ダニエルは、塀の上に腰掛けていた。 果てのない水平線が眼下に広がり、鮮烈な夕日に照らされた無数の波が煌めいていて、美しい光景だった。 強い風が短く切った硬い黒髪を揺らし、戦闘服の裾をはためかせていた。有機的な潮の匂いが、鼻を突く。 背の高い塀の上から見える海原は雄大で、見ているだけで気分が晴れやかになるので、好きな光景だった。 塀の下を見やると、遥か下には波の打ち寄せる岩場がある。海水に濡れた岩は大きく、ごつごつとしている。 うっかりその岩場の上に落ちてしまったら、ひとたまりもないだろうが、そんな失敗をしたことはなかった。 落下しながら念動力を放って己の体を支える訓練などうんざりするほどしているし、ここで練習したこともある。 ダニエルは岩場から目を外すと、腰を上げて立ち上がった。すると唐突に、間近の空間が歪められる気配がした。 直後、空間の歪んだ場所に影が現れた。何の前触れもなく姿を現した人影は、とっ、と塀の上につま先を付ける。 「よう、ダニー」 ダニエルがそちらに向くと、西日の逆光の中に立つ人影は言った。 「良い場所だな」 「どこでも同じだとは思うんだが、なんとなくいつも同じ場所へ来てしまうんだ」 ダニエルは、歩み寄ってきた人影に顔を向けた。西日に半身を照らされている少年は、笑い返してきた。 「習慣てやつだな」 ダニエルはその言葉に返さずに、彼に向き直った。彼は、ダニエルよりも一歳半年下だが、従軍経験は同等だ。 異能部隊の隊員であることを示す暗い赤の戦闘服を着た彼は、ポール・スタンリーと言う名の少年兵だった。 ダニエルは、彼が嫌いではなかった。特に好きというわけではないが、年齢が近いのでよく言葉を交わしていた。 ポールは、全体的に部品が小さめな顔の中でも特に小さな目を細め、短く切られた髪をがしがしと荒くいじった。 「ギル隊長、今頃どうしてるかなぁ」 「隊長のことだ、死んでしまうことはないさ」 ダニエルはポールの横顔を眺めていたが、遠くを見るように目線を投げ、五年前の壮絶な出来事を思い起こした。 五年前。二人の背後の異能部隊基地で、将来を有望された竜の青年が反逆し、何者かの手によって殺された。 そして、異能部隊の隊長であったギルディオス・ヴァトラス少佐は竜の青年を死なせた責任で左遷されてしまった。 ダニエルらは竜の青年に直接関わったことはなかったが、異能部隊基地の中で、擦れ違うことぐらいはあった。 いつも笑みを浮かべていた顔立ちの整った青年だったが、少年兵達の間では、あまり評判の良くない男だった。 少年兵達が父親の如く慕うギルディオスに事ある事に刃向かっていることもそうなのだが、態度が白々しいのだ。 優しげな笑顔と柔らかな物腰で、どす黒い本性を隠しているような印象があって、近寄りたくない相手だった。 その懸念は、正しかった。何かの拍子で切れてしまった竜の青年の破壊と殺戮は、それは凄まじかったらしい。 らしい、というのは、ダニエルら少年兵は、竜の青年が暴れ回っていたときは異能部隊基地から外へ出ていた。 他の部隊との合同訓練を行うために四日ほど外出していたのだが、帰ってきたら基地が破壊されてしまっていた。 当然驚いたし、何があったか知りたかったが、事に関わった兵士達は何があったのか少しも話してくれなかった。 竜の青年の立場はかなり内密なものらしく、ダニエルら少年兵には、最後まで彼の素性は明かされなかった。 竜の青年が異能部隊に入隊してしばらくしてから入隊した幼女も消えたらしいが、彼女の素性もまた不明だ。 異能部隊に連れてこられたのだから、異能者であることは違いないのだが、その能力は教えられなかった。 上官達は、機密なんだ、とだけ言った。その反応で、ろくでもない能力を持っていたのは確かだと解った。 竜の青年の件に関する噂や憶測は兵士達の間から消えることはなかったが、皆、過度な詮索はしなかった。 