フィフィリアンヌは、そっと目を開けた。 見慣れているはずの天井が、普段とは違うものに見えた。部屋中に、甘ったるい香の匂いが残っていた。 素肌に触れている布団を肩まで引っ張り上げて、傍らに向いた。彼は、穏やかな表情で眠り続けている。 フィフィリアンヌは慎重に上半身を起こし、乱れた髪を掻き上げた。下半身には、少し違和感が残っていた。 自分以外のものが体内に入った感覚は、すぐには忘れられない。違和感と共に、多少なりとも痛みを感じていた。 目線を下ろして胸元へ向けると、平面に近い胸にいくつか痕が残っていた。途端に、頬が熱くなってくる。 昨夜の情交が思い出されて、照れくさくなってきた。同時に、自分に乱れた様まで思い出されてしまった。 フィフィリアンヌは顔を押さえて、喉の奥で唸った。身を縮めると、それに合わせて背中の小さな翼も折り畳まれる。 翼まで愛でられたことも思い起こし、背を丸めた。布団と一緒に膝を抱えていると、内側から何かが伝い落ちた。 それが何なのかすぐに察し、フィフィリアンヌは目を丸めた。達した後に眠ったので、そのままだったのだ。 フィフィリアンヌは、互いのものが入り混じった様子を想像してしまった。頬の温度は、すっかり高くなっている。 「…全く」 振り返って、カインを見下ろした。顔立ちから幼さは消えたが、表情は七年前と少しも変わってはいなかった。 フィフィリアンヌは身を屈めると、彼の頬へ舌を当てた。ついっと滑らせて舐めてから、手のひらで唾液を拭った。 あれだけ放てば、疲れもするだろう。フィフィリアンヌは少し呆れながら、布団を出てカインに背を向けた。 「やりすぎなのだ、貴様は」 ベッドの脇に座って、朝日の差し込む窓に向いた。床に放り投げられている服に、また照れくさくなってしまう。 その中には、一際目立つ白い衣装もあった。椅子の背に引っかけられた花嫁衣装は、朝日を浴びて輝いている。 フィフィリアンヌは、花嫁衣装の掛かった椅子の後ろにある鏡台に目をやった。不機嫌そうな少女が映っている。 肉のない体形を眺めていると、少しばかり不安が沸き起こってきた。こんな体で、彼の子を孕めるのだろうか。 たぶん平気だ、と思った。卵を産み出すには竜の姿に戻らなくてはならないし、あちらなら体格も充分だ。 だが、まずは結果を待たねばならない。数週間後になれば、彼の精をちゃんと受けられたかどうか解るはずだ。 ここに至るまで、随分掛かってしまった。フィフィリアンヌが子を孕めるようになるまでの間、彼は待っていてくれた。 昨夜の力の入りようは、ずっと堪えていたからだろう。いくら気の弱いカインといえど、男であることに違いない。 辛かっただろうな、とフィフィリアンヌは同情してしまった。割と律義な彼は、昨夜まで手を出してこなかった。 フィフィリアンヌとしては、婚前に繋がってしまっても構わなかったのだが、カインはそう思わなかったらしい。 達成感に満ちているように見えるカインの寝顔に、フィフィリアンヌは思った。自分も堪えていただろうか、と。 一度そう思ってしまうと、払拭出来なくなった。そうでもなければ、あそこまで乱れてしまうはずがない。 甲高い自分の声を思い出し、フィフィリアンヌは頭を抱えた。全て忘れてしまいたいほど、恥ずかしかった。 すると、身動きする音がした。フィフィリアンヌが頭を上げて振り返ると、彼が眠たげな顔で起き上がっていた。 「朝、ですか」 いつになく疲れた声で、カインは呟いた。上半身をずり上げて布団から出すと、ベッドに寄り掛かった。 フィフィリアンヌは紅潮した頬を押さえ、小さく頷いた。ぼんやりと窓を眺めるカインを、なんとなく眺めてみた。 上手くはなくとも剣の鍛錬を続けたおかげか、体格はそれなりに良くなっていた。以前の頼りなさはない。 少年の面影も消え、男らしさすら出てきていた。優しげな青い目が、フィフィリアンヌの翼の生えた背に向く。 「寒くないですか?」 「いや」 フィフィリアンヌは、首を振る。そうですか、とカインは笑った。 「下の方、痛かったらすみません。