レオナルドは、満ち足りていた。 寝室のベッドに横たわっている彼女の傍らに、小さなものが在る。生まれてからほんの三日の、我が子だった。 乳を与えられて満足したのか、眠っている。まだ目鼻立ちははっきりしていないが、両親の面影があった。 カーテンを通った柔らかな日差しが寝室に降り注ぎ、疲れてはいるが幸せそうなフィリオラを、包み込んでいる。 レオナルドは居間から持ってきた簡素な椅子に座って、ベッドの傍から、妻と我が子を見下ろしていた。 フィリオラはレオナルドを見やると、ふにゃりと笑った。幼女であった頃と、なんら変わっていない表情だ。 それに釣られて、レオナルドもつい笑ってしまう。押さえようと思っても押さえられない嬉しさが、込み上げる。 フィリオラは布団の下から手を出すと、子を授かって少々膨らみを増した胸の上に載せ、軽く指を組んだ。 ほっそりとした左手の薬指には、銀の指輪が填められている。彼女の指先は、指輪を確かめるようになぞった。 「どうしましょうか」 「どうしたものか」 レオナルドは、フィリオラと同じ言葉を繰り返した。生まれて間もない娘は、母の傍で眠りこけている。 「決めてませんでしたもんねぇ」 フィリオラは首だけ動かし、レオナルドに向けた。 「というより、考える暇がなかったんだ。オレもお前も、色々と忙しかったからな」 「ですよねぇ」 フィリオラは、穏やかに目を伏せる。その口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。 「本当に、どうしましょうか。この子の名前は」 「まぁ、すぐに決める必要はない。考えるだけ考えて、納得の行く名前にしてやろう」 レオナルドは立ち上がると、ベッドの脇に腰を下ろした。フィリオラの髪に触れてから身を屈め、顔を寄せる。 フィリオラの短いツノに口付けてから、額と頬に当て、最後に薄い唇を軽く噛んでやり、深く重ね合わせた。 彼女の華奢な手がレオナルドの首に回され、引き寄せられる。以前に比べれば、かなり積極的になっている。 どちらからともなく唇を離すと、至近距離で笑い合う。我が子が生まれてからというもの、笑いっぱなしだった。 レオナルドはフィリオラの上から体を起こし、座り直した。幼子の頬を、壊れ物でも扱うかのように触れる。 二年ほど前、旧王都を出てゼレイブにやってきた。それから一年ほどして、フィリオラが身籠もったのだった。 フィリオラの中に望んだ世界を見出し、その中で消えたキースが、フィリオラの体に残した礼のおかげだった。 二人だけでなく、ゼレイブに戻ってきたブラドール一家は喜びに喜び、二人の子が生まれてくる日を待ち望んだ。 そして三日前、レオナルドとフィリオラの子は遂に生まれた。取り上げてくれたのは、ジョセフィーヌだった。 予知能力を持つ彼女は、次に何をすればいいのか視えているようで、戸惑っている男達に指示を与えてきた。 知性が幼いので普段は拙い言動をする彼女だが、あの時は別人のようで、その変貌ぶりにも戸惑ってしまった。 だが、事が終わるとくたびれ果ててしまったのか、ころりと深く寝入ってしまい、目覚めたら元に戻っていた。 ジョセフィーヌも、キースと深く関わった者の一人だ。彼女も彼女なりに、何かをやっておきたかったのだろう。 レオナルドは、幼い娘を見下ろした。フィリオラの服の中でも柔らかな服を解いて作った、産着が着せられている。 小さな手は軽く握られていて、丸っこい目は閉じられているが、その瞳の色は母親にとても良く似た色だった。 うっすらと生えた髪は父親に似た薄茶だが、その間からは、フィリオラのそれと近しい竜のツノが生えていた。 程良く双方の血が入り混じっているが、竜へ変化する力や異能力を有しているかどうかは、まだ解らない。 彼女が何かしらの力を持っているにせよ持っていないにせよ、それを受け入れて、愛してやるつもりだ。 レオナルドもフィリオラも、己の持つ力によって大分苦労した。我が子には、その苦しみを与えたくない。 柔らかく細い髪の間に生えたツノに、軽く触れた。