あまり突き詰めて調べたりすると処罰が下るし、場合によっては適当な罪で軍法会議に掛けられてしまう。 そうなってはごめんだ、ということで、誰も竜の青年の件に深入りしないので、噂ばかりが大きくなった。 だがそれでも、近頃はようやく弱まってきた。五年も経ってしまえば、さすがに興味も失せるというものだ。 それとは逆に、左遷されてしまったギルディオス・ヴァトラス少佐についての話題は途切れることはなかった。 兵士達から聞いた話では、少佐から軍曹にまで地位を下げられたらしく、扱いも一般の兵士と同じだそうだ。 旧帝国領土の国境付近で燻っている戦闘に参加していて、彼らしく、凄まじいまでの戦績を上げているそうだ。 ギルディオスという男の象徴のようなバスタードソードはさすがに使っていないようだが、それでも凄いらしい。 魂を魔導鉱石に納めて甲冑を動かしているので疲れを知らないし、五百年以上も戦っているので経験も豊富だ。 射撃の腕は悪いが、肉弾戦に掛けては異能部隊の中でも抜きん出た実力を持った、正真正銘の鋼の戦士だ。 そんな男が、普通の人間同士の小競り合いで負けるはずがない。何年かしたら、地位を取り戻すことだろう。 そしてまた、異能部隊の隊長に収まってくれるはずだ。この部隊を率いるのは、彼以外に相応しい男はいない。 ダニエルも、ギルディオスのことは好きだった。実の父親以上に父親らしく、そして、本当に強いからだ。 部隊を率いるには、確かな統率力と共に実力も必要だ。目に見えた力がなければ、部下は付いてこない。 中にはギルディオスの作戦が手緩いと反発を覚える者もいたが、ギルディオス自身はそれに笑っていた。 オレぁ元々傭兵なんだよ、だから軍人みてぇながちっとした手堅い作戦なんて立てられねぇんだよ、と。 その言葉まで思い出していたダニエルは、少しぼんやりしていた。だから、ポールの言葉を聞き逃していた。 「で、その新入りの力は念力発火能力なんだってさ。厄介なのが来たもんだぜ」 「新入り?」 ダニエルが振り向くと、ポールはあからさまに嫌そうな顔をした。 「なんだ、オレの話聞いてなかったのかよ」 「ああ、すまん」 ダニエルが平謝りすると、まぁいいさ、とポールはため息混じりに返した。 「訓練明けで疲れてんのは、どっちも同じだからな」 「それで、その新入りとはどういう奴なんだ?」 ダニエルが尋ねると、ポールは塀の内側を見下ろした。一際大きな営舎の半分は、濃い影に覆われていた。 「ガキだよ、ガキ。ジェイソンが壁透かして見てきたらしいんだけど、ほんの子供で、まだ五歳だってよ」 「五歳?」 思わずダニエルが声を裏返すと、ポールは薄い眉の間を歪める。 「でもって、そいつの名前はなんだと思う?」 ポールは勿体を付けてから、あまり面白くなさそうに言い放った。 「ヴァトラスだとよ」 「隊長の末裔なのか、その子供は」 ダニエルが呟くと、ポールは頷く。 「らしい。まぁ、ギル隊長も発火の力みたいな力はちょっとだけ持っているし、おかしくはないんだがな…」 ポールの不愉快げな口調に、ダニエルもその気持ちは解った。ヴァトラス、という名は異能部隊の中では特別だ。 五百年を長らえてきた歴戦の勇士であり不死身の甲冑、ギルディオス・ヴァトラスは、英雄のような存在なのだ。 不利な状況にあろうとも決して部下は見捨てないし、部下が危機に陥ったら何がなんでも部下を救い出す。 異能者であっても分け隔てなく接し、親しげな言葉を掛けてきて、父親のような大きな愛情を与えてくれる。 だから、ギルディオスは異能部隊の隊員にとっての父であり、そして、多少なりとも憧れを抱いている相手だ。 新入りは、その彼の名を持っている。ダニエルは、嫉妬とも苛立ちとも付かない顔をしているポールを見やった。 理由はなくとも、気に食わない。彼と同じ名であるだけなのに、手の届かない憧れを手にしているように思える。 