あんまり、力の加減が出来なかったもので」 「少しは。だが、大したことはないから気にするな」 フィフィリアンヌはベッドから降り、近くに落ちていた上着を取った。カインの服を羽織り、胸の前を合わせる。 「あの、少しだけ気になっていることがあるんですが」 恐る恐る尋ねてきたカインに、フィフィリアンヌは目を向ける。 「なんだ」 「初めてだとお聞きしましたが、その、何かしらを貫いた感触はなかったんですけど」 「ああ、それか。私は母上の血が強いから、元からないのだ」 「あ、そういうことですか」 安堵したように、カインは息を吐いた。フィフィリアンヌは枕元までやってくると、彼の傍に腰を下ろした。 「私も、多少は気に掛かっていることがある。貴様、やたらに慣れていなかったか?」 「ああ、それはですね。昔のことなんですけど、上の兄様に何回か付き合わされちゃったんですよ」 「娼館に?」 「ええ。きっと、そのせいでしょう」 カインは下半身を布団の下に入れたまま、身をずらした。フィフィリアンヌを、そっと背後から抱く。 「お嫌でしたか?」 「いや。その歳で何もしていないわけがないと思っていたから、別に驚きはせん」 「そうですか」 フィフィリアンヌの答えに、カインは拍子抜けした。ありがたいといえばありがたいが、少し物足りない。 相変わらず、フィフィリアンヌは乾いている。割り切るべきところは、全て割り切ってしまっている。 青い服の下にある小さな肩を、カインは抱き寄せた。フィフィリアンヌの白い太股に、もう一方の手を置く。 「ですけど、まさか泣かれるとは思ってもみませんでした。そんなに痛かったんですか?」 「…いや」 ゆっくりと足を撫でていく手の感触を堪えながら、フィフィリアンヌは俯いた。 「途中から、自制が緩んでな。たぶん、そのせいだ」 「でしたらいいんですが」 カインは、フィフィリアンヌの首筋に顔を埋めた。僅かに少女の体が震えたが、気にせずに唇を当てた。 昨夜に残した痕に触れると、高い声が洩れた。カインは甘く柔らかな匂いを味わっていたが、顔を上げる。 「ああ、やっぱり。首の辺りが一番弱くありません?」 「急所なのだ」 多少上擦った声で返し、フィフィリアンヌは顔を背けた。カインは背を曲げ、彼女を真上から見下ろす。 「竜族の、ですか?」 「それも、あるのだが。その、なんというか、貴様が相手だから」 そこまで言って、フィフィリアンヌは唇を締めた。上目に彼を見ると、カインは続きを言って欲しそうだった。 ならば、余計に言いたくなくなった。フィフィリアンヌはカインに寄り掛かって体重を掛け、黙り込んだ。 不機嫌そうながらも頬の赤い少女を見下ろし、カインは笑った。今は、その続きを聞かなくとも充分だった。 カインは目を上げて、日差しの中で光り輝いている花嫁衣装を見つめた。昨日の出来事は、未だに夢のようだ。 長い間、この時を待ち侘びていた。父親の没後に領主となってからは、彼女のことが心の支えだった。 貴族の一人でいたときよりも多くの人間に会い、欲望と陰謀の渦巻く背景を覗き見ては疲れてしまっていた。 そんな中、彼女の城に来るときだけは全てを忘れられた。大きくなったカトリーヌは、今はこの城にいる。 婚礼の衣装を纏ったフィフィリアンヌは、夜会の衣装よりも美しかった。城を背にすれば、絵画のようだった。 カインはフィフィリアンヌの体温を感じ、心地良くなっていた。式と初夜の余韻が、全身に残っている。 「僕もあなたが相手でしたから、加減が出来ませんでしたよ」 フィフィリアンヌの肩に当てていた手を押して、彼女を向き直らせた。とん、とツノの生えた頭が寄り掛かる。 カインの胸に額を当てて、フィフィリアンヌは目を伏せた。すぐ傍から、彼の鼓動が聞こえてきた。 それがとても心地良く、気が緩んでしまいそうだった。名実ともに契りを交わしたので、その安心感もあった。 彼の心が離れないとは解っていても、不安に駆られる瞬間はあった。人ではなく、竜であるための不安だった。 名家の出であり領主となったカインが、竜の血の混じった跡取りを願わなくなるのでは、とすらも思った。 