ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 後



竜王軍が敗北を宣言してから、半年が過ぎた。
竜王都には、冬が訪れていた。戦い抜いて死に果てた戦士達の墓は、際限なく降り続く雪に埋もれている。
全てを白で包み込むように、音もなく舞い降り、生ける者の姿がなくなった竜の都を支配していた。
崩壊した竜王城を囲んでいる湖も、薄氷が張っており、その上に積もった雪が湖面を覆い隠していた。
それを、竜王城の城壁の上から見ている姿があった。防寒着を着込んだ黒竜の男、ファイドだった。
肩にもツノの生えた頭にも雪が積もってしまったので、それを払ってから、白い息をほうっと吐き出した。
凍り付いた湖の下で、時間を掛けて朽ちていくであろう竜王家と、土の下に眠る戦士達に思いを馳せた。
皆、死んでしまった。生き残った者達は、女達と同じように、東竜都へ向けて旅立って帰ってこない。
当然だ、とは思うが、寂しいものは寂しい。ファイドは防寒着の背から出した、黒い翼を折り畳んだ。
城壁の上から、天井の崩れ落ちた竜王城の中を見下ろすと、中央にある広間に金色の像が立っていた。
崩れ落ちた石壁や、撃ち込まれた魔力弾によって傷付いてしまった、竜女神フォリュスの像だった。
竜王都が健在であった頃は、年に一度の竜神祭で崇め奉られていたが、今となっては誰も拝まない。
というより、拝みに来ないのだ。帝国との苛烈な戦争で、竜族達は帝国に対して相当な恐怖心を抱いた。
ドラゴン・スレイヤーが最初に現れた時代もそうだったが、敗北した今となっては、更に強くなった。
なので、出来るだけ帝国から離れて心の平穏を得ていたいらしく、滅多なことでは西に戻ってこない。
それもまた、仕方ない。竜は生き物だ。人と同じく心を持っているのだから、傷を負ってしまう。
その傷が癒えることは、ないだろう。帝国が竜族にもたらしたものは、あまりに大きく、また、重たい。
ファイドは立ち上がると、足元に積もった雪を払ってから、分厚く高い城壁をゆっくりと歩いていった。
竜王が生きていた頃には出来なかったことなので、なんとなく楽しいような、そんな気持ちがあった。
だが、途中まで行くと、城壁は崩れていた。下手に足を乗せれば、崩壊が始まってしまいそうだった。
砕けた石がずり出ていて、城壁に埋め込まれていた竜王家の紋章にもヒビが入り、半分に割れていた。
ファイドはこれ以上先へ進むのは諦めて、竜王軍兵士達の墓が並んでいる、かつての街を見下ろした。
瓦礫だらけの街からはツノが生えていて、それらの前には墓石が据えられ、墓の主の名が刻まれている。
その中でも一際目立つ、街の中心に据えられているのは、将軍ガルムと副将軍エドワードの墓だった。
帝都を滅ぼしたガルムがエドワードに殺された、との報の後に、首を落とされた将軍の死体が運ばれてきた。
そして、遅れて戻ってきたエドワードは、帝国と王国へ敗北を宣言したことと、自害することを話した。
竜王都に帰還していた兵士達は、エドワードの言葉に動揺し、取り乱して彼を止めたが、彼は首を横に振った。
そして、言った。死ぬのは私だけでいい。お前達は死ぬな。決して、死んではならない。それが、最後の命令だ。
エドワードは、ガルムの返り血と泥に汚れた顔で、とても穏やかな笑みを見せてから、腰の鞘から剣を抜いた。
ガルムの血がこびり付いて切れ味の落ちた剣を、自身の首筋に当て、躊躇うことなく、一気に引いたのだった。
ファイドは、その光景を見ていた。エドワードの魂が抜けたのも、鼓動が止まったのも、全て確かめた。
彼の判断が正しかったのかどうか、解らない。彼が死ねば戦いは完全に終わるが、指導者もいなくなった。
エドワードは、将軍よりも領主に向いていた男だ。もし、彼が生きていたなら、竜族の未来も違っただろう。
だが、エドワードは自らを滅ぼすことを選んだ。ガルムを殺した罪と、人を殺した罪への償いだったのだ。
生真面目だったのだなぁ、と思いながら、ファイドはエドワードの墓を見下ろし、その傍に立つ影に気付いた。
ツノが二本突き立てられた墓の前に、雪に馴染む白い服を着た少女が立っており、ファイドを見上げてきた。
いつのまに、と思ったが、空間転移魔法でも使ったのだろう。ファイドは翼を広げると、羽ばたき、降下した。
雪混じりの風を翼に孕ませて、いくつも並んだ墓の上をぐるりと巡ってから、エドワードの墓の前に着地する。
ざっ、とブーツの底を雪に噛ませ、動きを止める。背後に駆け寄ってきたのは、白竜の少女、リーザだ。

