ドラゴンは笑わない




恋に効く魔法



パトリシアは、怒っていた。


打ち込んだ拳によって砕けた壁の破片が、ぱらぱらと崩れ落ちた。その拳を見、彼は大きく目を見開いている。
幼い頃と変わらぬ表情で、母親譲りの鳶色の目を丸めている。青年らしい顔立ちからは、女っぽさは消えていた。
艶やかな黒髪は、砕けた壁の粉を被り白くなっていた。息を荒げているパトリシアの、拳の真下にランスがいる。
ランスは訳が解らない、と言いたげな目でパトリシアを見上げていた。頭上で抉られた壁に、顔を引きつらせる。

「…何?」

「なぁにじゃないわよぅっ!」

拳を引き抜いたパトリシアは、手首を返して振りかざした。ごっ、と鈍い音と共にランスの首の傍に打ち込まれた。
首筋すれすれの位置で止まった裏拳に、ランスは肩を竦める。パトリシアは身を乗り出し、彼に顔を寄せる。

「ちゃーんと説明してくれれば、お姉さんは怒らないぞー?」

「ていうか、思いっ切り怒ってるじゃん」

目の前の彼女に、ランスは呟いた。声変わりして低くなった声は、ギルディオスの声と同じ響きを持っていた。
パトリシアは裏拳を壁から外すと、半歩下がった。ランスは髪の汚れを払って立ち上がり、肩も払い落とす。

「僕が何したって言うのさ」

「あれよ、あれぇ!」

パトリシアは、勢い良く背後の机を指した。大量の本と書類に占められた大きな机は、かなり乱れていた。
魔法大学からの課題やヴァトラス家に関する書類や精霊研究の論文、私的な手紙などが積み重なっている。
確かに整理出来ていないが、だからどうだというのだろう。ランスは多少訝しみながら、彼女を見下ろした。
自分であればああいう状態は好きではないが、パトリシアは逆だ。書類の整理をすることなど、ほとんどしない。
あまり触るなと常に言っているからでもあるが、元々の性分が違っている。潔癖なランスと違い、割に大雑把だ。
何か気になることでもあったのだろうか、とランスは首を捻った。パトリシアは、腹立たしげに頬を張っている。

「あくまでも白を切るつもりなわけねん」

「僕には心当たりが皆無なんだけど」

ランスは、修道士の証である紺色の布を被ったパトリシアの頭を見下ろした。

「そりゃ、先月にパティの誕生日を忘れて研究にかまけちゃったのは謝るし、穴埋めもしたじゃないか」

「それじゃないわよ」

「じゃ、連日連夜の粛正と奉仕活動でパティが疲れているにも関わらず、強引にあっちの方に持ち込んじゃったこととか、その時に勢い余って修道服を破っちゃったこととか、挙げ句に中と言わず顔や腹にも」

「違うわよそれじゃないわよぅ! そりゃあの時は、つい怒っちゃったけど別にああいうのが嫌ってわけじゃあ!」

耳まで紅潮させたパトリシアが振り返ると、ランスは淡々と返す。

「じゃ、何?」

「だーからぁん!」

パトリシアはずかずかと机に歩み寄ると、乱暴に書類を払った。雪崩の如く崩れた紙が、床に落ちて広がる。
積み重ねていた本も薙ぎ払われ、転げ落ちた。足元に滑ってきた書類を一枚拾い、ランスはため息を吐いた。
あとで片付けなきゃな、と思っていると、パトリシアは引き出しの中から一枚の紙を取り出して高く掲げる。

「そうよこれよこれぇ!」

「あ」

それは、とランスが言おうとすると、パトリシアはにんまりと笑った。

「何なのよこれは。ちゃーんと説明してもらおうじゃないのよランス君」

「ていうか、それは…」

ランスがそれが何か説明しようとしたが、パトリシアは紙を広げた。

「親愛なる先輩、ランス様へ。先日あなたから丁寧に勉強を教えて頂いたおかげで、講義を充分に理解することが出来ました。本当にありがとうございました。先日、私があなたに差し上げたお手紙の返事、読ませて頂きました。あんなにも情熱的な文章で私の愛に答えて下さるなんて、意外でしたがとても嬉しかったです。愛しのランス様、私はあなたをお慕いし誰よりも深く愛しております。これからは後輩ではなく、一人の女として愛して下さいませ」