だが、彼は昔と変わらなかった。あなたが竜であるからこそあなたと添うんです、とさえも言ってくれた。 その時のことを思い出し、フィフィリアンヌは唇の端を少し持ち上げた。あの時も嬉しかったが、今の方が嬉しい。 左手を上げると、薬指に填められた細い金の輪が輝いた。フィフィリアンヌの左手を取り、カインは笑った。 「これ、外さないで下さいね」 「貴様こそ、外で女など囲うな。買うだけなら構いはせんが、作るのはならんぞ」 フィフィリアンヌがにやりと目を細めると、カインは苦々しげにする。 「どっちもしませんから、そんなに言わないで下さいよ」 「ならば、いいのだが」 カインの手から左手を脱させたフィフィリアンヌは、彼の頬に当てた。首の後ろに回し、軽く引き寄せる。 「しかし、貴様は酔狂だ。望みとあらば、年頃にでもなんでも変形してやったものを」 「ですから、何度も言っているでしょう。僕は、ありのままのフィフィリアンヌさんが好きなんです」 「幼女趣味か」 「違いますよ! グレイスさんじゃないんですから!」 カインは、慌てながら言い返した。フィフィリアンヌは、嘲るような笑みになる。 「冗談だ。貴様がそうでないことは知っている」 「人聞きの悪いことを言わないで下さいよ」 困ったように、カインは眉を下げた。フィフィリアンヌの笑みは愛らしいが、今の顔は狡猾そのものだった。 少女らしからぬ妖しさを帯びた目から、笑みが消え失せた。普段通りの無表情になり、カインを見上げてくる。 カインは身を屈め、フィフィリアンヌに顔を近付けた。彼女の顎に手を添えて唇を開かせ、力を込めて塞いだ。 服の前を合わせている手を外させ、握り締めてやる。顔を離してから、カインは多少意地の悪い口調で言った。 「あんまり変なことを言うと、本当に手加減しませんよ?」 「朝っぱらから何を。出来るわけがなかろうに」 頬を赤く染め、フィフィリアンヌは顔を背ける。いえいえ、とカインは首を横に振る。 「やって出来ないことはないですよ。僕は若いですから」 「だ、だが、妻というものはそれだけではなかろうに!」 にんまりとするカインに、フィフィリアンヌは声を上げた。カインは、彼女の胸元へ手を当てる。 「なにせ七年分ですから。いえ、最初に会ったときからの時間も含めると、十三年分も溜まってますからねぇ」 「かっ、枯れてしまうぞ!」 「フィフィリアンヌさんに絞り尽くされるのであれば、僕としては本望なのですが」 カインの指先が滑り、フィフィリアンヌの胸元を撫でる。フィフィリアンヌはカインを睨んだが、身動き出来なかった。 気恥ずかしさと愛おしさと、慣れない情欲の感覚のせいだった。甘い疼きが胸中に沸き起こり、顔を歪めた。 カインの手はするりと降りて、華奢な腰で止まった。そこから更に下に向かい、太股の内側に手を這わせる。 緊張したように身を固めているフィフィリアンヌに、カインは軽く口付けた。彼女の足から手を外し、抱き寄せる。 「まぁ、嫌であればやりませんけどね。強引なのはお好きじゃないでしょうから」 途端に、フィフィリアンヌは力を抜いた。深く息を吐きながら小さな肩を落とし、カインの胸に頭を寄せた。 カインは、その頭に手を乗せた。ゆっくりと撫でてやりながら、さすがに少し言い過ぎたかな、と思っていた。 実年齢が八十歳を越えているとはいえ、彼女はこういったことに不慣れだ。いつも以上に、困っていることだろう。 胸の前で小さく、全く、と腹立たしさと照れが混じった声が聞こえた。フィフィリアンヌは、上目に彼を見る。 「せめて、夜にしてくれ。さすがに、明るいうちとなると」 「解りました」 カインが頷くと、フィフィリアンヌは顔を逸らした。ぐいっと彼を押して間を開けてから、腕の中から脱した。 ベッドから降りて数歩歩き、背中に乗せていた彼の服を外した。朝日で輪郭の失せた、白い肩が露わになる。 ばん、と小さな翼が張られた。フィフィリアンヌは屈み込んで自分の服を掻き集め、身に付けていった。 