「お久し振りでございます、お医者様」

「やあ、久しいな」

ファイドが親しげに笑いかけると、リーザは白い服の裾を持ち上げて膝を曲げ、高貴な者が行う挨拶をした。
だが、その服は、以前着ていた西方のものではなかった。白い着物を重ねて着ており、帯で腹を締めてある。
滑らかな銀髪も結い上げてあり、華奢な首筋が露わにされている。すっかり、東方に住まう女らしくなっている。
しかし、仕草だけは西方のままなので、どこか妙だった。リーザは頭を上げてから裾を戻し、夫の墓を仰ぐ。

「エド様に、会いに来たのでございます」

「そうか。東竜都にも、冬は来たのかい?」

ファイドが尋ねると、リーザは夫の墓に積もった雪を小さな手で払った。

「ええ、来ましたわ。竜王都に降る雪とは違った雪が降るので、皆、少し戸惑っておりました」

リーザは、墓石に刻み込まれたエドワードの名を指でなぞり、愛おしげに目を細めた。

「東竜都は、ウェイラン様が長となって、治めておられますわ。ウェイラン様はまだお若い方なのですけれど、次の長になるはずであったシェンウー様が戦いで死んでしまわれたから、その代わりなのだそうです」

リーザが雪空を見上げたので、ファイドもそれに倣った。分厚く重たい色合いの雲から、白が降り注いでくる。
寒さは、竜族にとってはあまりいいものではない。体温のあまり高くない竜族は、気温が低いと血の巡りが鈍る。
ドラゴンよりもよりトカゲに近いワイバーンなどは、この季節は冬眠してしまって、姿を見せなくなるほどだ。
竜族は、持ち前の高魔力で体温を上げて冬眠をせずにいるのだが、物好きな者は自然に従って冬眠するのだ。
だが、ファイドは冬の間に長く眠っていたいほど眠ることが好きではないし、冬眠の時間は無駄だと思っている。
眠ってしまえば、時は一瞬で過ぎ去ってしまうので、その間に何が起きたのか、知ることが出来ないではないか。
リーザは、空へと向かってそびえているエドワードの立派なツノを見つめ、胸の内に起こる熱を感じていた。
帝都の出撃する前の、エドワードに抱かれたことは、一生忘れられない。とても、幸せで満ち足りた時間だった。
あの時、子を孕める体でいたなら、更に幸せだったことだろう。リーザの心の中では、彼はまだ生きていた。
エドワードが自害した、との報を聞いて竜王都に飛んできたが、その頃には彼の死体は埋葬された後だった。
見ることが出来たのは、墓に突き立てられている二本のツノと、自害する際に使った剣、それぐらいだった。
せめて死に顔ぐらいは見たいと思っていたが、兵士達が話してくれた。エドワードは笑いながら死んだ、と。
今までに見たことがないほど、温かく、穏やかな笑顔だった、と。それを聞いて、リーザは夫の正気を疑った。
死ぬ前に笑う者など、聞いたことがない。エドワードであっても、死ぬことは恐ろしいはずではないのか。
だが、兵士達は誰しもが同じことを言うので、信じないわけにはいかず、リーザはそれを信じることにした。
きっと、追い詰められ、敗北を宣言し、自害を決意した時であっても笑えるほど、嬉しいことがあったのだろう。
世界は変わった。リーザが知っている世界は、竜王都の内側だけで、竜王に支配された、穏やかな都だった。
何年も、何十年も、何百年何千年と過ぎても変わることのなかった竜の世界は、呆気なく、破壊されてしまった。
東竜都に逃げ延びた竜の中には、先代先々代の竜王が健在だった頃から生きている竜も、何人か存在した。
彼らは、しきりに嘆いていた。竜王都が滅び、竜王軍が失せ、竜族の大半が死に絶えてしまったことを。
古くから生きてきた竜は、世界は変わらないものだと、変わらないことが当然であると、信じていたのだ。
リーザや、他のまだ若い竜達も、竜王都が失われてしまったことは衝撃であったし、戸惑うのは当然だ。
だが、受け入れるしかない。悲観して、過去ばかりを見ているよりも、生きていく道を見据えるべきなのだ。
エドワードからそう言われたから、ということもある。後を追うな、自害はするな、死ぬ時は寿命で死ね、と。
リーザは、その命に従うつもりだ。夫から言われた、最初で最後の約束でもあるから、守らなければならない。
そうすることが、エドワードを愛し続けている証になるような気がする。リーザは、涙の滲んだ目元を拭った。