もちろん、ギルディオス自身とその末裔の子供の血縁関係は薄いが、それでも血が繋がっているのは確かだろう。 別にその末裔の子供が悪いわけではないのだが、なんとなく面白くないし、実のところは羨ましかったりもする。 実に子供染みた感情だ。ダニエルも多少なりともそんな思いが起きてしまい、内心で自己嫌悪に陥っていた。 我ながら、情けない。たかだか五歳の子供が、敬愛する上官と同じ名であるだけで、何をここまで羨むのだ。 だが、ダニエルはそれを表情には出さず、日没しつつある水平線を見た。太陽は、もう半ばまで沈んでいる。 塀に囲まれた基地の中は、既に夜を迎えていた。 翌日。営舎を出て訓練に向かおうとしたダニエルを、上官が呼び止めた。 ダニエルが振り向くと、現在の異能部隊の隊長であるアーノルド・マックス少佐が軍服に身を固めて立っていた。 軍人らしいいかつい顔付きで屈強な体格の彼は、大きな肩を揺らしながら、褐色の肌の少年の元にやってきた。 ダニエルは規律正しく訓練場に向かっていく少年兵らを見送っていたが、アーノルドに向き直り、見上げた。 「お呼びですか、隊長」 「ダニエル。私に付いてこい」 アーノルドはそれだけ言うと、ダニエルに背を向けて歩き出した。筋肉の付いた厚い背が、足早に進んでいく。 ダニエルは少年兵らの訓練の始まった訓練場を見ていたが、背筋を伸ばし、アーノルドの背に続いて歩き出した。 灰色の塀と同じく灰色の壁で作られた営舎を過ぎ、武器や魔導兵器を納めた倉庫を過ぎ、更に奧へと向かった。 どこへ向かうのだろう、とダニエルが訝っていると、基地の一番奥にある七番倉庫の前で上官の足は止まった。 異能部隊基地を取り囲んでいる塀に近い倉庫で、日が高く昇った朝であっても、その倉庫だけは陰っていた。 アーノルドは倉庫の鉄製の扉を開き、顎をしゃくって中を示した。ダニエルはそれに従い、倉庫の中を覗いた。 縦に長い倉庫の中は、窓から差し込む弱い光と、魔導鉱石を光源にした鉱石ランプの冷たい光で照らされていた。 アーノルドが中に入ったので、ダニエルもそれに続いて倉庫に踏み入った。二人の軍靴の足音が、壁に反響する。 倉庫の中程までやってくると、広々とした床に巨大な魔法陣が描いてあり、その中心の六芒星の上に誰かがいた。 ダニエルの身長の半分以下ほどの背丈で、薄茶の髪と薄茶の瞳を持つ、だぶだぶの戦闘服を着た子供だった。 その子供はアーノルドを見据えると、目元を強めた。途端に、魔法陣の内側に強烈な熱と炎が沸き起こった。 どう、と空気を揺らがすほどの勢いで燃え盛った炎の向こうにいる子供は、アーノルドをじっと睨んでいた。 「昨日から、この調子でね」 アーノルドが、辟易したように厚い唇を曲げた。ダニエルは、上官の明らかに面倒そうな態度が鼻に突いた。 アーノルドは、ギルディオスが左遷されたために異能部隊に配属された、以前は戦闘部隊の隊長だった男だ。 平民出の叩き上げの軍人なのだが、異能力どころか魔法の知識をほとんど持っていない、無知な男なのだ。 立てる作戦も普通のものばかりで、ギルディオスのように異能者達の力を上手く活用することなど滅多にない。 その上、同僚を蹴落として這い上がってきた類の男なので、部下達を簡単に切り捨てようとすることが多い。 なので、異能部隊隊員の中では評判が悪かったが、手堅く戦績を上げているので未だにこの地位を守っていた。 ダニエルは苛立ちを押し込めてアーノルドから目を外し、魔法陣の中に突っ立っている幼い子供を見やった。 彼の放った炎は消えていたが、辺りにはむっとした熱が立ち込めていて、少しばかり汗ばんでしまうほどだった。 ダニエルが一歩近付くと、子供は体をずり下げた。不機嫌極まりない顔でダニエルを睨み上げ、強く叫んだ。 「来るな!」 ダニエルが更に間を狭めると、子供は喚く。 