そのツノはとても小さく、頼りないが、確かに硬かった。 「レオさん」 フィリオラに呼ばれ、レオナルドはそちらに向いた。 「ん」 「もうちょっと、ここにいて下さい」 フィリオラの手が、レオナルドの手を取った。レオナルドは、その手を握り返す。 「言われなくとも」 フィリオラは嬉しそうに笑むと、レオナルドの手を引き寄せ、自分の頬に押し当ててその大きさを味わった。 元々低めの体温が出産によって生じた貧血で更に低くなっているので、彼の手は、熱く思えるほどだった。 胸の奥から、じわりと熱が滲み出る。だがそれは、彼に焦がれていた時のものとは違い、柔らかかった。 愛しくて、嬉しくて、温かくて、胸が詰まる。全身には倦怠感と痛みがまだ残っていたが、気にならなかった。 幸せで、たまらないからだ。 家を出たレオナルドは、外を歩いていた。 丁度、家にやってきたジョセフィーヌに、妻と娘の世話を任せてから、日の暮れかけた街をぶらついていた。 街と言っても、旧王都や首都に比べれば密度は低く、隣家との距離が相当離れていて、閑散としている。 戦火が届いていないので、民家の周辺にある畑も街を囲んでいる山も傷付いてはおらず、景色は穏やかだ。 ゼレイブに来てからというもの、めっきり本数を減らした紙巻き煙草を久し振りに銜えると、歩調を緩めた。 じっと睨んで抑え込んだ炎の力を放つと、じっ、と軽い音と共に紙巻き煙草の先端が赤くなり、火が灯った。 苦い煙を吸い込んで吐き出すと、視界がぼやける。吹き付けてきた風は冷たく、夜が訪れることを感じさせた。 煙が散らされ、辺りに匂いが広がる。足音がしたので振り返ると、西日で髪を煌めかせている少年がいた。 この二年ですっかり背が伸び、顔付きも大人びてきたブラッドは、黒いマントを翻しながら駆け寄ってきた。 「レオさん、名前決まった?」 「いや、まだだ」 レオナルドは紙巻き煙草を口から外すと、ブラッドに向き直った。その答えに、ブラッドは残念そうだった。 「そっかぁ。やっぱ、難しいんだな」 「いくつか思い付いてはいるんだが、いざそれにしようと思うと、それでいいのか迷ってきてしまうんだ」 レオナルドは紙巻き煙草の灰を足元に落としてから、銜え直した。深く、煙を吸う。 「あいつも似たようなもんらしくてな。なかなか、上手くいかないんだ」 「オレが意見するのもなんだしなぁ」 ブラッドの声は、以前よりも僅かばかり低くなっていた。レオナルドは、妙に気恥ずかしくなってしまった。 「しかし、まさかこんなことで悩む日が来るとはなぁ」 「いいじゃん。嬉しいことなんだから」 ブラッドは、自分のことのように嬉しそうだった。レオナルドは、少年の笑顔を見下ろす。 「まぁ、それはそうなんだがな」 ブラッドは、レオナルドを見上げた。彼と出会ったばかりの頃と比べたら、まるで別人のような表情だった。 口が悪いのは相変わらずなのだが、攻撃的なまでの刺々しさは消えていて、態度も柔らかなものとなっている。 それもこれも、全てはフィリオラのおかげだ。だが、そのフィリオラが、遠くへ行ってしまったような気もした。 ブラッドは背後に振り返り、家々の奧にある古びた屋敷、ブラドールの屋敷の手前にある家へと目をやった。 建てられてからあまり年月の経っていない、こぢんまりとした木造の家が、レオナルドとフィリオラの家だ。 その家の傍には、田舎町に不似合いな、真っ赤な塗装を施された蒸気自動車があり、いやに目立っていた。 様々な出来事を乗り越えて、晴れて契りを交わした二人は満ち足りていて、邪魔をしてはいけないと思った。 だからブラッドは、徐々に距離を開けた。離れすぎない程度だが、二年前のようにべったりとはしていない。 もちろん、それはブラッド自身が決めたことだし、そうするべきだと解っているのだが、少しばかり寂しかった。 けれど、苦しいほどではない。むしろ、そうすることを決められた自分が妙に誇らしかったが、内に隠していた。 まだまだ子供の部分は多くあるが、確実に成長出来ている。そのことを実感したので、尚更気分は良かった。 「オレさ」 ブラッドは頭の後ろで手を組むと、にかっと笑った。 