「しかし、降るなぁ」

ファイドの呟きに、リーザは頷いた。

「そうでございますね」

「これだけ寒いと、東竜都に病が流行らんとも限らんな」

ファイドが心配げにすると、リーザは切なそうに目を伏せる。

「傷を負って戻っていらっしゃった兵士の方々が、幾人か、傷を悪くされて亡くなられてしまいましたわ」

「どうして、そういうことを早く言ってくれんのかなぁ」

ファイドは、少し不愉快げに眉根を曲げた。リーザは申し訳なくなり、肩を縮めた。

「なかなか東竜都から離れられませんでしたし、お医者様の居場所が解らなかったので…」

「まぁ、私はたまに下界にも降りているし、ツノを切って翼を隠して人間を治療している時もあるからな」

丁度間が悪かったのさ、とファイドが苦笑すると、リーザは両手を胸の前で組む。

「あの、お医者様。もし、都合がよろしければ」

「みなまで言わないでくれたまえ」

ファイドはリーザを制してから、にっと笑った。

「言われなくとも、東竜都へは行くよ。私の仕事は、生きている者を生かし続けることなのだからね」

「あの、それで、あの」

リーザはしばらく言い渋っていたが、意を決した。

「私も、お手伝いいたします!」

「ほう、それはなんでまた」

ファイドがきょとんと目を丸くすると、リーザは胸の前で組んだ手をぎゅっと握り締める。

「少しでもいいから、誰かのお役に立ちたいのです」

「それはありがたいな。私も、一人だけでは手が足りないと思っていたところなのだよ」

ファイドはリーザに背を向けてから、手招きした。

「さあ、さっさと東竜都へ向かおうではないか。患者を診るのは、一刻でも早い方が良いのだから」

「はい!」

リーザは嬉しそうに頷くと、雪を蹴って駆け出した。雪を掻き分けて歩く医者の背を、追いかけようとした。
が、途中で足を止め、振り返った。しばらく、エドワードの墓を見上げていたが、ぎゅっと唇を締める。
エドワードが死んだことは悲しい。竜王都が滅びたことは空しい。けれど、そこで立ち止まってはいけない。
リーザは、着物の背から出している白く小さな翼を広げると、冷え切った空気に叩き付け、羽ばたいた。
これからは、戦いが始まるのだ。生きていく上で味わう、様々な苦しみや悲しみとの、辛く長い戦争だ。
だが、決して、その戦いに敗北を宣言したりはしない。それが、エドワードとの約束であり、そして。
魂に据えた、決意であるからだ。




その頃。王都にも、雪が舞い降り始めていた。
古びた竜の城にもそれは訪れ、底冷えする空気が更に冷え、湖面の上を抜けてくる風には白が混ざっていた。
ギルディオスは正面玄関の階段に腰を下ろし、雪の降り続く湖と、淡い白に包まれた森の木々を眺めていた。
雪と氷は、兄を思い出させる。弟とは違い、高い魔力と才を持ったが故に心を凍て付かせた、双子の片割れを。
イノセンタスが死んだのは、夏の、それも豪雨の日だったが、不思議と夏ではなく冬に良く思い出していた。
それは、兄の纏う雰囲気や操る魔法が冷ややかであり、また頑なだったから、冬を連想してしまうのだろう。
ギルディオスは、がしゃりと頬杖を付いた。ガントレットの手のひらからは、氷のような冷たさが伝わってくる。

