ドラゴンは眠らない




はじめてのおつかい



翌朝。ヴィクトリアは、一人で朝食を摂っていた。
魔法陣が描かれた広場の端にあったベンチに腰掛け、足をぶらぶらさせながら、柔らかいパンを囓っていた。
パン屋で買った時に注文したので、パンの間にはハチミツが塗ってあり、食べるうちに手がべたついてきた。
ヴィクトリアはそれを少し煩わしく思いながら、指先をぺろりと舐めた。時計塔は、朝日で半分が陰っている。
魔法陣の周辺には、昨日と同じく魔導師達が貼り付いていて、円の線の傍に細かく魔法文字を書き足している。
ヴィクトリアはハチミツを挟んだパンを、膝の上に広げた紙に置いてから、一緒に買った瓶入り牛乳を取った。
こく、こく、と喉を鳴らして三分の一ほど飲んでから、瓶を下ろした。白くなった口の周りを、舌で舐め取る。
そして、巨大な魔法陣の周りを囲んでいる、魔導師姿ではない魔導師の一人に注意を定めてじっと見つめた。
他の魔導師と思しき者達は、魔法陣に意識を向けているのだが、時計塔の左側に立っている男は違っていた。
しきりに、辺りを窺っている。表情は変えずに、だが目ばかりをきょろきょろと動かし、落ち着きがなかった。
ヴィクトリアは朝食の続きを食べながら、その魔導師から注意を逸らさずにいると、その視線が定まった。
魔導師であろう男の視線の先を辿ると、古びた城のある方向の道から人影が現れ、広場にやってきた。
男はまだ若く、身なりの良い格好をしていた。魔導師が駆け寄ると、その男は声を潜めながら、話し掛けた。

「順調か?」

「ええ、進みは悪くありません、ハワードさん」

魔導師の男は、若い男に寄った。ハワードと呼ばれた男は左右を窺ってから、うっすらと笑った。

「そうか。ならば、このまま進めてくれ。こちらも順調だ」

「全く、簡単なもんですよ」

魔導師の男は外套のフードに隠していた目を出すと、にたりと細めた。

「このまま、魔導師連中と連合軍が相打ちになってくれりゃ、オレらは苦労しないで済みますな」

「そしてその責任と憎しみは、魔導師協会に向き、共和国そのものへと向かう。単純なものだ」

ハワードとその男の声はほんの僅かだったが、ヴィクトリアはぎりぎりまで感覚を高めていたので聞こえていた。
身なりの良い男は、ハワード・アンダーソンのようだ。相手の男は、口振りからして魔導師ではないだろう。
だが、その男の正体には別に興味はなく、どうでも良かった。ヴィクトリアの仕事は、ハワードの暗殺のみだ。
ヴィクトリアはハチミツを挟んだパンを食べ終え、牛乳を飲み干してから、その瓶を革のカバンに押し込んだ。
出来るだけのんびりと歩いて、今し方ここを通り掛かったという顔をして、ハワードの元へと歩み寄っていった。
ハワードは、見慣れぬ少女に少し戸惑ったようだったが、すぐに人の良さそうな笑顔を見せて挨拶してきた。