「兄貴、やってみてぇ」 「ああ、やってみたらいいさ。オレはやったことがないから、なんとも言えないがな」 レオナルドは半分ほど吸い終えた煙草を外すと、足元に落として踏みにじった。ブラッドは、歩き出す。 「うん、オレもしたことない。だからさ、やってみてぇんだ。オレ、上も下もいないから」 「まかり間違って、手を出すんじゃないぞ」 レオナルドは、不意に真剣な顔をした。ブラッドは途中で振り返ると、心外そうに眉を下げた。 「しねぇよ。十二も下なんだぜ? それに、そんなことしたら、レオさんに何されるか解ったもんじゃねぇ」 「解っているならそれでいい」 にやりとしたレオナルドに、ブラッドはなんだか可笑しくなってしまった。 「らしくねぇなぁー、もう。今にすっげぇ親馬鹿になるぜ、レオさんもフィオ姉ちゃんも」 「オレだって、情けないとは思う。だがな、どうしようもないんだ。ブラッド、お前も親になれば解るさ」 ブラッドの隣を過ぎたレオナルドは、妻と子の待つ家へと向かっていった。ブラッドは、その背を追いかけた。 歩調の合わない二つの足音が、薄い闇に覆われ始めた街中に響く。家々の窓からは、明かりが零れていた。 途中、民家から顔を出していた住人達に夜の挨拶をしながら、二人はそれぞれの家族が待つ家に帰った。 夜空には、冴えた満月が浮かんでいた。 翌朝。レオナルドは、寝室に朝食を運んだ。 二人分を載せた盆を持って扉を開けると、ベッドの上で起き上がっている妻は、我が子に乳を含ませていた。 ツノの生えた娘は母親に縋り、必死に吸い付いている。レオナルドは慎重な手付きで、テーブルに盆を置いた。 フィリオラは上目にレオナルドを見てから、再び娘を見下ろした。しばらくすると満足したのか、娘は口を離した。 その背を軽く叩いて空気を出してやると、フィリオラは幼子を横たえて、その上に柔らかな毛布を掛けてやった。 娘は、すぐに目を閉じた。間もなく寝息を上げ始めたので、フィリオラは寝間着を直してから、柔らかく笑った。 「はい、お休みなさい。起きたら、またあげますね」 「今は、喰って寝るのが仕事だからな」 レオナルドは、寝入った娘を見下ろす。フィリオラはベッドから出ると、その傍にあった椅子に腰掛けた。 「私も、また大分食べないといけませんね。太っちゃいますけど」 「少しぐらい太れ。そうでないと、身が持たんぞ」 レオナルドは盆からフィリオラの分の皿を出すと、彼女に渡した。フィリオラは、その皿を膝の上に置く。 「でも、あんまり体形が変わってしまうのは…」 「倒れられたりするよりは、余程良いと思うがな」 レオナルドは自分の分の皿を取り、パンを囓った。フィリオラはパンを千切ると、欠片を口に入れる。 「まぁ、そりゃそうですけど」 向かい合って食べていたが、二人の目線は自然と娘に向かった。娘は小さな手を握り締め、寝息を立てている。 フィリオラは大した量のない朝食を終えると、皿を盆に戻し、レオナルドの淹れた紅茶の入ったカップを取った。 口に含むと、強い渋みが訪れた。フィリオラはぎゅっと眉間にシワを寄せたが、強引に飲み下し、カップを下ろす。 「蒸らす時間、思いっ切り間違えましたね?」 「そんな気がする」 レオナルドは自分の分の紅茶を飲み、その苦さに眉根を歪めた。フィリオラは、なんともいえない顔をしている。 「ご飯の準備をして頂けるのはとてもありがたいし嬉しいんですけど、こればっかりは…」 「この間のはやたらと薄かったからな」 「その前は物凄く濃かったです」 フィリオラは間髪入れずに言い返し、やけに強気な態度でレオナルドを指す。 「私がちゃんと動けるようになったら、きっちり教えてあげますからね。そうしないと、お茶の葉の無駄です」 「無駄はないだろう、無駄は」 彼女の言い草にレオナルドが不愉快げにすると、フィリオラは首を横に振る。 「いいえ、間違いなく無駄です。だって、レオさんの場合、基本的にどこかしらを間違えて淹れるんですから。しかも、その間違った場所を反省するでもなく、また同じ場所を間違えてしまうんですから」 「悪かったな、学習能力がなくて」 「本当に、どうしてなんでしょうねぇ。