「半年ねぇ…」

未だに、黒竜戦争が終わったという実感が沸いていなかった。関わりが浅かったから、なのかもしれない。
ギルディオスに比べて深い部分で関わっていたフィフィリアンヌは、今は、この城で母の看病をしている。
黒竜戦争の終盤で、死ぬまで解けることのない呪いを受けてしまったアンジェリーナは、日々苦しんでいる。
フィフィリアンヌはそんな母を少しでも楽にしてやるべく、様々な魔法薬を作っては、効能を研究していた。
その成果は、ギルディオスはそれほど知らないが、伯爵が語るところによればなかなかのものらしかった。
フィフィリアンヌの調薬の技術と才能は、元より相当なものだが、研究に勤しむことで磨かれたようだった。
ギルディオスは、一度城を仰いだが、王都の方向に顔を向けた。一時に比べれば、王都は賑やかになった。
帝国軍と王国軍は連携していたため、王国国民も帝国軍に参加させられていたが、終戦と同時に戻ってきた。
彼らは、王都の無事を喜び、竜王軍が敗北したことも喜んでいたので、ギルディオスには少々複雑だった。
この戦争の最初から最後まで竜の側に立っていたので、人間の側の事情は、ほとんど知らないままだった。
だが、街を歩いていれば、そこかしこから話が伝わってくる。中でも、帝国の政治事情の話が多かった。
帝国の皇族や上位軍人などは、狂気に駆られたガルムが全て押し潰し焼き尽くし、殺してしまったのだ。
なので、帝国の政治は崩壊しているも同然で、経済や軍事も破綻し、帝国国民達は生きるのがやっとだそうだ。
そんな帝国を、黒竜戦争の行く末をじっと見つめていた、大陸北部の大国、共和国が目を付けているらしい。
乱れに乱れている帝国と同様に、相当な被害を受けた王国にも、じりじりと迫っているとの噂があった。
共和国は、元より帝国と王国の領土を欲していたのだが、帝国の動向の激しさでなりを潜めてしまっていた。
だが、帝国が激しく消耗している今であれば、と、共和国の眠っていた野心が高まり始めている、とのことだ。
国の機能を失った帝国は、抵抗しようにも出来ないので戸惑っているらしいが、王国は多少抵抗している。
しかし、帝国も王国も、どちらもいずれ共和国に吸収されてしまうだろう。それほど、両国は弱っている。
ギルディオスは、時代が移りゆくのを肌で感じながら、自分が生きていた時代が遠のく寂しさを噛み締めた。
自分の中では、時間はあまり動いていない。ただ、周りの世界が、速度を上げて過ぎ去っていくのだ。
それを止めることは、出来ない。生きていた者が死に、栄えていたものが朽ちていくのは、どうしようもない。
こういった瞬間に、肉体的な死を失ってしまった切なさを感じる。時が過ぎても、鋼で出来た肉体は不変だ。
激しい戦いでもしない限り壊れることはないし、魂を込めた魔導鉱石を砕かれなければ、死は訪れない。
時として、そのことで悲しくなる。ギルディオスの内に残る肉体の感覚は、二十九歳であった頃のままだ。
老いることも、朽ちることも出来ないのだ。それがどれだけ不自然で、不可解かは、自分にしか解らない。
ギルディオスはそこまで考えて、思考を止めた。こんなことをぐたぐたと考えても、気が滅入るだけだ。
勢いを付けて、階段から立ち上がった。意味もなく腕を振り回しながら、雪の積もった地面に降りた。

「うおっしゃあ!」

背中に担いでいたバスタードソードを抜き、振り翳す。頭に充満した重たい考えを、吹き飛ばしたくなった。
雪を踏み締めて重心を前に傾け、上から落ちてくる雪を刃で切り裂いた。ひゅおん、と小気味よい音がする。
目の前に、戦う相手を思い描きながら、隙を作らずに剣を振る。何度も繰り返していると、頭が晴れてきた。
やはり、物を考えているのは性に合わない。ギルディオスはなんだか楽しくなってきて、剣を更に振った。
しばらくの間、甲冑は、雪を相手に踊り続けた。