闇色のローブを着込んでから、フィフィリアンヌはベッドへ振り返った。カインが、やけに残念そうにしている。 「やっぱり黒なんですか」 「白は慣れん。昨日のあれも、一度着れば充分だ」 そう言いながら、フィフィリアンヌは椅子に目をやる。純白の花嫁衣装が、ぞんざいに引っかけられている。 頬杖を付いたカインは、複雑そうに口元を曲げた。花嫁衣装と普段通りの彼女を見比べてから、呟いた。 「白も似合うと思うんですが」 「似合う似合わないの問題ではない。私が好きでないのだ」 鏡台の前まで歩いたフィフィリアンヌは、櫛を取った。長い緑髪に差し込んで何度も滑らせ、梳いていく。 ある程度乱れがなくなってから、細い紐を持って髪を後頭部の下でまとめた。一括りにし、ばさりと落とす。 カインもベッドから降り、床に放り投げておいた自分の服を拾い集めた。着込みながら、彼女に目をやる。 嫌なものでも見るかのように、花嫁衣装を睨み付けている。そんなに嫌わなくても、とカインは思ってしまった。 確かに、花嫁衣装のようなひらひらした服は彼女の趣味でないだろう。だが、あれは本当に似合っていた。 濃緑の髪と赤い瞳が白に映えていて、薄化粧を施されていた。彼女も婚礼は嬉しかったのか、表情も緩かった。 気に入っていないはずがない、とカインは思った。大方、気恥ずかしさで意地を張っているだろう。 フィフィリアンヌはカインが服を着たのを確かめてから、窓に向かった。がちゃりと引いて、全開にさせた。 朝の匂いを含んだ風が、寝室に滑り込んできた。カーテンを揺らがせながら、香の名残を散らしていく。 カインは窓の外を見下ろし、セイラとカトリーヌの姿を確かめた。日光を反射している湖面に、影があった。 巨体ながらも綺麗に泳いでいるセイラの頭上を、青黒くしなやかなワイバーンの影が飛び回っていた。 ぎぃ、とカトリーヌは大きく声を上げた。セイラの身長ほどに成長したので、あと少しで大人になることだろう。 カインの隣から外を見下ろしていたフィフィリアンヌは、目元を緩めた。幼子だった魔物達は、もう幼子ではない。 水面すれすれを飛行していたカトリーヌは、すっと頭を下げた。どばん、と飛沫を上げて水中に身を没した。 尾を振りながら、翼のある影は水面下を巡っている。セイラは一旦泳ぎを止めたが、彼女と共にまた泳ぎだした。 フィフィリアンヌは、ちらりと傍らのカインを見上げた。彼の身長も前より伸びたので、見上げる位置が高くなった。 左手の薬指にある指輪に、親指の先で恐る恐る触れた。彼の妻となった実感は、まだ湧いてこなかった。 「これから、どうしましょうか」 カインはカトリーヌの泳ぎから目を外し、フィフィリアンヌに向いた。フィフィリアンヌは、きょとんとする。 「どうするとは?」 「新居ですよ、新居。僕の方がごたごたしていたせいで、決めず終いで来てしまいましたから」 「ああ、そうだったな」 フィフィリアンヌは、思い出したように言った。婚礼に至るまでに、多少なりともカインの方は面倒なことになった。 カインの兄の妻、すなわち彼の義姉が、カインのかつての婚約者であるエリカにそそのかされてしまった。 一度は丸く収まりそうだったフィフィリアンヌとの婚礼を反対し始めて、終いには物騒な輩を差し向けてきた。 フィフィリアンヌとしては大したことのない出来事だったが、カインの方は事態が厄介な方向へと進んでしまった。 その頃は彼も領主になったばかりだったので、力も強くなかったせいもあり、意見を通すまで時間が掛かった。 それでも最後はカインの言い分が通り、カインがフィフィリアンヌを妻とすることを、ストレイン家は認めてくれた。 事が納まると、エリカは自分の夫と共に帝国へ行ってしまった。思い通りにならなかったから、逃げたのである。 そんな厄介事のせいで、二人はあまり話し合うことが出来なかった。婚礼の衣装も、式の寸前で決まったほどだ。 「それで、どうしましょうか」 カインに尋ねられて、フィフィリアンヌは腕を組んだ。少しも、そんなことは考えていなかった。 「どうすると言われても。