「おはよう、お嬢さん。私に何か用かな?」

「あなた、わたしのお友達を知らないかしら。知っていたら、教えて頂きたいわ」

ヴィクトリアの濡れた黒い瞳が、ひたりと二人の男を捉える。ハワードは身を屈め、ヴィクトリアと視線を合わせる。

「私で良ければ、力になろう。君の友人は、どんな子なのだい?」

「赤紫色でぬめぬめしている、スライムよ。昨日、空間転移魔法を失敗して、変なところに飛ばしてしまったの」

ヴィクトリアは困ったような顔を作り、しおらしく項垂れた。

「昨日から探しているのだけれど、少しも見つからないの。ああ、あの子は無事でいるかしら。わたしが傍にいないから、寂しがって震えていたりしないかしら」

「…スライムかよ」

魔導師の男が、あからさまに変な顔をした。ヴィクトリアは眉を吊り上げ、きっと睨む。

「あの子は大事なお友達だわ。そんなふうに言わないで頂きたいものだわ」

「もしかして、あのスライムのことかな」

ハワードは、昨日いきなり現れたスライムのことを思い出した。途端に、ヴィクトリアは表情を明るくする。

「あの子をご存知なのですか? でしたら、是非ご案内して下さいませんか?」

「ああ、いいとも。お役に立てれば幸いだ」

にこやかに返したハワードに、魔導師姿の男は眉根を寄せる。

「しかし、部外者を立ち入らせていいんですか? 他の連中がうるさいですし、それに…」

「この子はほんの子供だ。私達のやっていることなど、何も解らんさ。さあ行こう、お嬢さん」

ハワードは男に笑んでから、ヴィクトリアに手を伸ばした。ヴィクトリアは、汚れていない方の手を差し出す。

「ありがとうございます。恩に着ますわ」

魔導師の男はまだ何か言いたげだったが、ハワードがヴィクトリアと共に歩き出したので、それに連れ立った。
ヴィクトリアは、自分の手を包むようにして軽く握っているハワードの手の中に、そっと指を這わせていった。
気付かれないように触れるか触れない程度にしつつ、魔力をじわりと高め、何度も繰り返して六芒星を描く。
横目にハワードと魔導師姿の男を窺うが、魔力を高めたことにも気付いていないようで、言葉を交わしている。
ヴィクトリアは、作っていた表情を消した。灰色の瞳に邪心を滲ませながら、口の端をほんの少し上向けた。
これから起きることが、楽しみだった。




街を出てしばらく歩いた先に、古びた城があった。
門を守っていた魔導師は、ハワードに連れられた少女の姿に訝しげな顔をしていたが、何も言わずに通した。
城の正面玄関を入ってすぐの広間には、街の広場に描いてあったものに良く似た巨大な魔法陣があった。
だが、所々の魔法文字が違っていて、どうやらあの街の広場の魔法陣と対になるように造られたらしかった。
ヴィクトリアが足を止めたので、ハワードらも足を止めた。ヴィクトリアは、魔法陣をじっと見つめている。

「とても大きいわ」

「ああ、立派だろう」

ハワードの言葉に、ヴィクトリアはハワードを見上げる。

「ええ、素敵だわ」

「気に入って頂けたようで、嬉しいね」

ハワードは満面の笑みになると、頷いてみせた。ヴィクトリアはそれ以上問うことはなく、また歩き出した。
二人の後ろに貼り付いた魔導師の男と共に、幅広で長い階段をいくつも昇り、城の上の階へと進んでいった。
上に進むに連れて、空気に満ちた魔力が膨れ上がる。ヴィクトリアの鋭敏な感覚に、じわりと染み込んでくる。
階段を昇った先にあった廊下を進み、一際大きな扉のある部屋の前までやってくると、それは更に増していた。
ヴィクトリアは、足元を見下ろした。冷たい石組みの床は、灰色の城に似ているが、あちらの方がかなり古い。
魔力の気配は、床の下へ下へと流れている。どうやら、街の広場とこの城の魔法陣は、本体ではないらしい。
魔法陣は、魔力を魔法に変換し魔法を生み出すために必要なものだが、それ以外の用途もいくらでもあるのだ。
恐らく、街の人々の魔力を掻き集めて作る魔法の発信源を知られないために、その制御部分は分離させたのだ。
魔法に長けていれば、そんなことも簡単だ。となれば、目の前にある部屋を叩けば、彼らの計画は破綻する。
それは、ハワードを殺すついでにやればいいことだ。ヴィクトリアの仕事は、あくまでも彼の暗殺なのだから。
ハワードが扉を叩くと、中から返事がした。足音が近付いてくると扉が開かれ、壮年の魔導師が顔を覗かせた。