感情の籠もらない棒読みで読み終えたパトリシアは、ぐしゃりと紙を握り潰した。ランスを、睨み付ける。

「あーらなんでしょーねーこれはー? 様なんて付けられちゃってさーぁ」

「いや、だから」

「言い訳しなぁい! そっちがその気なら、私にだって考えぐらいあるわよ!」

床に紙を叩き付けたパトリシアは、書類や本を蹴りながら歩いてきた。ランスの脇を通り過ぎ、扉に向かう。
扉を力任せに開けると、パトリシアは彼に振り返った。柔らかな金髪を振り乱しながら、ランスを勢い良く指す。

「私だって、浮気の一つぐらいしてやるわよぅ!」

「え?」

「してやるんだからぁん!」

絶叫したパトリシアは、どばん、と扉を閉めた。廊下を駆ける足音が聞こえ、らんすくんのばかー、と聞こえた。
彼女の声が遠ざかってから、ランスは小さく苦笑いした。まさか、こんなことになるとは思ってもいなかった。
荒れた部屋を、見回してみた。魔法大学からあてがわれた研究室の中は、嵐が過ぎ去った後と化していた。
先に説明しとけば良かった、と後悔した。握り潰された紙を拾って広げ、シワを伸ばしてから四つに折り畳んだ。
せっかく整理して積み重ねていたのに、書類も本も床に落とされてしまった。ランスは、慎重な足取りで進む。
なるべく書類を踏まないようにして机に戻ると、こん、と机の端を指で突いた。すると、弱い風が沸き起こった。
ランスの青紫のマントを揺らめかせながら、風は書類を巻き上げて机の上に戻し、分類しながらまとめていった。
本も浮かび上がり、とん、とん、と元あった位置に積み重なっていく。ランスは唇を締め、じっと目を見開いていた。
集中しないと、この魔法は使えない。普通の魔法とは違い、魔力そのものを使うので、集中が鈍れば制御を失う。
息を詰め、最後の本が積み重なる様を見つめていた。分厚い学術書が本の山の頂点に重なると、息を吐いた。
ランスは椅子を引いて腰掛けると、ずるりと姿勢を崩した。彼女を、あんなに怒らせるつもりなどなかったのに。
ランスは、ぱちん、と指を弾いた。手前にあった書類の束はふわりと浮かび、独りでに重なって場所を空けた。
その空いた空間に足を投げ出し、組んだ。ランスは外からの日光で柔らかく照らされた天井を仰ぎ、呟いた。

「参ったな…」

こまったわ。こまったわね。こまったことね。うふふふ。天井に差し込む日光を浴びた白い精霊が、感覚に囁いた。
これから、どうするべきなのだろう。ランスはパトリシアの怒り顔と絶叫を思い出しながら、思考を巡らせた。
パトリシアと一緒にヴェヴェリスに来て五年以上経つが、あそこまで怒らせてしまったのは、今回が初めてだ。
だが裏を返してみれば、あの文面を見てあれほど怒ると言うことは、そこまで深く思ってくれている証でもある。
それはかなり嬉しいのだが、素直には喜べなかった。何にせよ、原因が自分であることは間違いないのだから。
ランスは目を動かし、パトリシアが抉った壁を見た。拳の穴の他にも、回し蹴りと膝で砕かれた部分もある。
本当に浮気したら首の骨を折られそうだ、と思い、少しぞくりとした。あの拳の威力は、以前より強烈になっている。
彼女の強さは、自分が一番良く知っている。ランスはパトリシアの拳に対する恐怖を抑えつつ、紙を広げた。
その文面を読むにつれて照れ臭くなり、頬が熱くなるのを感じた。




