ドラゴンは滅びない




そして、竜は嗤う



 フィフィリアンヌは、本を読んでいた。


 紙に印刷された文字の形状や意味は時代と共に変化していき、指に触れる紙の材質も驚くほど向上した。 以前はただ糸で締められて布が被せられていただけの装丁も丁寧になり、どれだけ厚い本でもばらけなくなった。 印刷技術が進歩するに連れて印刷出来る字体も細かくなったため、同じ厚さの本でも情報量は段違いに増えた。 最近では、電子書籍なる物も世に出回っている。紙ではなく、文章を立体映像画面に表示させて読むものである。 それにも多少の興味はあるが、まだ手を出す気はない。好んで読む古典文学が掲載されていないからだ。
 机の上では鉱石ランプが青白い光を放ち、古びた机を照らし出し、石組みの壁にその影を伸ばしていた。 フィフィリアンヌは机に負けぬほど大きな椅子に座り、活字を追っていた。積み重ねられている本の言語は様々だ。 共和国語を始めとした周辺諸国の言語だけでなく、極東の島国や東方の共産主義国家の言語の本も揃っている。 無論、その全てを読み解くことが出来る。長い年月を生きていると、暇潰しのために知識を蓄えるしかないからだ。

「フィフィリアンヌよ」

 ごぶり、と手元のワイングラスの中で赤紫の粘液が蠢いた。

「第五探査機からの報告は聞いておるかね?」

「聞いておらんわけがない。退屈だからな」

 フィフィリアンヌは活字を追うことを続けながら、素っ気なく答えた。

「星渡りの船は、私も多少は興味があるからな。第一、第二、第三、第四、と探査機を打ち上げるたびに 航行距離と速度を向上させておるからな、いずれどこぞの惑星に到達するとは思っておったが、我らが見つけ出す よりも先に星渡りの者からの接触があるとは思ってもみなかったわ」

「貴君は彼らの着陸を認める意向なのであるか?」

「認めんとつまらんだろうが。このままでは、いずれこの世界の文明は淀み、沈むだけだ」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっは。ただ単に、貴君が余所者を見てみたいだけなのではないか?」

「退屈凌ぎに丁度良いだけだ。しかし、国際政府連盟も墜ちたものだ」

 フィフィリアンヌは活字から目を上げ、書斎の本棚にぞんざいに置かれた国際政府連盟の勲章を見やった。

「連中はあれほど我らを嫌悪しておったのに、東西大戦が始まった途端に手のひらを返しおって、人ならざる者達を 懐柔しようとしてきおった。その挙げ句に私を国際政府連盟の役員に据えるとは、愚策にも程がある。まあ、その立場と 権力だけは有意義に行使させてもらったが。だが、私は政治家になるつもりなど毛頭ない。国際貢献だの世界平和だの にも全く興味はない。ただ、私とあの男が愛する者達が真っ当に暮らせればそれで良かったのだ」

 フィフィリアンヌは古びた本に混じって積み重ねられていた派手な装丁の雑誌を引き抜き、めくった。

「しかし、ますますこの娘は母上に似てきおるわ。ウィータとギルバートの曾孫だということを忘れてしまいそうだ」

「うむ。それは我が輩も同意するのである」

 伯爵はにゅるりと触手を伸ばし、ファッション雑誌の一面を飾る女優を見下ろした。アンジェラ・ヴァトラス。 明るい緑髪を腰近くまで伸ばし、二本のツノを惜しげもなく曝し、豊満な乳房としなやかな肢体を見せつけている。 女優としては駆け出しだが、芸能界入りしてすぐに初主演した映画が大当たりして彼女の姿を見ない日はない。 最近では歌手活動も始めたようだが、フィフィリアンヌの血を引く者としては珍しいことにそれなりに歌が上手かった。
 フィフィリアンヌの手元には、彼女のコンサートの入場券が送られてきた。もちろん、伯爵も含めて二枚だ。 だが、行くつもりはなかった。様々な情報媒体で毎日のように歌が流れているし、音楽情報入りのディスクもある。 それを何度となく聞き込んでいるので、今更聞くまでもないのだ。だが、行かなければ、拗ねられてしまうだろう。 アンジェラはフィフィリアンヌの母親に似ているせいもあってつい目を掛けてしまったので、すっかり懐かれた。 だから、フィフィリアンヌが来ないとなれば、アンジェラは間違いなく機嫌を損ねてその後の仕事にも支障を来す。 そればかりか、アンジェラは幼子のように癇癪を起こして竜に変化し、仕事を放り出して飛び去ってしまうだろう。 アイドルから女優に転身したはいいが、未だにアイドル時代を引き摺っているので、我が侭放題なのが困り者だ。