「おや。そちらの女性は?」

壮年の魔導師がヴィクトリアを見下ろしたので、ヴィクトリアは膝を曲げて挨拶をした。

「こんにちは。わたし、お友達を捜しに参りましたの」

「それはそれは」

壮年の魔導師が微笑ましげに笑うと、ハワードが言った。

「どうやら、昨日現れたスライムが彼女の友人らしいんだ」

ヴィクトリアは体を傾げて、壮年の魔導師の背後を覗いた。広い部屋には、魔法の道具や魔導書がいくつもある。
部屋の中央に置いてあるテーブルに目を向かわせ、ふと、気配を感じた。丸い盆の中に、彼の気配がある。
すると、彼もそれを感じ取ったらしく、ぐにゃりと体を持ち上げてみせ、赤紫の先端をするすると伸ばしてきた。

「いたわ、あの子よ!」

ヴィクトリアは声を弾ませ、ハワードの手を振り切ってテーブルへ駆け寄ると、赤紫の粘液を掴んだ。

「こっ、これこれこれこれ! 甘ったるいではないか! 我が輩に触れる時は手を洗いたまえ、手を!」

ヴィクトリアの手に握られた伯爵は、彼女の小さな手に付いていたハチミツを吸い取ってしまい、身悶えした。

「面倒だったのよ」

ヴィクトリアは革のカバンを開けると、空の牛乳瓶に伯爵を押し込んだ。手狭な瓶に、ずるりと赤紫が滑り込む。
瓶の内側に残っていた生乾きの牛乳を吸い取った伯爵は、全体的に白っぽくなりながら、にゅるりと身を捻る。

「白濁した液にまみれるのも、たまには悪くないのである」

ヴィクトリアはカバンの蓋を閉じないまま、ぐるりと周囲を見回した。部屋の奥の暖炉に、魔導鉱石が据えてある。
魔導金属製と思しき銀色の台座に支えられた真紅の魔導鉱石が、ほのかな光を放ち、暖炉の中を照らしている。
暖炉に向かおうとすると、肩を押さえられた。振り向くと、壮年の魔導師が首を横に振り、穏やかに注意した。

「いかんなぁ、お嬢さん。あれは危ないものなんだ、君のような子が近付いてはいけない」

「気安く触らないで欲しいわ」

ヴィクトリアは、肩に置かれた骨張った手に、小さな手を載せた。直後、彼の内で魔力の流れが激しく乱された。
電流に似た衝撃が魔力中枢から走り抜け、心臓を貫き、全身を揺さぶって痛みを与え、その場に崩れ落ちた。
目を見開いたまま倒れた壮年の魔導師に、ヴィクトリアはちらりと目をやったが、軽い足取りで暖炉に向かった。
数名いた魔導師達は呆気に取られていたが、はっと意識を戻した男が、ヴィクトリアの背中に向けて杖を構えた。

「貴様、ザース先生に何をした!」

ヴィクトリアは暖炉の真正面で立ち止まると、振り返った。ふわりと、艶やかな黒髪が広がる。

「魔導師のくせに、解らないの? 簡単なことをしただけだわ」

「なんだとこのガキ!」

濃紺のマントを羽織った魔導師が叫ぶと、ヴィクトリアはその男に手を向け、目を細めた。

「うるさいわ、黙りなさい」

少女の手がくるりと翻ると、濃紺のマントの魔導師は上体を逸らした。舌を突き出して目を剥き、喉を押さえる。
細い指先が反ると、紺色のマントの魔導師は失神した。膝を曲げて崩れ落ち、そのまま真正面に倒れてしまった。
ウォルは動揺で混乱した頭を落ち着かせようとしながら、黒衣の少女を見据えていたが、その瞳の色に気付いた。
少女の冷淡な光を帯びた瞳は、澄んだ灰色だった。共和国の国内では、この色を瞳に持つ者はあまりいない。
だが、その色を持っている者はいないわけではない。しかし、その色を持つ者の名と、この少女は釣り合わない。
それに、あの灰色の呪術師は男だ。少女ではない。だが、しかし。ウォルは動揺の最中、様々な考えを巡らせた。
すると、少女の視線がウォルを捉えた。額に冷や汗を浮かばせた魔導師の男を、灰色の瞳がじっと見つめた。