雑踏の中を、ただ前に向かって歩いていた。
パトリシアは魔法大学付近の魔法道具商店街を、苛立ち紛れに歩いていた。泣き出したいが、泣けなかった。
腹の底で煮え滾る怒りの方が遥かに強いので、悔し涙すら出なかった。手紙の内容が、鮮明に蘇ってくる。
丁寧で美しい文字で書かれた手紙には、ランスへの愛情が滲み出ていた。大人びていて、落ち着いてもいた。
全て、自分にはないものだった。二十一にもなっても落ち着きなんて生まれないし、いつも騒ぎ立てている。
近くの商店の窓を横目に見ると、幼さが残った顔立ちの女が映る。今となっては、ランスの方が年上のようだ。
身長も体格も、何もかもランスに追い越された。抱き締める位置も変わってしまったし、立場すらも逆転した。
彼の腕に納められて、彼の方から口付けられて愛される。以前は握っていた主導権は、ランスに握られている。
嬉しいが、少し寂しかったのは確かだ。ランスを支配することが出来ていたのに、出来なくなったのだから。
今は、彼に支配されている。だからこそ、彼は支配した女ではない別の女に、興味を抱いたのかもしれない。
考え込んでいたら、いつのまにか立ち止まっていた。雑踏の間から抜け出ると、近くの建物の壁に背を預ける。
目を伏せて押し黙っていると、想像ばかりが頭を巡る。あの手紙の女性は、清楚で淑やかな美しい人だろう。
間違っても修道服で暴れ回ったり、拳一つで魔物の一団を叩きのめしたり、悪漢達を殴り飛ばしたりはしない。
増して、怒りにまかせて壁を打ち砕いたり、調子に乗って高笑いしたり、べたべたと彼に甘えたりはしないだろう。
きっと、正反対の女性に違いない。ランスが惹かれるような女性なのだから、魔法の才能もあるのだろう。
ランスは、騒がしい自分にうんざりしたのだ。きっと、そうに違いない。だから、愛想を尽かしてしまったのだ。
気になって、魔法大学の方向に顔を向けてみた。塀に囲まれた立派な建物の前には、学生達が散らばっている。
ひっきりなしに行き交う人々の間には、青紫のマントを羽織った姿はない。追いかけても来ないんだ、と思った。

「なーによぅ」

怒りを奮い立てようとしたが、出てきた声は驚くほど消沈していた。パトリシアは、次第に気が滅入ってきた。
追っても来ないとは、決定的に嫌われたようだ。愛想を尽かしたランスが、追いかけてくるはずなどないのだ。
壁を殴り壊したし、その前に回し蹴りと膝蹴りも放ったし、書類も散らかした。それだけやれば、嫌われて当然だ。
今更、何を期待しているのだろう。パトリシアは自己嫌悪に陥りながら、顔を伏せ、唇を噛んで涙を堪えた。
彼に嫌われたのだと思うと、胸が抉られるように痛い。改めて、ランスが大好きだ、愛しい、と自覚する。
心が離れていって欲しくないし、他の女を見て欲しくなんてないし、何より、追いかけてきて欲しかった。
嘘だと言いに来て。パトリシアは滲んでくる涙を拭い、声を押し殺した。すると、雑踏の中で足音が止まった。
すぐ手前で止まったので、パトリシアは目を上げた。そこにいたのは、群青色のマントを羽織った貴族だった。
周囲の人々が、物珍しげに男を見ていく。柔らかな茶色の髪と穏やかな青い目をした男には、見覚えがある。
以前のような頼りなさが薄らいでいたので、すぐには解らなかった。パトリシアは、まじまじと彼を見上げる。