窓の外からは、彼の威勢の良い掛け声が聞こえてくる。
フィフィリアンヌは、母が寝入ったのを確かめてから、ベッドから離れてベランダの付いた窓に近付いた。
窓を開けずに見下ろしてみると、赤いマントと頭飾りを翻しながら、大柄な甲冑が巨大な剣を振り回している。
どうやら、いつもの修練のようだ。フィフィリアンヌは途端に興味が失せたので、底冷えする窓の傍から離れた。
この部屋は、呪いに苦しむ母のために片付けた、来客用の寝室なのだが、大量の本はしっかり運び込んである。
フィフィリアンヌは机の傍から椅子を持ってくると、背の高い本棚の前に置き、その上に昇って手を伸ばした。
目当ての本を抜き取って、椅子の上から飛び降りた。フィフィリアンヌは、その椅子の上に本を載せて引き摺る。
なるべく音を立てないように、多少浮かせながら引き摺って、母の眠っているベッドの傍まで運んできた。
本を取ってから、少々大きめな椅子に腰掛けたフィフィリアンヌは、身を乗り出して母の様子を覗き込んだ。
アンジェリーナは、顔色こそ冴えないが寝顔は穏やかで呼吸も落ち着いており、これだけ見れば普通だった。
だが、その胸元の魔力中枢の位置には、決して消えない魔法陣が浮かび上がり、呪いをじわじわと強めていた。
その呪いもまた、解くことは出来ない。アンジェリーナの魂は、根源から痛め付けられ、命を削られている。
フィフィリアンヌは、呪いを解くことが出来ないことが歯痒くて仕方なかったが、他のことをしようと思っていた。
母の苦しみを和らげられる薬を作れるだけ作り、母のさせたいようにさせ、死の時が来るまで、傍にいる。
フィフィリアンヌの父のロバートは、遠い昔に戦場で命を落としたので、その死に目には会えなかった。
だから、せめて母の死に目には会いたい。もう、それぐらいしか、アンジェリーナにやれることはない。
アンジェリーナに、娘らしいことはこれといって出来なかった。幼い頃は、高飛車な母を嫌ってすらいた。
七十四歳になった頃にようやく和解して、お互いに心を開いて接しても、やはりどこかに躊躇いがあった。
母は竜王都からなかなか出られないというのに、自分から竜王都に行ったことは、数えるほどしかなかった。
フィフィリアンヌは後悔の念に駆られたが、振り切った。過ぎてしまったことを後悔しても、何も変わらない。
気を取り直して、膝の上に乗せた本を開くと、埃が舞い上がった。随分前に、一度読んだきりの本だった。
少々古い字体の活字を目で追っていると、ごとり、と部屋の中央に置かれているテーブルから音がした。
鬱陶しく思いながら目を上げると、ワイングラスに入っている伯爵が蠢き、グラスを揺らして前進させている。