「そんなに見ないでくれる。やりづらいわ」

ウォルは生唾を飲み下してから、慎重に問うた。

「…お前は、一体」

「知りたい? でも、教えてあげないわ」

ヴィクトリアの手が、捻られた。途端に、部屋全体の空気がぐにゃりと歪んだようになり、彼らの足が浮かんだ。
動こうとしても足を取られ、粘ついた液体に埋もれたかのような錯覚を覚える。だが、少女だけは浮いていない。
一人だけ正常を保っているヴィクトリアは、宙に浮かばされて藻掻いている男達を眺め回し、ぽつりと呟いた。

「あまり、面白くないわ。簡単すぎるのもいけないわ」

「そう言うでない。ここは、貴君にとって最も有利な場所であるからして、当然のことである」

革のカバンの中の牛乳瓶から溢れ出した伯爵は、牛乳に汚れた先端を振る。ヴィクトリアは、肩を落とす。

「けれど、つまらないわ」

全身を固められたような感覚と、内側から襲い掛かってくる圧力を堪えながら、宙に浮かんだウォルは思考した。
特に圧力が強いのは、心臓。つまり、魔力中枢だ。あの少女が操っているのは、間違いなく、魔力そのものだ。
最初は念動力か、或いは何かの異能力かと思ったが、全く違う。彼女は、部屋に満ちた魔力を操っているのだ。
魔法陣も描かず、呪文の詠唱も行われていないので、恐らくこれは、この幼い少女の持つ才能なのだろう。
ウォルはなんとかこの場を凌ごうと、自身の魔力中枢を高ぶらせようとしたが、少しも力は高まらなかった。
それどころか、圧力は徐々に増してくる。息苦しさで詰まってしまった喉を辛うじて開き、苦しげに喘いだ。
こんなことを行える少女を、あの魔導鉱石に近付けてはいけない。あれは、巨大魔法陣の魔法の核となる石だ。
街の人々から無意識に零れ出ている魔力を集め、精製し、魔導鉱石の中に収めた、いわば魔力の火薬玉だ。
あれを魔法陣に据えて魔法を発動させるのだが、その肝心の魔法陣が完成していないので、使っていなかった。
だが、使っていなかった分、魔導師だらけのこの部屋に置いてあった分、魔導鉱石に魔力は蓄積している。
そんなものに刺激を与えたりしたら、間違いなく炸裂する。この城など簡単に吹き飛び、焼き尽くされるだろう。
ウォルは、必死だった。声にならない声を漏らし、内側からの圧で動きを押さえられた腕を、少女へと伸ばす。
ヴィクトリアは、凄まじい形相で必死に手を伸ばそうとする男、ウォルを見つめていたが、一度瞬きした。

「安心して。わたしは、そこまで馬鹿ではないわ。石には触らないわ」

ヴィクトリアは、すいっと目を動かし、腰を抜かしているハワードを見た。

「わたし、仕事で来ただけなの。あの人を殺すのが、わたしの仕事なの」

「わ、私を!?」

驚愕に顔を引きつらせたハワードは逃げようとしたが、ヴィクトリアは手を動かし、その背後の扉を閉ざした。
ばん、と乱暴に閉まった扉は、鍵も掛かった。ハワードは後退っていったが、扉に阻まれ、下がれなくなった。

「雇い主は誰だ、目的はなんだ、なぜ私が殺されなくてはならない、答えろ、答えるんだ!」

矢継ぎ早に問い掛けてきたハワードに、ヴィクトリアはゆっくりと歩み寄った。こつ、こつ、と革靴が鳴る。

「答えるわけがないわ。答えないのも、仕事の内なの」

「くっ」

ハワードが拳銃を抜いて構えたので、伯爵は伸ばしていた先端を千切って飛ばし、その銃口に滑り込ませた。
力一杯引き金を引いたが、銃声はしなかった。その代わりに、妙に柔らかい手応えが、指に伝わってくる。
弾倉を回転させようと、ハンマーを起こして開くと、弾倉の内側から銃口から何から、スライムが詰まっていた。