他のことはちゃんと出来るから、余計に不思議です」 フィリオラはマグカップを傾け、渋い紅茶を飲んだ。温くなっていたので、一気に飲み終え、大きく息を吐いた。 「なんだかんだ言うくせに、きっちり飲むんだよなぁ」 レオナルドは不思議そうにしつつ、自分の紅茶を飲み干した。フィリオラは、空になったマグカップを盆に戻した。 「だって、悪いじゃないですか。味はどうあれ、レオさんが淹れてくれたんですから、ないがしろにしちゃいけません」 フィリオラの肩口で、切り揃えられた髪が揺れた。旧王都を出る際に切ってからというもの、ずっと短くしている。 ギルディオスらから離れるため、決意を固くするために切ったのだが、長いよりも短い方が楽だと気付いたらしい。 ゼレイブに来てからは、魔導師ではなくレオナルドの妻として振る舞っているので、魔法を使う機会は減った。 なので、これといった支障もないので、今は伸ばしていない。フィリオラは体を傾げ、レオナルドに寄り掛かった。 レオナルドはフィリオラの重みを受け止め、マグカップを盆に戻してから、彼女の頼りない肩を支えてやった。 フィリオラは彼の厚い胸に縋り、心地良さそうに顔を埋めた。間近から、少々温度の高い体温と男の匂いがする。 「ね、レオさん」 「なんだ」 レオナルドが聞き返すと、フィリオラはレオナルドの胸から顔を上げる。 「私の本当の名前って、やたらと長いんですよね」 「ああ、そうだったな。確か、フィフィーナリリオーラ・フィフィーナリリアンヌ・ドラグーン・ストレインだったか」 レオナルドが淀みなく言うと、フィリオラは頷く。 「はい、ですから。この子のお名前は、短い方がいいと思うんです。あんまり長いと、書く時に面倒ですから」 「フィリオラ。何か、いいのが思い付いたのか?」 「レオさんの方でいいのがありましたら、そちらにしても良いんですけど」 おずおずと、フィリオラはレオナルドを見上げた。レオナルドは、その態度の弱さに少し呆れてしまう。 「お前が母親だろうが。ちったぁ自信持て」 「えっと、それじゃ、言いますね」 フィリオラは座り直して姿勢を正し、ちらりと娘に目をやってから、自信なさげに呟いた。 「リリ、なんてどうでしょうか」 「リリオーラのリリか?」 レオナルドが言うと、フィリオラは即座に否定した。 「いえ、大御婆様の方から取ったんです。リリアンヌのリリです」 「それで、本人の意見は?」 レオナルドは、フィリオラの肩越しに娘を見やった。娘はすやすやと眠っていて、目を覚ます様子はなかった。 「異存はなさそうだな」 フィリオラに目線を戻すと、彼女はまだ不安そうだった。レオナルドは、その額を軽く小突く。 「自分がそれでいいと思ったら、それでいいんだよ。いちいちそんな顔するな」 「いいん、ですか?」 フィリオラは小突かれた額を押さえ、瞬きする。レオナルドは頷く。 「オレがごちゃごちゃ考えていた名前よりも、余程いいし、しっくり来る。オレの方も、異存はない」 すると、フィリオラは徐々に表情を明るくさせていった。血の気の薄い頬まで紅潮させて、満面の笑みを浮かべる。 レオナルドが再度頷いてやると、フィリオラはうんうんと頷いた。立ち上がると娘の元に戻り、その耳元に言う。 「お父さんもいいって言ってくれましたので、あなたのお名前が決まりました。今日からあなたは、リリです」 「リリ・ヴァトラスか。いい響きじゃないか」 レオナルドの反応に、フィリオラはさも得意げにする。 「でしょ? 可愛いですし、言いやすいですし、覚えてもらいやすい名前だと思いません?」 フィリオラは娘の傍に座ると、リリ、と何度となく繰り返しながら、ツノの生えた小さな頭を優しく撫でていった。 笑みにも、声色にも、手付きにも、娘への愛情が満ち溢れている。窓から注ぐ朝日が、母と娘を照らしている。 内側から、熱が起こる。痛みも苦しみも溶かしてしまうような、優しい温度の熱が、レオナルドの内に起きた。 フィリオラもリリもまとめて抱き締めてしまいたくなったが、今はそれは出来ないので、我慢しておくことにした。 