「死にてぇのか!」 「まるで野良イヌだな。ずっとこんな具合なんだ。誰彼構わず、炎も放ってくるしな」 やれやれ、とアーノルドは軍服の襟元を緩めて太い首筋を覗かせた。 「そこでだ、ダニエル。これの世話をしてくれないか」 「私が、この子をですか?」 ダニエルがアーノルドに向くと、アーノルドは言った。 「もしものことがあれば、手でも足でもへし折れ。それでも押さえ付けられないようだったら、首でも折って処分しろ」 ダニエルの視界の隅で、子供の目が大きく見開かれるのが解った。ダニエルは、上官を睨み付ける。 「どういう意味ですか」 「聞いた通りだ、それぐらい解らんのか。こんな火炎放射器を躾けるには、お前ぐらい強烈なのが妥当だろう」 アーノルドはダニエルの凄むような目付きに、にやりとした。 「将軍閣下のご子息にとっては、野良イヌの躾など簡単な任務だろう?」 後は頼むぞ、とアーノルドはダニエルに背を向けて倉庫を出ていった。ダニエルは、両の拳を固く握り締めた。 父親が将軍だから、何だというのだ。一度も顔を合わせたこともなければ、親だと思ったことすらない。 ダニエルは、アーノルドが閉ざした倉庫の扉を見据えながら、アーノルドの言葉に怒りを沸き上がらせていた。 ダニエルは元々、南部地方の都市の生まれだ。幼い頃は、娼婦をしながらも堅実な母親と共に暮らしていた。 それがある日、唐突に軍の者がやってきた。最初は、ダニエルの念動力に目を付けて捕らえに来たようだった。 異能部隊に入る際に、身辺を徹底的に洗われたのだが、その時に母親が将軍と関係があったことが判明した。 ダニエルの母親、シェリル・ファイガーは佐官時代の将軍が入れ上げた娼婦で、将来を誓い合ったこともあった。 だが、将軍が戦績を上げて出世するに連れてシェリルへの愛情も薄らぎ、シェリルを捨てて首都へ帰還した。 その後、一人でダニエルを産んで育てたシェリルは、皮肉と嘲笑を混ぜた笑みを浮かべながら息子に言った。 軍人てぇのはそんなもんさ、増してそれが出世街道を進んでる奴なら、あたしらみたいなのはすぐに捨てるのよ。 だがそのシェリルも、三年前に死した。ろくでもない男に買われてしまい、逃げる間もなく殺されてしまったのだ。 ただ一人の身内である母が死したことは悲しかったし寂しかったが、だからといって、将軍に縋る気はなかった。 将軍の配下の者から、異能部隊を抜けて将軍の直属にならないかと言われたこともあったが、はねつけた。 母を捨てたこともそうだが、ギルディオスに対して忠誠心を持っていたので、将軍に忠誠を誓える気がしなかった。 軍人としては真っ当ではないかもしれないが、そうなのだ。自分でも改めるべきだと思ったが、変わらなかった。 子供っぽくて利己的な思考に、ダニエルは情けなくなってしまったが、ギルディオスはそれを受け止めてくれた。 好きでもねぇ野郎の下で働くのはオレも好きじゃねぇよ、といつもの明るい口調で言いながら肩を叩いてきた。 だからダニエルは、将軍の妾の子であるという扱いをされるのも、そう思われるのも、嫌でたまらなかった。 他の隊員達はそれを解ってくれているし、異能故の苦悩と同等の苦悩として捉え、敢えて触れてくることはない。 しかし、アーノルドだけは別だった。事ある事にダニエルへ、将軍の子、とあからさまに皮肉を含めた口調で言う。 ダニエルはアーノルドの立っていた場所に、視線を向けた。力を放つと、途端に床にヒビが走り、穴が開いた。 ダニエルは苛立ちで高ぶった力を放ち終えてから、魔法陣の中の子供へ向くと、子供はダニエルを見つめていた。 安堵と嬉しさが入り混じったような、ほっとした顔をしていた。こいつも同じなんだ、とでも言いたげな様子だった。 「名前は」 ダニエルが問うと、子供は唾を飲み下してから言った。 「レオナルド。レオナルド・ヴァトラス」 「その魔法陣からは出られるか?」 