「うわあっ」

ハワードは拳銃を投げ捨て、飛び上がった。その間にも、ヴィクトリアは近付いていく。

「あなたが売ろうとしていた魔導書、返して頂くわ。それも、仕事なの」

「だっ、誰の差し金だ! 将軍か、サラ・ジョーンズの部下か、それともステファン・ヴォルグか!」

必死に喚いて身をずり下げたハワードに、ヴィクトリアは真下から彼を見上げた。

「だから、言ったでしょう。答えないのも、仕事の内なの」

ヴィクトリアの手が、静かに挙げられる。ハワードの震える手を、握った。

「彼の者の内に眠りし邪なる心よ、我が言霊のままとなり、その心の主を喰らい、深淵に没せん」

灰色の瞳が、強められた。



「発呪」



少女の手が離れると、ハワードはがくがくと震え出した。強烈な勢いで、魔力が体の内側を渦巻いている。
息苦しいが、心地良かった。不思議な陶酔感が胸の内から沸き、ハワードは震えを止め、とろりと目を細めた。
目の前の少女の姿が、ぶれている。そのうちにその少女がぐにゃりと姿を変えて、忌まわしい、あの女になる。
栗色の髪を綺麗にまとめ、横長のメガネを掛けた、高飛車なあの女。女のくせに、男言葉を使っていた女だ。
僕に従え、僕に逆らうな、僕を誰だと思っている。高圧的な物言いが、悠然とした立ち振る舞いが、蘇る。
ハワードは、手を伸ばした。すぐ目の前に現れた、大佐の階級章を胸元に付けた女、サラへと間を詰める。

「…大佐」

サラは、笑っている。狡猾な、それでいてどこか色を帯びた笑みに、薄い唇が歪んでいる。

「笑うな、私を笑うな、私を誰だと思っている! 私はアンダーソン家の長男だぞ!」

僕は君の上官だ。僕に従わなければ、君は何の役にも立たない。

「殺してやる、殺してやる、殺してやる!」

それ以外は、何だと言うんだい。上官に口答えするつもりか。

「サラ・ジョーンズ! お前のせいで、私がどんな目に遭ったと思っている! 私が歩むべきだった道を断ち切ったお前を、私は生涯許さない! 必ず、私がこの手でお前を叩き潰してやる! そのためには、私はどんなことでもしてやるんだ!」

サラの笑みは、崩れない。

「魔導師共を利用し、連合軍を操り、共和国軍と政府を動かし、何がなんでもお前を燻り出してやる!」

ハワードは、笑う。

「将軍も、政府も、怖くなどない! お前の喉笛を切り裂き、心臓を潰し、頭を砕き、目玉を抉り、手足を落としてやるその日まで、私は決して倒れたりなどしない!」

女は、笑い続けている。彼もまた、笑い続ける。

「さあどうした、私に怯えろそして恐れろサラ・ジョーンズ! 階級章を引き剥がして軍服さえ脱がしてしまえば、お前もただの女に過ぎない! 殺す前に、せいぜい可愛がってやろうじゃないか!」

焦点の失せた目で、ハワードはサラを睨む。

「さあ、さっさと脱がないか! その誉れ高い階級章も伝統ある軍服も、お前のような穢らわしい女が着るべきものではない! 女は男に奉仕していればそれで良いんだ、女が男を従わせるな、それは男のするべき仕事だ、女は子を孕んで産み出しているだけでいいんだ、所詮は血を連ねるための道具に過ぎないのだからな!」

ハワードの絶叫に、ヴィクトリアはほんの少し眉根を歪めた。

「ははははははははははは! 脱がないのであれば、切り裂いてでも脱がせてやりましょう、大佐!」

ハワードは、サラに叫んでいた。だが、ハワード以外には、ヴィクトリアに叫んでいるようにしか見えなかった。
彼の狂気じみた絶叫に、扉の脇にへたり込んでいた男はあんぐりと口を開いていたが、呆然としながら呟いた。

