掻き混ぜられ、消え去った。 扉を閉めてマントを脱いだブラッドは、寝室に向かった。日が昇り、新たな一日が始まっても、日常は変わらない。 ローガンが両親が人ならざる者であり、己が獣との混血であると知っても、生活は容赦なく後ろから追い立ててくる。 だが、それでいいのだ。派手に暴れて活躍するよりも、変わりのない日々を営み、積み重ねる方が余程大切だ。 その生まれ故に、歩む道は荒れている。だが、それでも、未来に繋がる道であることに代わりはないのだから。 ただひたすらに、歩いていけばいい。 人ならざる者が歩めるは、荒れ果てた道のみ。 穢れた獣より生を受けた無垢なる子の歩む道も、また然り。 半吸血鬼の父が背負う現実は重く、目の前に広がる世界は厳しくとも。 生きる他は、ないのである。 08 11/30 |