契りを交わしたからといって、常に共におらねばならぬ理由もあるまいに」 「あると思いますけど。新婚なんですし」 「そういうものなのか?」 「そういうものなんです」 カインは、深く頷いた。そうなのか、とフィフィリアンヌは少し首をかしげる。 「だが、住居のことなど、あまり執着せずとも良いと思うのだが」 「僕は執着しますよ」 「しかし、貴様は仮にも領主だろう。家から出ることは叶うまい」 「それなんですよねぇ、問題は」 困ったもんです、とカインは眉を下げた。フィフィリアンヌは、横目に彼を見上げる。 「ならば尚のこと、共におることは叶うまい」 「なんでそんなにあっさりしているんですか、あなたは」 怪訝そうなカインに、フィフィリアンヌは返した。 「貴様こそ、何をそこまで気に病むのだ。少しばかり離れたところで、私は別に逃げはせん」 「あ、そういうことですか」 途端に、カインは上機嫌になった。そうですかそうですか、とやたらに嬉しそうに言いながら何度も頷いている。 フィフィリアンヌはくるりとカインに背を向けて、歩き出した。部屋の中程にまで進んだが、振り返った。 「だから、その、なんだ。貴様が通えばいいことだ」 「ええ、そうですね。是非、そうさせて頂きましょう」 カインはベランダの手すりに背を預け、頷いた。フィフィリアンヌはやりづらそうだったが、扉に向かっていった。 勢い良く開いた扉の間をフィフィリアンヌは擦り抜けるように出、すぐに閉められた。すぐさま、廊下から声がする。 隣の研究室の扉を開く音がして、伯爵を呼びつけている。すると、嘲笑混じりの高笑いが壁越しに聞こえてきた。 饒舌な伯爵に言い返しているフィフィリアンヌの必死そうな声を聞き流しながら、カインは笑っていた。 これからは、前よりももっと様々な彼女の表情が見られることだろう。彼女は妻となり、そして母となるからだ。 生まれて来るであろう子は、どんな姿なのだろうか。四分の一だけ残った竜の血は、竜の姿を与えるのだろうか。 カインは、隣の研究室のベランダに顔を向けた。フィフィリアンヌが伯爵を言い負かしたのか、静かになっている。 そして、廊下を駆けていく軽い足音が通り過ぎていった。大方、紅茶でも淹れてくれるつもりなのだろう。 それを楽しみに思いながら、カインは寝室へと戻った。花嫁衣装の前にやってくると、その細い袖を取った。 絹の手触りは滑らかだったが、彼女の肌の方が良かった。それにあちらは、少しでも触れば反応を返してくれる。 それがどうしようもなく愛おしく、愛らしくてたまらない。カインは花嫁衣装の袖を下ろし、壁を見上げた。 数年前に画家に描かせたフィフィリアンヌの絵が、陰った壁に掛けられていた。竜の少女と、緑竜の絵だ。 婚礼の衣装にも似た白い服を着た少女は、あらぬ方向を見ている。その背後の緑竜も、あらぬ方へ向いている。 両者の視線は、敢えてこちらに向けなかった。カインがそれを画家に頼んだとき、画家はかなり変な顔をした。 カインは絵の前までやってくると、額に手を触れた。両者の目線を逸らさせた理由など、自分以外には解るまい。 フィフィリアンヌの目は、カインを見てくれている。だから、たとえ絵であろうとも他者へ向けさせたくはない。 妻となったのであれば、尚更だ。それぐらいの独占欲は持っていても良いだろう、とカインは内心で思った。 外からは、セイラの歌声が聞こえてきていた。昨日歌ったばかりの結婚の歌を、楽しげに歌っている。 清らかな歌声を聞きながら、カインは左手を挙げた。左手の薬指には、彼女にあげたものと同じものが填っている。 カインは、真新しい金の指輪に唇を当てた。彼女が手元にいないのならば、代わりになるものはこれくらいだ。 愛すべき妻の温もりが、移っているような気がしていた。 契りを交わした二人は、心と体を重ね合わせる。 生きてきた道が違えど、生きている場所が違えど、その思いは同じ。 愛する者の血を長らえることが、何よりの望みである。 そして、互いの幸せが続くことが、何よりの願いなのである。 05 7/31 |