「ハワードさん、一体、どうしちまったんだ…」

「魔導師の未来のために、魔導師協会と会長を打ち倒そうというのは、嘘だったのか…?」

喉への圧が失せたので、ウォルは無意識に漏らした。ハワードは未だに、大佐、大佐、大佐、と叫び続けている。
ヴィクトリアは、手を握った。すると、浮いていた者達が一斉に落下し、重たい音と震動が部屋全体に響いた。
牛乳瓶の中から迫り出た伯爵は、目の焦点がおかしくなったハワードを見上げていたが、ぐにゃりと身を捩る。

「これが奴の深淵であり、本心なのである」

「下らないわ」

物足りないのか、ヴィクトリアが残念そうにすると、伯爵は触手を伸ばした。

「そう言うでない。我が輩もそう思っているが、本人は至って本気なのである」

ハワードは、身を傾げながら前に出た。ヴィクトリアが体を下げると、ハワードは清々しげに笑った。

「ははははははは! 大佐、せめてあなたが女でなければ、私はこれほどあなたを憎まなかったでしょう!」

「もう、いいわ。これ以上見ても、面白くなさそうなんだもの」

ヴィクトリアは、恍惚とした表情のハワードに手を向けた。伯爵はずるりと体を縮めて、牛乳瓶の中に滑り込む。

「いやはや、いやはや。なんとも妙な男である、サラ・ジョーンズの正体は女ではないというのに」

ヴィクトリアは、口の中で小さく呪文を紡いだ。部屋の中の空間が歪められた気配が僅かに生じ、失せた。
すると、暖炉に据えてあった魔導鉱石が消えている。ウォルはぎょっとしたが、ヴィクトリアは淡々と言った。

「大丈夫。吹き飛ばしたりはしないわ。わたしも死にたくないもの」

ハワードの形相が、一変していた。苦しげに目を見開いて口元を歪め、腹部に異様な膨らみが出来ていた。
その大きさはあの真紅の魔導鉱石と同じぐらいで、胃袋と腸の間辺りにあり、腫瘍のようにも見える。
彼の腹の内から、強い魔力の気配が滲み出ている。ヴィクトリアが、あの魔導鉱石を胃の中に飛ばしたのだ。
魔導鉱石の重みと鋭利な角で、胃と腸の内壁が切れたらしく、ハワードの口元から胃液と血が流れ、落ちる。
腹の中の重量と嘔吐感に苛まれたハワードが口を押さえようとすると、ヴィクトリアは、楽しげに微笑んだ。

「うふふ」

ヴィクトリアの指先が、空中に円を描いた。ハワードの腹に入った魔導鉱石から、一気に魔力が噴出した。
ぶちぶちっ、と破裂音が繰り返される。ハワードが膝を曲げて腰が落とすと、だばだばと赤黒い液が溢れた。
口と言わず鼻と言わず、耳や目からも血が流れている。首の動脈や顔の血管、手の甲の静脈が切れている。
腹の魔導鉱石の重みで、ハワードはぐらりと前方によろけた。ごっ、と硬い音が響くと、血の勢いは増した。
彼の体から、噴水の如く血が噴き出した。その飛沫を多少受けたヴィクトリアは、頬に伝う血を拭った。
ウォルは、少女の横顔を凝視していた。無表情にも近かった少女は、今や、満ち足りた笑顔になっている。
彼女は、魔導鉱石に満ちた魔力を操って圧力に変え、ハワードを内側から圧殺してしまったようだった。
すると、ヴィクトリアはウォルに振り返った。ウォルがぎくりとすると、少女はテーブルから魔導書を取った。

「これ、返して頂くわ」

古代竜族史七巻、上位精霊魔法水の章、魔法と医学、の三冊を詰め込まれ、革のカバンはぱんぱんになった。
残りの魔導書に手を触れると、ふわりと儚い風が抜け、テーブルの上にあった魔導書は全て消えてしまった。
ヴィクトリアはずり落ち掛けた肩掛けベルトを直してから、ハワードの血溜まりをぺたぺたと踏んで、扉を開けた。