「来週の午後六時か」 

 フィフィリアンヌは机の引き出しを開け、細長い封筒を開いて入場券を取り出した。

「お偉方との会談を早々に終わらせて航空機を飛ばせば、開演時間に間に合うな」

「間に合わなければ、魔法でも何でも使えば良いのである」
 
「それもそうだな。魔法禁止条令は完全撤廃しておるのだからな」

 フィフィリアンヌは入場券の入った封筒を伯爵のワイングラスの下に差し込み、引き出しを戻そうとしたが、 手を止めた。引き出しに詰め込まれている封筒の一つに目を留めたフィフィリアンヌは、その封筒を取り出した。 差出人は、ローガン・ギル・ブラドール。フィフィリアンヌはその封筒を開けると便箋を抜いて開き、文字を追った。

「ローガンの手紙であるか?」

 伯爵が触手を向けてきたので、フィフィリアンヌは便箋を机に広げた。

「ああ」

 ローガン・ギル・ブラドール。この世に唯一残る吸血鬼一族の末裔に育てられた、人と獣の血を引く男である。 フィフィリアンヌに宛てた手紙には幼い頃とまるで変わらぬ口調で文章が連ねられ、他愛もないことを書いていた。 両親の現状や仕事の成果、そして気になる女性の話題。それだけを取り出せば、どこにでもいる青年の言葉だ。 だが、今、そのローガンは生きてはいない。吸血鬼の両親は生き続けているが、彼は七十年前に死亡している。
 人間と人外の間に生まれた彼は、人間と人外を繋げるために戦い抜き、双方のためにその命を燃やし尽くした。 人ならざる身でありながら人間の女性を愛し、そして彼女からも愛された彼は、世界の理不尽と真っ向から戦った。 父親から名付けられた不死鳥の男の名に負けぬほどに、熱く激しい魂を宿した男だったが、戦い抜いて戦死した。 共和国大戦から二十年後に勃発した東西大戦の最中に、戦場で兵器扱いされている人外を救うために戦ったが、 文明の発達と共に威力が増した銃器に魔法も魔力も通じず、人外部隊を戦場から逃がした末に死亡した。四十五歳だった。 その後、彼の遺体はゼレイブに埋葬され、今ではその英雄的な活躍を国境を超えて讃えられている。