「…カインさん?」

「お久し振りです、パトリシアさん」

親しげな笑みを浮かべたカインは、一礼した。なぜここに彼がいるのか解らず、パトリシアはきょとんとする。

「なんで、ヴェヴェリスに?」

「魔導師協会の役員会議に呼ばれまして。あ、僕に選挙権はありませんよ。あるのは兄様達で」

数合わせなんです、とカインは情けなさそうにした。パトリシアは、カインの背後の魔法大学を見上げる。

「そういえば、そんなことしてましたっけ」

「そういうパトリシアさんは、どうして泣いていたんです?」

「私は、別に泣いてなんか」

パトリシアが言い返すと、カインはパトリシアの目元を指す。

「目、赤いじゃないですか。フィフィリアンヌさんも良く言うんですよね、泣いていたのに泣いてないって」

すぐにばれるのに、とカインは笑んだ。パトリシアは、魔法大学へ目を向ける。彼は未だ来ず、苛立ってきた。
ならば、あれをするまでだ。勢いで言ってしまったこととは言え、まんざら嘘でもない。言った時は、本気だった。
となれば、それを実行しないわけにはいかない。せめて、ランスが同等の苦しさを味わえばいい、と思った。
パトリシアは、カインを見上げた。ランスほどではないが身長差があり、頭一つ程度上に彼の顔がある。

「カインさん」

「はい?」

不思議そうなカインに、パトリシアは両手を胸の前で組み、迫った。

「私と浮気しませんか!」

「…はい?」

間を開けてから、カインは目を丸くした。冗談ですよね、と言いたかったが、パトリシアは真剣な顔をしている。
一歩後退すると、パトリシアも間を詰めてきた。逃げられそうにない、と察したカインはとりあえず笑った。
この場から逃げたかったが、出来そうになかった。それに、今にも泣き出しそうなパトリシアを放っておけない。
カインは仕方なしに、パトリシアに手を差し伸べた。このまま街中にいても、どうしようもないと思った。

「とりあえず、お話だけでしたら付き合えますが」

「なんでしたらその先まで行ってみませんか、勢いで!」

「いえ、勘弁して下さい」

パトリシアに手を取られたカインは、顔を逸らした。他の女性と何かあっては、フィフィリアンヌに噛み砕かれる。
冗談でなく、本気でそう思っていた。フィフィリアンヌはあまり嫉妬を示さないからこそ、末恐ろしい部分がある。
カインは気力を削がれながら、パトリシアの手を引いて歩き出した。これ以上、妙なことを言われてはたまらない。
げんなりしながら、カインは彼女を引っ張っていった。




行き着いた先は、ストレイン家の別荘だった。
カインはあまり大きくないと言ったが、それでも立派な作りをしていた。本邸より、一回り小さいだけだった。
最近作られたものなのか、壁や柱が真新しい。美しく咲いた花々や生け垣が整えられた前庭が、窓の外にある。
魔法大学のランスの研究室よりも倍以上広い応接間に、パトリシアはカインと向かい合って座っていた。
手は込んでいるが派手ではないテーブルに、白地に金で模様が描かれたティーカップとポットが置かれている。
クリームの塗られたケーキや焼き菓子の載る皿も同じ色と模様なので、揃いのものを使っているようだった。
人間の背丈よりも大きな暖炉のある壁には、満月を背負って湖に佇む、凛々しい緑竜の絵が掛かっていた。
パトリシアは、この美しい竜が誰なのかすぐには解らなかった。しばらくして、フィフィリアンヌだ、と察した。
一度も、彼女の元の姿を見たことがなかったのだ。ギルディオスからは話を聞いていたが、想像出来なかった。
月明かりを映した赤い瞳、しなやかな尾、巨大かつ優雅な翼、鋭くも力強い牙と爪。思わず、見入っていた。

「綺麗でしょう」

自慢気に、カインは微笑んだ。パトリシアはカインに気を戻し、頷いた。カインは、絵を見上げる。

「フィフィリアンヌさんですよ。お父様の友人の方に描いて頂いたんですけど、その人は、フィフィリアンヌさんを気に入って下さいまして。珍しいですよね、僕が言うのもなんですけど。背景が満月なのはですね、ほら、フィフィリアンヌさん達が竜王都に行っていた時があったでしょう? あの時に竜王都で竜神祭ってお祭りがありまして、春先の満月の夜に行うお祭りなんです。その時に、フィフィリアンヌさんは、西の竜巫女をやったそうなんです。その巫女の衣装がどんな衣装だったのか知りたくて、何度となく彼女に訊いたんですけど、一度だって話してくれないんですよ。他の方々に訊いてもさっぱりで。ですからこれは、僕の想像の竜巫女なんです」