「さようなら」

黒髪と黒いスカートをなびかせながら、少女は廊下に出た。ばたん、と扉が閉められると、妙な静寂が訪れた。
誰も彼も、動かなかった。年端も行かない少女に圧倒されたことと、ハワードの吐き出した真意に動揺していた。
だが、そのハワードはもう死に絶えていた。誰がどう見ても生きているわけがない、と解る状態になっていた。
ウォルは、先程の疑念を呼び起こした。灰色の瞳を持つ少女は、恐るべき呪術を操るあの男に、似ている。
といっても、ウォル自身は灰色の呪術師、グレイス・ルーと会ったことはないので、又聞きした情報でしかないが。
口先だけで簡単に標的の懐に滑り込み、安心させておいたり持ち上げておいてから、鮮やかな手付きで殺す。
あの男でないなら、もしかしたら、娘かもしれない。だが、グレイス・ルーに子が出来たという話は聞かない。
いや、ウォルが知らないだけで、本当にそうなのかもしれない。根拠はなかったが、そんな確信があった。
そうだと思うと、追いかける気など少しも起きなかった。子供とはいえ、あんな相手とやり合っては命がない。
辺りには、血臭と掻き乱された魔力の気配だけが残っていた。




それから、三日後。ヴィクトリアは、フィフィリアンヌの研究室にいた。
本に囲まれたソファーに座り、本が散らばっているテーブルに並べられた紅茶と共に、クッキーを食べていた。
バターの優しい香りのするクッキーを噛み締めつつ、膝の上に載せてある銀色の小さな拳銃を見下ろした。
ヴィクトリアは、その銃身をそっと撫でた。先程手にしてみたが、大きさも重さも、実に具合が良かった。
窓の傍の大きな机には、ヴィクトリアが奪取してきた魔導書が積み重ねられ、本の塔が出来上がっている。
フィフィリアンヌは、伯爵の証言によって書かれたヴィクトリアの仕事の報告書を、黙々と読んでいた。
二枚目の報告書も入念に読んでいたが、顔を上げた。フィフィリアンヌは、鼻に載せていたメガネを外す。

「上出来だ。魔導師連中まで殺したのであれば、次はなかったがな」

「だって、わたしの仕事はあの人を殺すだけだったんだもの」

クッキーを飲み下してから、ヴィクトリアは竜の少女を見上げた。娘の隣で、グレイスは紅茶を啜る。

「オレだったら、証拠隠滅とかその辺も含めて城ごと吹っ飛ばしちゃうけどなぁ。どっかーんと」

「アホか。そんなことしたら死人ばっかり出ちまうし、魔導書の類も消し炭になっちまうだけだろうが」

ルー親子の向かい側で、ギルディオスは足を組んでいた。その隣のフラスコの中で、ごぼりと伯爵が泡立つ。

「まぁ、気持ちは解らんでもないのであるがな」

「私もやれるものならそうしてやりたいところだが、皆殺しにしてしまっては、魔導師共の繋がりが消える」

フィフィリアンヌはインク壷に浸していたペンを取り、ヴィクトリアの仕事の報告書に署名を書いた。

「適当に泳がせておかなくては、連中の企みが読めなくなってしまうのだ。そもそも、魔導書の奪還を手引きした者がいるはずなのだ。魔導師協会の地下倉庫は、私がやれる限りの封印を施しておいた部屋だから、連合軍の襲撃を受けたぐらいで破壊されてしまうはずがないのだ。その者を炙り出さなくてはどうにもならんし、害毒の根源を叩き潰しておかねば、魔導師協会の再建など出来るはずもない。中途半端な状態で立て直したりしたら、付け込まれてしまうだけだからな」