「要もないのに動くな。やかましいぞ」

フィフィリアンヌが険悪に言い放つと、伯爵は細長い触手を作り、すいっと伸ばしてきた。

「そう言うでない、フィフィリアンヌよ。暇なのは、我が輩も貴君も同じなのであるぞ」

「私は暇ではない。母上の苦しみを和らげるために、死力を尽くしておるのだぞ」

フィフィリアンヌはさも不愉快げに、眉を吊り上げる。

「それを、ただ寝て起きて喋って飲んで蠢いているだけの穀潰しの貴様と、同列にされたくはないな」

「はっはっはっはっはっはっはっは。我が輩が喰らい潰すのは、ワインだけなのであるぞ」

気分良く笑った伯爵を、フィフィリアンヌは睨み付ける。

「黙れ。母上がせっかく寝入ったというのに、貴様が馬鹿の見本の如く騒ぎ立てれば起きてしまうではないか」

「はっはっはっはっはっはっはっは。貴君とて、我が輩が優雅に弁舌を振るえば、それ相応に返すではないか。貴君も充分に騒ぎ立てているのであるぞ、フィフィリアンヌよ」

「貴様のように無意味な高笑いなどしない。だから、貴様と私を同列に扱うなと言っておるだろうが。頭痛がする」

フィフィリアンヌが顔を逸らすと、伯爵は、ごとり、と更にグラスを前進させた。

「ふむ。それだけ言い返せるのであれば、貴君は割に平気だと言うことであるな、フィフィリアンヌよ」

「貴様もだ、伯爵。貴様の肉体も根性も神経も腐っておるが、精神までは腐っておらんようだ」

フィフィリアンヌは伯爵に目を戻すと、皮肉めいた表情を見せた。伯爵は触手を戻し、ぶるりと震える。

「この分であると、貴君も我が輩も、当分の間は死ぬことは叶わないようであるな」

「まぁ、それは仕方なかろう。私が死なねば、貴様は死なん」

フィフィリアンヌはやる気なく返し、視線を活字へと戻した。

「伯爵。貴様が死ぬ時は、私が貴様にワインを注ぐのを止め、貴様に目を向ける余裕もなくなった時だけだ」

「フィフィリアンヌよ。貴君が死ぬ時は、我が輩の素晴らしく麗しい加護が失せ、我が輩の貴君への惜しみない皮肉が途絶え、我が輩の心が貴君から離れてしまった時だけであろうぞ」

そう言い終えた伯爵は、全身から力を抜いた。ワイングラスの内側に満たした軟体の、表面を真っ平らにした。
肉体の死は、死者本人に訪れる死だ。本当の死は、誰もの記憶から、死者が消え失せた時に訪れるものだ。
言い回しは少々遠回しで皮肉めいていたが、二人とも、その本当の死を訪れさせない、と言ったのである。
裏を返せば、決して忘れたくないほど大事だ、ということなのであるが、互いの性格が性格なので到底言えない。
伯爵は、フィフィリアンヌの性格もさることながら自分自身の性格も厄介だと思ったが、やはり照れくさい。
無理に素直に言ったところで、白々しい上に恰好が悪い。だから、こうして、普段のやり取りを装うのである。
フィフィリアンヌは、膝の上に乗せた本のページをぱらぱらとめくっていたが、その手を止めて呟いた。

「雪が止んだら、父上の元にでも行くとしよう。この雪で、墓が埋もれているやもしれんからな」

「そのついでに、ニワトリ頭の墓も掘り起こしてやるのである」

伯爵が返すと、フィフィリアンヌは窓の外へちらりと目線を投げた。

「ニワトリ頭の墓など、ニワトリ頭に掘り起こさせれば良いことだ。奴は私の身内ではないのだから」

「はっはっはっはっはっはっは。それは違いないのである」

伯爵は、心持ち声を抑えて笑った。アンジェリーナを起こしてしまうのは、さすがに悪いと思ったからだ。
フィフィリアンヌは、違いない、と簡単に返してから押し黙った。早々に、活字の世界に入り込んだからである。
伯爵も黙り、ふるふると小さく震えた。窓を通じて伝わってくる冬の寒さは、スライムには厳しいものがある。
窓の外では、しんしんと雪が降っている。その静けさを、ギルディオスの覇気のある掛け声が、破っている。
あれほどに、血と憎しみに満ちた、人と竜の戦いが繰り広げられていたことなど、世界は忘れたかのようだ。
いや、実際忘れているのかもしれない。世界は、人や竜など遥かに超えた年月を長らえている、悠久の存在だ。
そんな世界の中では、一瞬にも満たない一年半程度の戦いのことなど、覚えていろと言う方が無理な話だ。
そして、いつか人も忘れるだろう。人は竜よりも寿命が短く、世代の交代も早く、また、文明の進歩も早い。
長い間、過去に縛られ、変化を嫌って生きていた竜とは根本から違う。痛みの記憶など、早々に忘れるだろう。
だが、竜は決して忘れない。同族を思うあまり狂気に駆られた将軍の名も、理想を信じ続けた副将軍の名も。
忘れる時が来るとすれば、それは、竜が完全に滅びた時だ。