ほら、とカインは手を伸ばして緑竜の前足を指した。金色の細い腕輪が、何本も掛けられている。

「セイラの話で綺麗な音のする腕輪があることが解ったんですけど、それ以外は全然。でも、それだけでもあの人にとっては照れくさいらしくて、まともにこの絵を見ようともしないんですよ。それでは彼女の城に飾っておいても意味がないので、こちらに持ってきた次第なんです。自分の家にあれば、いくらでも見ていられますからね」

「はぁ」

パトリシアはどう返して良いか解らず、気の抜けた相槌を打った。紅茶を飲むと、華やかな香りが口に広がる。
カインは紅茶に砂糖を入れてかき混ぜてから、傾けた。すいませんでした、と照れくさそうに苦笑した。

「あなたのお話を聞くはずでしたのに、僕の方が話をしてしまって」

「こういうときにあからさまな惚気を聞くと、もーぐっさり来ちゃいますよぅ」

顔を伏せ、パトリシアは変な笑いを浮かべた。また泣きたかったが泣けず、かといって笑えなかった結果だった。
カインはティーカップを下ろし、ソーサーに載せた。背を曲げて前傾姿勢になると、彼女と目線を合わせる。

「パトリシアさん、何かあったんですか?」

「あったっていうか、もぉ…」

ランスの姿を思い出した途端、パトリシアは涙が滲み、視界が歪んだ。

「どうにかなっちゃいそう」

「話せる部分だけで良いですから、話して下さい。何も言わないよりも、ずっと楽になりますよ」

カインの口調は、穏やかだった。パトリシアは膝の上に置いた手を、固く握り締める。

「昨日、なんですけどねぇ。大学にお昼を持っていったけど研究室にランス君がいなかったから、机んとこに置いたんですけどぉ、やけに綺麗な字の手紙があって、何かなって思ってそれを読んでみたら、ランス君から手紙の返事をもらったとか愛してるとか愛されてるとか、そんなんでぇ…。それで、わたし」

「それで、どうしたんです?」

「壁、殴り壊してきました」

「…はい?」

「だって、相手がどんな人か解らないし、いきなり戦い仕掛けるわけにもいかないし、ランス君は倒せないしぃ…」

涙を拭うパトリシアに、カインは呆気に取られていた。それは力の方向が違うのではないか、と思ってしまった。
普通であれば、その場合はランスは殴られているはずだ。だが、そんな時でも殴れないほど、好きなのだろう。
しかしだからといって、八つ当たりは良くない。しかも、話の様子からして、彼女の殴った壁は魔法大学の一室だ。
ぐすぐすと泣くパトリシアを見つつ、カインはランスに同情した。始末書と修理代の請求が来るな、と思った。
カインは気を取り直し、パトリシアを眺めてみた。少女の面影は残っているが、すっかり女性らしくなっている。
以前から丸みのあった体形は更に女らしくなっていて、胸も大きさを増している。肩を震わすたびに、揺れている。
泣き濡れて朱が差した頬と、肩に乗っている柔らかで豊かな金髪。丸みのある目には幼さよりも、愛らしさがある。
黙っていれば、美しさと可愛らしさを兼ね備えた女性になっていた。だが、黙っていないし動くからいけない。
性格で大分損をしてるよなぁ、と感じた。それと同時に、ランスは今回のことをどう思っているのだろう、と思った。
愛する女性がいるのに浮気をするなど、ランスの性分に合っていない。それ以前に、有り得そうにないことだ。
良くも悪くもギルディオスの性分を受け継いでいる彼が、パトリシア以外の女性に手を出したりするのだろうか。
彼との付き合いは深くないが、性格は掴んでいるつもりだ。だから、彼女の言う手紙は何かの間違いに違いない。
カインは姿勢を戻すと、ポケットを探った。白いハンカチを取り出すと、パトリシアに向けて差し出した。