「おーおー、仕事熱心だこと。オレなら丸投げするね、適当な奴に」

ぽーんと、と手振りまで加えたグレイスに、フィフィリアンヌはちらりと目を向けた。

「貴様の場合、投げた後で拾いに行くだろうが。先に自分が作っておいた綻びを、揺さぶるためにな」

「あ、ばれた?」

グレイスは、へらへらと笑った。全く、とフィフィリアンヌは椅子の背もたれに寄り掛かった。

「まぁ、これだけ乱れに乱れていてくれた方が、私としてはやりがいがある。暇潰しは、手強い方が良い」

強がりだよな、とギルディオスは思ったが口には出さなかった。フィフィリアンヌの表情は、どことなく険しかった。
彼女が魔導師協会の会長に就任してから、四十数年が過ぎた。その間、彼女は努力を重ねて協会を立て直した。
ギルディオスが異能部隊を愛しているのと同じように、フィフィリアンヌもまた、魔導師協会を愛しているのだ。
ハワードの豹変には不自然さがあるが、恐らく彼には、キースの手で何かしらの魔法が掛けられていたのだろう。
キースは、猜疑心が強かった。リチャードにそうしたように、自分の部下になった者には魔法を施していた。
考え得るに、キースはハワードを一度は手放したが、後でまた引き入れる時に揺さぶれる部分を作っていたのだ。
キースが死したので、キースの施した魔法は効果が切れているはずだが、その影響が多く残っていたのだろう。
そして、ヴィクトリアはキースが揺さぶったハワードの暗部を呪いで増幅させ、表に引き出して狂気としたのだ。
死しても尚尾を引いているキースの影を感じたギルディオスは、ぞっとしてしまった。本当に、恐ろしい男だ。
ギルディオスは思考から意識を外し、黙々とクッキーを食べ続けるヴィクトリアと、その手前の皿を見た。
フィフィリアンヌが仕事の合間に手慰みとして作ったクッキーは、たっぷりあったはずだが、大分減っていた。
ヴィクトリアはギルディオスの視線に気付くと、食べる手を止めた。湯気の減った紅茶を飲んでから、言った。

「何?」

「良く喰うなぁ、お前」

ギルディオスが呆れ半分に返すと、グレイスが苦笑いした。

「ヴィクトリアさぁ、普通の食事は大して喰わねぇくせに、甘いものなら底なしに喰っちまうんだよ。たまに食事の前にそれをやっちまって、いつもそれをロザリアに怒られちゃいるんだが、ちっとも懲りねぇんだ。困ったもんだぜ、全く」

グレイスは、ヴィクトリアの前からクッキーの皿を引き離した。

「だから、もう喰うんじゃねぇぞ。それ以上喰ったら、また夕飯が喰えなくなっちまってロザリアに怒られるぞ」

「嫌よ、お父様」

ヴィクトリアはむっとして、父親を睨んだ。グレイスは、娘の眉間をぴんと弾く。

「あんまり我が侭言うな、ヴィクトリア。それもこれもお前のためなんだぞ」

「…うぅ」

ヴィクトリアは小さく唸ると、弾かれた眉間を押さえ、頬を張ってむくれた。

「返事は」

グレイスに言われ、ヴィクトリアは仕方なさそうに答えた。

「はい、お父様」

「それで良し」

グレイスは笑うと、娘の黒髪を乱した。ヴィクトリアはまだ不機嫌そうだったが、次第にその表情は緩んでいった。
年相応の幼い笑みになったヴィクトリアを見上げながら、伯爵はフラスコの中で、ごぼごぼと泡を浮かばせていた。
この表情を見ていると、魔導師達を手玉に取り、ハワード・アンダーソンをむごい方法で殺したとは信じがたい。
だが、あれは事実だ。この娘は間違いなく、父親の邪悪さと母親の残酷さを受け継いだ、新たなる諸悪の根源だ。
彼女の行うであろう悪事がどれほどのものか想像したが、あまり考えると楽しみが失せるので思考を止めた。
魔導師協会の内紛も、ヴィクトリアの成長も、世界情勢も何もかも、伯爵にとっては単なる娯楽の一端でしかない。
この分だと、当分の間暇を持て余すことはなさそうだ。そう思った伯爵は、なんとなく気分が良くなり、震えた。
悪しき少女は、父親と無邪気に戯れていた。




邪悪なる父と残虐なる母の、血と魂を継ぐ少女。
彼女の内に眠るのは、魔性の力を操る才と、底の知れぬ邪心だった。
今はまだ、その小さき体に潜んでいるだけに過ぎない悪魔が、表に現れる時は。

そう、遠い日のことではないのである。







06 5/23