ダニエルが魔法陣を見下ろすと、レオナルドと名乗った子供は同じように足元の魔法陣を見下ろした。 「出られるけどさ」 「けれど、なんだ」 「お前、死ぬぜ?」 レオナルドの目が上がり、ダニエルを捉えた。ダニエルは、子供らしからぬ鋭利な眼差しを見返す。 「その根拠は」 「さっきの、見ただろう。ここに来てから、ずっとあんな調子なんだ。ここも、ここにオレを連れてきた父さんも、さっきの野郎も、全部むかつくんだ。だから、力が止まらないんだ」 「だが、そこにいてはいずれお前が死ぬ。見たところ、この魔法陣は力を阻むだけで消すものではない」 ダニエルは魔法の知識を思い出して、レオナルドの足元に描かれている魔法陣の意味と効果を読み取った。 「あまり力を放ちすぎると、お前の放った炎がお前に跳ね返ってくるぞ」 「いつものことだよ」 レオナルドは、ダニエルをちらりと見やった。 「そっちだって、そうだろう?」 「まぁな。私も、下手な方向に力を放って死にかけたことは一度や二度じゃない」 ダニエルが情けなさそうに返すと、レオナルドは少しばかり表情を柔らかくした。その表情は、子供らしかった。 アーノルドから命じられた任務は、彼のお目付役だ。これから、この子供と長い付き合いになるのだろう。 ダニエルの性格もそうだが、レオナルドの気性は荒いようなので、すぐに仲良くすることは出来ないかもしれない。 だが、努力するだけしてみよう。将来、彼と組んで戦うようになるかもしれないし、仲良くするに越したことはない。 ダニエルは、魔法陣の中に立っている子供に手を伸ばした。親しげな笑顔など作れないので、普通に言った。 「レオナルド。先程の会話で解っているとは思うが、私はお前の傍にいなければならない」 レオナルドは目の前に差し出された褐色の肌の手と、その向こうの少年を見つめていた。ダニエルは続ける。 「どちらも似たような存在だ。せいぜい、仲良くやろうじゃないか」 「出来るもんか」 そうは言いながらも、レオナルドは手を伸ばして掴んできた。ダニエルは、彼を魔法陣から引っ張り出す。 「とりあえず、外に出よう。その分だと、ここに来てから何も食えていないだろうからな」 すると、レオナルドは気恥ずかしげに顔を伏せた。その様子にダニエルは少し笑い、彼の手を引いて歩き出した。 ダニエルの手の中のレオナルドの手は小さく、頼りなかった。だがその手は、異様なまでに高い熱を持っていた。 すぐ近くにいると、レオナルドの発している熱の強さが余計に感じられて、ダニエルは少しばかり気圧された。 あの魔法陣に阻まれていなかったら、倉庫の中は、レオナルドの放った炎で焼き尽くされていたに違いない。 念力発火能力は、念動系統の力の中でも特に強く、異能部隊の中でもその力を持っている者は少なかった。 それでも、レオナルドほど強烈ではない。この子供は、その体格に比例しないほどの魔力を有しているようだ。 ダニエルは倉庫の扉を開き、外へ出た。真夏のように熱くなっていた倉庫の中に比べれば、大分涼しかった。 レオナルドを見下ろすと、レオナルドはぼんやりとしていた。力を放ちすぎたらしく、目が虚ろになっている。 焦点の合わなくなった薄茶の目が瞼で閉ざされると、かくっと頭をもたげて、呆気なく眠りへ落ちてしまった。 ダニエルは崩れ落ちるように眠りこけたレオナルドを抱え、その体の熱さに辟易しながらも、歩き出した。 とりあえず、自分の部屋にでも運んでしまおう。力を放ちすぎた際の疲労を癒すには、眠るのが一番だからだ。 営舎の向こうにある訓練場を見やると、掛け声を上げながら規則正しく走っている兵士達の姿が目に入った。 今日は、訓練は出来そうにない。任務はそうでもないが訓練は嫌いではないので、ダニエルは少し残念だった。 腕の中に抱えた子供は思いの外重量があり、腕が痺れてしまいそうだったので、出力を弱めた念動力を放った。 