「考えてみて下さい、パトリシアさん。ランス君が、あなた以外の人を愛するでしょうか」

「でも、だってぇ」

ハンカチを受け取ったパトリシアは濡れた目元を拭うと、声を震わせる。

「そういうことが絶対にないなんて、限らないじゃないのよぉ」

「僕は、ないと思っていますけど」

「ほんとにぃ?」

身を乗り出したパトリシアは、ハンカチごとテーブルに手を叩き付けた。どばん、と皿が揺れる。

「そりゃ、カインさんの場合はフィルさんがああいう人だから心配ないだろうけどぉ、こっちは違うんですよぉ!」

「まぁ、それはそうなんですけどね。ですが、よく考えてみて下さいよ」

カインは、パトリシアを宥めるように手を翳した。

「パトリシアさんとランス君は、小さい頃から傍にいたんでしょう? その上、何年もの間組んで戦っていた間柄です。あなたを一番解っている人が、果たしてあなたを裏切るでしょうか。僕には、裏切るとは思えません。増して、それがあのランス君なら尚更ではないのでしょうか」

「そう、だけど…」

パトリシアは身を引き、座り直した。ランスの潔癖なまでの誠実さは、他でもない自分が一番良く知っている。
何事に置いても不正や裏切りなど決して許さないし、実力と才能で、大学に自分の研究室を持つまでになった。
その際、魔法学部の学生から羨望と嫉妬による悪評を流されたが、彼が態度を曲げないので立ち消えたほどだ。
魔物討伐での戦闘に置いても、敵の裏を掻くことは好んだが、圧倒的な威力でねじ伏せることはしなかった。
しかし、あの手紙は確かに存在した。滑らかで優雅な文字はすぐ目に浮かぶし、文章もありありと覚えている。
何度も何度もあの文章を反芻していたが、ふと、違和感を感じた。署名がない。冒頭にも、文末にもなかった。
ああいった類のものでなくても、手紙や書類には何かしらの名前が書いてあるはずだが、一つもなかった。
それに、封筒も見当たらなかった。混乱していた思考が落ち着くと、何かおかしい、とパトリシアは感じた。
パトリシアがそれを言おうとすると、扉が叩かれた。カインが返事をすると、メイドが扉を開いて顔を覗かせた。

「カイン様。お客様がお見えになられていますが、その」

困ったように、若いメイドは目線を彷徨わせた。すると扉が強引に開かれ、きゃっ、とメイドは身を引いた。
メイドを押し退けて扉を開け放ったのは、長身の魔導師だった。幅のある肩に、青紫のマントを羽織っている。
後頭部の上で引っ詰められた長い黒髪は、走ってきたのか乱れている。浅黒い肌の青年は、ぐっと右手を握る。

「五年くらいぶりですかねぇ、カインさん」

ばちり、と青年の手の周囲に電流が爆ぜた。カインは青年を眺めていたが、顔立ちでその名を思い出した。

「ランス、君ですか?」

カインが立ち上がると、にたりと嫌な笑みを作ったランスは歩み寄ってきた。

「ええ、そうです。僕はあなたの背を追い越しましたからね。すぐには解らなくて当然でしょうけど」

「立派になりましたねー、随分と。声もギルディオスさんに似てきましたけど、目の辺りはメアリーさんですね」

にこにことするカインに、ランスは詰め寄りながら目を吊り上げた。

「なぁーにさらっと手ぇ握ってんですかあんたは」

「不可抗力ですよ」

カインは、目の前のランスを見上げた。ギルディオスほどではないが、頭半分ほどカインより背が高かった。

「というより、彼女の様子を見ていたのなら出てきたらどうですか」

「出ていこうと思ったらあなたが連れてっちゃったんですよだから僕はわざわざここに来たんじゃないですか」

苛立ちを押し込めているのか、ランスは口元を引きつらせていた。あからさまな嫉妬に、カインは笑ってしまう。

「そんなに大事でしたら、出て行く前に引き留めれば良かったんですよ」

「で」

ランスはカインとの間合いを半歩詰め、魔力の漲った右手をカインに突き付けた。

「したんですか」

「何を?」

「浮気ですよ浮気!」

「ああ、だからそんなにいきり立ってるんですか。するわけないじゃないですか、僕にはあの人がいますし」

無性に可笑しくなり、口元を押さえたカインは肩を震わせた。笑ってはいけないと思うが、笑ってしまう。
ここまで真剣に怒るランスを見たのも初めてだし、物の勢いであろう言葉にそこまで怒る彼が不思議でもあった。
怒りの矛先を失ったランスは右手を下ろし、帯電していた電流を消した。険しかった眉間も、少し和らぐ。