数日後。東竜都に赴いたファイドは、忙しくしていた。
思っていた以上に、体を痛めている竜達の数は多く、リーザを始めとした女達と共に治療に当たっていた。
中でもひどいのが生き残った兵士達で、その身と心に受けた傷は深く、簡単には治らない者ばかりだった。
だが、治ると信じて治さなければ、治るものも治らない。治療を受ける患者は、医者を信頼しているのだから。
その信頼を、裏切ってはいけない。そう思いながら、ファイドは、柔らかな雪に埋もれた道を懸命に歩いていた。
東竜都の街を成している家屋は、石造りのものが多い西方とは違い、瓦屋根で赤く塗られた柱で作られている。
柱の鮮やかな朱色は、降りしきる雪に包まれた白の世界の中で映えており、美しいとすら感じるほどだった。
ファイドは白い息を吐き出し、足を止めた。雪と共に強い風が吹き付けてくるので、飛ぼうにも飛べないのだ。
手に提げた、薬やら道具やらが入ったカバンを持ち直し、再び歩き出そうとすると、背後から声が掛けられた。

「お医者様!」

振り向くと、積もった雪を掻き分けながら駆けてくるリーザが、ファイドの元に寄ってきた。

「急患かい、リーザ」

ファイドが表情を固めると、リーザは肩と髪に乗った雪を払ってから、上がっていた息を整え、首を横に振った。

「いいえ、違います」

リーザは、走ってきたために頬をほんのりと紅潮させていた。

「西の洞窟にいらっしゃるウェンディ様が、産卵なさいました!」

「それは本当かい、リーザ!」

ファイドが目を丸くすると、リーザは何度も頷いた。

「はい、本当でございます!」

「そうか、そうかぁ、良かったなぁ、うん、本当に良かった!」

リーザの報告が本当に嬉しくてたまらず、ファイドは年甲斐もなく浮かれてしまい、だらしなく顔を綻ばせた。
ウェンディが孕んでいたことを知ったのは、竜王都から東竜都に移動した後で、彼女はそれを心底喜んでいた。
結婚を約束した男、フォウロンが死んでからというもの、ウェンディは何も喋らないほど塞ぎ込んでしまっていた。
だが、フォウロンの子を孕んでいたと知るや否や、表情も取り戻し、以前とまではいかないまでも元気になった。
ウェンディは、フォウロンと交わった際に彼の精を受精していなかったと思っていたのだが、していたのである。
フォウロンは、精を出してしまう前に抜くのが常であったのだが、一回だけ出しながら抜いたことがあるらしい。
恐らく、その時に受けたのだろう。ファイドが喜びに浸っていると、リーザは赤い瞳を潤ませ、涙を滲ませている。

「本当に…喜ばしいことでございます」

ファイドは、その切なげな表情に同情した。リーザもエドワードの子を孕みたかったのだが、時期がずれていた。
竜族の女が妊娠出来る時期は、十年周期だ。だが、リーザは、後三年過ぎなくては孕める体になれないのだ。
リーザはすぐに涙を拭うと、明るく微笑んだ。今は、自分の不幸を嘆くよりも、他人の幸福を祝うべきだ。
ファイドの手を取ったリーザは、ぐいっと引っ張った。雪を掻き分けながら、西の森へと向かって歩き出した。

「さあ、早く参りましょう、お医者様!」

「ああ」

ファイドは頷くと、リーザの手に引かれながら進んだ。手首を掴んでいる少女の手は、冷たく、小さかった。
ざくざくと雪を踏み締めながら、人気のない東竜都の街中を進む。この天気では、さすがに出歩く者も少ない。
ウェンディがいる、西側の山にある洞窟が近付いて来るに連れて、ファイドはまた嬉しさが込み上げてきた。
多くの同胞が死してしまったが、竜王都は破壊されたが、決して、竜族の全てが死に絶えたわけではない。
竜が滅びる日は遠のいたわけでもないし、逆に近付いてしまったが、これならばもうしばらくは持つだろう。
新たな子が生まれてくる限り、次なる世代に血を連ねることが出来ている限り、竜はまだ滅びはしない。
そして、未来も、潰えはしない。




人と竜の凄絶なる戦いは、双方に多大なる被害をもたらしたのち、終焉を迎えた。
戦いは、何も成さない。多くの悲しみと破壊のみを作り、誇りと、命と、故郷を奪い去った。
だが、決して絶望してはならない。明日を望み、血を連ね、大地を踏み締めて歩き続けていれば。

未来が、途絶えることはないのである。







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