「サミュエルの手紙も読むか?」

 フィフィリアンヌが机からもう一通の手紙を取り出すと、伯爵は同意した。

「うむ」

 サミュエル・ルー・ファイガー。世界一強力な異能者の血を引く男と、世界一邪悪な呪術師の血を引く女の一人息子。 そして、魔力無効化能力という希有な能力の異能者だったが、若い頃はその能力の特殊さ故に悩んでいた。
 両親と共に合衆国から共和国に帰国してからは、何度となくフィフィリアンヌの元を訪れ、己の未来に迷っていた。 亡き父の遺志を継いで異能者の指導者となった父と、学問としての魔法を研究している母と比較してばかりいた。 だが、フィフィリアンヌは意見を返さなかった。サミュエル自身が己の道を見出さなければ、何の意味もないからだ。
 迷いに迷った末に、サミュエルはロイズの立ち上げた異能者総合管理組織ヴァルハラを父から引き継いだ。 自分の持つ能力は未熟な異能者が放つ乱暴な異能力を制御出来る力であり、人を守る力なのだと思ったからだ。
 その後、サミュエルはロイズが成し上げた組織をそつなく統率する傍ら、ヴィクトリアの魔導研究も手伝っていた。 ブリガドーン事件以降、年々増える異能者や魔導の素質を持つ者を守り、導き、救うためには必要だったからだ。 現在、異能者総合管理組織ヴァルハラはサミュエルの選んだ異能者に統率され、異能者のために活動している。 彼の子孫もまた強力な異能者だが、血族ばかりで組織を動かすのは良くないとサミュエル自身が判断したからだ。 年齢を重ねたことで能力の衰えを悟ったサミュエルは、ヴァルハラから潔く身を引き、晩年は両親とその血族が 眠りに付いているゼレイブで過ごし、七十歳を迎えて間もない朝に息を引き取った。

「次はリリだな」

 若かりし頃のサミュエルの手紙を読み終えたフィフィリアンヌは、リリの手紙を取り出し、伯爵に向けた。

「懐かしい限りなのである」

 リリ・ヴァトラス。そしてその夫、フリューゲル・ヴァトラス。竜の血を引く娘と、その力と寵愛を受けた魔導兵器。 リリは世界で初めて人ならざる者のための学校を建立した教育者であり、異形と契りを結んだ最初の女だった。
 東西大戦が開戦したために、ロイズとヴィクトリアと共に合衆国から共和国に帰国したリリはすぐさま動き出した。 共和国大戦の傷跡が色濃く残る国内をフリューゲルと共に飛び回り、子供がいればすぐに声を掛け、抱き締めた。 異能の気配がある子供、ない子供も分け隔てなく受け入れ、ゼレイブの人口を爆発的に増やした張本人である。 そのおかげでゼレイブが一時困窮したのは事実だが、それがなければ今のゼレイブがないことも確かな事実だ。
 リリは拾ってきた子供達を教育するため、彼らの異能力とフリューゲルやヴェイパーの力を借りて学校を建てた。 もちろん、始めの頃は上手くいかなかった。壁に衝突し、行き詰まり、つまづいたが、リリは挫けずに立ち上がった。 紆余曲折を経てゼレイブの片隅にリリの長年の夢であったヴァトラス学園は完成し、リリは学園の校長となった。 その頃にはリリは三十代後半になっていて、彼女の影で生き続けていたフリューゲルの人格も大人になっていた。
 二人はそのままの関係でも良いと言ったが、学園の生徒達のたっての願いで、二人の結婚式が挙げられた。 リリの両親であるレオナルドもフィリオラも二人を祝福し、フリューゲルもヴァトラス一族の一員となって名を得た。 それから、リリが百二十歳で逝去し、フリューゲルが稼働停止するその日まで、二人はヴァトラス学園を支えた。 戦後の復興と共に発展したゼレイブはヴァトラス学園を中心とした学園都市となり、学園の規模も巨大になった。