「なら…いいんですけど」

やりづらそうに目を逸らしているランスを微笑ましく思いながら、カインは身を引いた。彼女は、こちらに向く。
泣き腫らした目を上げたパトリシアは、気恥ずかしさと情けなさの入り混じった表情のランスを見上げた。
双方とも何か言いたげだったが、躊躇っているようだった。カインはにやにやしながら、ランスの脇を過ぎた。

「では、僕は席を外しますので。後はお二人でどうぞ」

あ、とランスが引き留める声がしたが、カインは応接間から出ていった。白塗りの扉が、静かに閉じられる。
ランスは、慎重にパトリシアに向いた。複雑そうに顔を曇らせているパトリシアは、ランスから目を外した。
赤らんだ丸みのある頬には、幾筋もの涙の筋が付いている。それが痛々しくてならず、ランスは目を伏せた。
そのまま、揃って黙りこくっていた。どちらかが何か言うのを待っている様子だったが、どちらも言わなかった。
時折、パトリシアが鼻を啜る音がする。ランスは無意識に詰めていた息を整えると、パトリシアに向き直る。

「パティ」

目元を擦ったパトリシアは、恐る恐るランスを見上げた。ランスは胸元から紙を取り出すと、広げてみせる。

「これだろ、パティが読んだやつって」

見覚えのある文字の並ぶ紙にパトリシアが頷くと、ランスはぐしゃりと前髪を乱した。

「これね、魔力反応紙の試作なんだよ」

目線を彷徨わせていたランスは、パトリシアに視線を戻した。言いづらそうに、言う。

「魔力反応紙っていうのは、まぁつまり、魔力を入れて作った紙なんだけど、これにはちょっと細工がしてあってさ。その紙を見た者の魔力に含まれた思念に反応して、その思念が具現化した文章が出るようにしてあるんだ。パティさあ、この紙を見た時、なんか変なこと考えてなかった?」

ランスは、言葉を濁らせる。

「まぁ、なんていうか、うん、僕のこと、疑ってなかった?」

パトリシアは情けなくなりながら、小さく頷いた。近頃、研究や講義に忙しくしているランスが、気掛かりだった。
意識して疑っていたわけではないが、心のどこかで別のことで忙しいのではないか、などと思ってしまっていた。
その僅かな疑念が、見事に魔力反応紙に反応してしまったのだろう。あの文面も、全て妄想が作り上げたのだ。
署名が一つもないのも当然だ。相手などいないのだし、疑うべき人物もいないのだから、思い付くはずがない。
つまり、自分自身の妄想と疑念で暴れ回ってしまったのだ。パトリシアは強烈に恥ずかしくなり、両手で顔を覆う。

「いやぁだぁーもう」

「まぁ、そういうわけだから」

ランスは紙を折り畳むと、ポケットに押し込んだ。パトリシアは指の隙間から彼を見ていたが、顔から手を外す。

「ねぇ、ランス君」

「何」

「ランス君も、その紙、見たのよねぇ?」

「見たよ」

「なんて、書いてあったの?」

期待と興味を含んだ彼女の眼差しに、ランスは狼狽えた。あの文面を思い出すだけで、照れで頬が熱くなった。
言おうかどうしようかと迷っているとパトリシアが、ねぇ、と甘えた声を出した。ランスは、声を少し上擦らせる。

「パティがどこ行っちゃったか気になるとか本当に浮気してないか心配だとか、あんなに怒るくらい妬いてくれて困るけど嬉しいとかすぐにでも追いかけたいとか、パティに振り回されてばっかりだけど悪くないとかくるくる変わる表情が好きだとか、綺麗になってきたなぁとか、まぁ、そんなんばっかりだった」