この光景を、キースが見たら、いや、見ているだろう。彼は彼女と共に在り、彼女の内に眠り続けているのだから。 レオナルドは、無意識に目を細めていた。とても、暖かだ。まるで春の日差しの下にいるような、そんな気がした。 彼も、彼女も、そして自分も求めていたものだ。愛して愛されて、思って思われている、平凡で穏やかな日常。 ずっと、手に入らないものだと思っていた。だからこそ、尚のこと嬉しくて、レオナルドは頬を緩めていた。 今更ながら、ギルディオスの気持ちが解った。彼が戦い続ける理由も、その心境も、斬撃に込められた重みも。 彼は、全てのものを愛しているのだ。フィフィリアンヌらも、異能部隊も、フィリオラも、そして、ヴァトラスも。 だからこそ、彼は戦っている。守りたいから、守らなければならないから、バスタードソードを振るっている。 見ている方向が一直線過ぎて、時折周りが見えなくなってしまうこともあるが、それでも彼は皆を愛している。 なぜ、そこまで愛せるのか。昔のレオナルドでは解らなかっただろうが、今となっては、すぐに理解出来る。 この、光と温もりに満たされた場所は、決して失いたくない。それを守り抜くためなら、戦うことなど容易い。 レオナルドは、改めてギルディオスに敬意を抱いた。一度は潰えかけたが、経験を重ねるごとに深まってくる。 近いうちに、あの竜の城へ住まう三人に手紙を出そう。いつ届くかは解らないが、色々と報告してやらなければ。 ふと気付くと、フィリオラがこちらを見ていた。レオナルドが少し戸惑っていると、フィリオラは微笑んできた。 「レオさん、よく笑うようになりましたね」 「…悪いか」 やけに照れくさくなって、レオナルドは顔を逸らした。フィリオラは彼の意地が微笑ましくて、更に笑う。 「いいえ、別に。でも、照れるようなことじゃありませんよ。いいことなんですから」 レオナルドは彼女の笑顔をちょっと見てから、また目を逸らした。長年染み付いた意地だけは、簡単に拭えない。 娘も生まれたのだから、いい加減に素直になるべきだとは思うのだが、まだ切り替えが上手く行かなかった。 フィリオラはリリを撫で、お父さんは可愛いですねー、と笑いかけており、居たたまれなくなってしまった。 二十八にもなって、まだ可愛いと言われてしまう。違和感やら気恥ずかしさやらが起きてきて、顔をしかめた。 その表情を見たフィリオラは、やっぱり可愛い、と思ったが、これ以上言っては悪いと思い口には出さなかった。 あまり言ってしまうと怒ってしまいそうな気がするし、こんなことでレオナルドを怒らせてしまいたくない。 フィリオラは身を屈めると、リリのふっくらとした白い頬に唇を触れさせ、その儚げな柔らかさを確かめた。 娘には、日向のような暖かさがあった。 二人の娘の名が決まってから、二ヶ月ほどした頃。ゼレイブの街に、竜が舞い降りた。 雲を割って突如降下してきた巨大な緑竜の姿に、人々は混乱し怯えてしまい、フィリオラらが慌てて説明をした。 あれは敵ではない、害を成しに来たのではない、と。最初は皆、疑っていたが、ラミアンのおかげで落ち着いた。 銀色の骸骨の姿となっていても、生前からの信頼があるので、ゼレイブの街の人々は彼の言葉を信じてくれた。 そして彼らは、少女の姿となった緑竜と、その背に乗っていた甲冑と、フラスコ入りのスライムとの再会を果たした。 二人の住まう家にやってきた三人は、真っ先にリリの元にやってくると、三者三様に幼子を褒め称えた。 子供用の小さなベッドに寝かされていたリリは、見知らぬ者達を見つめていたが、次第にぐずり、泣き出した。 手狭な寝室に、幼子の泣き声が響き渡った。フィリオラは娘を抱いてあやしてやりながら、三人に苦笑する。 「何が悪かったんでしょうかねぇ」 「…オレじゃねぇの?」 寝室の扉を塞ぐように立っているギルディオスは、ばつが悪そうにヘルムを掻いた。その手元で、伯爵が笑う。 「はっはっはっはっはっはっは。貴君のような麗しくない者を見れば、泣きたくもなるのである」 「この子の顔を見るなり、蠢いた貴様も充分悪いぞ、伯爵。