「その次は、ウィータとギルバートか」

 フィフィリアンヌは更にもう一通の手紙を取り出し、封筒から便箋と写真を伯爵の前に並べた。

「うむ」

 ウィータ・ヴァトラス。そしてその従兄弟であり夫であるギルバート・ヴァトラスは、ゼレイブの最初の子供達である。 思春期に史上最悪の戦犯となったリチャード・ヴァトラスが父親であることを知ったウィータは、少々道を外れた。
 それまでは御転婆だったが良識のある少女だったが、母親のキャロルの言い付けに逆らうようになってしまった。 そればかりか、フィフィリアンヌやラミアンの言葉さえも聞かなくなり、一人で街に出ては魔法を使って暴れていた。 といっても、盗難や暴行といった軽犯罪を犯した者を見つけては魔法を撃ち込み、半殺しにした程度であったが。
 それでも、魔法の無断使用は当時のゼレイブには重大な問題であり、使用者がウィータであることも問題だった。 フィフィリアンヌは気が収まるまで放っておこう、と言ったが、ギルバートは耐えられずにウィータを追い掛けた。 そして、市民から金品を巻き上げた野党を叩きのめしているウィータを捕まえ、竜人に変化して徹底的に戦った。
 ギルバートは幼少期は異能力の兆しはなかったが、成長するに連れて魔力が増大し変身能力が発現した。 竜人形態を基本とし、巨体の竜族から小型のトカゲにまで変化出来、体格に応じて腕力も変化することが可能だった。 両者とも全力で戦い抜いた頃には街は派手に大破し、戦いに負けたのは修行の足りなかったウィータだった。 ギルバートは疲労困憊のウィータを引き摺ってゼレイブに連れ帰り、母親らに謝らせた後、ウィータと話し込んだ。
 ウィータが荒れた理由は自分が何者か解らなくなったからだったが、ギルバートも似たような思いを抱いていた。 幼い頃にはただの人間だと思い続け、成長して異能力が開花したはいいものの、自分の存在が疑わしくなった。 人なのか竜なのか区別が付けられず、悩んでいたところにウィータが荒れ、ギルバートはそれを押し込めていた。 それを懇々と聞かされたウィータは、共感出来る相手を見つけたために落ち着きを取り戻し、素行も良くなった。
 その後の二人は、魔導師と異能者でありながら普通に生き、軍にも組織にも属さずに当たり前の人生を送った。 ゼレイブを出て街に住み、普通に結婚して子供を設け、二人揃って人間としては平均的な寿命で人生を終えた。

「して、次は誰だと思う?」

 フィフィリアンヌが引き出しを探りながら尋ねてきたので、伯爵はにゅるりと触手を捻った。

「ウィルソン夫妻しかおらぬのである」

「それ以外には残っておらんからな」

 素っ気なく返しながら引き出しから封筒を取り出したフィフィリアンヌは、手紙を抜き、伯爵の下に差し込んだ。

「あの時代を生き抜いた者達の名を忘れることはないのである」

 ピーター・ウィルソン。その妻、クレア・ウィルソン。異能部隊の生き残りの念動能力者と、念力発電能力者の妻。 異能部隊として戦い、共和国大戦を生き抜いたピーターは、ブリガドーン事件の後に放浪していたクレアと出会う。 やはり異能者であるが故に迫害されて生きていたクレアは、同じ異能者であるピーターと心を通わせ、愛し合った。
 二人はゼレイブで穏やかな日々を過ごしていたが、東西大戦が開戦するとピーターは戦うべきか否かを迷った。 その頃には我が子も生まれていて今更戦場に出る必要はないと誰しもが言ったが、最後には戦う道を選んだ。 ゼレイブと家族を守ることに余生を尽くしたヴァトラス夫妻に妻子を託して、ピーターは再び苛烈な戦場へ舞い戻った。
 ピーターは異能者としては平均的な力しか持っていなかったが技術は高く、力押しのダニエルよりも長けていた。 若くして戦火へと身を投じたローガンを鍛え、導きながら、ピーターは人を死なせないための戦いに終始していた。 武器を見つければ壊し、複葉機を見つければ翼を折り、戦車を見つければ主砲を潰し、兵器だけを殺した。 だが、ヴェイパーの手は借りなかった。同じく異能部隊の隊員であり魔導兵器だったが、彼は平和を望んでいた。 だから、ヴェイパーにはゼレイブと妻子を守らせて、兵器殺しの二つ名を得たピーターは戦場を駆け巡っていた。
 ローガンが成人して、異能者としても戦士としても一人前になった頃、ピーターは突如病魔に襲われた。 彼は戦場に出ることを望んだが、ローガンが強引にピーターをゼレイブに送り返させ、クレアの待つ家に帰した。 ピーターが戦場で戦い抜いている最中、ずっと家を守ってきたクレアは夫を怒ることもせずに笑顔で出迎えた。 お疲れ様、お帰りなさい、と、朝方に仕事に出て帰ってきたかのような態度で出迎えられ、ピーターは自責に苛まれた。 一人にしてすまなかったと泣く夫に、クレアは笑った。あなたは私達を守ってくれた、その証拠に家は無事よ、と。
 その後、ピーターは妻に最後を娶られて、五十五年の戦いの人生を終えた。クレアも、その五年後に永眠する。 二人の愛息であるベンジャミンは異能者総合管理組織ヴァルハラに入り、人ならざる者達を守るために戦った。