「いやんもう大好きぃー!」

ソファーから弾かれるように立ったパトリシアは、ランスに飛び付いた。ランスは少しよろけたが、受け止める。
首に腕を回して胸に顔を押し付けてくるパトリシアを、ランスはおずおずと抱き寄せた。まだ、照れくさい。
幸せそうな笑みをこぼす彼女は柔らかく、温かかった。華奢な腰に手を回していると、顔を引き寄せられた。

「だぁいすき」

涙の残る目を細めたパトリシアは、彼の唇に自身のそれを押し当てた。彼女の唇には、紅茶の香りが残っている。
ランスはもう一方の手で彼女の後頭部を押さえると、舌先で柔らかな唇を割って滑り込ませ、深く口付けた。
しきりに絡めてくる彼女の舌を吸ってやってから、ランスは顔を放した。名残惜しげなパトリシアに、苦笑する。

「このまま押し倒してやりたいところだけど、ここじゃあそうもいかないからね」

「大学とランス君の部屋、どっちに帰るぅ?」

互いの唾液でつやりとした唇を舐め、パトリシアは囁いた。ランスは即答する。

「無論、部屋で」

身を屈めてパトリシアを抱き、ランスは彼女の肩に顔を埋めた。パトリシアはランスの背に手を回し、力を込める。
互いの体温と吐息が間近から感じられ、愛おしさが溢れてくる。パトリシアは、ランスの胸に頬を擦り寄せた。
後頭部を押さえる手の大きさと熱さが、体を締め付ける腕の力の強さと固さが、疑念も何もかもを溶かしていく。
たった五年で、すっかり男らしくなった。幼い頃のような可愛らしさはないけれど、今の彼も昔と同じく好きだ。
いや、それ以上かもしれない。好きよりももっと確かで熱い感情が、愛情が胸の底から込み上げてきた。
パトリシアは、ランスの胸元から魔力反応紙をそっと取り出した。彼の肩越しに広げて文面を読み、笑った。
そこにはただ、幸せ、とだけ書いてあった。


応接間の扉に背を預けていたカインは、小さくため息を吐いた。
帰りたい。無性に、フィフィリアンヌに会いたくなった。パトリシアの言う通り、見せつけられると辛いものがある。
組んでいた腕を解き、広げてみた。フィフィリアンヌを納められるほどの幅を作ってみたが、余計に寂しくなった。
ぎゅっと虚空を抱き締めたカインに、そばかすのある若いメイドは不思議そうな顔をした。カインは、肩を落とす。

「ああ。会いたいです…」

「婚約者の方でもいらっしゃるのですか?」

メイドに尋ねられたカインは、ええ、と頷いた。メイドは、少し首をかしげる。

「ですけど、エリカ様との婚約を解消されてから、カイン様が他の方と婚約されたとはお聞きしていませんけれど」

「今のところは、ですよ。あと二年したら、大っぴらに言いますよ」

「二年、でございますか?」

「ええ」

カインの答えに、メイドは内心で変な顔をした。すぐにでも婚礼を果たされればよろしいのに、と思った。
彼は次の領主の地位も確定しているし、近頃のストレイン家は力を付けつつあるのだから、障害は少ないはずだ。
身分の違いかしら、とメイドは勝手に結論を出した。真相を知らない事もあり、彼女の想像はそれだけで終わった。
カインは、背後の扉を窺った。ランスとパトリシアの声は聞こえてこないので、二人は一段落したようだった。
右手を広げてフィフィリアンヌの滑らかな髪の手触りを思い出しながら、カインは竜の少女に思いを馳せていた。
あと二年すれば、彼女は子を孕める体になり、妻となってくれる。長いようだが、決して耐えられなくはない時間だ。
それだけ待てば、愛する竜の少女を、花嫁として手に入れることが出来るのだから。




猜疑は不安を呼び、不安は有りもしない幻影を見せる。
その幻影は、かつて少年であった彼と少女であった彼女の心を、一層強く繋げた。
恋を叶える魔法はなくとも、恋を愛へと深める魔法は存在している。

その魔法とは、互いへの強い思いなのである。






05 10/27