貴様ほど、気色の悪い物体はないからな」 フィフィリアンヌは腹立たしげに、ギルディオスが持っているフラスコの中にいるスライム、伯爵を睨んだ。 フィリオラは相変わらずの彼らに安堵しつつ、腕の中のリリを優しく揺らしてやりながら、穏やかに語り掛けた。 「怖がらなくてもいいですからね。小父様も大御婆様も伯爵さんも、あなたを見に来て下さったんですから」 ね、とフィリオラは娘に声を掛けている。母親らしくなったフィリオラに、ギルディオスは少し寂しくなった。 無論、とても嬉しい。少女の頃は頼りなくて気弱だった彼女が、成長した様を見るのは、感慨深いものがある。 胸が詰まるほどの嬉しさとそれと同等の切なさを感じ、ギルディオスは内心で笑んだが、泣き笑いに近かった。 「リリ、なぁ」 ギルディオスが二人の娘の名を口に出すと、フィフィリアンヌは背後に立つ甲冑を見上げる。 「残念だったな。貴様の名が入らなくて」 「はっはっはっはっはっはっは。所詮、ニワトリ頭はニワトリ頭、冷血オオトカゲには勝てぬと言うことであるな」 伯爵は、ぐにゅりと柔らかな身を捻る。フィリオラの傍にいたレオナルドは、甲冑に向き、少し笑った。 「リリは女でしたからね。男だったら、考えないでもなかったんですが」 レオナルドの見せた笑みの穏やかさに、ギルディオスはまた嬉しくなってきて、にやけた声を出した。 「んじゃ、二人目の時にでも頼むわ。なんか、照れちまうけど」 「はっはっはっはっは。レオナルドよ、貴君のことであるから、二人目など間を置かずして作るのであろうな」 「いきなり下世話なこと言わないで下さい。煮詰めますよ」 レオナルドはむっとして、伯爵のフラスコを見据えた。その視線と共に放出された熱が、フラスコの中を熱した。 「よっ、予告した傍からやるでない!」 フラスコの中で、伯爵がじたばたと暴れ出した。レオナルドは少しだけ気が晴れたので、力を押さえて熱を止めた。 赤紫の粘液は、ガラスの球体の中ででろりと溶けていた。熱せられて起きた湯気が、内側に立ち込めている。 おおおおう、と伯爵は力なく声を漏らしている。その様子に、寝室の中にいたブラッドは変な笑いになっていた。 ブラッドの背後にいるラミアンは呆れてしまったらしく、狂気の笑みの仮面を付けた顔を、横に振っている。 銀色の骸骨、ラミアンの腕にしがみ付いているジョセフィーヌは、ギルディオスに会えたので、嬉しそうだった。 いつにも増してにこにこしていて、上機嫌だった。気が若いからか、外見もまだ若いままで、一向に歳を取らない。 フィリオラがあやすうちに、リリは落ち着きを取り戻した。見慣れない者が多かったので、戸惑ったらしかった。 泣き止んだリリは、歯の生えていない口を動かしている。フィリオラは慎重な手付きで、リリをベッドに横たえた。 「はい、いい子ですね。大丈夫ですからね、なんにも怖いことなんてないんですから」 フィリオラはリリの頭をそっと撫で、小さなツノに触れる。 「リリ。あなたは、色々な方に祝福されて生まれてきたんですよ」 フィリオラは、胸元に手を当てた。 「私はもちろん、あなたのお父さん、大御婆様、小父様、伯爵さん、ラミアンさん、ジョーさん、ブラッドさん」 胸元に当てた手を、ぎゅっと握り締めた。 「そして、キースさん」 フィリオラは人差し指を出し、娘の手に近付けた。リリは、母親の指を掴んできた。 「大きくなって、色々なことが解るようになったら、皆さんのことを一杯話してあげますね。最初から最後まで、綺麗なところも汚いところも、怖いところも楽しいところも、何もかもを」 「だからリリ、そんなに不安になるな。そりゃ、こいつが親だと不安にもなるだろうがな」 レオナルドは、フィリオラの背後から彼女の頭を押さえた。フィリオラは頬を張り、むくれる。 「そんなこと言わないで下さい、もう」 「安心しろ、リリ。お前が自分の足で立てるようになって、自分の力で生きていけるようになる日まで、オレがきっちり守ってやる。それが、父親の役目だからな」 言いながら、レオナルドは照れくさくなってしまったが、なんとか押し込めた。