「時が過ぎるのは、早いものだな」

 フィフィリアンヌは机に並べた手紙を、指先で愛おしげになぞった。

「それだけ、我が輩達が長らえすぎているということでもあるのである」

 伯爵は、グラス越しに手紙を見下ろした。

「だが、悪くない」

 フィフィリアンヌが唇の端を歪めると、伯爵はごぼごぼと気泡を吐いた。

「楽しくなければ、今日この日まで長らえておるわけがないのである」

「道理だ」

 フィフィリアンヌは椅子を回し、古びた窓から下界を見下ろした。百数十年の間に世界は大きく変貌していた。 市内中心部を貫く大動脈には車両の放つ明かりが一列に並び、赤い運河のように夜の闇の中を流れていった。 規則正しく張り巡らされた道路に挟まれた高層建築の窓からは、人工の光が放たれ、美しい夜景を作っていた。 住宅街に並ぶ家々からは温かな会話が零れているが、都市の中心を成している巨大な建造物は静まっていた。
 年月と友に発展に発展を重ねたヴァトラス学園は、名実共に都市部の中核であり、学園こそが街を回している。 分厚く高い塀を取り巻く高層建築に勝る大きさの校舎は静まっているが、一回り小さい寮は騒がしくなっている。 今頃、授業から解放された数千人の生徒達は、年相応の会話を交わしながら若さに任せて笑っているのだろう。
 リリがヴァトラス学園を立ち上げたことによってゼレイブに流入する人間や物資が増え、人口も住居も増大した。 最初はヴァトラス学園の寮が増えていくだけだったが、次第に生徒の家族が住む家屋や店舗が建つようになると、 挙げ句には線路が引かれて道路が整備され、街並みも増強され、天を突くほどの高層建築が並ぶようになった。 今となっては、一大都市だ。喉かな平地や湖が広がっていただけのゼレイブの有様が思い出しづらくなるほどだ。 だが、フィフィリアンヌの城よりも高い建物はない。それは、ゼレイブに集った者達と市長であるラミアンの配慮だ。
 再建した共和国内でも特に発展した地方都市に成長したゼレイブを統べているのは、ラミアン・ブラドールである。 志半ばでキースの手で死した彼は、骸骨の如き魔導兵器に魂を宿し、妻が死した後は余生を送っていた。
 ブリガドーン事件後は趣味に生きていたが、ヴァトラス学園を切っ掛けにゼレイブが発展すると何かが目覚めた。 丁寧に図面を引いては道路や線路の位置を定め、住宅を建てる場所も決め、理路整然とした街並みを作り始めた。 発展の最中に起こる揉め事も引き受けては的確な判断で対処し、処理していくうちに、彼が市長になっていた。 フィフィリアンヌはそれに関して口出しせず、やりたいようにやらせていた。見ているだけで面白かったからだ。 その後、任期が来ては選挙を行ったが、未だに彼以上の手腕の市長が現れないのでラミアンが就任している。

「ルージュか」

 気配を感じてフィフィリアンヌが目を上げると、書斎の扉が叩かれた。

「フィフィリアンヌ。夕食の支度が出来たんだが」

 扉を開けたのは、人の姿を模したルージュだった。現代の服装に身を付けているが、美貌は変わらない。 白いセーターの胸元は豊満な乳房に押し上げられ、昔と変わらずに引き締まった腰と足はジーンズに包まれている。