目覚める気配のないレオナルドを軽く浮かばせて抱き直してから、ダニエルは営舎の玄関に向かっていった。 歩きながら、どうやってレオナルドと接するべきか考えていた。 それから、半年後。レオナルドは六歳に、ダニエルは十四歳になった。 その頃になると、二人はすっかり打ち解けていた。レオナルドは、年上ぶらないダニエルが気に入っていた。 地位は同じ少年兵なのだから、とのことで、ダニエルは年長であることを振り翳すことなく、対等に接してきた。 他の隊員達からは子供扱いされてばかりなので、レオナルドにとってはダニエルのそんな態度が嬉しかった。 ダニエルも、歳の離れた弟のようでありながらあまり子供らしくない言動をするレオナルドが、割と好きだった。 むやみやたらに甘えてくることもないので、適度な距離を置いた関係になっていて、それがやりやすかった。 ダニエルにとって、レオナルドの世話係はあくまでも任務の一端であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。 だが、ダニエルとレオナルドは友人同士であることには違いなく、あっさりとしているが友情を持っていた。 ダニエルは任務と訓練に明け暮れ、レオナルドは訓練と勉強に明け暮れているうちに、短い夏が過ぎていった。 海から吹き付ける風が冷たくなり、秋が深まった頃、レオナルドはどこかへ連れて行かれることが多くなった。 アーノルドだけでなく、共和国軍本部の佐官、魔導師協会の人間らしき者に手を引かれて、姿を消していた。 ダニエルは、レオナルドが姿を消す理由を詮索しなかった。彼に任務が与えられたのだろう、と思っていた。 秋が過ぎて初冬が訪れ、異能部隊基地にもちらほらと雪が舞い落ちている日、ダニエルは彼に呼び出された。 レオナルドの下手な字で書かれた手紙が、ダニエルの戦闘服に忍ばせてあり、一行だけの短い手紙だった。 はなしておきたいことがある。内容はそれだけで、どこにいるかは書かれていなかったが、その予想は付いた。 ダニエルとレオナルドが最初に会った、基地の奧にある倉庫。そこは、二人で揃ってよく行く場所なのだ。 念力消滅の魔法陣を描いた中で向ける先のない怒りや力を放つためだったり、下らない話に興じるためだった。 だから、ダニエルは迷わずに異能部隊基地の奧の倉庫に向かった。朝から降り出した雪は、激しくなっていた。 戦闘服の上に防寒着を羽織って、地面にうっすらと積もった雪を軍靴のつま先で蹴飛ばしながら、歩いた。 誰とも擦れ違わずに倉庫にやってきたダニエルは、閉ざされている扉を開けようと触れた途端、手を引っ込めた。 「うっ!?」 火に直接触れたかのような、熱があった。足元を見てみると、扉の周囲、いや、倉庫の周囲だけ雪が解けている。 レオナルドだ。そう直感したダニエルは一歩身を引くと、扉を睨んで手を突き出し、制御した念動力を放った。 かなり熱せられていた鉄の扉は容易く吹き飛び、どぉん、と内側に倒れた。途端に、熱気が吹き出してきた。 ダニエルは防寒着を脱ぎ捨てると、床に倒れた扉を踏み越えて、炎に満たされた倉庫の中に飛び込んだ。 壁と言わず天井と言わず、至るところが燃えている。唯一炎のない魔法陣の中に、レオナルドが立っていた。 ダニエルは炎を念動力で薙ぎ払ってから、レオナルドに駆け寄ると、レオナルドは魔法陣の中で崩れ落ちた。 「来るなぁあああ!」 「気を静めろ、レオ! なんでこうなったんだ!」 ダニエルが魔法陣に踏み込むと、レオナルドは身をずり下げた。ぼたぼたと涙を落としながら、叫ぶ。 「来るな、ダニー、オレに近付くな、オレになんか触るな!」 「とにかく、外へ出よう。この中にいては、天井が落ちてこないとも限らん」 ダニエルがレオナルドの手を取ろうとすると、レオナルドはその手を弾いた。 