こんな時まで、意地を張りたくはない。 リリは、両親をじっと見上げていた。穢れのない無垢な瞳を瞬きさせると、言葉にならない幼い声を、漏らした。 フィリオラはにこにこしながら、レオナルドの太い腕に腕を絡めてぐいっと引き寄せ、娘の前に引っ張り出した。 「お父さんはね、とっても強いんですよー。意地っ張りで捻くれてて、ちっとも素直じゃありませんけどねー」 「そこまで、言わなくていい」 「いえいえ。ちゃんと教えておいてあげませんと、リリが困っちゃいます。それと、自分の子供にぐらい、意地を張るのは止めましょうね。照れくさいからって変な方向を見たり、恥ずかしいからって怒ってみたり、嬉しいのに嬉しい顔をしなかったり、楽しいのに笑わなかったり、泣きたいのに無理矢理泣かなかったりしないで下さいね」 しないで下さいね、とフィリオラは繰り返して強調した。レオナルドは答えに困ってしまい、リリに目を向けた。 リリは、父親を見上げていた。娘と目が合ってしまったレオナルドは、また照れくさくなってきたが、堪えた。 表情を固めてしまったレオナルドを、フィリオラは覗き込んだ。言った傍から、意地を張っているようだった。 「聞いてますか、レオさん?」 「オレだって、努力ぐらいはしている。だがな、そう簡単にどうにかなるもんじゃないんだ」 レオナルドが言い返すと、フィリオラはにやりとした。 「照れ隠しに怒っちゃって、リリに嫌われちゃったりしても知りませんからね?」 「おっ、お前なぁ!」 レオナルドが声を上げると、フィリオラはつんと顔を逸らした。 「そのせいで、どれだけ私が怖い思いをしたと思っているんですか。そういうことになっちゃっても、私はなーんにも知りませんからね? 全部レオさんの責任ですからね、ご自分でなんとかして下さいね、お父さん?」 「…う」 レオナルドは妻に言い返そうとしたが、リリの目線に気付くと言い返せなくなってしまい、文句を押し込めた。 確かに、それはそうだ。彼女と再会したばかりの頃は、自分でも呆れるほど意地を張って、彼女を責め立てた。 おかげで、フィリオラには随分嫌われてしまった。あんなことはもう二度と、いや、娘を相手にしてはならない。 レオナルドが口籠もると、フィリオラは声を殺して笑い出した。困り果てた彼の姿が、妙に可笑しかったからだ。 フィリオラに釣られたのか、ギルディオスが肩を震わせ、伯爵が高笑いを始め、ラミアンまでもが吹き出した。 「いや、失礼」 そうは言うものの、ラミアンの声は笑っていた。レオナルドの心境もフィリオラの気持ちも、よく解るからだ。 いきなり笑い出した面々に、リリはきょとんとしていた。何が可笑しいのか解らないらしく、不思議そうだった。 ブラッドも、レオナルドらしからぬ困惑ぶりに笑い出したくなったが、自分まで笑っては悪いと思い、押さえた。 ジョセフィーヌはといえば、けらけらと笑っている。とりあえず、他人が笑っているので自分も笑いたいのだろう。 レオナルドは、怒るべきか困るべきか迷いつつ、フィフィリアンヌに目をやると、彼女までもが薄く笑っていた。 だが、竜の少女の見せている笑みは可笑しげなものではなく、狡猾さと愉悦を含ませた、嘲笑に近いものだった。 大方、レオナルドが困っているのが面白いのだろう。過去に散々、フィリオラを嫌ったことを根に持っているのだ。 レオナルドはフィフィリアンヌらしい反応に、多少なりとも反抗心が湧いてきてしまったが、出すに出せなかった。 この場で出したりしたら、余計に笑われる。それに、自分でもあまり意地を張ってしまうのはどうかと思った。 せっかく、幸せを手にしたのだ。今までとは違う、心地良い感情を押し止めたり隠してしまっては、勿体ない。 陽の当たる世界を、生きているのだから。 絶望と痛みの満ちた過去から、温もりと光の溢れる未来へ。 彼と彼女の求めたものは、竜の青年の思惑通り、この世にもたらされた。 炎の力を宿した父親と、竜の血を受け継ぐ母親の元で。 新たな命は、育まれていくのである。 06 5/17 |