「解った。して、今夜はなんだ」

 伯爵を手にして椅子から降りたフィフィリアンヌが問うと、ルージュは苦笑した。

「またユドウフだ」

「またか」

「仕方ないだろう、ラミアンが趣味で作ったトウフがまだ大量にあるんだ。処分するには喰うしかない」

 ルージュが肩を竦めたので、フィフィリアンヌはその傍を擦り抜けて廊下に出た。

「あれは私も好きではあるが、こうも毎晩続くと嫌になるな」

「あなたが私達に物を喰えるように改造してくれたのは良かったが、弊害も大きかったな」

 薄暗い廊下を歩きながら、ルージュは舌を出した。

「全くだ。あれの趣味を喜ぶのは、最早ヴィンセントしかおるまいて」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。ラミアンも酔狂極まる男なのである。人の血ではなく 淡泊な食事を好むことからして、まず異様なのであるぞ」

 フィフィリアンヌの手元で伯爵がぶるぶると震えたので、ルージュは少し笑んだ。

「だが、その気持ちは解らないでもない。こういう時代だ、血の味を思い出してしまうわけにいかないからな」

 階段を降りかけたところで、フィフィリアンヌはルージュと伯爵も共に魔法で瞬間移動を行い、食堂へ舞い降りた。 悠長に歩いていては、ユドウフが煮崩れてしまうのだ。次の瞬間には、暖かな匂いの満ちた食堂に移動していた。 竜の城のだだっ広い食堂ではブラッドが人数分の食器を魔法で浮かばせて運んでいたが、三人に気付いて顔を向けた。 ブラッドも現代らしい服装をしているが、やはり黒を好み、黒のレザージャケットとパンツを着込んでいた。

「お帰り、ルージュ」

 ブラッドはテーブルに器を並べてから、妻に声を掛けた。テーブルの端では、白ネコが丸くなっていた。

「やあっとお出ましでごぜぇやすね、竜の姉御。姉御がいらっしゃねぇと、始められねぇんでさぁ」

「ユドウフのダシ、良い感じに出てるからね!」

 大きな両手に熱々の土鍋を抱えて食堂に入ってきたのは、巨体の蒸気機関式人造魔導兵器、ヴェイパーだった。 表情こそ見えないが、声色は弾んでいる。彼もまた、ラミアンとルージュと同様に物を食べられるように改造済みだ。 事実上異能部隊が解散して兵器の役割を終えたヴェイパーは、ブラドール家の一員として余生を送っている。 普段は古びた城の整備やルージュの家事手伝いをしているが、街に降りては学園の生徒達と遊んでいる。 百数十年もの年月を重ねても人格は少年から変わることがなかったので、城の中では息子のような存在だった。

「全くです。この城の主はあなたであり、我らの家長でもあるのですから」

 厨房から戻ってきたラミアンは、年代物のワインのボトルをフィフィリアンヌへ向けた。

「ブラッド。街の巡回はもういいのか?」

 食器を並べるのを手伝いながらルージュが言うと、ブラッドは笑んだ。

「ああ、なんとかな。仮面の紳士の出番は少ないのが何よりさ」

「それは結構だが、いい加減にあの馬鹿げた扮装は解いて活動してくれないか」

 ルージュは顔をしかめ、椅子の一つに引っ掛けられている暗黒のマントと銀色の仮面の扮装を睨んだ。

「素顔で良いことする方が恥ずかしくねぇ? それに、正体隠して活躍した方が格好いいじゃん?」

 真顔で言い放ったブラッドに、ルージュは嘆息した。

「お前という奴は…」

「そうだよそうだよ! 正体が解らないってだけで、まず格好良いじゃない!」

 土鍋を鍋敷きに置いたヴェイパーは、大きく頷いた。

「良いではないか、ルージュ。仮面の紳士の中身がブラッディであることは、市民の大半が知り得ているのだから」

 人数分のワイングラスにワインを注ぎながらラミアンが言ったので、ブラッドはむくれた。

「それでもいいんだよ! 大体、最初にあの格好をしろっつったのは父ちゃんじゃんか! 治安の面で 若干問題があるからっつって、オレにあのマントと仮面を押し付けてきただろうが! あの格好で何年やってきたと 思ってんだ、今更引っ込みが付くか!」