「うるせぇ! オレなんか、死んじまった方がいいんだ! このまま生きてると、またやらされちまうんだ!」 「何をだ!」 ダニエルが強く声を上げると、レオナルドはか細く漏らした。 「オレさぁ、人、燃やしちまったんだよ」 「なんだと?」 その言葉にダニエルがぎょっとすると、レオナルドは両手で顔を押さえて喚いた。 「任務だって言われて、そっち見て火ぃ出せって言われて火ぃ出したら、人が燃えてんだよぉ!」 「レオ…」 ダニエルがレオナルドの肩に手を添えると、レオナルドはがくがくと体を震わせる。 「ひっ、ひとりじゃないんだ! もう、十人ぐらい燃やしたんだぁ! やりたくないのに、やらされるんだぁ!」 ダニエルは膝を付くと、レオナルドを抱き寄せた。レオナルドは咆えるように泣き声を放ち、縋ってくる。 普段は滅多に泣くことのないレオナルドが、泣き喚いている。それだけで、余程のことがあったのだと察した。 レオナルドが連れ出されていた理由は、これだったのだ。彼は、大人達の手で安易な武器にされていたようだ。 念力発火能力の炎なら銃と違って弾丸も残らないし、軍の上層が関わるならば事が公にされることもない。 だが、いくらなんでもむごすぎる。ダニエルは次第に沸き上がってきた怒りを放つべく、手を上向けた。 直後。倉庫の天井にいくつもの大きなヒビが走り、壁との接着をべきべきと砕きながら、浮き上がり始めた。 灼熱だった倉庫の中に冷えた風と雪が滑り込んできたが、すぐに熱せられて跡形もなく消え失せてしまった。 ダニエルはレオナルドを抱えたまま立ち上がると、念動力を一気に高め、浮き上がった天井に手を突き出した。 「はっ!」 一瞬の後、天井は塀の高さ近くまで上昇した。鉛色の空の下、降りしきる雪の中に浮かんでいるそれを、操った。 ダニエルが手を横へ動かすと、倉庫の屋根はその動きに従って横へ滑り、背の高い塀の向こう側へと消えた。 手を引いて念動力の制御を切ると、どぉん、と腹に響く落下音が轟き、水飛沫と思しき音も聞こえてきた。 ダニエルは念動力を自分へ向けると、床を踏み切って飛び上がり、倉庫の壁を通り越す高さまで浮かんだ。 そこから周囲を見下ろすと、積もった雪は踏み荒らされていて、何事かと駆け付けた隊員達が見上げていた。 ダニエルは念動力を弱め、倉庫から離れた位置に下りた。地面に足を付けてから、レオナルドを下ろす。 雪の上に座り込んだレオナルドは、その周囲から湯気を立ち上らせていた。まだ、力が収まり切っていない。 近付いてきた足音にダニエルが振り向くと、血相を変えたポールが駆け寄ってきて、いきなり肩を掴んできた。 「何があったんだ、ダニー!」 「見ての通りだ」 ダニエルが足元のレオナルドを見下ろすと、彼の目もそちらに向いた。 「こいつが、これ、やったのか…?」 「ああ」 小さく呟き、ダニエルは燃え盛る屋根のない倉庫を見上げた。二人が出た直後に、炎の勢いは更に増した。 灰色の塀も焦がさんばかりに炎が揺れ動き、煤混じりの煙が立ち上り、鉛色の空から落ちる雪を溶かしていた。 レオナルドは声を殺し、奥歯を噛み締めて涙を落としていた。その涙の落ちた場所からも、湯気が昇っている。 ダニエルは、ポールや他の兵士達から矢継ぎ早に事の真相を尋ねられたが、答えずにレオナルドを見ていた。 必死に炎の力を押さえようとしているようだが、時折外へ出てしまい、踏み荒らされた雪が所々溶けている。 なんとかしてやりたい。そう思ったが、ダニエルにはレオナルドの炎の力を押さえ込めるような力はなかった。 魔法も深く知っているわけではないし、念力発火能力の原動力である魔力を大量に抜くと命に関わってしまう。 ダニエルは彼が哀れでならなかったが、自分への歯痒さを感じていたが、それを表情に出すことはなかった。 屋根を吹き飛ばされて箱と化した倉庫の内からは、炎が溢れ続けていた。 06 4/17 |