「悪趣味だが、酔狂ではある」

 フィフィリアンヌは椅子の背もたれに引っ掛けられたマントと仮面を手にすると、込み上がる笑いを殺した。 数年前にラミアンが手作りしてブラッドに押し付けた正義の味方の扮装は、吸血鬼の礼装と大差がなかった。 襟の立った引き摺りそうなほど長い漆黒のマント、血の色をしたタイ、黒のスラックスに、上等で丈夫な黒の革靴。 そして、ラミアンが常時被っている狂気の笑みを貼り付けた仮面とどこか似た表情をした、滑らかな銀色の仮面。
 その名も仮面の紳士。仮面の紳士はゼレイブ市内を見守り、何かあればどこからともなく現れる正義の使者だ。 愛玩動物の逃亡や子供同士のケンカといった些事を始め、交通事故の防止や強盗事件の解決などに忙しい。 仮面の顔付きと声色と体格で市民にはすぐに市長の息子だと解ったのだが、皆、それを口外せずにいてくれる。 わざわざ面倒な役目を買って出たブラッドへの優しさなのか、嘲りかは解らないが、そのせいで長続きしている。 おかげで、最初は嫌々やっていたブラッドもすっかり仮面の紳士稼業が気に入ってしまい、今では本業である。
 妻であるルージュとしては夫に働いて欲しいのだが、ラミアンから一応給料が出ているので文句を言えないのだ。 そのルージュはと言えば、日々世界のために動くフィフィリアンヌの身の回りの世話や事務処理などを行っている。 要するに、秘書である。ルージュもまた時間を持て余しているので、どちらにとっても都合の良い立ち位置だった。 そして、ヴィンセントは、東西大戦後に本来の主である国際政府連盟役員が寿命で死んだために竜の城に引き取られた。 たまにフィフィリアンヌから頼まれて諜報任務を行うが、基本的にはただの飼いネコに成り下がっている。
 フィフィリアンヌが席に座ると、他の者達も席に着いた。伯爵とヴィンセントにも、きちんと席が与えられている。 フィフィリアンヌから見て左側には伯爵、ヴィンセント、右側にはラミアン、ブラッド、ルージュと並んで座っている。
 テーブルクロスが掛けられた仰々しいテーブルに不似合いな土鍋の中で、柔らかなトウフがくつくつと煮えている。 ユドウフだけでは物足りないので、味の濃い肉料理やスープも並び、カゴにはキツネ色の丸パンが盛られている。 手元のワイングラスには年月と共に味の深まったワインが注がれ、燭台ではロウソクが眩しく燃えていた。 ロウソク以外の光源はないので、縦長の窓の外には市街地の光が煌めき、食堂の隅には闇が溜まっている。

「我らが最愛の友、ギルディオスへ」

 フィフィリアンヌがグラスを掲げると、他の面々も掲げた。

「我らが子供達へ」

 ラミアンも目線までグラスを持ち上げ、述べた。

「我らが友人へ」

 その次に、ブラッドが言った。

「我らが同胞へ」

 穏やかな笑みを湛え、ルージュが呟いた。

「我らが故郷へ」

 魔法を用いてグラスを持ち上げたヴィンセントが、目を細めた。

「我らが戦友へ」

 ヴェイパーは円筒形の太い指で、細いグラスの足を挟んだ。

「そして、我らが世界へ」

 太めの触手でグラスを持ち上げていた伯爵が、一際強く声を張った。

「竜女神の加護のあらんことを」

 フィフィリアンヌは厳かに締めると、グラスを傾けた。皆もそれに倣い、年代物のワインを味わった。 祈りとも儀式とも違う行為を終えると、夕食に手を付けた。ダシの効いたユドウフは、飽きてはいたが旨かった。 唯一喜んでいるのは、東方に傾倒するどころか心酔しているラミアンだけで、他の面々は義務的に食べていた。

「そういえば、会長」

 ラミアンは仮面の口元に器用にユドウフを押し込み、食べながら、フィフィリアンヌに尋ねた。

「例の星渡りの船ですが、名はお決まりになったのですか?」

「ああ、船ってあれだろ。衛星軌道上で組み立ててるっていう、あの馬鹿でかい白い船」

 パンを囓りながらブラッドが言うと、ルージュは窓の外の夜空を示した。

「現在の科学技術では、惑星の重力圏内で大規模な物体を建造するのが困難だからな。だから、異能者や 魔導師を集めて編成した魔導技師部隊で建造しているんだ。外宇宙の調査と、こちらの宇宙船に接触を行ってきた 異星体から技術提供と同時に提案された宇宙進出事業に携わるためだ。もっとも、あの巨大宇宙船の建造は 計画の初期段階で、宇宙進出事業の取っ掛かりに過ぎないんだがな」

「僕の弟達も元気にしてるみたいだね。でも、空の上のお仕事って大変そうだなぁ」

 ヴェイパーは硬いマスクに隙間を開いてサラダを押し込んで、もぐもぐと噛み締めていたが、明瞭に発音した。 ヴェイパーの人造魂を複製して魔導鉱石に収め、教育を施された魔導式人工知能は世界中で汎用されている。 それが最も活用されているのは、宇宙船の建造や宇宙開発といった生身の人間では活動が難しい現場だった。 彼らは明確な自我と知性を持っているが、元であるヴェイパーの人格が温厚なので人間には極めて従順である。

「当初は一般公募するつもりでおったのだが、その分の予算が組めなくてな」

 フィフィリアンヌがワイングラスを揺らしていると、肉を囓っていたヴィンセントがにやけた。

「つまり、面倒な仕事を丸投げされたっちゅうことでやんすねぇ」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。貴君に相応しい下らぬ仕事であるぞ、フィフィリアンヌよ!」

 スープを啜っていた伯爵がぐねぐねと蠢いたので、フィフィリアンヌはナイフの柄で粘液を突き刺した。

「私が回した仕事も存分に出来ぬくせに何をほざくか、粘液め」

「して、その船の名称ですが」

 ラミアンに再度問われ、フィフィリアンヌは得意げに笑んだ。

「決まり切っておる。フィフィーナリリアンヌ号だ。竜女神の加護を受けるには、それ相応の名でなければな」

 六人は呆気に取られていたが、フィフィリアンヌはそれを欠片も気にせずに、くいっとワインを飲み干した。 しばらくしてから、ラミアンは楽しげに笑い、ブラッドは変な顔をし、ルージュは戸惑い、ヴィンセントは顔を背けた。 ヴェイパーはきょとんとし、伯爵は盛大に笑い転げた。つまり、竜女神とは自分だときっぱりと言い切ったのだ。 竜族の信仰対象であった竜女神ではなく、フィフィリアンヌ自身が竜女神だから、その名を冠するべきなのだと。
 確かに、今のフィフィリアンヌは中世時代とは比べ物にならないほどの権力を得ているが、それは言い過ぎでは。 皆が皆、そう思っていたのだが、フィフィリアンヌの勝ち誇った笑みを見てしまうと言い返す気すら失せてしまった。 六人はそれ以上反応を返すこともなく、夕食に意識を戻し、今日の出来事などの他愛もない話題で話し始めた。 フィフィリアンヌは笑みを浮かべたまま、二杯目のワインを注ぎながら、空を超えた先にある世界に思いを馳せた。
 衰えぬ好奇心を満たすには、この星だけでは狭すぎる。




 時は移ろい、世は変わりゆく。
 二度の大戦を経て、人と人ならざる者達の境界となる壁は薄らぎ、互いの世界は交わった。
 魔法と科学を解け合わせながら進歩を続ける世界を導くのは、女神の如き竜の少女。

 新たなる時代を望みながら、竜は嗤うのである。






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